血椿<中>
動かない。喋らない。呼吸しない。それは死体だと、土御門護縵は思う。
血まみれの、血に濡れていない場所など一切無い真っ紅な姿の刀弥を見下ろしながら、思考する。
彼にとって、今回の勝利は目標であって目的ではなかった。得たいものを得るための、目指すべき結果でしかなかった。
けれどこうして動かぬ彼を見下ろしていると、護縵は自分の求めていたものがいかに些細で虚しいものであるか、ありありと感じてしまうのだ。
護縵が欲しかったのは、ほんの些細なことだった。
同時に、欲しがること自体虚しいことだった。
そもそも刀弥を殺すことは、彼の目的のうちに入っていなかった。むしろ刀弥が生きていてこそ、護縵の目的は果たされるのだ。
誤算があった。ただそれだけ。護縵の想定以上に刀弥が強かった。そして予想外に脆かった。それだけなのだ。
だが、その些末なことが、護縵にとって望まぬ結末を生むことになった。
「椿刀弥」
名を呼びながら、護縵は彼の傍に膝を着く。
「椿刀弥」
名を呼びながら、護縵は彼に手を伸ばす。
「椿刀弥」
名を呼びながら、護縵は彼に触れようと――
「呼んだかよ」
手が止まった。否、止められた。
血塗れの手に、手首を掴まれたために。
「そう近くで何度も呼ぶな……うっとうしい。てめえに名前を繰り返されなくとも、俺は俺の名前を解ってんだよ」
「あ、貴方……なぜ」
護縵の手を掴んでいたのは、ほかならぬ椿刀弥だった。顔は上げず、その他の四肢は一切動かさず、けれど唯一上げられた腕だけはがっしりと護縵の手首を掴んでいる。
指先は紅い。血の色で紅い。けれど彼の肌は、文字通り血の通わぬ白へと変わっているはずだ。
だが彼は、動いている。喋っている。呼吸をしている。
生きて、いる――!
「なぜ? はん、勝手に終わらせんじゃねぇよ。俺はまだ生きてるぜ。俺はまだ、戦えるぜ……!」
言葉と共に上げられた顔は、血の色で染められていた。なのにその隙間から見える瞳は、こちらの全てを暴くかのような漆黒で、その奥底にある光は消えていなかった。むしろ、先ほどより光は強くなっている。
見慣れているはずの瞳が急に見知らぬものへと変貌を遂げたように思え、護縵は恐怖におののいた。恐怖などついぞ感じたことがなく、これからも感じることが無いであろうと予想していたにも関わらずだ。
護縵は刀弥の手を振り払い、立ち上がった。自身の身体の震えは感じていたが、それでも声だけは平淡なものに保つ。
「その身体で何ができるのですか? できて、先ほどのように私の身体にすがりつくのがやっとでしょう。貴方は負けたのです。圧倒的に、完全に、間違いも無く負けたのです。なのにこの期に及んで、一体何をするというのですか?」
護縵の言葉は事実だった。嘘偽りの無い、真実だった。取り繕いもごまかしも効かない敗北。それが、刀弥に突きつけられている現実だった。
なのに、護縵は自身が言い訳をしている気分だった。
見下ろしているのは自分なのに。
優位なのは自分なのに。
勝利したのは自分なのに。
一体、なぜ。
「私にはやることがあるのです。この場は見逃してあげますからしばらくそこで伏せってなさい。喋る元気があるなら、休めば歩ける元気ぐらいは回復するでしょう」
「まるで」
刀弥は地に伏せたまま、にやりと笑った。血に汚れた顔によるそれは、凄惨であると同時に不敵だった。
「逃げ口上みたいだぜ、それ」
間違ってはいない指摘だった。護縵は今まさに、逃げようとしていたのだ。
この場からも、刀弥からも。
目の前のものに目をそらし、逃亡しようとしていた。
「何を馬鹿な、ことを……」
「馬鹿なこと? 俺からすれば、てめえのやることなすこと愚行にしか見えねぇよ。愚考による愚行としか、思えねぇよ。違うっつうんなら、それを証明してみろ」
刀弥は上体を起こした。しかし、それは起こす、というほど立派なものではなかった。『如意ノ手』を使って、無理矢理起こしたに過ぎない。
しかしその様は、血塗れであることを差し引いても、死体が起き上がったかのような不気味さがあった。
実際、刀弥は死体となってもおかしくないのだ。見る限り、半分の血を失っていてもおかしくない。
