第四十二話 古都<上>
「きみはだれ?」
尋ねると、それはゆっくりこちらへ目を向けた。
何も映さない瞳――否、あれは瞳と呼べるのだろうか。
洞に広がったただの闇が、瞳などという上等なもののはずがない。
なら、これは何だろう。
こいつは、誰だろう。
「ひと?」
「……」
「ひとじゃないの?」
「……」
「なら……おに?」
「……」
「……答えてよ」
その時は気付かなかったが、それはおびえていたのかもしれない。
無力な子供におびえる必要があるのか、全く解らなかったけれど。
後から思うと、自分はその時、『鬼』になりかけていたのだ。
「こたえないなら」
それが身じろぎした。思わず唇の端がつり上がる。
「いなくなってよ」
「っ……!?」
流星は勢いよく上体を起き上がらせた。
荒い息のみが耳につく。周囲を見渡せば、見慣れた自室だった。
「……忘れてた、のに」
流星は呆然と呟いた。
幼い頃の自分の記憶。あまりに不気味な思い出だったため、無意識に封印していたものだ。
「最悪……」
流星は呻くとベッドから立ち上がった。
昨日、あんなことがあったせいだろうか。
流星は昨夜のことを思い出して身震いした。
呪いを解いた直後の若菜の顔――突然燃え上がった鞄。
思い出すだけでも、背筋が冷えてゆく。
特にあの炎。あれは一体、どういうしかけだったのだろう。
炎が収まった後、残ったのは僅かな燃えかすと焼け焦げた地面だけだった。
もし直前で気付かなかったら、自分もそうなっていたのだ。
流星は洗面所に向かうため、寝室を出た。
――のだが。
「……え?」
視界に入ったのは、物が散乱し、少し汚れたいつもの居間。
――ではなく、綺麗に片付けられた部屋だった。
次いで、胃を刺激する匂いが鼻孔をくすぐる。
そして台所には人の気配。足音を立てずにそろそろと近付くと――
「……悠?」
「あ、おはよう。意外と早いね」
調理器具を持って振り返った美少女――悠だった。
ちなみに、エプロン着用中である。
「……」
「待ちなよ。何踵を返そうとしてるのさ」
寝室に戻ろうとした流星のTシャツを、悠は即座に掴んだ。
その場から動けなくなった流星はぶるぶると頭を振る。
「夢だ。これは夢だ。悠がエプロンとかまじそんな」
「流星、現実だよ」
頭を降り続ける流星の髪を、悠は引っ掴んだ。
頭皮に感じる痛みにようやく我に返り、振り返る。
「う、うわー……」
何でいるんだとか部屋いつ片付けたとか料理できたのかとか色々考えたが。
とりあえず、悠の姿に心打たれた。
随分前に友達が、彼女のエプロン姿がぐっとくる、などと言っていた。
その時は笑い飛ばしたが(そいつに彼女がいなかったことも理由の一つだが)、今なら解る。
これは――破壊力抜群だ。
悠の美貌ではこういった格好は似合わないであろうと思っていたが、そこはさすが超絶美少女、エプロン姿も様になる。
というか、素直に可愛い。
流星が内心身もだえていると、悠の眉間にしわが寄った。
「何?」
「……えっ、いやその」
「……どうせ似合わないと想ってるんでしょ」
これ、とエプロンのすそを持ち上げる悠。どうやらすねたようだ。
その姿も、めまいがするぐらい可愛い。
流星は慌てて首を横に振った。
「に、似合う! めちゃくちゃ似合う!!」
「え、あ、ありがと……」
あまりに勢いよく言ったせいか、悠は後ろに下がった。
我に返った流星は謝りつつも、視界はしっかり悠に固定されていた。
……俺、明日死んだりしないよな。
なぜだか不安になった。
こんな夢のような光景、そうそう見れるものじゃない。
「つ、つーか何で俺んちに? ていうか鍵……」
「ピッキングした」
「そんな技術持ってたんかい!」
全力でツッコんだ。
ツッコまずにはいられなかった。
「じ、じゃあ……何で朝から部屋に侵入してんだよ」
「インターホンは押したよ」
「……いつ?」
「二時」
「寝とるわ!」
「うるさいな――っと」 悠はコンロに向き直り、鍋にかかっていた火を消した。
鍋を覗き見ると、中身はどうやら味噌汁のようだ。
その隣では焼き上がったシャケの切り身がフライパンの上に横たわっていた。
どちらに食欲をそそる匂いを放っており、見た目もうまそうだ。
「り……」
「り?」
「料理できぐふぉ!?」
できたのか、と訊く前に肘鉄を喰らった。みぞうちを打たれたせいで、息が詰まる。
「失礼だよ、君。ほらほらどいて。着替えてきてよ。邪魔」
悠は蠅を払いような手付きをした。
ここは俺の家だぞ、という言葉は、呻き声に飲まれてしまった。
―――
流星は夢心地で教室を目指していた。
