悪役令嬢のおともだち side A
悪役令嬢のおともだち の別視点です。
読んでいただいた方、ポイントくださった方、本当にありがとうございます。
朝起きてからまずすること。
寝衣を下履ごと脱ぎ捨てて、姿見の前に立って、隅から隅まで自分の体を眺める。
張りのある肌、しみや皺ひとつない若々しい体。
でもそれがいつまでも続くものではないことは、わかっているから。
「よし、今日もがんばりましょう」
微笑みかけた鏡の中の私は、自信に満ちた瞳の輝きを返してきた。
ーーーーーーー
私が育ったのは、下町も下町。一つ筋を違えたら、身ぐるみ剥がれても文句は言えないような町だった。
「アナベルはかわいいからね! 男の食いものにならないように、賢く生きるんだよ」
「食いものってなに?」
いつも白粉の匂いをさせた近所の姐さんは、花街の売れっ子だった。高く結い上げた金の髪に、豊満な胸元。いつ見ても違うドレスと靴で、肩で風をきって歩く憧れの存在。
「今にわかるよ。かわいいだけの生き物は、食われて終わりさ。賢く強かに生きないと、いつまでも咲く本当の花じゃないのよ」
「ふうん、よくわかんないけど」
そんな姐さんは、身請けが決まった翌日に、河原で半身が水に浸かったまま見つかった。
執拗な刺し傷があったからしつこい客の仕業だとか、同じ店の姐さんが怪しいとか、しばらく騒がしかったけれど、一月が経つ頃にはもう皆の口に姐さんの話はのぼらなくなった。
「賢くなかったら、食いものにされちゃう、か」
風雨に洗われた河原には、もう姐さんの残滓はない。手を合わせに来る人ももういないから、花もない。
ーーようやく掴みかけた幸せの前日、どんな思いでこの川に沈んだのか。
ぞわり、と這い上がる得体の知れない何かは、恐怖なのか怒りなのか。
教えてくれる人は、誰もいなかった。
ーーーーーーーー
「あなたのその身一つでどこまで上がれるか、試したくはありませんか?」
凡庸な顔立ちの女に声をかけられたのは、学院に入学してすぐのことだ。
ひたすら勉強して、地方領主の推薦で入学金も免除してもらってようやく辿り着いた王立高等学院。
ここを出れば最低でも中級都市の役場で働ける。搾取されることなく、堅実に生きていけるのだ。
「どこまで上がれるかって、なんのこと?」
じっと見返してみるが、女の顔はぼんやりとしてつかみどころがない。おそらく魔道具と言われる目くらましを使っているのだろう。
「あなたは若く美しい。そしてそれらが永遠でないことを知っている……」
「……」
じろりと睨めば、女は笑った。
じゃらり、と女が鎖のついたペンダントを差し出してくる。
「お使いになるかどうかは、あなたが決めたらいい。これは身につけたものをより魅力的に見せる魔道具です。性別問わず皆が好意的になり……どんな意中の人をも、手に入れることができますよ」
「そんな得体の知れないもの、使うわけないじゃない。いらないわ」
手で払うと、女は笑った。
「ではまた。気が変わればいつでもお助けしますよ」
ーーーーーーーー
王立高等学院は、広く門戸を開いていることで有名だ。
貴族の子どもらは初等学院からそのまま上がってくるため、頭の悪いのも少なくない。一方で平民は成績不振を続ければそのまま退学につながるため、必死だ。
多くの貴族はそのあたりを理解しているから、特にどうということもない。
生まれ育った環境は違うが、付かず離れず、ほとんどの貴族が私たち平民と距離をとっていた。
ただ例外というものもどうしてもあるわけで。
「あら、ごめんなさい。ぶつかったかしら?」
「……」
食堂で、背後にあの令嬢がいると気づいた時にはもう遅く、制服がたっぷりとスープをいただいたあとだった。
衣服が生ぬるく体に張り付いて、気持ちが悪い。
