土椿<下>
土御門邸、通称五芒星屋敷と呼ばれるその邸宅に、主である土御門護縵はいた。
邸宅内にある巨大な泉に、黒い着流しを着用したままつかっているのである。
「兄貴さぁ」
その様子を、近くの木にもたれかかりながら天地が見ていた。
悠達の前に現れた時と同じ全身赤の服装で、二槍は両脇の地面に突き立てられている。
「身体大丈夫なのか? 椿恭弥の、割と効いてたんでしょ? だから身を清めてる」
「清めではありませんよ、我が紅姫。癒やしです」
とはいえ、と、護縵は自らの手を見下ろした。
「あながち間違いではありませんね。こうする必要ができたのは、椿の君のせいなのですから」
「最高の守備力を誇る式神、黒鍵と融合した兄貴に怪我させるたぁ、化物染みてんね」
「貴女が言うと、皮肉に聞こえませんね」
「皮肉ってねぇもん」
天地はけらけら笑った。
「むしろ賞賛してんだぜ、あたしは。なぁ兄貴。やっぱ悠だけじゃなくて、椿恭弥もくれよ」
悠、と口にした時の天地の顔は、酷く甘いものだった。
名前そのものが愛しい、と言いたげである。
「かまいませんよ。椿刀弥以外は、幾らでも」
「やった」
天地はにんまりと笑った。
二槍を手にし、鼻歌を歌いながら振り回している。
護縵はしばらくそれを見つめた後、ふと口と口を開いた。
「喜んでいるところ悪いですが、今はまだ動けませんよ。動くのはあちら側です」
「解ってるっつーの。んじゃ、あたしは出かけてくる」
天地は肩をすくめて二槍をかついだ。妹の言葉に、護縵は首を傾げる。
「どこへ行くのですか?」
「急に八ツ橋喰いたくなった。兄貴いる?」
「いりません。甘いものはあまり好きませんので」
「おーう」
はたから見れば、穏やかな兄妹の会話である。しかし、ここに第三者がいれば蒼白な顔をして、立っていられなくなるだろう。
両者の間に、濃厚な殺気が漂っていたのだから。
―――
流星は呆然とした。開いた口が塞がらないとはまさにこのことだと実感した。
「遅かったな。ふんじばっておいたぞ」
手近な民家の壁に背を預けていた紗矢が、軽く片手を上げた。
その前には、縄で一緒くたにぐるぐる巻きにされた男達の姿が。いずれもぼろぼろである。
「……紗矢さん、何したんスか」
「うん?」
流星が尋ねると、紗矢は小首を傾げた。
「石を降らせただけだが」
「あんた鬼だ!」
あまりの仕打ちに、自分が鬼童子であることを忘れてなじる流星だった。
「……で。彼らが土御門の連中であることは確かなんだね?」
やれやれとばかりに首を振った悠は、紗矢にそう尋ねた。
「あぁ。十華と呼ばれる連中のようだ」
「十華って……」
再び呆然とする流星。敵を倒したとは聞いたが、まさかそれが精鋭とは。
西野紗矢、あなどりがたし。
「で、思考を読んで知ったが、どうも連中、私を潰すのにやっきになっているらしい」
自分が狙われているにも関わらず、紗矢は淡々としていた。自分が狙われていることには、あまり関心が無いらしい。
「ま、貴女の能力はウルトラレアだからね。一つだけでも一級なのに、二つ同時となると特級クラスの生きた伝説だね」
「せめて人間国宝にしてくれ」
悠の言い方に、紗矢は不満があるようだった。伝説と国宝に何の差異があるかは不明である。
「まぁ、だからではないが、早めた方がいいんじゃないか? 別に己の身を案じているわけではないが、このままじゃジリ貧になるぞ。地の利はあちらにあるんだし」
「ん……そうだね。ところで、何か予知できた?」
悠が尋ねると、紗矢は首を横に振った。
「いや……今のところは。なぜか……もやがかったように何も見えないんだ。何かに妨害されているような。こんなこと、初めてだ」
気持ち悪い、と言いたげな紗矢の顔に、流星は少し心配になった。
普段、感情らしいものを表に出すことが極端に少ない彼女が、こうも不快感をあらわにするのは本当に珍しい。
「大丈夫、ですか?」
「ん? あー。あぁ、うん。いつも使える力が使えないっていうのが、何とも言えず不安でな。うとましい力でも、使えないとこうも心もとないんだな」
紗矢は肩をすくめた。
うとましい力が使えない。そうなった時の人間の心境は、流星には推し量れなかった。