あの後、悠が作った和食(プロかと思うぐらいうまかった)を食べ、更に手作り弁当まで渡された。
感動のあまり抱き付いたら抱き返され、頬にキスまで送られたものだから卒倒しかけてしまった。
しかし、いいことばかりではなかった。
悠は、流星の危機感をあおるようなことを言ったのである。
「昨日言いそびれたけどね。流星のとこの転校生なんだけど」
悠はいつもの凛々しい顔付きで言った。
「君が思う通り――かもしれない。気になって調べてみたんだけどね、彼の経歴は全部嘘だった」
「嘘?」
「そう。何もかもね。もしかしたら名前も偽名かもしれない。出身地が本当にイタリアかどうかも、あやしいところだ」
西洋人っていうのは間違いなさそうだけど、と悠は肩をすくめるも、すぐさま疑惑の言葉を口にした。
「もっとも、整形したりしてなければだけど。肌の色を変えるなんて、今じゃ珍しくない」
「ちょ、ちょっと待て! 何もそこまで疑わなくても」
「これを疑わなくて、何を疑うのさ」
悠はまなじりを鋭くした。
こちらが気圧されていると、悠は言葉を重ねる。
「何も信じるなとは言わない。けど流星、疑って先を読んで身構えてなきゃ、やられるのはこっちなんだよ。疑わしきは疑え。いいね?」
――その時は思わず頷いたが。
今思うと、そこまでする必要があるのかと考えてしまう。
そんな俺は危機感が足りないだろうか……
思い悩むも、あの転校生を疑ったのも事実である。
しかし、冷静に振り返ってみて、はたしてシャーペンに触れるだけで装置のように突然発火を起こすことができるのだろうか。
通学路でさんざ考え、結局結論に至らなかった。
「……着いちまった」
教室の扉の前で、流星は足を止めてしまった。
そのままいつも通り入ってしまえばいいものを、よけい入りずらくなってしまった。
ここにいては邪魔になるのは必須だ。しかし、気付いてしまった事実は流星の足を固めてしまう。
それでも余計な力を入れながら腰を持ち上げた。
が。
「……あ」
がらり、と先に開いてしまった。
俺の努力は何だったんだ、と思いながら顔を上げ、再び硬直。
現れたのは、先程から疑念をぶつけていた人物――クラウディオだった。
「っ……!」
「邪魔だ、どけ」
動けないでいると、クラウディオがじろりと睨んできた。
流星が身体をずらすと、クラウディオは隙間から抜けようとする。
だが流星は、前髪から一瞬見えた冷たい目に反射的に手を伸ばした。
「……何だ」
腕を掴まれたせいか、クラウディオの瞳が鋭くなる。
離せと言わんばかりの視線に、しかし流星は掴んだ腕を離さなかった。
どうしてそうしたのか自分でも解らなかったが、しばらくして口を開いた。
「少し話せねぇか?」
屋上まで来ると、流星はクラウディオと向き直った。
クラウディオは腕を組み、こちらを見つめている。
改めて見ると、本当に人形のように整った顔をしていた。
人形のように綺麗で、人形のように冷たい。
生きているかも疑いたくなるような彼の姿に、流星は言葉に詰まりそうになる。
だがかぶりを振り、その印象を取り払って尋ねた。
「昨日の炎、あれは何だ?」
「何のことだ?」
「とぼけんな! 俺の鞄の中身に触ったのはおまえだけなんだよ」
流星は一歩詰め寄った。クラウディオは微動だにしない。
微動だにしないまま、逆に尋ねてきた。
「何かあったのか? 鞄がどうした?」
「……わざとらしいんだよ」
流星はぎり、と奥歯を噛み締めた。
「無表情でとぼけられてもな」
クラウディオは先程から一切顔色を変えていなかった。
焦りも嘲りも無い、ただ無感動な顔。
本当に人形のようだ。
人間に何を言われようと答えない、物言わぬ人形。
この男、本当に人間なのだろうか。
「それは失礼。あいにく、しかめっ面以外の表情を知らんでな」
クラウディオは素っ気無く言い放った。
「で? 俺は一体、おまえに何をしたというんだ?」
「それは」
「何があったか知らないが、確たる証拠も無く人を疑うとは感心しないな」
「っ……!」
「疑わしきは罰せず――と言ったところか。じゃあな」
クラウディオは軽く手を振り、屋上を後にした。
一人残された流星は、反論できなかった自分を恨めしく思う。
もし悠なら、彼の詭弁など完膚無きまでに叩きのめすことができるだろう。
勿論、クラウディオの発言は正論だ。
しかし、幾らでも打破する余地はあったはずである。
なのに自分は、何も言えなかった。
「……くそっ」
腹立たしくなって、屋上の床を蹴った。
結局苛立ちを抱えたまま、流星は次の週を迎えたのである。