なるべく感情のこもらないように相手を振り返れば、楽しそうな笑い声が上がる。
「まあ! 着替えた方がよろしいわ。いくらマナーに疎いとは言っても、そのようにお召し上がりになるものではなくてよ」
「……なにをっ! そっちが……!!」
カッとなって言い返そうとすると、弑虐的な色の瞳にさらに愉悦が浮かぶ。
「わたくしが、なんですの? ねえ、みなさま。お聞きになって。アナベルさんが何かおっしゃるそうよ」
「……」
顔にかかった一筋の髪をゆるく耳にかけて、令嬢が笑う。取り巻きの何人かが、同じように笑い、平民出の人間はそっと目を逸らして離れていく。
きっかけは、些細なことだ。この令嬢の婚約者であるという男に声をかけられたこと。
名前も知らない、軽薄そうな男は、じろじろと私を見るなり、
「一晩いくらだ」
と声をかけてきたのだ。
呆れ果て、返す言葉もなかったから聞こえないふりをしたら、再度卑猥な言葉を投げてくる。
体つきを揶揄されることも、下衆な比較をされることも、生まれ育った町だったなら、どうということもないものだったけれど、王立高等学院で聞くとどうしてこんなに不快なのか。
「ーー平民に人権がないと思っておられるようですが、そういった相手は自分で選びますので」
今思えば、もう少し言いようがあったのかもしれない。
私のことばに怒り狂った男は、まわりに私がいかに尻軽で、どのように男に迫ったのかを触れ回った。
普段の男の様子を知っている人は、ああまたかと思う程度だったようだが、この令嬢は違った。
いや、正確にはわかっていたが手近なところで憂さ晴らしがしたかったのかもしれない。
だらしのない、軽薄な婚約者。家同士の決め事だから覆すこともできない。やりたくもない勉強を平民に混じり何年も……。
その思いで振り上げられた拳を、ただ黙って受け続けるしかないのだ。
ーーーーーーー
部屋で制服の汚れを落とし、干して振り返ると、あの女がいた。
「こんばんは。なかなかお辛いですね?」
「どこから入ったの、出て行きなさいよ」
なるべく腹の底から声を出して凄んでみるが、女は気にした様子もない。
断りもなく私のベッドに腰掛け、細く笑う。
「今のあなたは中途半端なのですよ。ほどほどに男を引き寄せ、無駄に女の嫉妬を買う……。守ってくれる権力もないのに、そうして感情をむき出しにする」
だから足元を掬われる。
にこにこと女が差し出した手には、あの魔道具があった。
「この手をお取りなさい。あなたが今まで積み上げたものを、無知な者たちにむざむざと踏みつけられて黙っているのですか? あなたが傷つき倒れても、このままでは誰も気にしない。弱いものは淘汰されて終わりです」
瞼の裏に、姐さんが浮かぶ。男にやられたのか、女にやられたのか。なぜ一生懸命に生きていた姐さんが、あんな死に方をしなければならなかったのか。
「ーーーー絶対に、私はこんなところで終わったりしない。私が食いものにしてやるわ」
じゃり、と硬い音を立てたペンダントを受け取ると、音もなく女は出ていった。
ーーーーーーーー
「エスコートされる場合をのぞいて、そのように異性に触れることはよろしくありませんよ」
ヴィヴィアナから初めて声をかけられたとき、私の右腕は伯爵家の次男だという男の腕に巻きついていた。
ペンダントの魅了効果は、せいぜい両手を広げた範囲くらい。こうして体を触れさせていれば強く効果が出て、一時的に離れても持続する。それゆえに、無駄にべたべたと体をつけないといけないのは不便だが、こうしていれば嫌がらせも目立っては受けない。
「リースデン侯爵令嬢、アナベル嬢になんということを。彼女が平民だからと言って、そのように蔑んで良い理由にはなりません」
「…………」
ヴィヴィアナの顔に、一瞬だが侮蔑の色が浮かぶ。
