第三十八話 喰人<上>
「へぇ……ふぅん。この時代に、こんな現代に、まだ人喰いなんて続けてる一族が生き残っていたのね」
女はそう言って笑った。
「実にいいわ。実に面白いわ。禁忌とされる行為を風習とし続ける一族――ぽくていいわね」
「……何だ、あんた。喰われに来たのか?」
そう男が尋ねると、女はまさか、と肩をすくめた。
「私は別にいつ死んでもかまわないけど、喰われて死ぬのはさすがに嫌ね」
「……」
「交渉よ、人喰い。貴方に餌場を用意しましょう」
女はにっこり微笑んだ。実に魅力的な笑みである。
「その代わり、私達に協力しなさい。私達の――そうね、『革命』とでも言いましょうか」
「人喰い法発布してくれるなら協力するぞ」
「いいわよ。じゃ、交渉成立ね」
「……」
あ然とした。いくら自分でも、今のはさすがに冗談だったのに。
「あら、不満? なら今から、街一つ喰らい尽くしてくれてかまわないわよ」
「い、いや……待て」
男は女の言葉を遮る。彼女の真意が解らない。
そもそも、革命とは何なのだ。
「革命というより、浄化と言った方が正確かもね」
女の笑みが深まった。
「貴方は最後の審判というものを知っているかしら?」
「まぁ、な」
「ならラグナロクは? 北欧神話なのだけれど」
「一応……けど、それが何――」
「それを現実に起こすの」
「……」
再びあ然。
何を言い出すかと思えば、最後の審判? ラグナロク?
そんなこと、自分の存在より非現実的じゃないか。
「疑っているのね? まぁ、無理も無いけど――けど事実なの」
「……それが起こるかどうかはともかく、それ以前に」
自然、探るような声になった。
「あんた、何のためにそんなことをする?」
「何のため? 何のためですって? そんなこと解りきっているわ。解りきっていることよ」
女はそう言って両腕を広げた。まるで空気と抱擁するように。
「全ては神の、御ために」
―――
刑事喰い荒らし事件の翌日、流星はまだ民宿にとどまっていた。
というより、とどまらざるをえない状況下にあった。
昨日の事件の犯人が、まだ捕まっていないのである。
おかしなことに、真っ昼間の犯行にも関わらず、目撃者が一人もいないのだという。だからこの辺りに非常線を張り、この地域の侵入はおろか脱出さえも不可能にしたらしい。
警察も大がかりなことを、と思ったが、犯人の姿はおろか、そもそも人間かどうかさえ解らないこの状況下ではしかたがないことかもしれない。
今までこんなことが無かったという理由で、今のところ旅行者達に疑いの目が向けられている。しかし、流星はその外枠にいた。
理由はというと。
「うーん、遅いなぁ……もうそろそろ連絡来てもいい頃なんスけど。ねぇ、流星さん」
あぐらをかき、床に置いた携帯と向かい合って座る橘猛の手柄だった。
猛は偶然、この街の隣の市で仕事をしていたらしい。その仕事が終わった後に今回の事件が起き、そのまま駆り出されたのだという。
本人は応援を呼ぼうかと思っていたそうだが、流星がいることでその手間がはぶけたようである。とはいえ、きっちり連絡は回したらしい。
そういう抜け目無さは悠と共通しているところがある。もしかしたら退魔師共通なのかもしれない。
勿論その連絡は悠のところにも行っているはずだが――なぜか連絡が付かない。
何かあったのかと流星は不安になったが、猛はのんきそうに肩をすくめただけだった。
「まぁいいか。それより流星さん、妖気を感じなかったってのは本当ですか?」
「……あぁ。俺も少しびっくりしてる」
今回の事件。犯人は妖魔じゃなく人間かもしれないという流星の発言に、猛は驚いていた。
姿を見られずに人間を複数喰い殺す凶行は、確かに常軌を逸してはいるが――無くはないと思う。人間の顔を生きたまま剥いで、それを顔に貼り付ける奴の方がよっぽとおぞましい。
四ヶ月ほど前の事件を思い出し、流星はため息をつく。思えばあれが、バイト初めての仕事だった。
たかが四ヶ月。されど四ヶ月。
なかなかに濃密な日々だった。おそらくこれからもそうだろう。
「うーん、あれだけのことをして妖気を隠すってのは無理だしなー。やっぱ人間なのかなー」
「さっきからそう言ってるだろ」
「ま……そうなんスけど」
猛は頬をかいた。信用してないらしい。何だか悠にも、別方向で疑われてたような。