鬼童子の力を失ったらどうなるだろう、とぼんやり思う程度である。
ただ流星の場合、鬼童子の力をうとましく思っても、無くなってほしいとは思っていない。
今の彼にとって、必要な力だからである。
「……ま、そうは言っても、透視や読心術が使えないわけじゃないし、創造師の力が使えないわけでもない。未来なんて、もともと見えなくて当たり前だしな」
紗矢はそう言って話を切り換えた。
「他の奴らはどうする? 集まるまで待つか?」
「いや、このまま土御門本家を目指す」
悠は首を横に振った。
「現地集合だ。もう連絡も回してる。ことがことだけに、あまり時間が無いんだ。……修学旅行中の高校生もいることだしね」
「悪かったな」
揶揄されたことにふてくされた流星は、ふと、あることに気が付いた。
「なぁ。猛や日影は、学校は? 風馬さんも、今大学生だって言ってたし」
「サボってるに決まってるでしょ。風馬は休学してるけど」
「……」
自由過ぎるよ、退魔師。
常識人は俺だけか、と嘆く流星だった。
――彼も良家育ちゆえの世間知らずが僅かばかりあるのだが、常識外ればかり集まっているがために誰にも指摘されたことは無かった。
―――
土御門本家の本拠地を、椿家の人間は知らなかった。
というのも、土御門護縵の代になって、本家の場所を移してしまったのである。
京都内にいることは解っていたが、正確な場所は誰も存知していなかったのである。
けれど、まさか。
「伏見稲荷内に屋敷を構えていたとはな」
刀弥は忌々しげに吐き捨てた。切れ長の目は、狛犬の代わりに置かれた狐の像二体を睨み付けている。
京都市内、伏見稲荷大社の鳥居の前。刀弥と恭弥、後から合流した橘猛と李舜鈴、伊吹雄輝がそろって立ち尽くしていた。
ちなみに雄輝は、逃げられないように猛に首根っこを掴まれている。
弱気、健在である。
「うぅっ、うぅぅぅぅぅ……俺関係無いよね、関係無いはずだよね? 何でこんなことにぃ」
「ちょっと黙っててください。うっさいです、弱気さん」
「俺の名前は雄輝! 猛君、俺にだけ辛辣じゃない?」
「気のせいです」
「目をそらさないでえぇぇ!」
コントをくり広げている二人を尻目に、舜鈴はじろじろと鳥居を眺めていた。
やがてため息をつき、腕を組む。
「考えたよねー。神社なら元々結界が張られてるようなものだし、労力も半分以下ですむし。あざといネ」
「それ以前に」
恭弥は眠そうに目を細めた。実際眠いのかもしれない。
「稲荷大社の使いである狐は、僕ら椿家と彼ら土御門家にとって縁深い場所だからな。それもあって、ここにしたのかもしれない」
「縁深いって……例の、先祖の母親がー、てやつスか?」
首を傾げる猛に、恭弥は頷いた。
椿家と土御門家の関係は、遠い祖先が双子の兄妹であったことから始まる。
安倍晴明と椿月凪。二人の仲は、現代の両家と違って良好だった。
そんな二人の母は、狐だったという説話が残されている。真偽はさだかではないが、少なくとも、両家の血が特別であることは確かだ。
だからこそ、血を守るための婚姻をくり返した。
両家同士であったり分家であったり、時には兄妹間ということもあったが、ともあれ。
血は、今なお受け継がれている。
稀代の天才の血と。
稀代の異常の血は。
脈々と、とくとくと、いっそどくどくと。
流血の数だけ、伝わっている。
あるいは、だからこそ。
土御門家兄妹と。
椿家三兄妹。
両者の対立は、当然と言えば当然の結果なのかもしれなかった。
「……にしても」
刀弥は煙管をくわえて眉をひそめた。
「何で連中、俺達がここまで来てるのに動かない? 様子見の人間ぐらいよこせばいいのに」
「……待ち伏せ、もしくは待ち構え」
恭弥がぽつりともらした言葉に、全員が彼を見た。
「向こうが僕らの動向を察知している可能性は高い。この場所だって、その気になれば完璧に隠すこともできたはずだ。だが、それはされていなかった」
見付かることは、予想できたろうに――恭弥はぽつぽつと、しかしはっきりと言う。
次に言い放った言葉は、皆が予想していなかった――否、あえて無視していた可能性だった。
「なら逆に、僕らが囲まれている可能性も……無くはない」
ためらいなく言うところは、彼らしい。