真っ当なことを言ったのに、わけのわからない反論を格下の伯爵家の次男からされたからだろう。
一瞬で隠したのは、さすが王子殿下の婚約者というべきか。
「やめてください! リースデン侯爵令嬢は私が無知だから教えてくださったんです!」
そう言ってさらに男の腕に縋り付けば、ぐっと魅了の力が強まったのがわかった。
ペンダントの魅了の力は、受け手側の隙が大きく影響する。私に少しでも好意的で、油断していればしているほど、強く魅了がかかるのだ。
「……いいえ、私の方こそ、初めてお会いする方にするお話ではありませんでした。失礼します」
ほんのりと微笑んだヴィヴィアナの瞳には、私に対する何の感情も浮かんでいなかった。
ーーーーーー
誰にでも公正で、心優しい、淑女の鑑。ヴィヴィアナの評判はそんなところだ。
平民にも礼儀正しく、いつも微笑みを絶やさない。仲の良い令嬢たちといるときは、少しだけ口調がくだけて、年頃の子らしい顔になる。
他の貴族に囲まれて難癖をつけられたとき、教師に色目を使われたとき、何度となくヴィヴィアナに助けられた。
これほどまでに目配りのできる人がいるものだなと、感心するほどだ。
ーーあえて欠点をあげるとしたら、婚約者だろうか。
「そのとき私は奴に告げた!」
どっと周囲がわく。
あれは、地方に視察に行ったときに奴隷商と結託していた領主を捕らえた話のくだりだろうか。
さすがブライアン王子殿下、素晴らしい、などと次々に賞賛が飛び交うが、この話自体もう何回聞いたことか。
しかも、奴隷商と結託していたのは、王子殿下の直轄領の領主なのだから、よく恥ずかしげもなく晒せたものだと思う。監督不行届というものではなかろうか。
「どうした、アナベル。そのような顔をして」
容姿を大事にする貴族の頂点にいる王子殿下にふさわしい美貌で、ブライアン王子殿下が私の顔を覗き込む。
「いえ……。その」
そもそも、ヴィヴィアナに何度も直轄領を見に行けと進言されて、嫌々行ったのではなかったかとか、同じ話を賢しらにするのは酔客と同じだなとか、浮かんでは消える。
どれも口に出すものではない、と無理矢理口角を上げてブライアン王子殿下の腕に縋る。
「ブライアン王子殿下のお側にあれば、私はしあわせです」
大きめに目を見開いて、川に沈んだ姐さんを思えば自然と目が潤む。何度も鏡の前で練習した。角度も、瞳の光り方も、頬の色さえ完璧だ。
どっと、魅了の力が増すのが手に取るようにわかった。
同時に、私の心は冷え冷えと沈んでいく。
ブライアン王子殿下の側にあれば、誰も私を攻撃しない。遠目から眉を顰めるくらいで、私は傷ついたりしない。
ーーそして、何より。
「あなたは、想像以上に、素晴らしい働きをしてくれていますよ」
顔のわからない女が、また断りもなく私のベッドに腰掛けていた。
私の動きの一つ一つが、きっとこうして把握され、知らぬうちに操られているのだろう。
はじめの方こそ、歯痒い思いもしたものの、今はもうない。
「ヴィヴィアナ様のお気持ちは……どこにあるのかしら」
私の呟きに、一瞬女が虚をつかれたように動きを止める。
「あなたのことを……些か見誤っていたようです。あなたは、このままブライアン王子殿下の側近くにいていただければ、それで良いのですよ」
「それは……。私の行いがヴィヴィアナ様の利になり得るということ?」
女は答えない。だが、それがすべての答えだ。
「願わくば、あなたの主人に伝えて欲しいわ。私は贅沢でなくても、日々の糧に怯えなくてもいいーー誰かに一方的に奪われたり、理不尽に踏みつけられたりしない、そんな暮らしが欲しいの。それさえ守ってくれるならーー」
最後まで望まれた道化として踊ってあげるわ。
私のことばに、愉しそうに女が笑った。