顔剥ぎさん<下>
夜の校門を乗り越える者が、一人。
校庭を横切り、校舎の入口まで行く。日のある内に鍵を開けておいたので、当然ガラスと金属でできた扉は簡単に開いた。
唇を歪め、人の気配を探す。
「ここだよ、『顔剥ぎさん』」
闇夜の中で彼女の身体が固まったのが、流星には解った。
「一人で来てって言われたけど事情があってね、四人で来たよ」
悠は不敵な笑みを彼女に向けた。
「……何で」
朱崋や流星と一緒に悠の後ろにいた沙菜は、震える声で呟く。
「何であの娘が犯人なの? そんなわけないじゃない……。ね、そうだよね……和子」
「……勿論だよ」
彼女――佐野和子はにっこり微笑んだ。
「だいたい犯人って何? もしかして今朝の事件のこと? あたしはただ、忘れ物を取りに……」
「人が死んだ学校に、よく夜に一人で来れるね」
悠は更に口角を上げた。
「君は、美しくなる方法があると言って、被害者を誘き出した。軽い催眠もかけてたろうね。美しくなる方法だけじゃ、普通来ない。殺す場所を学校にしたのは、その方が力が増すから」
「……」
「学校に怪談話が多いのは、多くの念が渦巻いているから。多感な学生達の思いは強すぎて、校舎に残ってしまう。そしてその念は、妖魔を産みだし、力を強める」
悠は右手に持った紫の布にくるまれた長い棒のような物をスッと持ち上げた。
「言い訳ならいくらでも言いなよ。でも私の目は……ごまかせないよ!」
悠の手が霞んだ。
「っ!」
和子が素早く後ろに下がった。
さっきまで彼女が立っていた床がえぐられる。
「ふぅん。よくよけたね」
悠の持つ、一振りの刀によって。
紅色の柄に白銀の刀身、洗練されたその姿は、見る者の目に妖しくも美しく映る。
「あれは……?」
「あれは悠の退魔武器『剣姫』だ」
沙菜の呟きに、流星は悠から目を離さず言った。
「退魔師は妖魔と戦うために武器を持ってるんだ。ただの武器じゃないらしいが……」
「ちょっと待って。和子は人間よ!」
「……今はな」
「えっ」
沙菜の不審げな声に答えず、流星は顔をしかめる。
流星には視えていた。
和子を覆う、黒い妖気を。
「君が犯人だって証拠もあるよ。朱崋」
「はい」
朱崋が自分の後ろから、赤茶色の布を取り出した。
いや、布ではない。服だ。
色も、服の元の色ではない。
「……血!?」
「返り血です」
朱崋は嫌がりもせず、乾いた血の付いた服を握り締めた。
「その服は佐野和子、君のだよね」
悠は刀を構え直し、クスッと笑った。
「ゴミ捨て場にあったよ。これを捨ててるところを見た人もいる。まだしらを切るなら、そのまま君を狩るけど?」
「ま、待って! 和子は私の親友なのよっ」
沙菜は慌てて止めに入った。
「……だから?」
悠は首を巡らせて、顔だけを沙菜に向けた。
「犯人が死んでもかまわないと言ったのは、君でしょ」
「っ、でも!」
「……あは」
和子が突然笑い声を上げた。
「あはは、は、ふ、あはっ」
メキゴキゴキィッ
和子の身体の骨格が歪みだした。
筋肉が異常なほど膨れ上がり、彼女が着ていた服がみりみりと裂ける。肌は気味の悪い薄黒に変色していき、口から見える歯はカミソリのようになっていた。
そこにいたのは人ではない。異形の化け物、妖魔だった。
妖魔は唇の両端を吊り上げた。
顔だけが人の時と変わらない。それが逆に、おぞましさに拍車をかけていた。
「きゃははははは! あんたが何かは知らないけど、抵抗せずにあたしの顔になりなよっ」
「顔?」
「そう! あの二人も、あたしの顔になった。あたしが美しくなるための糧になったの!」
鋭い爪を持つ両手で自分の顔に触れ、うっとりする妖魔。そんな彼女を、悠は冷たい目で眺めた。
「なるほど? あの違和感は別々の顔からパーツだけを取って貼り付けたからか」
「違和感? 何言ってるの? この美しいあたしにぃ?」
「鏡見なよ、馬鹿」
悠は妖魔の言葉を鼻で笑って切り捨てた。
「おまえのどこが美しいって? 今のおまえは、ただの醜い妖魔だよ」
「……醜い?」
妖魔は顔を覆った。
「醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い!?」
黒目に憤怒の炎が宿った。
「あんたに何がわかる! 元々美しかったあんたに!!」
妖魔が右手を振り下ろした。それを、悠は刀を盾にして受け止める。
「あたしはずっと綺麗になりたかったんだ! それをあの方は叶えてくれた。この力で、あたしはもっともっと綺麗になるんだ!」
(あの方……?)
