第三十五話 母校<上>
助けて。
助けて。
助けて。
助けて。
いくら呼んでも助けは来ない。校舎には、もう誰も残っていないのだろうか。
残っていたら、助けてもらえるのに。
こんな怖い思いをしなくてすむのに。
助けて。
助けて。
助けて。
助けて。
「もういや、嫌ぁ……!」
一緒に来た友達はどこに行ってしまったのだろう。
もう捕まってしまったのか。捕まって、でもどこに連れていかれたんだろう。
あの噂が本当なら、確か――
『ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』
絶叫が、教室のスピーカーから大音量で流れてきた。
同時に聞こえる、肉と骨が引きちぎられる音に、更に身体が震える。悲鳴を出す余裕など、もはや無かった。
絶叫はやがて唐突に途絶え、再び静寂が訪れた時には正常な判断は失われている。
当たり前だ。友人の断末魔の叫びを聞いて、まともな精神を保てる人間はいない。ましてや自分も追われる身とくればなおさらだ。
身体中をがくがくと震わせ、じっと息をひそめる。隠れていれば、きっと見付からないと思ったのだ。
しかし、そんな希望的結末が来るはずがなかった。
少ししてから、何かを引きずるような音が耳に届く。
ゆっくりと、少しずつ進むようにして――
やがて、教室の扉が開いた。ゆっくり、時間をかけて。
やがて来る死を、もはや待つほか無かった。
―――
華凰院早音が死んでいたことに、悠は驚きはしたものの、それ以上の感情は無かった。
あぁあれは変装だったのか、それなら納得がいく――そう思った程度だ。
「どういうことだ?」
そのことを話すと、高野次郎は首を傾げた。
警察署内の一室。悠と次郎は今回のことについて話していた。
今回のこと――例の女子校での事件のことだ。
悠はその時、違和感を覚えたのである。
「まず、華鳳院早音の行動。面倒だから何があったかの説明ははぶくけど、あまりにも早過ぎた」
「行動を起こすことが、か?」
「そう」
悠は頷き、パイプ椅子に腰を下ろした。
「指示を受けてって本人は言ってたけど、それならもっとタイムラグがあるはずなんだ。そもそもバレたこと自体早過ぎた」
「だが……射殺されたあの、使徒と名乗っていた少女達は、自分達が指示したと言っていたんだろう?」
「まぁ、そういうニュアンスのことは。けれど」
悠は足を組み、突っ立ったままの次郎を見上げた。
「彼女達が、偽の華鳳院早音と口裏を合わせていたとしたら?」
「……」
「どういう理由で華鳳院早音の姿を使ったかは知らないけど、おそらくは彼女達に殺されたんだろう。その後偽物と入れ替わった。多分私が来ることは知っていたんだと思う。でなきゃあんな口裏合わせなんてできない」
「そして失敗した場合は射殺か――随分酷いことをする」
「組織の秘密を守るためとはいえ、やり過ぎなきらいがあるね……」
合理的ではある。しかし倫理的には大きく外れているだろう。
それに対する感情は、特に無いけれど。
「それにしても、この二人は一体何なのか……」
次郎は先程作成した二枚の似顔絵を眺めた。
「妖魔がらみなら、俺達警察にできることは無いんじゃないか?」
「協力ぐらいはできるでしょ」
「それはそうだが……」
「それに」
悠はチョーカーに付いた十字架をいじった。
「何となく、ただの半妖共の集団による事件じゃない気がするんだよ。もっと根が深いような――」
悠は言葉を切った。意図的ではなく、机の上の携帯が鳴り出したからである。
悠は次郎に断りを入れ、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『悠、俺だ』
「刀兄?」
悠は目を瞬いた。
「どうかした?」
『……今、流星の入院している病院の前にいるんだが』
兄――刀弥の言葉は、なぜか歯切れが悪かった。
朱崋を置いていったのだから、大事無いはずなのに――
『ちょっと……いやかなりやっかいなことになった』
―――
悠は病院前の人だかりをかきわけ、三人の姿を探した。
人で壁ができるぐらいの大人数だったが、目立つ容姿である兄のおかげですぐ見付かった。
「刀兄!」
悠は橋の方にいた三人に駆け寄った。
「悠か。思ったより早かったな」
刀弥は振り返り、口元を緩ませた。しかし、流星の方は何の反応も示さない。
ただその場に立っているだけだ。立ったまま気絶しているかのように微動だにしない。目も、開いてるのに何も見ていないようだ。
「り、流星……?」
ゆうは思わず近付くのをためらう。それほどまでに、今の流星には生気が無い。
「……本当のようだね」
悠は兄の方を見た。
使徒と名乗る彼らは、流星と同類だった。
そんな兄の電話に、最初は信じられなかった。
しかし、よくよく考えれば可能性は充分にあり、推測の段階で気付いてもよかったようなものだ。
絶望した人間が最終的に神にすがる――そんな話、ざらに聞く。そしてもし、彼らが徒党を組みでもしたら――
しかも退魔師を邪教徒扱いだ。これから先、かなり大きな戦いが起きるだろう。しかも、妖偽教団の時より大きな戦いだ。
