幼馴染み<下>
病室に戻った時には、もう空は朱色に染まっていた。
病室も例外ではなく、差し込む光のせいで夕空と同じ色になっている。
水で薄めた絵の具で塗り上げられたような色の病室は、どこか不吉な感じがした。
「流星……」
若菜はすでに起きていた。顔色は悪いが、今は呪いの影響は出てないようである。
「ど、どう? 呪い……解けるの?」
「……その前に」
悠が流星を押しのけ、前に出た。若菜の顔が歪む。
「何で、あんたが一緒にいるのよ……! 私は流星に話して」
「私が無事なのが、そんなに意外?」
悠が冷笑を浮かべると、若菜の表情が凍り付いた。
わけが解らないという顔の次郎夫婦をよそに、悠は畳みかける。
「まぁ驚きだろうね。自分は自分がかけた呪いで苦しんでいるのに、私は何とも無いんだからさ」
「何、言って……」
「これ、読ませてもらったよ」
悠は手に持っていたものを放った。若菜が日記として使っていた手帳だ。
若菜の顔から血の気が引いた。自分の膝辺りに放り置かれた手帳を見て固まっている。
「……その反応、肯定と受け取るよ」
悠はじ、と若菜を睨み付けた。
その後ろで、流星は日記の内容を思い出していた。
日記には、若菜の中で燃え上がっていた憎しみが延々とつづられていた。
文字を変え、表現を変え、言葉を変え。
それでもにじみ出てくる――否、あふれ出てくる憎悪に、流星は戦慄した。
直接憎しみを向ける者の名前は書かれていなかったが、読み進めていく内に誰がその対象か解った。
悠だ。
何より流星が驚愕したのはそのことだった。
悠と折り合いが悪いことは知っている。
しかし、これほどまでの憎悪をため込むほどとは思っていなかった。
日記には、呪いを使うまでの経緯も書かれていた。
ネットでたまたまそういう関連のホームページを見付けたこと、興味本位で見ていく内にのめり込んでいったこと、悠の存在から流星の目をそらしたくて呪いを行ったこと――
だが、呪いは不完全だったようだ、と悠は語る。
悠のチョーカーは呪いを跳ね返す。しかし、悠自身に全く影響が無いわけではない。
少なくとも、呪われたことは感じる。人を殺すだけの呪いならなおさらだ。
なのに、悠は呪われたことに気が付かなかった。つまりそれほど、若菜の呪いは弱かったのである。
しかし、不完全だからこそ――跳ね返った時、呪い主の若菜に牙を剥いた。
人を呪わば穴二つ。
人を呪えば、同等の不幸を背負うことになる。
逆に言えば、呪い以上のことは術者にも対象者にも起こらないということだ。
同等――等価。
必要以上の報復はできないし、必要以上の対価も払わないのである。
それが吉と出るか凶と出るかは、呪いの内容次第だが。
だが、不完全な呪いは違う。
不完全な呪いでは、等価という一種の約束ごとすら守れない。
ちまたに流布する呪術など所詮そんなものだと、悠は言っていたか。
しかし、今回は若菜にとってそれが裏目に出てしまった。
不完全だからこそ呪いは凶暴化し、若菜の命を危険にさらしている。
そして現在に至るのだ。
「呪いに使ったと思われるものは全て捨てたようだけどね――でも、それでも痕跡は残るんだよ」
「こ、痕跡……?」
「残滓と言いかえてもいい。呪いの、思念の残りかすだ」
悠の目に見つめられ続けたせいか、それとも次々と突き付けられる事実にか、若菜は確実に追い詰められていた。
表情はみるみる内にひきつっていき、顔色はどんどん悪くなっていく。
しかし、誰より驚いたのは次郎夫婦のようで、目を白黒させて悠と若菜を見比べていた。
若菜は白っぽくなった顔を流星に向けた。
幼い頃から見知った顔。しかし――
「流星! こ、この娘止めてよっ。意味、解んないわよぉ」
