願い<下>
土御門本家は、稲荷大社の中にある。そう聞いた流星だが、稲荷大社のことは、あまりよく知らない。神社など興味が無い、というのが、本音である。
「狐が神様なのか?」
狐の石像を見ての的外れな発言の報いは、腹に対する強烈な悠の膝蹴りで受けることになった。
「勉強不足にもほどがある。晴明神社は知ってて稲荷大社は知らないとか……全く、君は」
腹を抱えてうずくまる流星に対し、悠は頭を抱えている。その向こうでは、日影達が苦笑いを浮かべていた。
どうやら、流星の味方はいないらしい。
「げほっ……でもさ、鳥居が妙に多い神社だよな」
流星はとりあえず、場をごまかすために第一印象を伝えた。一応怒りを収めたらしい悠は、肩をすくめる。
「稲荷大社――伏目稲荷って言った方が馴染み深いか。鳥居が多いことが、特徴の一つだからね」
「ふぅん……正直、こんなに必要かと思うけど」
「ちなみに、奉っているのは倉稲魂神。狐は狛犬の代わりってところかな。使者と言った方がいいか」
「狛犬って、あの飾りの?」
「……」
「あ、すみません。飾りじゃないデスヨネ」
十四歳の少女による無言の圧力に負ける十七歳の高校生。何とも情けない姿である。
「狛犬は魔除けだよ。ちなみに仁王像と同じで、阿吽なんだ」
「あの、阿吽って……」
「自分で調べなよ」
冷たい一言を残して、悠は奥へ進んでいってしまった。流星はがっくりと肩を落とす。
悠にふさわしい男になろうと努力していたつもりが、どうやら空回っていたらしい。何をしていたんだと、流星は己を叱咤したくなった。
とりあえず辞書を引こうと携帯を開くと、奇妙なことに気付く。電波が圏外になっているのだ。
辺りに自然が見え隠れしているとはいえ、ここは決して山奥のような、電波の届かぬ未開の地ではない。一歩外に出れば、すぐさま人のいる街へ出られるような場所である。
なのに圏外とは、どういうことなのか。
「……結界……?」
ふいに流星が口にした言葉が、全員の身体を強張らせる。同時に、流星も含め、皆自分の武器を構えた。
なぜなら、それぞれに一つずつの影が襲いかかってきたからだ。
影は獣のような俊敏さで七人に覆い被さろうとする。その一つ、流星へと向かってきた影は、彼の首筋に刃を叩き込もうとした。
「う、おっ……」
流星は慌てて『煌炎』を抜いて受け止める。腕のしびれる感覚に、思わず顔をしかめた。
「鬼童子、華鳳院流星だな」
「あぁ?」
小刀を振るい、無理矢理影を吹っ飛ばした流星は眉をひそめた。
影の正体は、黒髪を短く刈った、精悍な顔立ちの男だった。壮年を少し過ぎたほどだろう。小太刀を手にし、空中で体勢を整えた男は、流星をじっと睨め付けた。
「私は土御門家、十華がひとり、土御門藤堂と言う」
「十華って……ってことは、他の奴らも!」
流星は視線だけを周りに漂わせた。悠達は皆それぞれ、ひとりずつの敵と相対している。
敵は全員、狩衣を軽量化させたような和装だった。それは男――藤堂も同様である。
しかし藤堂は、緩やかに首を振った。
「あれらは私の部下。十華と呼ばれるような、上等なものではない」
「よく言うよ。その十華は、紗矢ねぇちゃんがあらかた倒しちゃったよ」
雷雲は誇らしげに言い放った。他人の功績だと言うのに、まるで自分の手柄だと言わんばかりである。
だが、藤堂はそんな子供らしい発言に、微塵も動揺しなかった。
「だからどうした? そやつらが偽者である可能性も考えず、随分といきがるではないか」
「……は?」
「どういう、ことだ」
あ然とする雷雲とは対照的に、紗矢は眉根を寄せる。自ら倒し、なおかつ十華と断定したのだ。当然の反応だった。
「奴らは確かに、十華だぞ。あたし自身が、記憶を探って確かめた」
「その記憶が、確かなものだと言えるのか?」
「……何だと?」
紗矢の目が見開かれた。藤堂はなおも続ける。
「我らは術者だ。幾年、幾十年、幾百年に渡って受け継ぐ術を使う術者だ。記憶を操るまじないのひとつやふたつ、あるに決まっているだろう。それを、二十かそこらの小娘が破れると思ったか」
傲慢さなど微塵も無い、淡々と、なおかつはっきりと言い放った藤堂に、紗矢もとっさに二の句が継げない。