自分達はいい。そういう連中と戦うことに迷いは無い。
しかし流星はどうだろう。同類と呼ばれた彼は? 迷い無く彼らを狩れるだろうか。
しかも中には、最初の推測通り、特殊な力を持つただの人間がいるようだ。
敵の言葉を鵜呑みにするつもりは無いが――しかし、流星には一番辛い展開だろう。
「悠、流星と一緒にいてやれ」
刀弥は悠の肩に手を置き、すぐ離して横を通り過ぎた。
「俺は仕事があるからな……いっしょにいれねぇ。だからおまえが一緒にいてやれ。恋人って、そういうもんだろ?」
「……解ったような言い方をするね。恋人、いないくせに」
悠がそういうと、刀弥は軽く笑った。
「今は、な。じゃぁな」
刀弥は人ごみをかきわけつつ、その場を離れていった。
後に残ったのは、悠と流星、朱崋のみである。
「……流星」
悠は流星の腕に触れた。流星は今気付いたように、悠を見下ろす。悠は両手を流星の顔に伸ばし、そして。
「いででででででででで!?」
両頬を引っ張った。
「な、何しやがる!?」
「お、戻った」
手を離した悠は、正気に戻った流星の胸を小突いた。
「何ごちゃごちゃ考えてるのさ」
「……」
「……まぁ、気持ちは解らなくもないけどね」
悠はふ、とため息をついた。
「ねぇ、流星。君のような人間がどうして生まれるのか、解る?」
「え?」
流星は目を丸くした。どうしてそんな質問をするのか解らない、という顔だ。悠はおかまい無しに話を進める。
「理由は三つ。一つは両親のどちらかが妖魔であること。これは古今東西よく聞くことだね。二つ目は祖先の誰かが妖魔であること。隔世遺伝と言うやつだ。そして三つ目は、血そのものの闇」
「血、そのもの」
「君の場合はね」
悠は流星の目をまっすぐに見つめた。
「その内二つも当てはまっている。血のことは言うまでも無いね」
「……華鳳院家の、血」
流星は忌々しげに吐き捨てた。
家族を大切に想っていた流星だが、家そのものには強い嫌悪の念を抱いている。
おそらくそれは、本能的なものだ。
「日本経済をになう、冗談みたいな大金持ち。それなりに伝統も格式もある。だからこそ、裏の歴史もあるだろう」
「それが、血の闇」
「けっこう血生臭くて、まぁまぁ面白い小説になるぐらいどろどろだろうね」
調べたわけではないけれど、と言いつつ、悠はすでに調べ終わっている。
華鳳院家のおぞましい歴史を知っている。
「……一つと言ったな」
流星の表情が変わった。
何か吹っ切れたような、そんな表情だ。
「もう一つは?」
「……隔世遺伝」
悠はため息と共に言った。
「戦後の、少し前かな。君の母方の祖先が、妖魔の血を受けていた」
「……そうか」
流星はうつむき、乾いた笑みを浮かべた。
「何だよ、俺……完っ全化物じゃねぇかよ……いや、自覚はしてたけどさ、こう突き付けられるとな」
「……ごめん」
「何で謝るんだよ」
流星は苦笑した。
「逆にすっきりした。何で俺がって、今までずっと思ってたけど、そっか、そういう理由があったのか」
「思っていることはそれだけ?」
悠は流星の笑顔を見上げた。
「本当に、そうとしか思ってない?」
「……正直、ショックだった」
流星の顔から笑みが消えた。
「知りたくなかった。勿論疑問がとけてすっきりしたってのも本音だけど……こんなことなら、知らなきゃよかった」
でも、と、流星は顔を上げた。
「どうしてそんなこと、急に言い出したんだ?」
「同類って聞いて、ぐらついた君の目を覚まさせようと思ってね」
悠は胸の前で腕を組んだ。
「たかが人外に生まれた程度で人殺しをするようになる人間が、君と同類なわけ無いでしょうが。君はそんな下種な人間じゃないでしょ」
「……」
「君は自分が鬼童子だと解っても折れ曲がったりしなかった。そんな君が、奴らに同類扱いされるいわれは無いよ」
それに、と言いかけ、悠はその先を言うか言うまいか迷った。しかし結局、言うことにする。
流星には知ってほしかったし、特に隠すことでもないだろうから。
「私も、というか私達も、ある意味君と同じだしね」
「は?」
「椿家開祖である椿月凪。彼女の母親は、妖狐だよ」
「……えぇぇぇぇぇぇぇごぼぉっ!?」
叫んだ流星の腹を、悠は黙って殴った。周りが何ごとだと見てくるが、あえて気にしないでおく。
「叫ぶな馬鹿流星。何のために隅にいるの」
「お、おまっ……今、手加減無しにっ……」
腹を押さえて悶絶する流星を見、悠はため息をついた。
「まぁ、そういうわけだから、私の家も隔世遺伝が起こる可能性がある。ていうか実際あったし。……だからかもね、君のことを受け入れられたの。勿論それだけじゃないけど」
「……」
「だからって、同情したから君と付き合ってるわけじゃないよ」
悠は少し照れくさくなりながら、微笑した。
「流星のことが本当に好きだから、一緒にいたいと思うんだよ」
「……っ!」
悠がそう言ったとたん、流星が固まった。
それこそ、表情から身体から何もかもが停止していた。
「……流星?」
悠は首を傾げる。なぜここで固まるのか、全く解らない。
流星が内心で悠の笑顔に身もだえていることに気付いたのは、傍観者となっていた朱崋だけだった。