1話
その日僕は狩りに出ていた。
より正確に言えば、やりたくない家の仕事から逃げる為、森の散策がてら狩りをしていた。
何か獲物を取って帰れば仕事から逃げた事を、帳消しにしてもらえるかもしれないという打算も少なからず有った。
しかし、そんな理由で来てるので狩り自体あまり乗り気でない為、獲物を見つけても弓を構え矢をつがえている内に、獲物は木の陰へ隠れてしまう。
なんの成果も無いどころか一本も矢を失わないまま、森のけもの道を歩いた。
気が付けばかなり奥深い所まで来ていた。木々の密度が高くなり、降り注ぐ木漏れ日も少なくなってきて、全体的に薄暗い。
「やばいかなぁ。」
独り言を呟く。森の奥は立ち入りを制限された神聖な場所で殺生なんてもってのほか。
そんな言い伝えだか迷信だか分からないような話を思い出す。そもそもその神聖な場所が有ったとして、こうも人工物の無いただの自然の森の中でそれをどう見分けろと言うのか。
獲物を探しがてら、歩みを進める。しかしその頭ではほかの事を考えていた。
「確かその神聖な場所には森の神の化身が現れるとかだったかな。よく覚えてないな。」
森の神の化身、そんな存在が居たらどのような姿なのだろう、やはり森に住む動物なのだろうか。
そんな事を考えていると、遠くから獣の鳴く声が聞こえた。
求愛の声のような甘美さは無く、悲鳴に似た甲高い声だった。
何事かと思い声の方に行くとそこには、一匹の雌鹿が罠にかかったらしく、驚き興奮しながら左後ろ脚に括われた縄を解こうと暴れている。
「こんなところで罠に引っかかるとは、かわいそうに。」
腰に下げたナイフを抜いて、縄を切ろうとした時に声を掛けられた。
「お前さん。その鹿をどうするつもりだい?」
声の主はいつの間にか僕のすぐ近くに立っていた老婆だった。
「助けようかと。こんな森の奥に仕掛けられた罠では、仕掛けた本人もそうそう見回りに来られないでしょう。
それまでこの鹿が苦しみ衰弱していく事になってしまうがそれがかわいそうだから、仕掛けた人には悪いが逃がしてやりたい。」
「しかし、お前さんは狩りをしにこの森に入ってきたのだろう?」
弓と矢を指さしながら老婆は指摘してきた。だいぶ痛いところを突かれた。
「それはそうだけど、獲物を狩るのであれば一から自分で行いたいし、見ず知らずの他人の物を横取りするのも、あまり気持ちの良いものではない。
それになにより、ここは神聖な場所かもしれない。そんな所で殺生を働いたらどんな罰が当たるかわからない。」
「ではもしその罠を仕掛けたのが儂だとしたら。」
その言葉でふと顔を上げ、老婆を見る。その顔は老獪な嫌らしい笑顔だった。
僕はナイフを収めた。
「それなら先にそう言ってくれれば良いのに。」
少しふて腐れながら、横に避けた。老婆の証言の真偽は不明にしても、この罠が僕のものではない以上この雌鹿も僕のものではない。
「しかし儂にはお前さんの様に力が無い。子兎程度なら持ち帰られるが、こうも立派な雌鹿ではとてもとても。
そこでどうだね、お前さんがその雌鹿を殺して解体してくれれば、儂はその一部分だけを持って帰り残りはお前さんにやろう。」
直観としては悪くない、むしろこちらに有利すぎる取引に感じた。
しかし、やはり先ほどこの老婆に答えたように、この場所で殺生する事にためらいを感じる。
そんな答えが決まらぬまま考えていると、ふと気が付いた。先ほどまでけたたましく騒いでいた雌鹿が静かになっている。
顔を上げると雌鹿と目が合った。その瞳には罠に捕まった恐怖も、逃がしてくれるようにとの懇願も無かった。ただこちらを見極めるように真っすぐにこちらを見ていた。
助かったと思った。その雌鹿は沈黙する事で助言をしてくれた。
僕はナイフをもう一度取り出し、雌鹿の脚に括われた縄を断ち切った。
「すみません、おばあさん。やはり僕にはこの場所で殺生はできません。次はもう少し小さめの罠を仕掛けて、確実に兎が取れるようにしてください。」
謝罪しながら老婆の方を振り向くと、既にそこには老婆の姿は無かった。
一陣の風と共に、森のどこからともなく男の声が僕の耳に届く。
「儂の娘を殺そうとしなかった事は評価しよう。しかし、それ以前にここはお前らが人間が立ち入ってよい場所ではない。さらにその様な狩りの道具を持って入るとは、恐れ知らずめが。
娘に免じて今すぐお前の命を取ることは止めるが、いずれ相応の罰を受けてもらう。
