第四十一話 幼馴染み<上>
好きだった。
ずっと好きだった。
ずっと好きだった、のに。
「どうして。どうして。どうしてよ」
繰り返しても彼に届くわけがない。彼はそもそも、自分を見ていないのだから。
どうしたら彼が私を見てくれるのだろう。
せめて彼の目が、あの女から外れれば――
「返して」
口からこぼれる怨嗟の言葉は、もう何度も口にした。
どれほど繰り返したかは解らない。ただ言えることは、もはや涙さえ流れないという事実だ。
けれど、それはもうどうでもいい。
彼の心を取り戻せることができれば、それでいい。
例え、何をしても。
何をしでかしても。
―――
人喰いとの戦いから、一ヶ月近くたった。
その一ヶ月の間には何も無かったかと言えば、そんなことはない。
椿家ほか退魔師の家は色々慌ただしく動き回っているようだし、猛達も何やらやっているようだ。
かくゆう流星も、一ヶ月をぼさっと過ごしていたわけでもない。
悠から直接、戦闘の手ほどきを受けていたのである。
空手以外の武術(柔道やら日本拳法やら)を叩き込まれた流星は。
「……おまえ、夏休み中に何があったんだよ」
クラスメイトにそう訊かれるほどぼろぼろだった。
顔にはガーゼ、右腕には包帯、制服の下も傷や傷跡だらけだ。
朱崋に治してもらえばいいのだが、彼女も彼女で悠から命じられた仕事をこなしているため、最近は姿さえ見ていない。
なのに悠は手ほどき(流星視点から見ればほぼ死闘)をやめず、ゆるめもしなかった。
「手を抜いて得られるものがあるなら、別にいいけどね。そんな余裕あること、言ってられる?」
――ということらしい。
おかげで一昨日の始業式も昨日の実力テストも、ぼろぼろで出るはめになった。
「別に……ちょっとミスった」
「何をどうミスったらそうなるんだよ……」
クラスメイトはあきれ顔になった。
まさか彼女と修行してますなどと言うわけにはいくまい。言ったって信じないだろう。
流星は視線をさまよわせた。
二つの机の上に、白い花がさされたビンが置かれている。
一ヶ月前の凄惨な事件を思い出してしまい、流星はうつむいた。
悠は、あの事件を忘れない方がいいと言っていた。
同じ失敗をくり返さないためだ。教訓とし、修行にはげめと。
言われなくとも解っている。あの事件が再び起こらないよう、もっと強くならなくては。
と。
「おい」
己の思考にひたっていた流星は、思いがけない人物に声をかけられ、肩を震わせた。
顔を上げると、金の髪にオレンジの瞳の少年がこちらを見つめていた。
隣の席の、季節外れの転校生である。
「あ、えっと……」
「クラウディオだ」
転校生――クラウディオは流星の机に何かを置いた。
シャーペンだ。しかも、流星のものだった。
「落ちてきた」
「え……あ、サンキュ」
流星が素直に礼を言うと、クラウディオは何も言わずに自分の席に戻った。
流星が憮然としていると、またもや声をかけられた。
「流星……」
すがるような声に振り向くと、幼馴染みの若菜が青ざめた顔でこちらを見ていた。
服装も奇妙だ。九月に入ったとはいえまだ暑いというのに長そでのカーディガンを着込み、靴下ではなくタイツをはいている。
半そでのシャツを着ている流星と比べるまでもなく、暑苦しい格好だった。
「若菜、どうした? つかその格好……」
「服装はいいから。ちょっと来て……」
若菜はせかすように流星の腕を引っ張った。
校舎裏まで移動した流星と若菜は、周りに人がいないことを確認した。
若菜が人目に付くことを極端に嫌がったのだ。
人がいるところでは話せないことだろうか、と首を傾げつつも、若菜を見下ろした。
「それで……一体何だよ」
「……あんたさ、その、オカルト系とかのバイト、してるじゃない」
「オ、オカルトって……」
流星の頬が引きつった。
間違ってはいないのだが、そういう言葉を使われると、とたんにうさんくさくなる。
「……いや、それより。それがどうした?」
「だったらこれ……何か解る?」
そう言って若菜はセーターのそでをめくった。
下に着ていたブラウスはさすがに半そでだったらしく、白い肌があらわになる。
その腕に、太い縄の跡があった。
手首からひじにかけて残る鬱血の跡。よほど強く締め付けられたのか、ところどころ血のにじむバンソウコウが貼られている。
縄の模様まで解るほど深く刻まれたそれに、流星は絶句した。
「わか、な……それ……」
「一週間前から出てきて……全然治んないし、それどころか日ごとに悪くなって……これ、も……全身にっ……」
若菜の声が詰まった。うつむいた顔からは、透明なしずくがぼたぼたとこぼれる。
「助けて、助けてよっ……りゅせ……」
腕にすがりついてくる幼馴染みを見つめ、流星は途方に暮れた。
突然そんなことを言われても、流星にはどうすることもできない。
流星が現在できることは、妖魔を狩ることだけなのだ。
原因も解らないのにどうこうできるほど、自分は退魔師として成熟していない。
やはり、ここはいったん悠に相談して――
……いや、駄目だ。
流星は一瞬浮かんだ考えを即座に捨てた。
勿論最終的には悠に連絡する。しかしそれまでは自分のできることをしなくては。
悠に頼り過ぎるのは、自分自身のためにならない。
