第十二話 月と蜘蛛<上>
「なぁ、土蜘蛛」
女は婉然と微笑んだ。
女だというのに狩衣をまとい、艶やかな黒髪を革紐で束ねている。
飾ることはせず、媚びることも無い。なのに女は美しく、男を強く惹き付けた。
「一度、休戦といかぬか」
女は紅の刀を鞘に収めた。切れ長の目に輝く漆黒の瞳が男を射ぬく。
「互いに疲弊しておる。我はおぬしを一旦封印し、都に戻るとしよう」
「……わしがおまえを帰すと思うか?」
男は女の細い顎を掴んだ。
「是が非でも、我が物にする」
そのまま女の顔に自分の顔を近付けようと――
防がれた。
間にある刀を男が不快げに睨み付けているうちに、女は男から離れる。
「再び会う日、その時に我を負かせば、そうだな、その時はおぬしのものになってやろう」
女は右手で印を切った。
男の意識が沈む。闇に、闇に。
「その日まで、しばし眠れ」
女の声が、遠い。
男は手を伸ばした。
美しい月に。月に愛された、女に。
女の姿は、月光を背後に男の目に美しく焼き付いた。
―――
流星が目を覚ましたのは、事務所のソファーの上だった。
なぜ自分がこんなところにいるのかと考え、ややあって思い出す。
「悠を送ってって、そのままここで……」
昨日は椿家を出て悠を事務所まで送った。帰るのが億劫になり、結局そのまま、事務所のソファーで寝てしまったのだ。
起き上がると、薄茶の毛布が身体の上からずり落ちた。
「これ……悠がかけてくれたのか? それとも朱崋?」
どちらにせよ、感謝せずにそのままとはいかないだろう。
毛布をたたんでいると、廊下側のドアから朱崋が入ってきた。
「あ、おはよう」
流星が声をかけると、朱崋は軽く低頭した。
「おはようございます。お目覚めでしたか」
「あぁ。……なぁ、これ誰がかけてくれたんだ?」
たたみかけの毛布を持ち上げると、朱崋はにこりともせずまた低頭する。
「私めですわ」
「そっか。サンキューな」
「五月とはいえ、夜は冷えますから」
朱崋は淡々とした口調で返した。
こうやって一対一で話してみると、朱崋が人間らしくないことがよく解る。
返答は機械のようだし、仕種や口調も決められた枠内で動いてるようにしか見えない。
それは彼女が人外のものだからか――それとも、彼女が意識的にそうしてるからか。
流星は考えるのを止め、朱崋に尋ねる。
「どうしたんだ?」
「悠様を起こしに来たのです」
朱崋は事務所の奥にあるドアに目をやった。
「悠様は昔から眠りが浅いので早くに起きられるのですが、今日は私が起こした方がよろしいかと」
朱崋は奥のドアの前まで進み出た。
流星はその様子を眺めていたが、ポケットの携帯が振動しだしたので慌てて廊下に出る。
「はい、もしも」
『ちょっと流星!!』
いきなりのキンキン声に、流星の脳が揺れた。
ふらぁっと意識が消えかけるも、なんとかこらえて叫び返す。
「いきなり何だよ、若菜! 耳痛ぇじゃねぇかっ」
『んなことどーだっていい!』
ばっさり斬られた。
『あんた、何で昨日休んだの? テストあるの忘れたわけっ?』
「だあぁぁ! うるせぇっ。こっちにも事情あんだよ。携帯に叫ぶな! 切るぞっ」
あんただって叫んでるじゃないっ、という声は無視して通話を切る。
ついでに電源も切っておいた。後で怖いことになりそうだが、まぁいい。
「はぁ……今日はいったん帰るか」
学校へ行くかどうかは、帰り道に決めよう。
流星は頭をがりがりかいて、携帯をポケットになおした。
―――
政府からの客人、と聞いて、刀弥は眉をひそめた。
「何だってんだ? こんな平日の朝から」
「急をようする依頼だそうで」
刀弥のサポート役である草薙哲彦が畳の上で膝をついて頭を下げた。
今年二十五となる哲彦は、刀弥より三つ上である。
にもかかわらず、主である刀弥にためらいなく頭を下げ、命令にも逆らわない。
部下として刀弥の行動をいさめることもあるが、あくまでそれは進言だった。
哲彦は武骨な顔に頭にいかつい表情を浮かべた。
「どうします? これ以上待たせるのは、向こう側に不快を与えますが……」
「だな。それに、政府の依頼を無下に断るわけにもいかねぇし」
やれやれと首を振り、立ち上がる。着物を整え、刀弥は客間に足を向けた。
客間の座布団に正座する神経質そうな男に、刀弥は愛想笑いを向けた。
「待たせて申しわけありません。一体今日は何用でしょう?」
机をはさむようにして向かいに座ると、男は細い目を刀弥に向けた。
「時間が無いので手短に話しましょう。実は……」
男は要点のみを話し始めた。
現在、政府はある山を開拓しているらしい。
奈良にある小さな山だそうで、工事は順調に進んでいた。
が、三日前、四人が行方不明になった。今朝見付かったのだが、見るも無惨な死体で、だったそうだ。
あきらかに人の所業ではなく、政府は慌てて椿家を頼ったのである。
そこまで聞き、刀弥は片眉を上げた。
「少々引っかかるのですが。奈良、もしくは近畿地方の退魔師に頼めばいいでしょう」
刀弥の言葉に、男は顔を苦くした。
「実は、あの山の開拓に現地の退魔師達は反対していたのです。死者が出ると、忠告を聞かなかったからだと」
「つまり、誰も協力してくれなかったと?」
「はい」
男は顔をしかめた。忌々しげに思ってるのだろう。
刀弥は腕を組んで考え込んだ。
(退魔師達が反対した……奈良……奈良……?)
