第三十九話 同族<上>
クラウディオには思い返すべき思い出が無い。
変化が無かったからだ。
石でできた壁と床、鉄製の格子、その奥でゆらめくろうそく、一日三度に会う男、毎日のように会いに来る女。
それが全てだった。
外も中も認識していなかった。その狭く暗く汚い場所が、自分にとっての世界の全てだった。
その時の自分が、生きていると感じたことは無かった。その世界では、生死などあっても無くても同じだったのだ。
肉体は、生きていたのだと思う。呼吸をし、まばたきをし、血を流し、何より動いていたから。
けれど精神はどうだろう。とっくに死んでいたのではなかろうか。死にはしなくても壊れてはいただろう。
その精神をつなぎ留めてくれたのが、女だった。
女は自分の『母』の『妹』だと言い、毎日毎日会いに来た。
時に会話した。時に本を読んでくれた。時に菓子をくれた。時に読み書きを教えてくれた。時に触れてくれた。時に頭を撫でてくれた。
炎を宿すゆえに当然のように体温を調整できたクラウディオに毛布をやったりもする女に、尋ねたことがある。
「何で、俺にこんなことするんだ?」
「何でってそりゃあ……。……何でだろ」
「おい」
「んー、やっぱ可愛いからかなぁ。甥っ子だし。……あれ? クラウディオって男よね」
「名前からして、そうじゃないか? そもそもこの名は、あんたがくれたものじゃないか?」
この時のクラウディオは、男女の区別がつかなかった。そもそも認識している人間が自分を含めて三人しかいなかったのだから無理も無かったと思う。
そういえば、『父』だという男にはついぞクラウディオなどと呼ばれなかった。
「ごめん、あんまり姉さんと似てるからさ。時々間違えそうになるの」
「ふぅん」
「とにかく、私は貴方が好きなの。炎を操るなんてユニークな力を持っているだけで、あの人みたいに貴方を嫌いになれないわ」
「あいつは、不気味だと言った」
「だーかーら、一緒にしないでちょうだい。ていうか、あの炎、貴方完璧に使いこなせるじゃない」
「……知っていたのか」
「当たり前でしょ。だって」
彼女は、とても嬉しそうに笑った。
「私は貴方の叔母であり、義母なんだから」
―――
クラウディオは目を覚ました。
誰もいない、空き家の民家の床から身体を起こし、眉間にしわを寄せる。
居間らしいその場で立ち上がりながら、頭を現実に戻すために呟く。
「珍しい……この俺が、夢を見るなど」
しかも、過去の夢だ。ついさっきまで忘れていた記憶の夢だった。
わざわざ寝袋を出すのが嫌で床で眠ってしまったのが悪かったのか。廊下で寝ている奴よりましだろうが――
「あー、クラウディオ起きてたんですか?」
エドワードが居間に入ってきた。昨夜来た彼はしっかり寝具を持ち込み、それを使った。
「……半身、ほこり付いてますよ」
「ん……あぁ」
エドワードの指摘に、クラウディオは身体をはたいた。
「それで――朝から早々なんですけど、これからどうします?」
「不測の事態が多いからな……おまえのせいで警戒レベルが上がったろうし」
「すみません……」
「おまえのせいで警戒レベルが上がったろうし」
「二回も言わないでください」
「反復法だ」
クラウディオは腕を組んだ。
「これ以上の援軍は無理だな。少し予定を変更して、要所のみを潰すぞ」
「人間の方は?」
「あいつに任せる」
クラウディオは居間の入口を見やった。それに対し、エドワードは頷く。
「なら、彼にはおとり役も兼ねてもらいましょうか。退魔師達を引き付けるための」
「……悪くない」
クラウディオは呟きつつ、思う。
あの女――はたしてこちらの策にはまるだろうかと。
―――
悠、流星、猛は外に出ていた。
「遺体はすでに収容した後か――まぁ当たり前だね」
悠は燃え残った民家を見渡した。
「けど、血の跡は処理してない。白線を引いてるのは証拠保存のためかな」
「意味無い気がするんだけど……俺の血にまで白線引いてるし」
流星は昨日自分がいた場所に目をやった。
何かあるかもしれないと思って出てきたものの、目新しいものは一切見付からなかった。
証拠らしきものは警察が持っていっただろうから、当然と言えば当然だろうが。
更に昨夜は、見張りの警察官が数人殺された。街に入った形跡があるので、おそらく敵の援軍だろう。