流星は妖魔の言葉に眉をひそめたが、悠は気に留めていないのか、妖魔の懐に躍り込んだ。
「己の姿を知れ、弱者が」
刀が袈裟懸けに振り下ろされた。妖魔はそれに合わせて後ろに飛びのく。
ブシャッ
妖魔の右肩から左腰にかけて、斜めにどす黒い血が吹き出た。
「ぎゃあああああああああああああ!!」
妖魔が叫び声を上げた。
完全によけられたかと思いきや、悠の刃は妖魔に届いていたらしい。
破れかけの服の前は斜めに裂け、その下にはパックリ傷が深く刻まれていた。
「ど、どうして!? かすっただけなのにぃぃ!?」
「かすっただけで充分だよ」
悠は刀を両手で握り直し、笑みを深くした。
「この刀は特別製でね、普通の退魔武器より切れ味がいいんだ」
悠が一歩踏み出すと、妖魔は身体を震わせ、沙菜の方を見た。
「沙菜、助けてよ! あたし達親友でしょ!?」
「ひっ……」
伸ばされた腕を見て沙菜は後ずさり、叫んだ。
「来ないで、化物ぉ!!」
妖魔の顔が強ばった。瞳から、血色の涙がこぼれる。
「あ、あう、あぁ……」
妖魔は自分の手を見下ろした。
人の手とはあまりにもかけ離れた、巨大な手。
化物の、手――
「あぁ……あああああああああああああああああああ!!」
妖魔は叫び声を上げると、悠達に背を向けて校舎の中へと走り出した。
「お、おい! 逃げるぞっ」
「解ってる。朱崋、おまえは雪野沙菜の傍にいて。流星は私と一緒に」
「はい」
「お、おう」
朱崋と共に頷き、流星は二、三歩走りかけた。
「……い、だ」
「え?」
沙菜の呟きに流星が振り向くと、彼女は泣き出していた。
「私っ、和子にばっ化物って……最低、だよ……」
「雪野……」
流星が口を開きかけると、悠が腕を掴んできた。
「早く行くよ」
「で、でも」
「今は妖魔の方が先」
「……ちっ」
思わず舌打ちを漏らしながら、流星は悠と一緒に走り出した。
どこにいるのかわかるのか、悠は迷い無く階段を登る。
「このまま行くと屋上だ! あそこ、フェンスが錆びてて危険だぜっ」
「口より足動かしてよ」
悠は一、二段すっ飛ばしながら駆け上がり、屋上へ続く扉を勢いに任せて蹴り開けた。
その細い足のどこからそんな力があるのかと思うほどの勢いに、流星の頬がひきつる。
「こ、この馬鹿! 壊す気かよっ」
「それより、いたよ」
悠の指差す先に、妖魔がうずくまっていた。
「もう逃げられないよ。大人しく狩られなよ」
悠はまとめられた黒髪を風にさらしながら、刀の切っ先を妖魔に向けた。
「い、嫌……」
こちらを見た妖魔は、立ち上がり、顔に恐怖の色を浮かべた。
「また醜くなるのは嫌ぁ!!」
悠は屋上の床を蹴った。
「充分、醜いよ」
体重を乗せた刀は、妖魔を脳天から斬り裂いた。
「あ゛あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
妖魔の身体の中心にできた縦の傷から、血の代わりに黒い煙が吹き出した。
煙が傷口から出るのと同時に、身体がしぼんでいく。
数分もしない内に、元の佐野和子の姿に戻った。
「よかった! 人間に戻れたんだな」
「顔以外はね」
悠の言葉に、流星が眉をひそめるより早く、和子が悲鳴を上げた。
驚いてそちらに目をやった流星は、絶句する。
和子の顔が、どろどろに崩れていた。
腐った果実のように茶色に変色し、肉片が顔を押さえる指の間からぼとりと落ちる。足元に落ちている生皮のようなものは、被害者達の『顔』だろう。その近くに、目玉のようなものがごとんと落ちた。
「な、何っ……」
流星は思わず口元を抑えた。
「あの皮は妖気で貼り付けてあった。妖気は人間に毒なんだよ。そんなのであの顔を保っていたら、ああなるのは当然だ」
悠は冷たい目に僅かな哀れみを含んで和子を見つめた。
「あの顔は、もう元に戻らない」
「そんな……」
流星は再び絶句した。
和子は顔を抑えながらゆらっと立ち上がる。
「あたっあたしの、顔がぁ! 何、何も見えなっ」
よろめいた和子は、勢いよくフェンスにぶつかった。
「! まずいっ」
流星はハッとして走り出した。が、間に合わない。
和子は、錆びたフェンスの一部と一緒に空中へ投げ出された。