刀弥はハッと顔を上げる。
(まさか……あの山か!)
今度は刀弥が顔をしかめる番だった。
(死者が出たということは、ほこらを壊したのか。政府の馬鹿共めっ……)
胸中の悪態を抑え込み、刀弥は顎を引いた。
「いいでしょう。了承しました」
「ありがたい。これでは開拓が進みませんからな」
男は表情を一変させ、立ち上がった。
歩き出したところで、思い出したように足を止める。
「ところで、あれの管理は万全ですかな」
「あれ……?」
「あれですよ、あれ。人柱のことですよ」
男は目を細めた。
「あれは国家の危機を防ぐものだ。壊れないよう、丁重に扱ってもらわねば困りますね」
「……何が言いたいんです?」
刀弥はわき出そうな激情を抑えながら問うた。
男は唇の端を持ち上げる。
「解っておられるでしょう、代理殿。物は大切に扱わねば傷が付きます。そうなっては困るのですよ」
では、と頭を下げて背を向ける男の首を、刀弥は締めてしまいたい衝動に駆られた。
だがここでそれをしてしまえば、自分はこの家を守れなくなる。
なので、皮肉を言うだけにとどめることにした。
「さすが人の上に立つ方々の言葉は重みがありますな。国民に注目されるのも、当然というわけですか」
男の足が止まる。
しかし何も言わず、そのまま出ていった。
男の足音が遠ざかった後、刀弥は内心でしまった、と思った。
「あぁぁ……俺のアホ。また余計なこと言っちまった……」
ここは笑って受け流すとこだろっ、皮肉で痛いとこ突いてどーする!?
内閣の支持率低迷のことを思い出し、ついつい口を突いて出てしまった。
両手で顔を覆って後悔するも、当然遅い。
「ハァ……俺もまだ青いなぁ」
改めて、代理が務まるか不安になってきた。
だが、弟の――恭弥のことを出されると、どうしようもなくなってしまう。
「……恭弥のことを物扱いしやがって」
刀弥は顔を歪め、今度こそ悪態をついた。
恭弥は、自分にとって弟であると同時に、忘れ形見でもある。
大切な、あの人の……
「……お袋」
刀弥は呟くと、膝に顔をうずめた。
自分の顔を、誰にも見られないように。
―――
「えっ……流星帰っちゃったの?」
悠は遅い朝食を食べる手を止めた。
ショックで停止しかけたが、すぐ我に返って食事を再開する。
「ええ。今日はいったん家に帰えられると」
「ふぅん……」
悠は朱崋の言葉に顔をしかめて白米をパクついた。
と、そこで机の上の携帯が鳴る。
「ん? 朝から誰……って、刀兄?」
携帯の画面に表示された名前に、悠は目を丸くした。
「一体何だろ……もしもし?」
『おはよう。朝から悪いな』
電話から流れる刀弥の声は平静そのものだった。だが悠は微妙な違和感を感じ、口を開く。
「何かあったの?」
声を低めて尋ねると、少しの間が空いた。その後、疲れたような声が流れてくる。
『今回は椿家当主代理として電話している。心して聞いてくれ』
その言葉に、悠は眉をひそめた。
「それって、依頼ってこと?」
『……あぁ』
刀弥の肯定の声に、悠は唇で弧を描く。
「それって、刀を振れる?」
『ん? あぁ。妖魔狩りだからな』
「そう」
悠は空いた左手の人差し指で、己の唇をなぞった。
このところ、不安やら何やらでむしゃくしゃしていたのである。
「いいよ。それで……依頼内容は?」
悠は携帯を持ち直した。
そこにいるのは兄と通話する少女ではなく……一人の、確かな実力を持つ退魔師だった。