第十話 独りぼっちの歌姫<上>
その歌声は、どこまでも伸びていく。
澄みきった声が紡ぐ詞は、心に突き刺さるような切なさをはらんでいた。
(私も、歌いたい)
枕元の音楽プレーヤーから流れる歌を聞きながら、彼女は思った。
だが、それは叶わない。解っている。
彼女は、声を失っていた。
喉に病が凝り固まり、その病を治すために声帯ごと切り取ったのだ。
耳に入ってくる歌声に、彼女は涙を流す。
どれほど白いベッドに横たわり続け、白い天井を見つめ続けたんだろう。
彼女は唇を噛んで、音楽プレーヤーを止めた。
きしむ身体を内心で叱咤し、ベッドから降りる。
(あ、晴れてる)
カーテンを開けると、陽光が彼女を照らした。
まぶしさに目を細めつつ、窓を開ける。風が前髪を持ち上げた。
頬に熱い何かが伝う。それが涙と気付くのには、さほどかからなかった。
(もう、終わらせる……)
白い空間に囚われるのは、もう嫌だ。
音も色も無い世界なんて、耐えられない。
窓辺に手を置き、身を乗り出す。次の瞬間、浮遊感を全身に感じた。
(あぁ、でも……)
ふと、頭の中で後悔がかすめた。
(最期に、最期に……)
最期に、あの歌を――
―――
「……あ」
流星は声を上げた。
ケーキ屋を出たとたん、紙袋を抱えた西野紗矢と出くわしたのだ。
「あ、君は……」
紗矢は目を瞬き、流星の服装を見て首を傾げた。
「……学校帰り?」
流星は自身の服を見下ろした。学校指定の学ランである。
「あー、まぁはい」
「ケーキ、好きなの?」
紗矢の視線が、流星の右手にそそがれた。
流星の後ろにあるケーキ屋の箱が下げられており、中身はケーキが三つ入っていた。
「あ、これは俺のじゃないですよ。悠のです」
「あぁ、あの娘の。……三つも?」
また心読んだこの人っ。
流星はちょっと顔をしかめつつ、「あいつなら喰えます」と答えた。
「細っこいくせに、甘いもんはやたら喰うんですよー」
「女の子だから、しょうがないよ」
紗矢はハハッと笑った。
紗矢の笑顔に、流星は驚く。
「笑え、るんですか? 昨日の今日なのに」
「辛いのは、あたしだけじゃないからね」
紗矢は軽く目を伏せた。
紗矢は今、梅見 霧彦の兄、梅見 雨彦の家にいる。
雨彦は退魔師としての才能がほとんど無かったらしく、早々に家を出ていたそうだ。
梅見家の血を引く唯一の存在として、紗矢を引き取ったのである。
実は、その人物は流星の見知った人であった。
何しろ……
「まさか保険医のおっさんが、梅見家の人間とはなぁ。名字同じとは思ってたけど」
流星は頭をかいた。
そう、流星の学校の校医が、梅見雨彦だったのである。
紗矢の元に戻った時、あの人がいたために流星は仰天した。
ただ、校医が梅見家の者だと知らなかったのは流星のみだったようで、おいてきぼりな気分を喰らった。
「雨彦さんも家族を失った。辛いのはあたしだけじゃない。だから、笑えるよ」
紗矢は紙袋を抱き締めた。
「痛みを共有すると、気持ちはずっと楽になる。だから」
紗矢はふと、真面目な顔付きになった。
「君も、悠ちゃんの傍にいてあげて。それだけで、彼女の痛みは軽くなるはずだから」
「え?」
「大丈夫。君が気持ちに素直であれば」
紗矢はにこっと微笑んで、たたっと走り去ってしまった。
「……あっ、悠んとこ行かねぇと」
呆然としていた流星は我に返り、小走りでその場を後にした。
―――
とん、とん、とん、とリズミカルに階段を上がり、事務所に入ると、誰もいなかった。
「あれ? 悠?」
少女の姿が見当たらず、流星は部屋を見渡した。二階にいると、朱崋は言っていたのだが……
「……って、寝てるし」
よく見れば、革張りのソファーに寝転がっているのだった。
切れ長の瞳は閉じられ、微かに寝息が聞こえる。
(……つぅか。綺麗過ぎだろ、こいつ)
悠の寝顔を見、流星は改めてため息をつく。
常々思うが、悠の美貌ははっきり言ってありえないレベルだ。それなら、顔がそっくりな恭弥にも言えることだが。
(母親殺し、か……)
流星は悠の傍まで歩み寄り、しゃがんだ。
本当に綺麗だ。化物の返り血を浴び続けたとは思えないほど。
流星は昨日の悠の様子を思い出す。
明らかな怯えと後悔がにじんだあの顔は、今も目に焼き付いていた。
(悠の過去に何があったかは解らない。でも、話してくれるまで、何も訊かない)
再び決心し、悠の頭を撫でた。
「んっ……りゅ、せ……?」
悠が目を開けた。
「悪ぃ、起こしたか」
「いいよ、別に」
悠は上体を起こしてあくびをもらした。
「あ、悠。これ、来るまでに買ったケーキ。三個」
「えっ」
差し出された箱を見て、悠は目を丸くした。
「いらなかったか?」
流星が尋ねると、悠は首をふるふると振った。寝起きのためか、仕種が幼い。
「今喰う?」
「うん」
箱を受け取った悠は満面の笑みで頷いた。
(やべぇ。めちゃくちゃ可愛い……!)