「……若菜」
「私、何も知らない。呪いなんて知らない。この娘の言ってること、全部嘘よっ」
「俺も、読んだ」
それ、と流星が手帳を指差すと、若菜の顔がデスマスクのようになった。
「おまえは確かに、悠を呪った」
「……違う」
呟かれたのは、否定の言葉だった。
「私、何も知らない……ねぇ、助けてよ。流星、助け――うぐぅっ」
突然若菜の身体が前に折れまがった。
何かに抑え付けられているような――否、実際抑え付けられているのだ。
目に見えない、自らの嫉妬の蛇によって。
「あ、ぐ、あ゛ぁ」
悲鳴を上げて額を膝に押し付ける若菜を見て、流星は一瞬ひるむ。
だが、悠に背中を押され、我に返った。
言わなければならないのだ。これからのために。
若菜と――自分のために。
「契約だ」
流星が絞り出した静かな声に、若菜の目が揺れた。
何だと問う目に、流星は畳みかける。
「おまえはこれから、悠を呪わないと誓え。そして――俺に関わらないと誓え」
「……っ!?」
「もし応じないなら、俺はおまえを助けない。もし応じた後、同じことをしたら――俺は容赦しない」
口に出すのにははばかれるが――流星の本心だった。
悠を傷付けようとするなら、俺はおまえを殺す。
言外に、そう言ったも同然だった。
「選択権はおまえにやる。……契約するか否か、全ては、おまえ次第だ」
それは、悠の代名詞と言うべきセリフだった。
選択肢を与えているように見えて、その実一択しか道を作らないセリフ。
選択権を、奪うセリフ。
流星はあえて、それを口にした。
「……」
若菜は黙り込んでしまった。
その間にも若菜の身体は締め上げられているらしく、身体は折れたまま、顔は紙のように白くなっていた。
すっかり歪んでしまった幼馴染みの顔を見ていると、憐憫の情が心ににじんでくる。
だが流星は、あえてその顔を睨み続けた。
やがて若菜は――苦しみに耐えかねたのか、または別の理由かは解らないが――何度も頷いた。
全身を震わせ、今にも泣きそうな顔で。
―――
病院の外に出ると、すでに空は暗くなっていた。
星は無い。のっぺりとした三日月が浮かんでいるだけの空は、完全な黒だった。
「――依存。恋でも愛でもない。友情でも愛情でもない。ただ彼女は、君を繋ぎ止めたかったんだ」
悠は夜空を見上げ、囁きかけた。
流星は黙って聞いていた。右手は悠の髪をすいている。
その右手で、流星は若菜の呪いを滅した。
蛇の形をした呪いを掴み、鬼の力で取り払ったのである。
その時手を鬼化したため、周囲を驚かせたが――いや、驚かせたどころではなかった。
事情を知っていたらしい次郎はそれほどではなかったが、知らない若菜と母の驚きは半端ではなかった。
特に若菜は、流星の手を見てあきらかにおびえていた。
しかたがないのだと思う。異形の腕を持つ青年を恐れるのは当たり前だ。
見知った存在でも――見知った存在だからこそ、その力は恐怖の対象となったのだろう。
「依存って……どういうことだ?」
尋ねると、悠は手にすり寄ってきた。次いでため息をつく。
「そのままの意味だよ。君に近過ぎたがゆえに、君の存在が傍にいないことが許せなかった。君の傍に自分がいないことが許せなかった」
「……」
「だから、私の存在が許せなかった」
幼馴染み。幼い頃からよく見知った存在。
しかしよく見知っているからこそ、その存在がいなくなるのが耐えがたかった。
何より、自分の知らない存在といることが許しがたかった。
確かに、それは恋でも愛でもないのだろう。友情でも愛情でもない。
どちらかと言うと、所有物に対するようなものだ。
「……俺は物かよ」
思い至った結論に、思わず自嘲の笑みがこぼれる。