目撃者がいないため、どんな姿かは解らないが、おそらく一人と推定されている。
これ以上敵の数が増えるのは嫌なので更に警戒レベルを上げてもらったが――どこまで通用するだろうか。
「どうする? 宿に戻るか?」
猛の言葉に、悠はんー、と唸る。
「そうだね……ここにいててもしかたがないからね」
「けど、戻ったからって何にもならないよな……」
流星が呟くと、二人は顔を見合わせる。
本当に手詰まりだ。これ以上動けない。
「敵の姿さえ解れば、朱崋に調べてもらえるんだけど――」
「姿? ……あぁ、侵入者の方か。この辺りに防犯カメラでもあればなぁ」
猛もまた、難しい顔をした。
「それに、白昼に警官を数人、誰にも見付からずに喰い殺した方法も謎のままだ。……何かミステリーじみてきたな」
「ミステリー? ホラーサスペンスの間違いでしょ」
悠は片眉を上げた。
「いくらなんでも現代にまで食人習慣している奴なんていない。いたとしても、ホラーの人間だよ」
「……現代、にまで?」
流星は眉をひそめた。
「その言い方……昔はあったみたいな感じたけど、まさか」
「うん、あったよ」
悠はあっさり頷いた。
「そういう習慣を持った民族は昔あったし、儀式として食べられてたこともある。市場に売られていた時期もあったそうだ」
「それって……妖魔とほとんど変わらねぇじゃねぇか」
流星は口元を押さえた。
「人間が人間を喰うなんて、何だよ、それ」
「何、と問われれば負の部分だと答えるしか無いけれど」
悠は軽く目を伏せた。
「確かに奇妙な話だよね。共喰いなんて、よほどのことが無い限り、自然界では起きない。よほど腹が減っているか、縄張り争いぐらいかな」
「……」
「けど、人間の場合、それが理由で食すわけじゃない。そもそも共喰いじゃないんだから。一体何でだろうね――なんて」
悠は目を開いた。
「そんなこと、今は考えるべきではないな。それより、彼らは一体どこにいるのか突き止めないと」
「姿が解ってるの、一人だけだもんなー……」
流星は辺りを見渡し、遠くの方に目をやった。
「……あ」
「うん? どうしたの」
悠が首を傾げた。流星は、ある一点に視線を釘付けにしたまま口を動かす。
「あ、あいつ……昨日の奴じゃないか?」
「は?」
「は!?」
悠と猛が流星の視線をたどった。そして目を丸くする。
流星はごくり、と生つばを飲み込んだ。
視界の中に、自分の腕を噛み砕いた奴がいる。それだけで左腕がうずいた。
まだ完治していない。包帯が取れるのは明白だ。その腕を反射的に身体の後ろに隠す。
男は――昼間から人を堂々と喰い殺しのけた男は、何かを食べていた。
また人かと身を固くしたが、違う、ただのパンだ。こちらを見てのんびりとした、ただの行儀の悪い通行人だと言わんばかりの態度だ。
普段であれば見逃していただろう。本当にただの通行人と見なしていたに違いない。
だが、警察が外出禁止令を出し、店なども営業停止している中、こんなところに一般人がいるはずない。
「……げろまず」
男がそう言ってパンの袋を捨てた瞬間――
「飛んで火に入る夏の虫というやつか」
「今度こそ逃がさねぇよ」
悠と猛は、とっくに動いていた。
二人はすでに刀と槍を構え、男を前後にはさみ、進路を塞ぐ。
猛が後ろから槍を突き出すと、男は小さく舌打ちして跳ね上がった。
だが直後に、悠の峰打ちが脇腹に決まった。空中にいたせいでその攻撃は防ぎようがなく、男は地面に倒れ込む。
すぐに起き上がりはしたものの、警戒しているのかそれ以上動かなかった。どころか、両手を上げて降参のポーズを取った。
「とんでもねぇ餓鬼共だな。どういう脳構造してんだ? いきなり襲いかかってくるなんて……狂戦士か?」
「敵と認識した奴に、容赦もへったくれも無いよ」
「右に同じく――だな。そもそも、最初に襲ってきたのはあんただぜ」
「……あー」
男は両手を上げたまま天をあおいだ。
「そうか……俺はおまえ達にとって敵か。俺には、おまえ達は獲物にしか見えねぇよ」
男はこともなげにそう言って、再び跳躍した。
ただの跳躍ではない。なんと男は、猛の槍の上に飛び乗ったのだ。
いきなり男が乗ったことにより、猛の槍はがくんと傾く。そのせいで前めのりになった猛めがけて、男は拳を放った。