視界から、少女の身体が消える。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
耳を塞ぎたくなるような叫び声は遠ざかっていき、何かがひしゃげる音と共に止まった。
「あ、ゆ……」
「待って」
前に出ようとした流星を手で制し、悠は壊れたフェンスの間から下を覗き込んだ。
「これは……見ない方がいい」
形のよい眉をひそめ、悠は呟く。
「哀れだね。美しさを求めた者の末路が、これとは」
刀を鞘に収める音が、いやに大きく聞こえた。
その頃――
学校から少し離れた場所に位置するビルから、屋上の悠達を見つめる者が一人。
「失敗、か」
彼女は羽織った黒コートをひるがえし、その場を後にした。
―――
流星は事務所のソファーに寝転がった悠を見ないようにしていた。
剥き出しの白い太ももや細い首筋が目に毒だからである。
「……結局、誰も救われなかったな」
日にちが変わり、太陽が昇り始めた空を窓越しに眺めながら、流星は呟く。
悠はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「私達こっちの人間が表の人間にできるのは、ほんの僅かだ。気に病んでたら耐えられないよ」
「……あぁ」
流星は頷いたものの、心の中ではまだ昨夜のことを思い出していた。
「……報酬は五万。持ってきてるよね?」
悠が訊くと、沙菜は沈痛な面持ちで財布から万札を五枚、悠に渡した。
酷く傷付いている沙菜から報酬を要求する悠に何か言いたいが、流星にそんな気力は残っていない。
「あと……上乗せ代として、そのペンダントをもらうよ」
「え?」
沙菜は無意識にか、首から下げたペンダントを掴んだ。
「うちはお金の他に、物や約束事のやりとりもしてるの。言っとくけど、拒否権は無いから」
左手を差し出す悠に、沙菜はペンダントを強く握り締める。
しかし、やがて悲痛な顔でペンダントを外し、悠に押し付けた。
「これ……和子とおそろいで買ったの。思い出のだけど……もう付けられないっ……」
沙菜はわっと泣き出した。
「どうして……どうして和子を……どうして助けてくれなかったのよぉ!」
泣き喚く沙菜に、悠はひんやりした言葉を放った。
「君が言ったんでしょ、死んでもかまわないって」
ぎくりと沙菜の身体が強ばった。
「言霊って知ってる? ふと言葉にしたことが現実になるって。だからこれは、君のせいでもある」
「わた、しの……?」
「君は犯人が死んでもかまわないと言った。それが本当になっただけ」
沙菜の顔が、みるみる青ざめていく。
「憶えておいて。引き際を間違えれば、とりかえしのつかないことになるって」
悠は沙菜に背を向けた。
沙菜はただ、呆然と立ち尽くしていた。
あの時の沙菜の胸中には、後悔と自責の念が渦巻いていていただろう。
昔の、自分のように……
流星は唇を噛んで、それ以上思い出すのを止めた。
「……おじさんに、事情説明しなきゃな」
高野次郎も、悠のことを知っている。
なぜなら、流星に悠を紹介したのが次郎だからだ。
「そうだね。高野刑事には、いつも迷惑をかける」
悠は平常と変わらない声で言った。悪びれた様子は無い。
しばらく二人は無言になる。遠くで、車の走る音だけが鼓膜を揺らした。
「……あ、そうだ」
悠が思い出したように、声を上げた。
流星が顔を向けると、彼女は上身を起こしたところだった。
「流星、ミルフィーユとモンブラン」
「……今から買ってこいと」
「うん」
いい笑顔の悠。
「……ふざけんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
流星は絶叫した。
「このアホ! まだ朝の二時だぜ、店開いてねーよ!!」
「待てばいいじゃない」
「何時間待つと思ってんだ!」
「……」
「無視かてめぇぇぇ!!」
両耳を塞いでそっぽを向く悠に、流星は喚くのだった。
(あの方、か……)
叫ぶ流星を無視しつつ、悠は和子の言葉を思い出す。
人を妖魔にする呪術を、一般人が知ってるわけがない。
誰か、教えた人間がいるはずだ。
誰か――
「……まさかね」
頭に浮かんだ不安を打ち消し、悠は再びソファーに身を沈めた。