なのに、彼は起き上がった。
そして、立ち上がった。
血に濡れたその足で。
紅に染まったその足で。
刀弥は、立ち上がったのだ。
「さあ、殺し合いを――喰い合いを再開しようぜ」
刀弥は腰を低く落とし、護縵に向かって腕を振りかぶった。
―――
己はただ憧れていたのだと、護縵は回想する。
考えてきた理屈を全て取り払って、結局残る感情はそれなのだと、理解する。
最初から解っていたはずなのに、思考に埋もれて忘れていた。
大体にして今回の『目的』の大元の理由は、それなのである。ただ、目的を重視するあまり、理由を忘れてしまっていた。
それは誰もが一度は感じる感情。
そして誰にも理解されない感情。
利益も勝利も関係無い、それどころか縁遠いもの。
護縵は、ただ――
肉同士がぶつかり合う音が響く。破裂音にも似た音は、ふたりの男によりもたらされたものだった。
ふたりの男――刀弥と護縵の戦闘、否、殺し合いは、もはや人同士の戦いにはとても見えない。
片や全身を血で濡らし、今なお血を撒き散らしている男。片や半分以上の皮膚を黒く、硬質な外殻に変化させている男。
化物とまでは言うまいが、その様は人間とするにはあまりにも外れ過ぎていた。異様であったし、異常であった。人間だと認識できるのは形だけで、新たな種族が生存を争っているようにしか見えなかった。
それはさながら喰い合いのようで、そしてそれは、まさしくその通りだった。
誰が見ても、これは互角の勝負と言うだろう。あるいは、血まみれの刀弥を追い詰められていると判断するかもしれない。
しかし追い詰められているのは――少なくとも心情的には――護縵の方だった。
人ならざる力を得て、それをもって刀弥と対峙しているというのに。ほとんど気力で戦っているような刀弥が相手だと言うのに。
否。相手が気力で戦っているからこそ、護縵は焦燥を抱いていた。
そもそも『如意ノ手』は、気力だけで使えるものではない。『如意ノ手』は、精神力だけで操れる代物ではないのだ。
『如意ノ手』は、強力な武器である。強力であるだけでなく、リスクもある。そのリスクとは、体力の消費だ。
『如意ノ手』は、操るのにとてつもない体力を失う。常人が使えば、一度振るうまでもなく失神してしまうだろう。それは直接身に付け、形を自由に変えられるからこその代償と言えた。攻撃力は高いが、燃費は悪い。『如意ノ手』は、ほとんど一撃必殺の、長期戦闘には向かない退魔武器なのだ。
しかし、椿刀弥はそんな武器を軽々しく使った。片腕が動かない。ただそれだけの理由で。
刀弥が『如意ノ手』を使う理由は、それだけのことなのだ。片腕が動かないから、戦闘では弱点になるから、それを補うためにかの武器を手にした。誰もがまともに操れたことのない、言ってしまえば役立たずの武器を。
結果は言うまでもなく、刀弥は『如意ノ手』は使いこなすことができた。使いこなすどころか、己の手を操るのと同じように扱うことができた。
誰にもできなかったことを当然のように成す。
それが、刀弥が椿家において『最強』と呼ばれるゆえんである。
しかし、本来なら弟の恭弥同様『天才』と呼ばれるはずが、なぜ『最強』と呼ばれるのか。その理由を、護縵はいやと言うほどよく解っていた。
解っていた、つもりだった。
けれど、ここまでとは、知らない。
ここまで人離れしているなんて、知らない。
これが選ばれた者との差か。
「……あはは」
殴り合いながら、殺し合いながら、喰い合いながら、護縵は笑う。
面白かったわけでもなく、何かを誤魔化したわけでもなく、ましてや現実逃避したわけでもなく――本当に自然に出た笑みだった。
「何だよ、楽しいのか? この戦いが」
刀弥がにやりと笑いかけた。楽しいというものがいまいち解らない護縵だが、なぜかその言葉に頷きたくなる。
しかし、次の言葉に心が冷える思いをした。
「俺も楽しい――だが残念だ。もう終わりだよ」
どうしてそんなことを言うのだろう。どうしてもう終わらせてしまうのだろう。
自分はまだ、まだ戦いたい。もっともっと殺し合いたい。
この時が、永遠に続けばいい――!