確かに、紗矢の倒した十華達は弱過ぎた。しかし、それが全て偽者だというのか。
「無論……偽者は皆、手練れ。こうもたやすくやられるとは、思わなんだ」
賞賛する藤堂の声は、感情は垣間見れない。そもそも今の言葉は、はたして賞賛なのだろうか。
「評価にはあたいしよう。だが、それだけのことだ」
「それだけ、だと」
「最も評価にあたいし、同時に評価にあたいしないのは」
藤堂の視線が、悠に向いた。
「貴様だ、椿悠」
視線を送られた悠は、戦闘態勢を解かないまま、猫のように目を細める。唇は、嘲るように笑みを刻んだ。
流星の背筋がざわりと揺れた。あの笑みに、流星は見覚えがある。
あれは、何かをたくらんでいる笑みだ。
「何のことかな」
「とぼけるな。貴様は気付いたはずだ。気付いていて……あえて懐に入った。違うか?」
「さあね」
鋭い言葉にも、悠はとぼけてみせた。視線だけで人ひとり殺せるような視線を向けられているというのにだ。
「あえて懐に入ったのは否定しないけど、ほかはどうだろうね」
「女狸が」
「せめて女狐にしてもらいたいものだね」
苦笑する悠。対し、藤堂は動いていた。小太刀を構え、彼女との距離を一息で認める。小太刀の刃が、悠の首をとらえんと動いた。
「遅いよ」
だが、悠は小太刀の刃を軽く受け止める。しかも、刀でではない。鞘で、だ。
足元に落としていた鞘を足で蹴り上げ、右手で受け取り、その腹で一撃を防いだのである。
男の、それも成人した大人の、渾身の一撃を受け切るなど、並の少女にできることではない。
無論、悠を平均ではかることなど、できはしないのだが。
「……なるほど。椿家の末子という肩書きに、偽り無しか」
「己を偽るほど、ねじまがった根性はしていなくて――ね!」
悠は左手の刀を右下から左上へ振り上げた。半円を描く白銀の刃を、藤堂は上体を倒すことでことで回避する。
だが、間髪入れず悠の膝蹴りが腹に叩き込まれた。藤堂は口から息を吹き出しながら倒れる。しかし、完全に倒すまでには至らなかったようで、伸び上がるようにして拳を振り上げた。
顔を僅かにひきつらせた悠は、背後へ身を投げた。上体を後ろへ倒し、刀を持ったままの両手を付く。そのまま、地面から離れた両脚で藤堂を蹴り飛ばした。
今度こそ地面に伏し、動かなくなった藤堂に、悠はゆるゆると息を吐く。しかしすぐさま辺りを見渡した。
ならうように周りを見た流星は、戦況が停止していることに気が付く。皆こちらを見、動きを止めていた。
「……やられたっ」
やがて呻くように、悠は呟く。何がやられたのか訊こうとした流星は、ようやく周りの異様さに気が付いた。
皆こちらを見、動きを止めている。じぃ、と身じろぎもせずに。
その体勢がおかしいことに気付いたのは、すぐだった。
ある者は武器を中途半端に持ち上げ、ある者は上体をひねり、ある者は脚を振り上げ――
あきらかに、そのままでいられるはずがない体勢だった。テレビの映像を一時停止したかのようなおのおのの姿に、流星は戦慄すら覚える。何だこれ、という言葉が、声を伴わずに口からもれた。
異様と言うには過ぎた状況。まるで時が止まったような――
まさか、と流星は思う。
「悠、これ」
「時は止まってないからね」
言い切る前に先回りされた。言うことは解っていたらしい。彼女の聡さが、今の流星には恨めしかった。
「これは……操り糸、だ」
「あやつりいと?」
「傀儡術とも言う。他人の肉体と精神を特殊な、触れることも視認も不可能な糸で操り、乗っ取る禁術の一つ……操られた人間は、さながらマリオネットのように、操り主に従うようになる」
悠は流星の傍まで走り寄り、背中に回った。
「戦っていた私は勿論、君も術中をまぬがれたようだね――あれは純粋な人間――他の血が一切混じっていない人間にしか、効果無いから」
「だから鬼童子の俺は、自由の身ってわけか」
流星は顔をしかめた。じり、と後ずさると、背中に悠の背が当たる。微かなぬくもりに、少なからずほっとした。
「気を付けてね。操り糸が発動されたと言うことは……!」
悠が、口を開きかけた時だった。
「さっきの友は、今の敵ってね」
楽しげな、歌うような声が、突然高らかに降ってきた。
……降ってきた?
