第三十六話 呼び声<上>
ひんやりした空気が頬をなでる。いつもの湿気を含んだ潮風でないことに、少し驚いた。
何だろう、この冷気は。暑くなり始めたこの時期に、夜とはいえ不自然ではないだろうか。
散歩に来たのは間違いだったかもしれない。半分の月を見上げ、思う。どうもこの冷気は心地よさからはほど遠い気がしてならないのだ。
砂浜を歩く足を方向転換させ、今来た道(と言っても砂浜に道と呼べるものは無いのだけれど)を戻ろうとした。
戻ろうとして――足を止めた。
誰かが、浅瀬に足をつけて立っている。長い黒髪で、薄紫のワンピースを着ており、顔は遠くにいるせいか判然としない。
特に遅いという時間帯ではない。けれど、夜に女性一人でいることは気になった。
「どうかしたんですか?」
近付き、声をかけるも、女性は反応を示さなかった。ただうつむいて、じっと海を見つめている。
何か落としたのだろうか。けれど、何かを探している風でもない。ただ見ているだけに見える。
「あの」
もう一度声をかける。女性はやはり反応を示さない。
返答も無いし、振り向きもしないので、結局その場を離れることにした。気になりはするが、ここにいてもしょうがない。
と――
「一人は……嫌」
女性か手首を掴んできた。
とても弱々しいのに――なぜか振りほどけない。
いや、それより――何だ、この手は。
とても冷たい――体温が無いかのようだ。
「私を……一人にしないで」
女性は顔を上げた。ずっと下を見ていた目をこちらに向ける。
いや、違う。目は向けられていない。
そもそも――彼女には目が無かった。
本来眼球がある場所には、何も無かった。ただ、穴があるだけ。
目玉がはめ込められているはずの場所にあるのは、ただの虚だった。
否――否否、違う。何も無いわけではない。
何かが突き出ている。穴からはえるように、白い何かが飛び出ている。
「目が、目が痛いの」
女性は、空いた手も掴んで顔を近付けてきた。
「助けて、助けて」
掴む手は、依然弱々しいままだ。手首をひねれば、すぐに外れてしまうぐらいに。
なのに、どいして身体が動かないんだ!
声も出ない――助けを呼びたいぐらいなのに!
「お願いだから」
女性は紅い唇を耳元に寄せ、囁いた。
背筋がざわめくほど、甘い声で。
「私を――助けて」
―――
「海ぃ?」
流星は携帯に向かってすっとんきょうな声を上げた。
事務所を軽く掃除するから手伝ってほしい、という悠の要請を受け、先程までふき掃除を行っていた流星は、携帯が鳴ったことで手を止めた。
電話相手は友人の一人の卓人であり(合宿をさぼっていたので久しぶりに思えた)、何かと思えば遊びの誘いだった。
「何でまた海に?」
『他校の娘達と一緒に行くことになってさ、数足らねぇんだわ』
「数会わせで人を呼ぶな」
違った、合コンの誘いだった。
「それに、俺今付き合ってる奴いるっつったじゃん。何普通に誘ってんだよ」
『マジ頼む! おまえのこと、もう向こうには教えてんだよ』
「知るか!」
流星は一喝した後、一方的に通話を切った。
全く……何なのだ、あいつは。
「どうしたの?」
悠が奥の自室から出てきた。掃除機を運びながら流星の傍に寄る。
「友達から合コンに誘われた」
「……断ったよね」
「当たり前だろ」
何だ、その疑わしげな目は。
流星は少し傷付いた。自分は思ったより信用が無いのかもしれない。
「しかし……何で海なんだ? そういうのって、普通飲食店でやるもんじゃねぇのか?」
「私に聞かないでよ」
悠は唇をとがらせながら、結い上げていた髪をといた。
「掃除はもういいよ。朱崋にコーヒー淹れてもらうから、その間にぞうきん洗ってほしといて」
「おう」
流星は部屋の更に奥にある洗面台に足を向けた。
いいな、こういうの――洗面台の扉を開けながら、流星は目を細めた。
こういう普通の生活が、流星の求めてるものである。