そんな、疑わしい人間だろうか、俺は……
「その、言っちゃ悪いですけど……流星さんって退魔師の実績、無いに等しいじゃないですか」
猛は言いにくそうに、本当に悪いと思っている顔で言った。
「信用は実績があってこそできるもんで、信頼はできるけど信用に欠けるっていうか――信じられるけど任せられないっていうか――」
「うぐっ……」
痛いところを突かれた。
退魔師を輩出してきた家の跡取りとして育った猛と、退魔師歴が半年も満たない流星とでは、確かに経験値が違い過ぎる。
勿論流星には『鬼童子』という切り札があるが、それだったら猛には『姫シリーズ』という手札がある。結果は同じだ。
「まぁ、今は信用できるできないは問題じゃないんですよね……どちらにせよ、ここから動けないし」
猛は嘆息した。
二人が部屋にいる理由は、相手があれ以降動いていないことにある。
こちらの存在に気が付いたのかどうかはともかく、とにかく向こうの動きが無いとなると、こちらも動きにくい。
へたに動いて行動を読まれでもしたら、敵を捕らえられにくくなる。
警察が非常線を張ったおかげで、範囲が狭まったのが唯一の救いだが――しかし、それも突破される可能性がある。
相手は誰にも見付からず、白昼堂々警官を複数喰い殺しているのだ。それくらいできてもおかしくない。
今はただ、状況が動くのを待つしかない。猛の話では明日応援が来るらしいし、それまで待てば――
「っ……!」
流星は顔を上げた。
「? どうしたんスか?」
猛の不思議そうな顔に、逆に流星は不審に思う。
「今の……聞こえなかったのか?」
「今のって……」
猛はいぶかしげな顔をした後、目を見開いた。
「い、今の音……!?」
「今度は聞こえたか!?」
二人は窓の外を覗き込んだ。
一見すると何でも無いような外の風景。一見すれば、だが。
「おい、あれ……」
流星はある一点を指した。
家屋が建ち並んでいる場所。警察の指示で誰も外に出られない――ゆえに現在、一番人がいる場所。
そこから、火の手が上がっていた。
黒煙なんてものじゃない。まさに火柱と言うべき紅蓮の炎が立ち上っている。
二人が聞いたのは、爆音だったのだ。
しかも一回や二回ではない。今もなお、微かながら耳に届いている。
更に、流星の耳は他の音も拾っていた。
大勢の人の悲鳴や怒号――絶叫の数々を。
「猛、このままじゃ――」
まずい、と言い切る前に、猛は身をひるがえしていた。
壁に立てかけていた『鉤槍姫』を手に取り、けして頑丈ではない扉を蹴り開け、あっという間に――否、あっと思う間も無く姿を消してしまった。
後に残されてしまった流星はしばし呆然とし――苦笑した。
「だよな――やっぱ行くよな」
流星は腰のホルダーに収まった『煌炎』を確認し、自分もまた外に飛び出した。
―――
事態に気付いた時に動くのと事態が動く前に動くのとでは、断然後者がいい。
何も起こらないというのは、誰も傷付かないということだ。
誰も死なない。誰も怪我をしない。いいことだろう。
けれど、そんな都合よく解決できるわけがない。
現実はいつだって非情だ。さんざ優しさで包んだ後に牙を剥く。
あの人達もそうだったはずだ。
流星は、|彼の足元に倒れた複数の人間を見て思う。
例えこの街で人が死んだって、自分達がその仲間入りをするとは思っていなかったはずだ。
それが普通で、当然で、当たり前なのだ。
なのに。
煙の臭いがする。家は大半が燃え盛り、逃げ惑う人々の声が聞こえてくる。
ある者は逃げおおせ、ある者は焼け死に、ある者は彼に喰われた。
彼。
短い黒髪に焼けた肌、日本人離れした顔立ちの男。背は猛とあまり変わらないが、手足が異様に長い。夏にもかかわらず、黒いコートを着ている。そして――
そして、口元が血にまみれていた。
口の中を怪我したのではないことは確かだ。痛みに顔を歪めることも無く、こちらを見据えているのだから。
きっとあの血は、足元に倒れている人達の血だ……
その事実を、流星は冷静に受け止めていた。
人の死に、何も感じていないわけではない。今だって、心中は穏やかとは言いがたい。
けれど、なぜだろう。
動かない。揺れ動かない。
心が、動じない。
マヒしてしまったのだろうか。たくさんの死を見てきて、心が停まってしまったのか?