猛は更に上体を前倒しにすることでそれを回避し、その状態で槍を凪ぐ。無理な姿勢だったにも関わらず、男は槍から振り落とされた。
地面によろめくように立った男に、今度は悠のハイキックが襲いかかる。
パンプスのピンヒールが男の顎に当たり、男は吹っ飛ばされた。
どれくらい吹っ飛んだのか。少なく見積もっても三メートルは余裕で越えてしまっているだろう。
あの細い脚のどこにそんな力がとかどんな脚力してんだとか今狙ってピンヒールで蹴ったろとか流星は色々思ったが――
最終的には、男に同情した。
それに気付いて愕然とし、気付いたことを激しく後悔する。
何でこんな男に俺は同情しているんだ。
敵なんだぞ。敵なんだろ。
そもそも人を喰う奴に、同情も何もあるものか。
向けるのは――向けるべきなのは――
――……一体、何だろう。
「あぁ……そうか」
流星は思い至った。
これは同情なんじゃない。同情なんかじゃない。
これは――多分同一視だ。
あの男に対し、自分は同族意識を持っているのだ。
人外同士。
異例同士。
異常同士。
同志ならぬ同士。
同士ならぬ同視。
同一とまではいかないが、共通点が多い。
思えば、竈内に対してもそうだったかもしれない。
あるいは、顔に龍の刺青をした彼に対しても。
けれど、それは――同調ではないのだ。
同じと思っても、同じようにはなれない。
だって俺は――
「! 逃がすかっ」
悠の声に、流星は我に返った。
男がこちらに背を向けている。その姿が小さくなっていくのを受け、悠と猛は彼を追いかけ始めた。
置いていかれてはたまらないと流星は二人の後を追う。
のはいいのだが――二人共、何て速さだ。流星は内心舌を巻く。
小刀は多少なりとも重量があるが、流星にとっては邪魔になるような重さではない。しかし悠と猛は別だ。
刀も槍も、小刀とは比べ物にならないほどの重量のはずである。二つとも、流星の目測より重いはずだ。
なのに二人共、何も持っていないかのようなスピードで、徒手空拳の男を追っかけている。というか追い詰めている。
「お、おまえらは忍者かー!」
ようやく追い付いた(と言ってもまだ一メートル離れている)流星が怒鳴ると、二人は振り返りもせずに肩をすくめた。
「やだなぁ流星、忍者の刀は直刀だよ。忍者刀と言うんだけどね、短いしこんな風にそり返ってないし派手じゃない。さしずめ私は武士じゃない?」
「槍を使う忍者も聞いたこと無いッスよー。使えなかったとは言いませんけど、槍なんて目立つじゃないですか。そういう俺は、せいぜい足軽ってとこッスね」
「余裕だなおまえら!」
こちらは追いつくのがやっとだというのに。
「それより、あいつどこ行くつもりなんだ? がむしゃらに走っているようにしか見えねぇけど……」
流星は男を見つめた。悠は細い肩を揺らす。
「さぁね。しかし、あの走り方はこちらを振り切ろうという動きじゃないね。何をたくらんでいるんだが」
「何をたくらんでいるにしろ、こっちは力を分散するわけにはいかないし……どうすっかな」
猛はため息をついた。
嘆息したいのはこっちだ、と流星は思う。その分散できない理由が、自分にあるのだから。
「……な、二人共」
「ん?」
「何スか」
流星が声をかけても、二人はやはり振り向かなかった。だが、流星の提案に身体を震わせていた。
「あいつの相手、俺一人にやらせてくれ」
「何……」
「む、無茶ッスよ!」
猛は首を巡らせ、こちらを見た。相当驚いたらしい。
「昨日のこと、忘れたんスか!? 今度こそ死にますよっ」
「今度は大丈夫――だと思う。鬼童子として戦うから」
「っ、でも」
「猛」
悠が猛に制止をかけた。それ以上の発言を止められた猛は、そのまま黙り込む。止めた悠は――なぜか笑っていた。
「ふふふ……なかなか男前になってきたじゃないか。少なくとも心構えは。うん、確かに向かい合った方がいいね」
どうやら何もかもお見通しらしい。
「ったく、おまえに隠しごとはできねぇよな」
「したら刺すよ」
「……」
「違った。殺すよ」
悪くなった。
「ほらほら、行ってきな。骨は拾ってあげるよ」
「おまえ本当最悪だな!」
流星は悠にツッコミを入れながら――走る脚に力を込めた。