流星は少し考えた後、静かな声で尋ねた。
「なぁ若菜。こうなったのは一週間前からなんだよな?」
「そう……だけど」
若菜は赤い目でこちらを見た。じゃあさ、と流星はその目を覗き込む。
「そうなった原因、解るか? 俺に言うってことは、誰かに縛られたとかじゃなくて、目に見えない何かに付けられてるってことだろ」
「解んない……解んないから、訊いてんのよぉ……」
「……そうか」
若菜自身にも、こうなった心当たりは無いらしい。
まぁ最初から原因が解っている怪奇現象など、そうそうあるものじゃないが――
「若菜、跡をよく見せてくれないか?」
「え……う、うん」
若菜は戸惑ったように頷きながら、腕を差し出した。
よく見ると、縄の模様だと思っていた跡は小さな扇形が規則正しく並んでいる、変わった模様だった。
これは縄ではなく――
「……ウロコ?」
「え……ウロコって……」
若菜は目を丸くした。
「これ……ウロコなの?」
「あ、この跡の模様がな。別にこの跡がウロコじゃねぇから」
流星は慌てて訂正した。勘違いされてパニックを起こされては困る。
「何だろ……ウロコでこんな跡付くってことは……蛇?」
「へ、蛇っ!?」
若菜の顔がさぁ、と青くなった。
「や、やだ……これ、蛇なの? 何で、蛇が!?」
「落ち着けって」
流星は若菜の背中を撫でた。
若菜は己の肩を抱き、身体を震わせている。自分の身体に蛇が巻き付いているかもしれないという可能性が、よっぽど恐ろしく感じたのかもしれない。
「何か、蛇に関することで思い至ることは無いか? 蛇を傷付けたとか、蛇まつった神社に行ったとか」
「無いわよ、そんなの……解んないわよぉ……」
若菜はとうとう座り込んでしまった。
どうすればいいのか解らず、とりあえず流星は同じくしゃがんだ。
少しの間逡巡し、若菜の頭を撫でる。震えていた身体がぴたりと止まった。
「大丈夫だ。俺のできること、全部やってやるから。頼めば悠だって協力してくれるだろうし」
「ゆ、う……って、あの娘?」
若菜はこちらをうかがうように顔を上げた。そういえば、二人は面識があった。
「おう。あいつなら、何とかしてくれるって」
「何とか……っ、う、あ゛」
突然だった。
若菜が呻き声を上げて地面に膝を着いたのである。
顔には汗が浮かび、顔色が青から白へと変わっていく。手は喉元に行っており、何かを掴むように開閉を繰り返している。
流星はその喉に、新たな鬱血の跡ができているのを見た。
「え、何でっ……」
流星は思わずのけぞった。
目の前で、若菜は首を締められている。
それは理解できた。できたが、一体何に首を締められているのか解らない。
しかし、このままでは若菜が――
「っくそ!」
流星は右手を若菜の首にやった。
何度か行き来を繰り返した後、若菜の首ではない何かが手に当たる。流星はそれをひっ掴んだ。
ぎゃあ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
掴んだとたん、若菜から甲高い悲鳴が上がった。
口から、ではない。その全身から、どこから出ているのか解らない悲鳴が上がっているのである。
流星が手を離すと、悲鳴はぴたりと止まる。代わりに、若菜はふらりと倒れた。
「若菜!? おいっ」
流星は若菜を助け起こした。
しかし、若菜は何の反応も返さない。どうやら気絶してしまったようだ。
と。
「お、おい流星!? 何があったんだよっ」
なぜかクラスメイト達がわらわらと校舎裏に現れた。どうやら野次馬をやっていたらしい。
いや、そんなことより。
「どいてくれ! こいつを保健室に連れてくっ」
流星は若菜を背負った。クラスメイトは目を丸くして顔を見合わせている。
それに苛立ち、流星は声を荒げた。
「どけっつってんのが解んねぇか!」
クラスメイト達の表情が固まった。逃げるように視界の端に移動し、こわごわとこちらをうかがう。
流星はそれを無視して走り出し、しかしすぐさま足を止めた。
目の前に、見知った人物が現れたからである。
「悠!?」
「不穏な気配を感じたと思ったら……発信源はその娘か」
悠は眉間と鼻にしわを寄せ、つかつかと流星に近付いた。
クラスメイト達はというと、突然の超絶美少女の登場に更に混乱したようで、石像になってしまったように立ち尽くしていた。
「何で学校に来てんだよ」
クラスメイト達は意に介さず、流星は悠を見下ろした。
悠は不機嫌さを隠そうともせず、おぶわれた若菜を睨み付けた。
「ちょっと用があってね――けどまさか、嫌な臭いをかぐことになるとはね」
「嫌な臭い?」
「その娘」
悠は若菜を指差し、言い放った。
「呪われてるよ」
あまりにあっさり言われた言葉に、流星は一瞬何を言われたのか解らなかった。
数秒してようやく理解し、何だって? と返す。
「だから呪いだよ。蛇の呪いじゃないかな」
「いや……待て。蛇って、こいつ覚え無いって今」
「呪いが蛇の形を取っているに過ぎないよ。蛇そのものの呪いじゃない」
悠は指を下ろし、若菜の腕を取った。
セーターが上げられたままであるため、腕はさらされたままだ。
悠は鬱血の跡をなぞり、低い声で言った。
「嫉妬――それも強烈な女の嫉妬だよ」