――いや、違う。
この感覚は。この感じは。
むしろ、そう――
「……ふぅん」
彼は、首を傾げた。こちらを見て、納得したような顔をしている。
「華鳳院流星と橘猛な……喰い応えありそうじゃないか」
「……やっぱ、あんたが昨日の犯人か」
そう言ったのは猛だった。すでに槍を構え、臨戦態勢である。
「この火も――あんたが」
「いや。火に関しては同志がやった」
彼はゆるりと首を横に振った。
「同志というより上司――いや上官かな……そいつから命令されてる。喰い尽くせと」
男は腰を落とし、獣のような構えを取った。
「俺は人を前にすると人を喰うことしか考えない。それ以外に考えられない。おまえらの肉も、喰わせろぉ!」
男は咆哮を上げる。まさしく、それこそ獣のように。
―――
「人喰いとして進化した人種、だと?」
クラウディオは目を瞬いた。
『同志』が華鳳院流星と橘猛に相対しているのを離れた場所で見つめていると、相棒から連絡が入った。
そんな彼の話は実に荒唐無稽で、そしてある種納得のいくものだった。
『定向進化は知ってますよね』
「あぁ」
『彼の一族は、はるか昔より人を喰ってきました。しかも同族同士で殺し合ったんじゃない。外の人間を狩猟して食していたそうです』
「……初耳だな」
『僕もついさっき知りましたよ』
相棒――エドワードは肩をすくめたようだった。
『しかも武器は原始的で――閉鎖的かつ排他的な民族だったらしいですから、当然ですね。飛び道具も、石弓から進歩しなかったそうです』
「……石器時代かよ」
クラウディオは顔をしかめた。
『未開の民族ですからね――鉄器を造る技術は得られなかったんでしょう』
「開かれてたまるか、そんな民族」
『言うと思いましたよ、君なら。けれど、そしたらやっぱり、狩猟は実質その身一つでせねばなりません』
「……あぁ、なるほど。おまえが定向進化などと言った理由が解った」
クラウディオは太ももをぽんと叩き、一つ頷いた。
向こうには見えないのは解っているが、自然と出た行動だった。
「そうか、ふん……人を狩るためだったのか。あいつの特殊な身体能力は」
『生物は日を重ねるごとに進化するものです。人間も例外ではありません。けれど……』
エドワードは口ごもるように一拍置いた後、言葉を続けた。
『……あそこまで行き着いてしまうと、もはや人間と別種と言わざるをえません』
「別種、なぁ……」
クラウディオは、自分の言葉が幾分か皮肉めいたものになったのに気付いた。
特にそれを気にすることもなく、口を開く。
「俺達も特殊能力を持っているし、竈内のような奴もいるが――別種ではないな。むしろ突然変異と言うべきだろう」
『けれど彼の場合は違います。突然でも変異でもない。ただの進化の結果です。全ての哺乳類の祖先は一緒ですが、個々種族で進化過程は違うでしょう? それと同じですよ』
「ふぅん……しかし進化――か。なぁエド、ものは言いようだと思わんか?」
『はい?』
「例えそれがよかろうと悪かろうと――未来があろうと無かろうと――あれは進化と呼ばれる。退化ではなく進化だぞ。人間を喰うなど、人としては劣悪にほかならんのに」
もっとも、とクラウディオはふんと鼻を鳴らした。
「奴にとっては、俺達が牛肉や豚肉を喰うのと、何ら変わらんのだろうがな。そもそも人とその他の動物を別にすること自体、おかしな話だ」
『……まぁ、一理ありますけど』
エドワードは何とも言えなさそうな声を出した。
「……で、奴の取り扱いには気を付けろという電話か?」
『あ、は、はい。もう少しの間はそっちには行けそうにないですし、だから一応』
「よけいな世話だ」
『心配なんですよ。全く……』
「……もういい。切る」
クラウディオはいらいらしながらそう言い、通話を一方的に切った。最後に何か言っていた気がするが、かまうものか。
「本当に……いらない世話だよ」
そう呟いた時の自分の顔がどんなだったか、クラウディオには解らなかった。