同族<下>
肉を打つ音が聞こえる。
それは自分の身体から出る音なのか、男の身体から出る音なのか、流星には判別できなかった。
流星と男の戦いは、最終的に殴り合いに移行していた。
相手の攻撃を避けるわけでもなく、ただ拳を突き出し続ける行為。ただ殴り、単に殴り、ずっと殴り、そして殴った。
それでもなお、二人の足は揺らぐことなく身体を支え続けている。鬼童子の流星はともかく、肉体はただの人間であるはずの男は、なぜ立ち続けていられるのか。
流星には解らない。解るのは、自分を打つ拳の強さだけである。
流星の身体は、半分以上鬼となっている。その肉体の強度は、本当の意味で鋼並だ。そんな肉体を殴り続ければ、手どころか腕そのものが使い物にならなくなるだろう。
鋼を殴ることは可能だ。しかし殴り続けることは不可能である。
しかし男は、その不可能を今まさに、現在進行形で実現していた。
一体あんたは何なんだよ、と、自分を棚上げして訊きたくなる流星。しかし、この現状ではそれでもままならなかった。
勿論、それは男とて同じである。流星の拳を真正面から受け続け、それでもなお拳を放ち続ける男。当然無傷とはいかない。
顔の右半分がはれ上がり、口から出た血が顎を伝っている。よほどの強度を持っているのだろう、コートはほとんどいたんではいないが、その下の身体はそうはいくまい。
コート。よくよく考えればこの季節に不釣り合いな防寒具が、鎧のような役割を果たしているのではないだろうか。否、流星に殴られ続けられてなお破けないところを見るに、その用途で作られたのであろう。
こちらの服はすでに布切れと形容してもいいほどぼろぼろなので、この予想は間違ってないはずである。
しかし、そうであったとしても衝撃は逃せないはずだ。そうなってくるとやはりこの男、とんでもない頑丈さである。
それでも、ダメージが軽減されているのは確かだ。ならコートを着ている上体は殴ってもほぼ意味が無い。狙うなら、顔――
「何を考えている!」
男の鋭い声と共に、流星の額に拳が打ち付けられた。
頭が揺れる感覚に一瞬動きが止まる。だが流星は、その拳を額で押し返した。
「うぉらぁ!」
流星は拳を押し返した勢いそのままに、男の額に頭突きを頭突きを喰らわせた。
「ぐっ、が……」
男は呻き、よろめいた。割れたのか、額からは血が吹き出す。
流星は未だ揺らめく脳のせいで狙いも定まらないままに、拳を振り抜いた。
腕を伝う鈍い感覚。ぱきりという、枯れ枝が折れるような、間の抜けた音が聞こえた。
しかしそれはほんの刹那のことで、次の瞬間には男が吹っ飛んでいた。
五メートルはいっただろうか。男は二度バウンドし、あおむけに倒れた。
その様子を見て、流星の身体から力が抜ける。前に倒れそうになるが、誰かがわきから支えてくれた。
「悠……」
「お疲れ様」
流星の腕を自分の首の後ろに回し、悠は流星の胴に抱きつくようにして支える。そしておかしそうに笑った。
「ぼろぼろだね。顔も身体も傷だらけ。歯は折れてないようだけど、顔はれてるよ? お腹辺りが一番酷いかな。うわー」
「あの、痛いんですケド」
遠慮無く身体を触りまくる悠に、流星は抗議の声を上げた。しかしすぐ表情を引き締め、男の方を見る。
男は、起き上がろうとはしなかった。倒れたまま、身じろぎもしない。
流星はほとんど靴底をすべらすように男の傍に歩み寄った。悠もまた、流星を支えたまま付き添う。
てっきり気絶でもしているのかと思ったが、違った。
彼は、一応起きていた。焦点の定まらない目を空中に漂わせている。
「……何でだ」
男は口を開いた。
「何でなんだよ。何でだろうなぁ」
「……」
「何で、負けるんだ?」
額から血を流しながら、男は呟く。
心底解らないと言うに。
心底ありえないと言うように。
「俺達は使徒なんだ。勝つ存在なんだ。勝てる存在なんだ。負けない存在なんだ。負けるはずのない存在なんだ」
「……なぁ」
「俺達は! 勝つことを義務付けられた人間なのに! 勝利を神にささげねばならないのに! なのにどうしてっ」
「人間だから、でしょ」 そう言ったのは、流星ではない。
悠だった。
「勝利するべきである人間なんて、この世にはいないんだ。敗北すべき人間がいないのと同じようにね。あるのは結果だけ。勝利者と敗北者だけだ」
「……なら、おまえは」
男の目が、悠に向いた。睨み付けるように、鋭い目を。
「自分を勝利者だって思ってるのか? そうやって俺を見下ろして、優越感にひたってんのか!?」
「まさか」
悠の声が、自嘲を含んだ。
「私は、ずっと負け続けてるよ。天性の敗北者だ。十一の頃から、ずっとね」
「っ……」
それに反応したのは、流星だった。
その年齢は、彼女にとって最悪の歳。
母を殺した歳。
「……」
「だからって、貴方みたいにひねくれたり、すねたりしないよ」
悠はじっ、と男を見下ろした。ただ見つめるだけの行為だというのに、男は気圧されたように身じろぐ。
見たのかもしれない。自らを天性の敗北者とのたまう彼女の、恐ろしいほど澄んだ瞳を。
「流星のようにまっすぐ生きてるかって問われると、即答で否だけどさ、少なくとも私は、自分を否定して生きてはいない」
「否定……」
「卑下しない。目をそむけない。肯定する。尊重する。見つめ続ける」