流星は思わず頭上を仰いだ。次いで、目を見開く。後ろの悠は、僅かに身じろぎした。
誰であろうと驚くだろう。
頭上に、逆さ吊りの女がいたりしたら――!
派手な柄の、赤い振袖を着た女性である。長い髪をゆらゆらと垂らし、両腕もぶらりと重力に乗っ取って下げている。いや、あれは上げていると言うべきか。いかんせん逆さまなため、その辺りは的確なことが言えない。
そんな、ホラー映画さながらの女の姿に、流星は顔をひきつらせた。今まで、もっとおぞましいもの(あるいは存在)を見ているため、おののきこそしないまのの、引いてしまうのはしかたの無いことである。
それに、流星よりずっと度胸のある悠ですら反応してしまうのだから、しかたの無いことだろう。というより、恐怖より驚きの方が大きい。
「な、何だあの宙吊り女!?」
「失敬な坊やだね。誰が宙吊り女だい」
「おまえだよ!」
流星のツッコミが発動した。不謹慎にも、ふ、と吹き出す悠。
しかし女はさほど気にした様子は無く、ぐるぅりと手首を回した。
「初めまして、土御門子繰よ。……ってぇ、それより藤堂! あんたいつまでノビてるつもりだいっ」
「……それは、すまなかったな」
女――子繰の叱責を受け、ゆらりと、気絶していると思われていた藤堂が起き上がった。しかしダメージはまだ残っているようで、足ががくがくと震えている。
「……何も、私の部下まで巻き込まんでもいいと思うがな」
「こっちの方が早いさね。この二人を始末するのはさ」
「ふん。そうやすやすと倒されるほど、やわな人間じゃないよ、私達は」
悠は鼻で笑うと、刀をひっくり返した。
「……悠?」
「その気になれば、この刀は人間であろうとおかまい無しだからね。知ってるでしょ。君も、せめて炎は消した方がいい」
振り向くと、悠は流星の背中に己のそれを預け、刀を正眼に構えていた。
「……来るよ」
悠の声に呼応したのではないだろうが。
「行きなっ」
子繰は宙吊りのまま、手をいったん閉じて――開いた。
とたん、二人の視界は遮られる。飛びかかる人の壁によって――!