お前の心が弱った時にお前の魂を狩る使者を差し向けよう。その使者に狩られるかどうかはお前しだいだ。」
気が付けば雌鹿の姿もそこには無かった。
どうやら僕は罰を与えられたらしいが、執行猶予を貰えたらしい。
目の前に有るのは切られた罠だけ。もしかしたら雌鹿や老婆は幻覚や白昼夢の類だったのかもしれない。
そんなふわふわした感覚だった為、その会話自体本当に有ったという確信が揺らいで、全て自分の頭の中の作り話のような気もしてきた。
それから来た道を戻り、村に戻った。
家の仕事を逃げ出した上に狩りの収穫も無しで、家族に相当怒られた。飯抜きと今日の分と明日の分で二倍の仕事が突き付けられた。
次の日にはもういつもの日常が続いて、昨日の真偽不明の森での不思議な体験は記憶の片隅に追いやられつつあった。
とにかく手を動かして溜まった仕事をこなしていった。
1人仕事に精を出していると足音が近づく。こんな所に来るような奴は見るまでも無く分かる。
「よー、昨日はだいぶ絞られたみたいだな。」
フェデリコはけたけたと笑いながら話しかけてきた。村の人口が少ないため、近い年齢のいわゆる遊び仲間も限られる。
「ああ。めちゃくちゃ怒られたよ。晩飯も無くなった。」
「そりゃあ、まあ、仕方ない。それで溜まった仕事をこつこつこなしている訳か。」
「そう、昨日の分と今日の分。時間がいくら有っても足りない。少し手伝えよ。」
「やなこった。労働に従事している若者をしり目に、余暇を楽しむ事がどれだけ心と体を癒すことか。」
「外道め。」
手を動かしながらもフェデリコのとの会話を続ける。なんだかんだ仕事中の会話相手にはなってくれるのは嬉しい。
「そー言えば、結局昨日はどこで何してたんだ?」
一瞬昨日の不思議な体験を喋ってみようかとも思ったが、笑われるのがおちだ。それ以前に自分自身が昨日の出来事が事実だったと確信しきれていない。
「別に、これといって説明するほど何をしたって訳でもなく、ただ森の中を散策がてら狩りしてただけ。」
「普通逆だよ。」
「じゃあ、狩りがてら森の散策。」
「言い直したところで何も変わらんけど。ソフィアが気にしてたぞ。」
「心配してくれたの?」
「いや。私にだまって一人で何か面白い事見つけたんじゃないかって。」
「どんな気のしかただよ。」
「好奇心の塊みたいな奴だからな。今度森の散策に行く時は誘ってやれば満足するんじゃね。」
「嫌だよ。あんな騒がしいのに付いてこられたら、獲物が全部逃げられる。」
「どうせ、狩れずに逃げられるんだから同じじゃん。」
「・・・うるさい。」
僕をからかうのに飽きたのか、一つ伸びをしてフェデリコは続ける。
「さてと。」
「またニコールの所に行くのか。」
「おうよ。」
「そんなにいい子か。」
「お前はソフィアしか見てないからな。ニコールの良さが分からないんだよ。」
「そんな事は無い。」
「傍から見てりゃあ、まるわかりだよ。いいからさっさとソフィアを誘ってやれよ。」
「・・・お前は結局、ニコールと二人っきりになりたいだけだろ。ソフィアが居たらニコールはそのそばから離れないから。」
「その引っ込み思案な所が良いんじゃないか。」
「知らんよ。」
「だから、お前は姉のソフィアと、おれは妹のニコールと、それぞれ予定を合わせればうまくいく。」
「勝手に言ってろ。」
フェデリコはまた、けたけたと笑いながら去っていった。
実際のところ、フェデリコとニコールはお似合いだと思う。きっと彼らは上手く行くだろう。
僕とソフィアの方は、僕にはわからない。村の中に選択肢が僕かフェデリコしかいないだけで、ソフィアほどの器量の良さなら村の外に出れば僕より良い人がすぐ見つかるだろう。
高嶺の花は手が届かないからこそ美しく咲いて僕を魅了する。そんな淡い恋心を押しつぶすかの如く、手を動かした。
しかし、そんなソフィアにとって都合の良い展開には成らなかった。
フェデリコとニコールが結婚。そして妹に先を越された形になった姉のソフィアはその勢いのまま、俺と結婚する事になった。
当事者ながらそれが本当の事とはなかなか思えなかった。それでも村中から祝われて、はれて夫婦となった。
ソフィアは始終はにかみながらも笑顔だった。そんな振る舞いもより一層、俺を虜にした。
両家から少しづつ農地を分けてもらい、生活の糧を作り出す。忙しいながらも充実した毎日だった。