バイト先の店長? 兼恋人という関係はいささか普通から離れている気がするが、それでもこうして掃除を手伝ったりすると、日常を一時でも忘却できる。
しかし、完全に忘れてはならない。まだまだ未熟とはいえ、自分が退魔師であることを。
そして――一週間前のことも。
「……」
蛇口をひねり、水を出す。手に当たる水が冷たくて心地いい。
あの時、竈内の身体が燃え上がった時、彼はすでに絶命していたのだろうか。
もしそうなら、火の熱さを感じなかっただけまだましな死に際だっただろう――そう思うのは傲慢だろうか。
どうして、自分はあんなに取り乱したんだろう。今更そう思う。
死体は見慣れた――ことは無いけれど、ある程度冷静に接することはできるようにはなったのに。
生者が死者に、生体が死体に変わる様を、まざまざと見せられたからか。
それとも――同類と言われたことが尾を引いているのか。
どちらにせよ、自分は竈内の死に思うところがあるということだけは確かだ。
――けど、大丈夫。
悠がいる限り、自分は大丈夫。
何が大丈夫かは、よく解らないけれど。
「流星、まだ終わらないの?」
悠が洗面所に顔を覗かせた。
「あ、悪ぃ。ちょい待って」
流星は慌てて水を止め、ぞうきんを洗面台のふちのかどにかけた。
「コーヒー、冷たいのでよかった?」
「あぁ。……そういえばさ」
事務所の方にあるソファーに向かい合って座り、長机に置かれたコーヒーにミルクを入れながら、流星は悠のコーヒーを見た。
ホットコーヒーだ。色合いから見て、ミルクも何も入ってないようである。
「おまえさ、いつもブラックじゃね?」
「私は甘いものが好きだけどね、コーヒーは苦い方が好きなんだよ」
「……へぇ」
とても十四歳とは思えない好みだ。自分が十四の時は、コーヒーどころか紅茶もストレートで飲めなかったのに。
「ところで、さっきの話だけど」
悠は音を立てずにコーヒーをすすりながら上目遣いでこちらを見てきた。
「海がどうのこうの言ってたよね」
「あ、あぁ」
「実は海にまつわることで、ちょっと依頼があってね」
「海にまつわること?」
流星は首を傾げた。
「海に妖魔が出たってことか?」
「違う。霊だよ。まぁ悪霊化していることは確かだけど」
悠はカップをソーサーに戻した。
「ある浜辺で、五十年も前から霊が目撃されているらしいんだ。最初はただ視えるだけで無害な存在だったんだけど、その内通りすがりの人間の手を掴んだりするようになってね。この間は、旅行者がどこかに引っ張っていかれそうになったらしい」
「最初はただの霊だったけど、放っておかれてる内に悪霊になってきたってことか?」
「そう」
悠は足を組んだ。
「それでね、君に一人でその依頼をこなしてほしいの」
「……えっ」
流星は目を丸くした。
「一人でって……俺一人で?」
「そう言ってる」
悠は目を細めた。
「その霊は男の前にしか姿を現さない。私が行ったら、かえって邪魔でしょ」
「じゃなくて! どうして俺一人でやらせようとするんだよっ」
流星は思わず声を張り上げた。
「今まで基本的に自分でこなしてきたのに、何で急に……俺、まだまだ未熟なのに」
「未熟だからこそ――って言ったら、どうする?」
悠の微笑に、流星ははっとした。
「確かに、君は退魔師としては未熟だ。けれどそれは経験不足だからだろう。実力は、そこいらにいる退魔師よりずっと上だ」
「そ、そうか。まぁ鬼童子の力を使えばある程度は……」
「それを差し引いてもだよ」
悠は肩をすくめて見せた。
「後は経験を重ねること。そのために、私に頼りっぱなしはまずいと思う。前回みたいに、一人で戦うこともこれから増えるだろうしね」
「……」
「そんな顔しないでよ」
悠は微笑を苦笑に変えた。
「信用してるから、一人でも大丈夫だって思ったんだよ。別に突き放したんじゃないから」