敵味方いりみだれ、どころではない。
敵味方関係無く、とも違う。
敵味方区別無く、それぞれ例外無く、おのおのの武器を構え、振り下ろしながら、悠と流星に覆い被さる――
「七の手、円陣斬」
ふい、と、悠の刀の切っ先が動いた。同時に、流星は耳にする。
ひゅん、という風切り音を。
そして一瞬も待たずして、腹に感じる。
ひゅん、という通過音を。
ざわざわと背筋が撫で上げられるような、嫌な感じがして、流星は飛び上がった。それもこれも、あたかも腹を切られたかのような感覚があったからである。
しかし、次の瞬間にはそれも忘れた。
それは、視界を埋め尽くしていた人の壁が、消え失せていたからだ。
それが、消え失せたのではなく吹っ飛ばされたのだと悟るのに、さほど時間はかからなかった。
流星が目にしたのは、空中に放り出された人々だった。
四方八方、全方位を塞いでいた人の壁が、円を描くようにして。傷を負うことなく宙を舞う者達を見、流星は我に返る。
「……悠……おまえの仕業?」
「私以外が何をしたというの? 私以外、何もしていないでしょ」
くすり、と笑う声を聞いて、流星は錆びたブリキのような動きで首を巡らせた。
とても気になることがあるからだ。この際、仲間ごと刀で殴り飛ばした所業は、とりあえず棚上げにする。
「今、俺の腹を何かが通過した気がしたんだが」
「ああ、大丈夫。ちゃんとくっついてるから。ずれ落ちたりしないよ」
「通過したのか!? 通過したんだな!?」
流星の混乱がピークに達しそうなところで、悠は子繰を見上げた。
「まとめてかかってきてくれて、助かったよ。複数人の壁ほど、吹き飛ばしやすいものはない」
「あんた……何を」
「上から見て解らなかった? 単にその場で一回転して、彼らを吹き飛ばしただけだよ。ま、多少特殊な技を使ったけど」
つまり、刀は確かに流星の腹を通過したが、その刃は彼の肉体を斬ることなく、人の壁を吹き飛ばすにとどまったということだろう。特殊というのは、おそらくその辺りだ。
半ば意識を飛ばしている流星に、それが理解できているかどうかは、はなはだ疑問ではあるが。
「まとめて操ってちゃ、動きにだって単調になるでしょうが。数は、多ければいいってもんじゃないよ、オバサン♪」
「っ……! っ……! っ……!! てっめぇええええええええええ! 言ってはいけないことを言ったねぇえええええええええええ!」
悠の一言は、どうやら禁句だったらしい。子繰は絶叫し――逆さ吊りであるため、正確には下げるが正しいだろうが――振り上げ――
「椿悠はあたしの獲物だよ」
途中で、止めた。
子繰の叫び声で我に返った流星は、声の方を見て表情を硬化させる。
見覚えのあるオレンジの髪、紅いワンピース、紅い二槍。
あの卑下た笑みこそ浮かべていないが、彼女はまぎれもなく。
「天地……!」
「君が出てくるとは、よっぽど先へは行かせたくないんだね」
それぞれの武器を構える流星と悠に、天地は目を細めた。
しかし、それだけである。
もう少し反応らしい反応を見せてくれると流星は思っていたが、そんなことは無かった。
その天地は、藤堂と子繰にそれぞれ一瞥をやった。
「藤堂、子繰。あんた達は華鳳院流星を相手しろ。椿悠の相手はこのあたし。いいね」
「……は」
「……解ったよ」
意外にも、二人はあっさり身を引いた。表情こそ不満がにじみ出ているが、逆らう気は無さそうだ。
あるいは、三人の力関係を表す図と言えるだろう。
そこで流星は、はたと気付いた。
もしかして、二対一の勝負に持ち込まれたのだろうか……?
「よかったね」
「何が!?」
突然悠にそう言われ、流星は肩を震わせた。二対一の、何がいいのだろうか。
しかし、言った悠の白い頬には、一筋の汗が伝わっていた。
「あの二人――正確には傀儡も含めて十二人だけど――相手するより、天地を相手にする方が、よほど難しい」
ひっくり返っていた刀が、いつの間にか元に戻っていた。
「あいつの実力は、私より同等か――それ以上だよ」
―――
「世の中には常に勝ち続ける人間と、常に負け続ける人間がいます。どちらも極めて数が少ないのですが、確実に」
土御門の屋敷内にある闘技場。その中心で、護縵はとうとうと語る。
とうとうと。そして炎々と。
熱を持った声で、しかし冷めた口調で語る。
「非科学的可能性であり、天文学的数字でありますが、負けを知らぬ人間、勝ちを知らぬ人間が確かにいるのです。私が、そうですから」
護縵は閉じていた目を開け、視線を前へ向けた。
「貴方もそうだと思っていたのですが……残念です。椿刀弥」
彼の視線の先――そこには、血まみれで倒れ伏す、刀弥の姿があった。