俺たちの余暇の過ごし方は相変わらず森の散策だった。視点が二人分になった為、一人で歩いていた時では気が付かなかった様な事まで気づかされた。
身重になったソフィアを気遣いながらゆっくりと歩く。ソフィアはお腹を両手で抱えながら、一歩ずつ歩くもその視線は森の木々や草花に次々に移る。
ソフィアは持ち前の好奇心と探求心の結果として、その名に相応しく博識だった。
「こんな所にも。これも薬草ですね。たしか痛み止めだったかしら。」
「本当に何でも知っているんだね。」
「たまたまあなたの知らないことを知っていただけです。薬草の知識なんか村のばあ様方に聞けばいくらでも出てきますよ。」
知っている事を誇るでもなく、ましてや威張るわけでもなく、淡々とその博識を披露する。本当に自分にはもったいない人だ。
「君は本当に俺で良かったの?」
結婚が決まってから一体何回聞いたか分からない質問。それにいつも笑顔で答えてくれる。
「私はあなたが良かった。」
「フェデリコよりも?」
少し嫌がらせで聞いてみる。
「彼はそうですね、リーダー気質ですが色々と大雑把だし、知識より直観で行動しますし、少なくともこうして森の散策には付き合ってくれないでしょう。」
「そうだね。フェデリコだったらこんなところでのんびりしないだろうな。弓矢を持ってきてけもの道をざくざく進んでいって、兎の一匹でも取ってくるだろうね。」
「ですからあなたの方が良かった。」
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
二人で笑った。多分今が一番幸せなのかもしれない。
その日はいつもより森の奥まで進んだ。木々の密度が上がり薄暗い。
ふと、子供の時の不思議な体験を思い出した。その時に似た森の雰囲気が思い起こさせたのだろうか。
「そういえば、森の奥に立ち入り禁止の神聖な場所があるっていう言い伝え有ったよね。」
「そうですね。明確な場所は知りませんが、そこには森の神の化身が現れるとか。」
「ガキの頃にそんな場所に入ったような。」
なんとなく話し出した話題。それに予想以上に反応してくれた。
「実在したんですか。てっきり子供たちが不用意に森に入って迷子に成らない様に、言い聞かせる為の作り話かと思ってました。」
「あくまでその様な気がした場所ってだけだけど。」
「そこで何か面白い事は有りましたか?」
ソフィアの元来の好奇心旺盛の心に火をつけてしまったらしい。ここで下手にごまかしても追及が止まらないのは、この未だ短い結婚生活で十分に理解している。
「自分自身、半信半疑だからね。白昼夢とかそんな感じかもしれないし。現実味がなさ過ぎて。」
そう前置きをして、うろ覚えになった過去の記憶を引っ張り出してソフィアに話した。あまりに荒唐無稽すぎるので自分でも半分忘れていたし、他人に話した事は初めてだった。
「何というか、その老婆のふりをしていた山の神は大分自己中心的な考えですね。」
「・・・そんな風に考えたことなかったな。」
「娘を使って勝手に試験をした挙句、満点回答されたらそれ以外のところで難癖を付けて失格にするなんて。」
「まあ、こちらに完全に瑕疵が無いとは言えないからね。弓矢を持ってそこに行ったのは事実だし。」
「でも良かったです。もしその時に山の神の娘を殺そうとしていれば、あなたはそのまま行方不明者の仲間入りしていた訳ですから。」
「改めて考えると、あれは生死を分ける重要な決断だったんだね。」
「そうですね。それに今後あなたの心が弱ってその使者が表れても、隣には私が居ますから。一緒に解決法を探れます。」
「なんと心強い。これでは俺の心が弱る隙が無くなってしまう。」
「あら、そうしたら私は山の神がけしかけた使者を見れなくなってしまいますね。残念。」
二人で笑った。こんな穏やかな日が一生続けば良いのに。
しかし、喜びは続かなかった。
子供は無事生まれてきたが、母親であるソフィアは出血が多すぎてそのまま床に臥せってしまった。
安静にしても回復せず、食事はおろか水分も取れない状況で日に日にやつれた。
生まれてきた赤子を義理の妹夫婦に託して、自分はただソフィアの手を握っているだけで何も出来ない時間が続いた。
「マッテオは、」
「大丈夫だ、ソフィア。あの子は無事に生まれて元気だ。後は君が元気になるだけだ。」
「よかった。あなた、後はお願いします。マッテオを、立派に、」
「何言ってるんだ、俺だけじゃだめだ。二人で、俺と君で、あの子を育てて行くんだろう。」