「おおぉぉぉぉぉぉ!」
護縵は咆哮を上げた。空気のみならず、壁や天井すらも震わさんばかりの声だった。
やめたくはなかった。止めたくはなかった。護縵にとってこの戦いは常に無い高揚を与えていた。そうそうやめられるはずがない。それなのに、楽しいと言っているにも関わらず、刀弥は終わりだと言う。
哀しかった。哀しいという感情がどんなものか知らない護縵だが、今自分が哀しんでいると漠然と感じていた。理性を押し流すほどの感情を持ち合わせていないのに、理性が感情に飲まれそうだった。
だからそのまま、本能に従うように腕を振るった。硬化した腕、岩どころか鋼、果ては合金すら破壊し、粉塵と返すほどの威力と硬度を持つ腕を振り下ろす。
それは、終わりを望まない彼の願いに反し、何もかもを終わりにする――結果すら粉々にする一撃だった。
「甘ぇ。赤ん坊よかぬるいぜ、土御門護縵」
だがその一撃も、望みも願いも、全て意に介することなく、全て理解することもなく。
「終いだ、全部」
刀弥の『如意ノ手』が、土御門護縵の胸を貫いた。
―――
土御門家から見れば、椿家は分家に当たる。あくまでそれは土御門家の人間の主観による見解であり、本来は同等、平等の関係であり、優劣も上下も椿家からすればそもそも最初から存在しないのだが、土御門家の者にとって、それは絶対だった。
椿家が羽衣姫を封印する人柱を抱えていたのは土御門家にとって彼らを文字通り人身御供として捉えていたからであり、椿家が政府の依頼を受けるのも、土御門家にとっては俗世の雑務を請け負っているからだという見方だった。
土御門は傲慢だった。高名な陰陽師、安倍晴明が祖先であるという驕りが、少しずつ、少しずつ、土御門の内側を歪ませていた。
歪んだ結果、どうなったか。目に見える変化は無かった。目に見えない変化も無かった。言ってしまえば、変化は無いに等しかった。しかし、それは外部との接触を絶ったがゆえの不変であった。つつけば割れてしまう、シャボン玉のような均衡だった。
そしてシャボン玉は、動いたがゆえに割れる。
流星の行為は、言ってしまえば一方的な暴力だった。相手は決して無力では無かったけれど、流星の敵では無かった。
実力だけを見れば、流星と土御門のふたりの実力はほぼ同等だったろう。ふたりがかりでは、苦戦どころか負けていたかもしれない。
しかし、ふたりは戦闘に必要なものが欠如していた。
それは戦闘に対する冷静さと、恐怖に対する折り合いである。
冷静さが必要となるのは言うまでもない。何が起こるか解らない戦闘で最善を尽くすというのは、実はかなり頭を使うことなのである。頭を使うのであれば、冷静さを失ってはならない。その時点で、負けは確定すると言っていいだろう。
では、恐怖に対する折り合いはなぜ必要か? そもそも恐怖を感じなければ一番よいのではないか。普通はそう思うだろう。
しかし恐怖は、戦闘に対する緊張感を保つのに一役買っている。過ぎた恐怖は勿論戦闘での負の要素としかならないが、適度な恐怖があれば油断や驕りを感じることもないのだ。
ようは、恐怖とどう向き合うか。恐怖にどう慣れるか。それが何より重要だった。
流星は空手に置いて人を殴る、人に殴られる恐怖を叩き込まれたし、妖魔との戦いで人ならざる者に対する恐怖を覚えた。そもそも生まれ付き霊を見ることができる流星にとって、恐怖は常に傍にあった。恐怖との折り合いが、付かないはずがない。
しかし、対して土御門家のふたり――藤堂と子繰はどうだろう。彼らは恐怖に向き合っていただろうか。
流星の足元で倒れる子繰は銃を恐れ、流星を恐れた。それが過ぎていたがゆえに倒された。
残った藤堂も、流星と向き合ったまま動こうとしない。戦々恐々としているのは、表情から見て取れた。