流星が内心で悶えたのを、悠は知るよしもない。
しばらくケーキを無言で食べていた悠だったが、いきなり「ありがと」と言ってきた。
「? 何が」
向かい側のソファーに座っていた流星は顔を上げた。
「元気付けるために、ケーキ買ってきてくれたんでしょ」
どうやらお見通しらしかった。
「何か……手ぶらで行くの、気まずかったからさ。ケーキでも持っていこーと」
「そう……」
悠は最後の一口を食べ終えると(すでに二個完食済み)、立ち上がった。
流星の傍まで来ると、いきなり抱き着く。
「え、ちょっあの、悠サン?」
「……流星」
悠の甘い声に、流星の背筋に痺れが走った。
痺れが脳まで達して動けないでいると、悠は流星の胸板に手を添えて顔を上げた。
どこまでも澄んだ、漆黒の瞳。色付いた頬。艶やかな唇。
それらに吸い込まれるようにして、流星は悠に顔を近付けた。
悠もそれに応えるように目を閉じて――
突然電話が鳴った。
悠と流星、どちらかの携帯ではない。
事務机に置かれた、旧型の電話機である。
黒電話の無粋な音で固まってしまった流星に対し、悠は何ごとも無かったかのように電話機に近付き、受話器を取った。
「はい、こちら椿事務所」
悠のいつもと変わらない調子の声に、流星は自失から復活した。
「はい、依頼ですね。はい……解りました。では、明日うかがいます」
悠は受話器を戻した。
「……悠、俺帰るわ」
流星はソファーから立ち上がった。
「あ、うん。明日学校サボってよ。仕事あるから」
「あぁ」
流星はフラフラしながら事務所を出ていった。
「むぅ……あと三センチだったのにー」
流星が帰った後、悠は再びソファーに寝転がった。
狙って雰囲気を作ったのに、あの電話のせいでパァである。
「まぁ、依頼だからしょうがないけど」
一人呟き、仰向けになる。ふと、昨日のことが思い出された。
『大丈夫だから』
優しい言葉だった。偽り無い、安心できる言葉だった。
どんどん大きくなっていく。流星の存在が、自分の中で。
「流星……」
悠はそっと呟いた。
ついさっきまであったぬくもりを、確かめるように。
―――
帰路を歩きながら、流星はぼうっと先程のことを思い出していた。
(あれは幻じゃねぇ……でも、何であんなことに……)
からかったわけではないだろう、多分。では、なぜあのような状況になったのか。
いくら考えても思い浮かばない。それにしても……
「あれは……ちょっと惜しかったな」
「何が惜しかったんだ?」
「何がっておまえ、そりゃぁ……って、恭弥ぁぁぁぁぁ!?」
流星は振り返って絶叫した。
一方、流星を驚かした張本人――恭弥は肩をビクッと震わせ、目を丸くした。
「……驚かすな、心臓に悪い」
「こっちのセリフだっ」
流星は恭弥に向き直った。
おまけに悠と瓜二つなもんだから、よけい疲れる。
「……つか、おまえ一人で何してんだよ」
学校帰りらしく、紺色のブレザーを着た恭弥に尋ねると、彼はあぁ、と声を上げる。
「いや、一人じゃないんだ。さっきまで一緒だったんだが……あ、来た」
恭弥は首を巡らせ、ある一点を見つめた。
つられるように流星も見ると、くせのある黒髪をした美形が走り寄ってくるのが見えた。
女性が思わずぽっとなるような甘いマスクに、なぜかボサボサとは思えないくせの強い長めの髪、切れ長の目に収まる漆黒の瞳。
この年上の青年が誰かに似てることに流星が気付くのには、さほどかからなかった。
特にこの切れ長の瞳には、とても見覚えがある。
「紹介する」
恭弥は青年の右二の腕に触れた。
「兄の椿 刀弥だ」
「えっ」
予想はしていたが、多少は驚いた。他人の空似の可能性もあったので。
「いきなり走り出したと思ったら……知り合い見付けたのか」
青年――刀弥は頭をかいた。
「初めまして、椿 刀弥だ。えっとー」
「流星だよ。ほら、悠の」
恭弥の妙な説明がひっかかったが、流星は「ども」と頭を下げた。
「あー、霊感少年A!」
「は? A?」
納得顔の刀弥に、流星は戸惑う。
だいたいAって何だ、Aって。
「兄さん、普通に言えよ、普通に」
恭弥は脱力したような顔をした後、流星に向き直った。
「帰りに本屋に寄ってな、そこで兄さんにあったんだ」
恭弥の言葉に流星はへぇ、と返した。
「何買ったんだ?」
「僕は社会派ミステリーで兄さんはSF」
……自分には縁の無い種類だった。特に恭弥のは。
「つぅか、自分が住んでる町で買えばよかったんじゃねぇか?」
流星がそう言うと、恭弥は肩をすくめた。
「あっちには本屋が無いんだ。だからわざわざ遠出してる」
「うわっ……めんどくせぇな」
流星がそう返すと、恭弥は「そうでもない」と言ってにこっと笑った。
「恭弥、そろそろ帰ろうぜ」
刀弥が腕時計を見つめながら言った。
「早く帰らねぇと、家の奴らが心配する」
「あぁ、解った」
恭弥は兄に頷きを返すと、「またな」と流星に小さく手を振った。
流星も「じゃぁな」と言って手を上げ、去っていく二人の背を見つめる。
(……恭弥、笑ってる)
兄と会話しながら楽しそうに笑う恭弥。
その笑顔は、命を狙われてるとは思えない。
そういえば、羽衣姫は恭弥のことも言いかけていた。
何があったというのだろう。悠と、そして恭弥の過去に。
(でも俺は、何も訊かない。悠が話すまで、待つって決めたんだ)
流星は一瞬目を閉じ、再び開けると同時に、歩き出した。