「困った時は、ニコールを、頼って、」
「何をそんな弱気な事を、」
「あなたが夫で、よかった。素晴らし日々を、ありがとうございました。私は、幸せでした。」
「止めてくれ、そんな、縁起でもない。」
「今度は、あなたに、神の祝福が、あらんことを。」
最後までソフィアは、自分の事ではなく生まれてきた子供や俺の事を気に留めていてくれた。
それに対して俺は何も返してあげられなかった。
はたして自分は彼女を幸せにする事が出来たのだろうか。自分と結婚しなければ彼女はもっと幸せになっていたのでは無いか。
懊悩する俺に一つの疑問が出てくる。
これほど心が弱り果てているのに、山の神は未だに使者を差し向けないのか。
今すぐにでも使者を寄越して、この生きる意味を失った愚か者の魂を狩ってはくれないか。
それとも、この程度の悲しみでは未だに足りぬというのか。
そんな自分を置き去りにして、ソフィアは村人たちにより丁寧に弔われた。
葬儀が終わり、村に落ち着きが戻った頃に村長にあるお願いを出した。
それをやや渋った後、了解してくれた。
村長にも、もう俺にここにいる価値が無いという事がわかってくれた様で安心した。
村長の家からの帰りに丁度フェデリコに出くわした。
「よー。お前が外に出歩くなんていつ以来だ。」
わざと明るく振舞ってくれる。こういう心の機微を読んでの対応はとても真似できない。
「丁度よかった。お前に話があるんだ。」
「おお。何でも来い。銭なら無いぞ。」
「前に国から徴兵の話が有っただろう。」
「ああ、有ったな。俺かお前かどちらかを自分たちで決めてくれって言ってたやつか。」
「本当はお前が行くことになっていたんだろう。村長から聞いた。」
「・・・。」
流石にフェデリコの表情も硬くなった。俺が何を言い出すか見当がついているのだろう。
「それに俺が志願した。だからお前はこの村に残ってくれ。」
「・・・相変わらず、考えが突拍子も無いな。せめてその結論に至った理由を聞かせてくれ。」
「俺一人ではとてもじゃないがあの子を育てる事は出来ない。実際、乳母の役目をニコールに押し付けている。当然その旦那であるお前にも多大な迷惑をかけているだろう。
俺は君たち夫婦の時間を奪っている。しかしその見返りとして差し出せる物を何も持っていない。」
「・・・。」
「だから割りの良い出稼ぎ先に、徴兵の話がちょうど良いと思ってね。話を聞いたらどうやら先にお前が受けたらしいけど、それを俺が無理やりぶんどってきた。」
「強引な話だな。」
「・・・それに正直な話、この村で暮らしているとそこかしこでソフィアの姿がちらついて、その度に心が締め付けられる。
もう居ない事はわかっているんだけど、どうしてもその姿を求めてしまう。
またあの玄関の扉を開けて出てきてくれないだろうか、家でくつろいで居る時に何気なく話したら相づちが返ってこないだろうか。
そんなこともう無いって、分かっているんだけど。」
フェデリコはため息を一つついてから話し始めた。
「・・・最初に村長から打診が有ってな。いつ状況が変わっていきなり徴兵になるか分からないからその時はお願いするって。
選択肢が俺かお前ぐらいしかいない状況で、流石に村長も華奢なお前じゃあ兵役は務まらんと思ったんだろう。」
フェデリコはいつものようにけたけたと笑う。
「俺がその話を受けた最大の理由は、身ごもったソフィアとお前の仲睦まじい姿を見たからなんだ。ただ単純にそれを壊したくないなって。
これから生まれてくる子供を一人親にする訳にはいかないと思ったし、俺んところは子宝に恵まれてないし、大泣きするニコールも最後には納得してくれた。
・・・まあ、こんな事になるとは思ってなかった時の話だけど。」
「・・・。」
「お前の事だ。今更俺が止めた所でなんも変わらないのは分かってるから、兵役はお願いしよう。
でもこれだけは知っとけ。俺たちはあの子を迷惑だなんてちっとも思っていない。それどころかニコールはあの子の世話に翻弄される事で、姉を喪った悲しみを紛らわしている。
見返りなんてくそみたいな物要らないから、さっさと兵役を済ませて心の傷を癒して笑顔で帰ってこい。」
「フェデリコ・・・。」
「一つ教えといてやる。家帰ったら鏡見てみな、死神みたいにひでぇ顔した奴が映るから。」
「・・・うるさい。でも、ありがと。」
「おうよ。」
それから数日後、最低限の物だけ持って俺は村から街へと旅立った。