そして、誰もが避けていた可能性を簡単に言ってしまうところも、また。
恭弥は術師である。術師以前に策士である。
希望は持っても希望的観測はしない彼は、性格の割に非常に冷徹だった。
囲まれている、というのは誰もが悟っていて、しかしあえて避けて考えていたことだが、それ以上の予測は恭弥以外には不可能だった。
逆に言えば、恭弥だけが気付いていた。
彼らが、自分達が結界内に入るまで手出しをしないであろうことに。
他の誰も――刀弥も気付かないことだった。彼とて、先見の明が無いわけではないのに。
更に言えば、恭弥はこの一種の均衡を崩す方法も思い付いていた。
「舜鈴」
くい、と、恭弥は舜鈴の長いツインテールの右側を引っ張った。
女性の髪を引っ張るなど、普通なら失礼にあたる行為だが、この二人の間ではある意味を持っていた。
「明白了」
舜鈴はにやり、と笑うと、視線を辺りに漂わせた。
「……うん、いる。何人も」
「数は?」
「十――二十かな。襲いかかってくる様子は無いね。殺気があったら、さすがにみんな気付くでしょ?」
「あぁ……」
小首を傾げる舜鈴に頷きを返しつつ、恭弥は考える。
やはり、今は襲いかかってこないらしい。
全員そろって――おそらくは入口が創られた際に、襲撃してくるはずだ。
一番気が緩む瞬間である。たやすいだろう。
それにしたって少な過ぎるので、おそらくは中ですでにひかえている者達もいるはずだ。
数秒も無い内にそこまで見抜き、しかし考えは未だ進められる。
上策はこの場から離れることだというのは、恭弥は勿論気付いていた。
攻めではなく、守りの姿勢で挑み、相手がしびれを切らすのを待つ。急襲をかけるならその時が最良だろう。
土御門護縵は気長な男だが、周りはそうではない。長年たもち続けていた不可侵条約のような交友を破ったのは向こうなのだから、焦る者も多いだろう。いかに護縵とて、独裁を可能にしているわけではないのだ。
決着を付けるのは早い方がいい。しかしそれはどちらも消耗するからであり、時間と共に椿家が不利になることは無い。
むしろ、消耗が激しいのは土御門家の方だろう。先の妖偽教団との戦いで一度は疲弊した椿家だが、他家との結託はむしろ強くなった。勢力的には圧倒的に椿家の有利である。
そこまで考えて、恭弥は先日覚えた疑問を思い出した。
後回しにしていて、そして今回も後回しなのだが、少し考える。
どうして護縵は、今回の戦いを引き起こしたのだろう。
出世欲の無い男である。出世欲どころか、基本的な欲すら無い。食事も睡眠も、放っておくと一切摂らないらしい。
そんな彼が、何を思ってこの戦いを起こし、椿家を潰そうとしているのだろうか。
答えを出さないままに疑問を頭の隅へ追いやった恭弥は、次善の策を取ることにした。
兄は――今の兄は、待つという策を取るまい、と判断したためである。
刀弥は、恭弥が傷付けられたことを怒っていた。傷自体は治ったが、それでも、だ。
恭弥自身もそうだが、刀弥は家族が傷付くことを極端に嫌う。門下の者ならまだしも自制が効くが、血の繋がった弟と妹が傷付いた時は、半分かせが外れてしまうのだ。
かせが外れた状態。それがどんなものか、恭弥は知っている。
知ってしまっている。
だから、羽衣姫との戦いで自分が倒れた際、彼が通常の状態をたもてていたことに、少なからず驚いた。
最初は耐えることを覚えたのかと思ったが――違ったらしい。
ならば、なぜ。
そこで、恭弥は考えることをやめた。 やめざるをえなかった。
そのまま考えていれば、刀弥の様子の違いは状況の違いゆえだと、彼ならば気付いたろうに。
気付かないまま――思い出すことも無いまま、その思考は終わる。
「よーう。何時間振り?」
緩んだ声が、場の空気の緊張を増長させた。
全員――正確に言えば舜鈴は直接会ったことは無かったが――声の主を知っていたからだ。
なぜなら――彼女は正面から現れた。
堂々と、誰にはばかることなく。
赤いその姿を見せた。
「土御門天地、再登場♪ つーわけだからさ」
二槍を構え、腰を低くするその様は、さながら四肢を駆る獣のようで。
「相手してよ、おにーさんがた、あーんどおねーさん?」
笑う顔は、獲物を前にしたけだものだった。