悠と一戦交えていた時は、その様子は見られなかった。まだ余裕があったのだ。しかし、彼女の本気を見た時、彼がその余裕を継続できたかどうかというと、それは微妙だったと流星は思う。
流星に対してでさえ、この有り様なのだ。悠の本気に耐えられるはずがなかった。
「おっさん……どうした、向かってこないのかよ」
「……」
「黙り決め込むなら別に構わないし、そのまま引いてくれるならそれはそれで構わないよ。むしろそうしてくれる方が助かる。あんたらの相手をするのは、正直面倒臭い」
流星の言葉は、挑発の言葉だった。意識してのことである。このまま退いてくれるのならそれはそれで望ましいし、退かないなら正面から向かってきてくれる方がいい。そう思ってのことだった。
はたして、藤堂は。
「……なめるなっ、小僧が!」
挑発に乗った。
彼は年齢の割に随分安い挑発に乗っかったのは、やはり経験の無さだった。彼は妖魔との戦闘は何度かこなしたことがあったが、人間相手は今まで経験したことが無かったのだ。勿論半妖と戦ったことなど無い。
人間は挑発もするし考えもする。戦闘でも同じこと。
当たり前のことを戦闘に適用できるほど、彼は戦士としてはできていなかった。
彼は退魔師ではあったけれど、戦士ではなかったのである。
まっすぐ向かってくる藤堂を、流星は構えもせずに迎える。
狙ったのはカウンター。それが一番労力の必要無い倒し方であることを、流星は充分すぎるほど解っていた。
結局、土御門家の敗因は戦闘経験の無さなのだ。実力はひとりひとりがとてつもない、下手をすれば流星達より強い力を持っている。しかしそれを十全に発揮するだけの経験は無かった。
それだけのこと。全て、傲慢ゆえの怠慢であり、怠慢ゆえの敗北だった。
実につまらない結末ではあるが、土御門家は墓穴を掘ったとしか言いようが無い。始まった時点で終わっている、起伏の無い筋道だった。
「だらし無いわねぇ」
乱入者が、いなければ。
地面から湧いて出るように、その女は流星の前に現れた。文字通り、地面から湧き上がるように出現したのである。
漆黒のコートを着、手には風変わりな形の黒い傘、烏の濡れ羽の髪にアジア人離れした白い肌と顔立ちの妙齢の美女は、流星の知らない女だった。
「……誰だ?」
流星は目を丸くし、ただ驚いた。現れ方もそうだが、容姿や服装など、目を見張る要素が多過ぎる。
一方の藤堂は、奇妙な女を前にして、なおも突進を止めなかった。最早流星の姿すら見えていないのかもしれない。ただ激情のまま、攻撃を繰り出した。
流星ではなく、女に対して。
「っ、止めろ!」
流星の制止虚しく、藤堂の攻撃は女の頭上へと振り下ろされる。そのまま行けば、彼女の死は免れないだろう。
だが、そうはならなかった。
「貴方、いらない」
彼女は一言そう言って、傘を凪いだ。彼女がしたのは、それだけのことである。
だが、傘はただ振るわれただけで、藤堂に触れただけで。
「……え?」
藤堂の頭が飛んだ。
太い首が切断され、バスケットボールのように空中へ投げ出される頭部。地面に残された身体は、一拍遅れて首の切断面から紅い血を吹き出した。
流星は呆然と立ち尽くした。
女はただ、傘を振るっただけのはずだ。なのになぜ、刀を振るったような結果が起こるのか。あまりに現実離れしていて、理解が追い付かない。
ただ確実なのは、藤堂の死だけだった。
あっけない死に様だった。見苦しくはないが、あっさりとした最期ではあった。
けれど幕引きは、どうやらあっけなく訪れることはなさそうだった。
「さて。お掃除といきますか」
女は名乗りも断りも無く、一歩踏み出す。その動きは華麗で、僅かな動きすら舞踊のようだった。
しかし、口にする言葉は酷薄である。
「世に必要の無いこの場の邪教徒は、私が全て消滅しましょう。残滅しましょう。全ては神の御ために」
女は、笑っていた。