「あなたの好きなひとを盗るつもりなんてなかった。どうか許して」と親友に謝られたけど、その男性は私の好きなひとではありません。まあいっか。
「ハリエット、ごめんなさい。わたし、あなたの好きなひとを盗っちゃったの!」
「……は?」
涙ながらに謝罪する従姉妹のエミリーを前にして、ハリエットは間抜けな声を上げた。そんなハリエットのことを「好きなひとを盗られたショックで呆然とした」と解釈したのか、エミリーの母――ハリエットの伯母――が気遣わしげに声をかけてくる。
「ハリエット、本当にごめんなさいね。エミリーもあなたを傷つけようと思ったわけではないのよ。ただどうしても好きな気持ちが抑えられなかったみたいで。お相手もエミリーと同じ気持ちだったみたいだし、どうか許してやってちょうだいな」
許してやってほしいと言いながら、口元には堪え切れない笑み。ハリエットの母親とエミリーの母親は、犬猿の仲。してやったりと腹の中で大笑いしているに違いないのだ。
「はあ、それは本当になんと言ったらいいのか……。ええと、どうぞお気になさらず?」
「ええ、ええ。さしものあなたも言葉に詰まって当然だわ。ああ、本当に可哀想に」
上から目線の伯母からの慰めを受け流しつつ、ハリエットはこっそり辺りを見回した。ちらりと目に入ったのは、エミリーの隣でなんとも申し訳なさそうな顔をしながら、こちらに頭を下げる体格のよい男性。確かに見知った顔ではあるが、ハリエットの好きなひととはまったくの別人だ。
(エミリーが盗った? 私の好きなひとを? どうしてそんな話に?)
もごもごと口ごもりながら、ハリエットの頭の中はめまぐるしく動き回る。だってハリエットは招待されたこの茶会に来る直前まで、自分の好きなひとと甘いひとときを過ごしていたのだから。
***
ハリエットとエミリーは、同い年の従姉妹同士だ。真面目なだけが取り柄のハリエットとは異なり、エミリーはその天使もかくやと言わんばかりの容姿でみんなを魅了してきた。
これだけ聞くと、ぱっとしないハリエットと可愛らしいエミリーは仲が悪いと思われるかもしれない。実際、そういう関係だと思ってハリエットをバカにしてくるひとたちもいる。
しかし実際のところ、ハリエットとエミリーは唯一無二の親友同士だった。
それというのも、ハリエットとエミリーの母親同士の仲が信じられないくらいに悪かったからだ。姉妹として一緒に暮らしている時からすでに反りが合わなかったらしいが、お互いに結婚して家を出てからはますますその仲の悪さが顕著になっていった。
『ハリエット。このダンス、エミリーはもうマスターしたそうよ。どうしてあなたは、ちゃんとできないの?』
『ハリエット、ピアノくらいもっと弾けるようにならなくちゃ。あなたはエミリーみたいに美人じゃないのだから。これくらいできなくてどうやって生きていくの?』
ハリエットが母親にそう叱咤されれば、同じようにエミリーは母親に激励される。
『エミリー、よくお聞きなさい。世の中は、可愛らしい顔をしていれば渡っていけるほど甘くはないのよ。顔だけのつまらない女だなんて思われないように、しっかりと教養を身につけなければ』
『エミリー、女の子は可愛くて当たり前なの。そこからどう付加価値をつけていくかが大事なのよ。ハリエットなんかに負けてはダメよ』
透けて見えるのは、子どもへの愛情ではなく、母親同士の見栄の張り合い。
何をやっても比較される。褒め言葉さえ、相手を貶めるために使われる。それはハリエットとエミリーを知らず知らずの間に消耗させた。
『このままではエミリーに負けてしまうわ!』
『ハリエットに追い抜かされてもいいの?』
自分たち自身が比較され競わされ続け、その結果姉妹の仲が破綻したハリエットとエミリーの母親たち。それだというのに彼女たちは、同様の競争を自身の娘たちに強要することのおかしさを理解しようとはしない。
その癖母親たちは、人前でだけは仲のよい姉妹を装い、お互いの一人娘であるハリエットとエミリーたちまで姉妹のように扱ってくる。その落差と狂気にハリエットたちはすっかりついていけずにいた。
『ねえ、エミリー。あなたは私のこと嫌い?』
『そんなことないよ。ハリエットはお母さまと違って、ダンスや刺繍の出来を見て怒り続けたりしないでしょ。ハリエットは?』
『私もエミリーのこと、好きよ。エミリーがいなかったら、耐えられなかったわ。好きな本を読んでも紅茶を飲んでも、それが終われば評論会。頭がぱんぱんで全然楽しくない』
『わたしがいなかったら、そもそも比べられずに済んだのに?』
『それを言うなら私も同じでしょ。きっとまた別の誰かと比べられていたわよ』
結果的にハリエットとエミリーは、神経質な母親を持つもの同士、息苦しい生活の中での同志として支え合ってきたのだった。
(どうしてエミリーは、私の好きなひとを盗ったなんて嘘をついたのかしら?)