「そ、そうか」
流星は頬をかいた。
しかし不安を感じないわけではない。はたして自分は、その依頼をこなすことができるだろうか。
「……悠は付いていってくれるのか?」
「行かない」
即答だった。
「何助け求めてるのさ。私が行ったら意味無いでしょ」
「ですよねー……」
予想していた言葉だったが、少し哀しくなった流星だった。
「勿論、依頼を受けるかどうかは流星が決めればいい」
悠は不敵な笑みを浮かべた。
「行くか否か、全ては、君次第だよ」
――だから。
流星はため息をつきたくなった。
何で自覚が無いんだろう。その言葉を使われたら、断れないじゃないか――
「……解った。行く」
流星は諦念を抱きながら頭をかいた。
やはり……悠には一生かないそうにない。
「んで? ここから近いのか? その浜辺」
「いや。けっこう遠いかな。泊まりがけになるだろうから用意しといた方がいいよ」
「最初の一人行動が、泊まりかよ……」
なかなか厳しい。
「じゃぁ俺、もう帰る。後でメールしてくれ」
流星はアイスコーヒーを一気飲みした。
「宿の予約とかはこっちでやっとくよ。だから、その点は心配しないで」
悠の少し的外れな言葉に流星は、おー、と返事をしながら立ち上がる。
「それから」
「ん?」
「掃除、手伝ってくれてありがと」
にっこり笑う悠に、流星はかぁっ、と顔が熱くなるのを感じた。
「え、あ、おう、じ、じゃぁな」
自分でもびっくりするぐらい動揺しながら、流星は事務所を後にする。
……途中、扉で額を思いっきり打ち付けた。
流星がいなくなった後、悠はふ、と吹き出した。
「流星ったら、本当に面白い反応するんだから」
小さな声でひとしきり笑った後、朱崋の名を呼ぶ。薄赤い目をした少女は、すぐ現れた。
「今回は監視の必要は無い。その変わり、こっちを手伝ってもらうよ」
「はい。……しかし、よいのですか?」
朱崋は空になったコップを回収した。
「流星様をお一人にして」
「いい。一人になってはいけないのは、むしろ私だろう」
悠は再びコーヒーに口を付けた。
「ここ一週間、こちらを監視する目があった。まぁ、当たり前の対応だろう。問題は、監視の目が流星ではなく私に向いているという点だ」
「悠様を……」
「三ヶ月、と言ったかな、あの女」
悠はふん、と鼻を鳴らした。
「私を『同志』にしたいというのは、まんざら嘘でもなさそうだね。どちらにせよ戯言だけど」
「狙いを悠様にしぼったと?」
「さぁね。命を狙ってるのかもしれないけど。けど同じ椿の人間なら、刀兄辺りが妥当だと思うし」
悠はコーヒーカップを戻し、考え込んだ。
「私を狙う理由は何か? 椿家末子であることと『剣姫』を使うこと以外は狙うだけの理由は無い。それなら刀兄を狙う方が退魔師に打撃を与えられるのに」
「……悠様。これは私めの勝手な想像なのですが」
朱崋が空のコップを持ったまま口を開いた。
「狙いは、もしや『剣姫』そのものではないでしょうか」
「……何?」
「四日前に私がご報告したことをお忘れですか?」
四日前――という言葉に、悠は眉をひそめたが……やがてはっとした。
「まさか、あの?」
「はい。そう考えれば、狙いは『剣姫』――いえ、姫シリーズ全てとなります」
「百八の武器、全て……」
悠は前髪をかき上げた。
それなら、なるほど、色々辻褄が合う。となると、あの女が自分に求めているのは、使い手としてか。
「……気に入らないな」
悠は苦々しげに吐き捨てた。
本当に、気に入らない。
「私をそう簡単に手に入れられると思うなよ。それに、日本にいる姫持ちもなめては困る」
自然と、唇の端がつり上がった。今、自分はどんな顔をしてるのだろう。
「おまえ達の思い通りにさせるものか」
悠は静かに、低く呟いた。
しかし、悠はこの時思い至らなかった。
シスターと呼ばれたかの女が欲しいのは自分自身だと、気付くはずもなかった。