狂ってる、とは思わない。ただ、歪んではいると思う。
一体彼女は、いつからそんな感情を自分に抱いていたのだろう。
もう、知る術は無いが。
若菜との縁は、もう切れてしまったのだから。
「……帰るか」
「そうだね」
頭から手を離すと、悠は頷いた。
流星はため息をついて肩にかけた鞄をかけ直し――
ぞくり、と。
背筋が逆立った。
何の前触れもない戦慄だったが、流星を身震いさせるには充分だった。
「っ……!?」
流星は反射的に鞄を遠くへ思いっきり投げた。
どうしてそうしたのか。流星は自分の行動に困惑した。
しかしすぐ、その行動が正しかったことを理解することになる。
ドンッ
爆音を上げて、鞄が燃え上がった。
範囲こそ小さかったものの、その勢いはすさまじく、空を焦がさんばかりに高々と火柱が上がった。
もしそのまま持っていたら、流星は炎に全身を焼かれれていただかろう。そうでなくとも、腕ぐらいは失ったかもしれない。
流星は呆然とその炎を見つめていた。悠も同じだったらしい。
声が、震えていた。
「……中に、燃えるようなものがあった?」
「……いや……無かった。『煌炎』も、今家だし」
流星も震え声で返した。
携帯と自宅の鍵、財布は常にズボンのポケットに入れている。鞄には大切なものは特に入っていなかった。
だから大丈夫――というわけにはいくまい、この場合。
「誰かが、何かをしかけたね」
悠は呻き、こちらを見上げた。
「鞄を誰かに触らせた? あるいは、中身でもいい」
「中身……」
中に入っていたのは教科書とノート。しかし今日は使っておらず、取り出してすらいない。
後は――筆箱ぐらいか。
「……あ」
一人だけいた。
彼は、落としたと言って自分のペンを拾った。
流星の物に、触れたのである。
「……クラウディオ……」
無愛想な転校生の名を呟き、流星は顔を歪ませた。
―――
「失敗しましたねぇ」
「だな」
揶揄するようなエドワードの口調に、クラウディオは短く応じた。
病院の屋上。フェンスの上に並んで腰かけ、二人は青年と少女を見下ろしていた。
「『火種』は付けたが、気付かれたな。とんでもない野生の勘だ。いや、この場合は鬼の勘、か」
「普通気付きますか、あれ……」
エドワードはあきれたように呟く。心底理解できない、と言いたげだ。
「なまなかなやり方じゃ、暗殺は無理か――」
「……何ですか、その体勢」
エドワードのあきれ声が降ってきた。
クラウディオは、上体を後ろに倒した状態になっていた。腰はフェンスに下ろしたまま、上体は逆さまという、何とも滑稽な様である。
「頭に血、のぼりますよ」
「ん」
エドワードに言われ、クラウディオは素直に上体を起こす。
ふとエドワードを見、目を細めた。
「何だか浮かれてるように見えるな」
「え? そうでしょうか?」
エドワードは首を傾げ、次いであぁ、と一つ頷いた。
「来週、学校行事がありまして」
「ほう」
「修学旅行です」
京都と奈良に行くらしいです、とエドワードは笑った。本当に楽しそうである。
「学生らしいことなんてほとんど経験してませんから。だから嬉しいです」
「ふぅん……。……ん? 京都と奈良なら俺も行くぞ」
「はい?」
「こちらも修学旅行とやらだ」
面白い偶然だな、とクラウディオは肩をすくめた。言葉の割に笑ってないが。
「……何も無いといいですね」
「だな。まぁせいぜい楽しむさ」
微妙な顔をするエドワードに同意しつつ、クラウディオは屋上に降り立った。
「どうせ一時の夢だ」
「……ですね」
エドワードの声から、明るさが消えた。
「どこまでいっても、僕らは『異常』ですから」
頬を生ぬるい風が撫でる。いつまで湿った日が続くのかと、クラウディオは頭の片隅で考えていた。