悠の声は、強かった。力強かった。
耳が痛いほどに。
「どうせ生きるなら、自分ぐらい認めてやらないとね。自分を認めて、受け入れる。じゃないと、他人と関わるなんてできないから」
「関わる……」
はっ、と、男はその言葉を嘲るように笑った。
「馬鹿か、おまえは。そんなことできるわけないだろ。そんなこと……可能なわけないだろ?」
「なぜ?」
「俺達には無理だったからさ!」
男はいっそ、誇らしげに吐き捨てた。
自分がどれほど不幸だろうと、自分がどれほど弱かろうと、それは何よりすばらしいものだと言うように。
虚しく哀れなほど、強い語調で言い放った。
「俺達は誰からも肯定されなかった。見られなかった。全て、何もかも、俺達を受け入れてはくれなかった。神を除いては!」
「……」
「神は俺達を受け入れてくれた。認めてくださった! だからこそ俺は、俺達は! みじめでも哀れでも弱くても醜くても、勝たなければいけない!」
それは――一体何だろうか。
彼を突き動かすのは、何だというのか。
狂信か、妄執か。
いや、違う――流星は、頭の中で否定する。
彼はただ、すがり付いているだけなのだ。
失わないように。無くさないように。
すがり付いて、離さないように。
けれど、彼が神と呼ぶものは。
「何か、してくれたのか?」
流星の呟くような声に、悠と男はこちらを見た。
流星は、口にするのを一瞬ためらうが、意を決して男に問いかける。
「あんたの言う神は、あんたに何かしてくれたのか?」
「何って」
「あんたを救ったのか? 何かをくれたか? 何かを教えてくれたか? いや、そもそも」
一度つばを飲み込むために言葉を切る。そして、男をまっすぐ見つめた。
「あんた、神ってのに会ったことがあるのか?」
「っ……」
男の身体が震えた。かまわず、流星は続ける。
「俺は神ってのに会ったことがねぇ。そもそも信じちゃいねぇ。神様ってのは、苦しむ人達を助ける存在だろ? けど俺を助けてくれたのは、人間だったぜ」
家族を失った時も。
妖魔に襲われた時も。
救ってくれたのは神の遣いでも、神そのものでもない。
椿悠という、一人の人間だった。
結局、神も仏も人間を救ってはくれないのだ。
人間を助けるのも、人間を支えるのも、同じ人間なのである。
だから、解らなかった。
そこまで狂熱に犯されるほど、その存在を信じられる男の気持ちが。
流星からすれば、男の一言一言が言いわけにしか聞こえなかった。
「それは、おまえが神に選ばれなかっただけで」
「こんなことしなくちゃならないなら、選ばれたくなんかねぇよ」
流星は男の言葉を遮った。
「あんたらはただ、自分を正当化したいだけじゃねぇの? 自分が特別だと言って、周りは間違ってるって言って。それを神のせいにしてるんじゃねぇのか?」
「違う! 俺は――」
男は、目に見えて動揺していた。まるでとどめを刺される直前のように震え、こちらを凝視している。
流星は、そんな彼に言い放った。
「あんたは神の名前を使って自分を正しく見せたいだけの――ただの、特別でも何でもない、普通の人間だよ」
「……は」
突然だった。
男は弱々しく、他の感情を抑え込むように笑い出したのだ。
音をかき消すほどでもない、空気と一緒に声が吐き出されているような笑い。それをしばらく聞いていた流星は、ふと男に尋ねた。
「……なぁ、あんた名前は?」
なれなれしい、と言われるかと思った。けれど、男の返答は意外なものだった。
「無い」
「無いって……」
「俺の一族は名前を付ける習慣が、そもそも無かったんだよ。ただ人を狩るために、ただそのめだけに生きてきた。人間の別種と言っても過言じゃない進化をするほどにな」
「別種……」
「おまえは、間違ってるんだよ」
男は、ゆっくり上体を起こした。それを見る限り、どうやらそうするのがせいいっぱいのようである。
「俺は、形こそ人間だが、中身は全く別の生き物になっちまってる。改造でもなんでもない、ただの進化の過程でな」
「あんた……」
「同情したら喰うぞ」
男はぎろりとこちらを睨み付け、立ち上がった。
「あ、おい。どこに……」
「無様に負けた俺が戻ったら、俺自身がただじゃすまないからな……逃げるしかない」
男はそう言ってため息をついた。
「居場所が解るから人も喰えねぇ――俺の身体は、人肉以外受け付けねぇんだよ……どうするかね……」
「草食になれば? いい機会だし」
無責任な悠のセリフに、男ははっ、と投げやりに笑った。
「それもいいかもな……山にでも籠もれば、喰うもんはいくらでもあるし」
「……なぁ」
流星はためらいがちに、男に提案した。
「俺達と来る気は無ぇか?」
「無ぇよ」
即答だった。その表情にも迷いは無い。
「俺とおまえは違う。どこまで行ってもだ。相容れないし、相容れたくない」
「……」
「それよか、もっと他に目をやることがあるだろ」
男は流星と悠に背を向けた。もう顔も見たくない、と言うように。
「残りの二人――人も喰わねぇし、異形でもねぇが、ありゃ正真正銘の異能だ。あいつらが本気を出せば、この町を潰すのに十分とかからないだろうぜ」
このやりとりの五分後、日影達から敵をしりぞけたという連絡が入る。
しかしその更に五分後――自分達は結局何も守れなかったのだという現実を突き付けられることになった。