しかもわざわざエミリーの母親をお茶会で同席させた上で、それをハリエットに報告するなんて。大切なことを伝えるときは、場を引っかき回す母親は同席させない。それは昔からのハリエットたちの決まりごと。それならば一体これはどんな茶番なのだろう。
***
(まあいっか。エミリーが私を嵌めて恥をかかせるためだけに、こんな大がかりなことをするはずないもの。伯母さまの暴走でなければ、きっとこれはエミリーの苦肉の策。だったら、この茶番に全力で乗ってあげましょう)
ハリエットは心を落ち着かせるために紅茶を一口飲むと、小さく微笑む。その姿を動揺を隠して虚勢を張ったとみなしたらしい伯母は、何やら外出の準備を始めるようにメイドに指示を出し始めた。きっと後から、嫌がらせのようにハリエットの母親を訪ねるのだろう。
(本当に伯母さまったら、まったく性格が悪いんだから。まあうちのお母さまもひとのことを言えないけれど)
ハリエットは心の中でため息をひとつ吐くと、エミリーに話しかけた。
「エミリーは一体いつ、私の好きなひとがそのひとだと気がついたの?」
「だってハリエットったら、いつもこっそり見つめていたじゃない。特に王城内の合同演習場の近くを通ったときなんてあからさまだったわ。わたしもあなたの好きなひとのことが知りたくて、ずっと一緒に同じ方向を見ていたの。そして気がついたら、わたしも恋に落ちてしまっていて……」
「まあ!」
そんなにじろじろと相手のことを見つめていたのだろうか。自覚がなかったハリエットは、恥ずかしさに顔が赤くなった。どうやら自分でも気がつかない間に、恋心が駄々漏れだったらしい。
「それがきっかけだったのか……」
エミリーの隣に座る男性は、何とも言えない顔になった。なおエミリーの大層誤解を招くような物言いをいちいち止めないあたり、この件について彼も一枚噛んでいるようだ。
伯母は伯母で眉を寄せている。なんだかんだ言って、「好きなひとを盗る、盗られる」という話題は、彼女にとっての地雷でもあるのだ。それならばわざわざハリエットをお茶会に招待しなければいいのだが、それはそれ、これはこれらしい。いくつになっても乙女心というのは複雑なものであった。
「そう、それでエミリーは彼のどんなところに惹かれたの?」
「誰にでも親切で、困ったひとを見逃せない正義感。けれど決して偉ぶらず、身分に関係なく優れたひとを育て上げる人間性。そして何より、この筋肉よ!」
「ふふふ、そうね、エミリーは昔から筋肉フェチだったものね」
ハリエットは小さい頃の記憶を思い出して吹き出した。天使のような美少女のくせに、エミリーはお転婆で騎士ごっこをやりたがったものだ。
どちらかと言えば騎士に守られる深窓の姫君のような佇まいをしておきながら、彼女は嬉々として棒切れを振り回していたものだった。文官系の家系であり、騎士団をあまり快く思っていないエミリーの母のせいで、その遊びはすぐに禁止されてしまったのだが。
「ハリエットは魔術師派だったものね。昔から詠唱ごっこをしていて本当に精霊を呼び寄せて大騒ぎに」
「その話はまた今度ね」
伯母は不思議そうに首を傾げている。それはそうだ、同じひとを好きになったはずのハリエットとエミリーの好みの男性が異なっていてはおかしいではないか。やぶへびになっては困ると、慌ててハリエットは話題を切り替えた。
***
「ちなみに、婚約式はいつになるの?」
「婚約式はうちうちでもう済ませてしまったので、すぐに結婚式を挙げるのよ。誰かさんの気が変わらないうちにね」
「まあ、急な話なのね。……ええと、エミリーごめんなさいね。もしかしてあなた……」
「え、違うわ、もうやだ、ハリエットったら!」
一瞬お腹の辺りを気にしたハリエットの視線に、エミリーはハリエットが聞きたかった疑問に気がついたらしい。頬を染めて、首を横に振っている。
その隣で、一気に不機嫌そうになった伯母がハリエットを睨みつけていた。
「エミリーは順番をきちんと守りますとも」
「ええもちろんです。ただあまりにも急だったものでしたから、びっくりしてしまって」
「あなたのお母さまのように、横からかっさらっていく女性がいるとも限らないもの。心配でたまらないので、さっさと結婚式を挙げさせることにしたのよ。これでようやっと枕を高くして眠れるわ」
面と向かって言われる悪口に、ハリエットは苦笑いするしかない。
そもそも「好きなひとを盗られた」という表現は通用するのか。それ自体がハリエットには疑問だったりもする。
誰かの配偶者に心を寄せることは咎められるだろう。
誰かの婚約者に心を寄せることは止められるだろう。
だが婚約者も恋人もいない男性に告白して両思いになったことは「好きなひとを盗った」と責められなければならないのだろうか。
周囲に相談することもなく、ただ一途に想いを寄せていたとすれば気の毒ではあるが、だからと言って「ずっと前から好きだったのに」と恨むのは筋違いのように思えてならない。まあハリエットの母親のことだから、伯母の好意を見抜いた上で本当にわざと「盗った」もとい「結婚相手に選んだ」可能性もあるのだが。
「エミリー、あなたの結婚式ではとびきり素敵なプレゼントをお贈りするわ。楽しみにしていてね」
だからハリエットは、結婚式に出席することだけを約束してその場をあとにした。
***
結婚式当日、ハリエットは親友として、また近しい親族として甲斐甲斐しくエミリーの世話を焼いていた。それが伯母には納得がいかないらしい。
(教会の隅っこで、ハンカチを噛み締めながら悔しがっていてほしかったのかしら?)
ハリエットは疑問に思いつつも、結婚式当日というのはいろいろと忙しい。そのため伯母の相手が適当になっていたようで、式の終わりに取っ捕まってしまった。怒れるご婦人というものは、同性であっても正直恐ろしい。
(もうすぐ一番大事なところなのに)
肩をすくめながら、ハリエットは伯母を所定の位置に連れていく。
「どうしてそんなに笑っていられるの! 悔しいでしょう? 自分の好きなひとが、自分以外のひとと結婚するのよ!」
「従姉妹であり親友であるエミリーの門出を祝うことは、当然のことです。ほら伯母さまも、どうぞ空をご覧になって」
抜けるような青空に、光の花が咲く。ひとつ、ふたつ、みっつ。光の花が空を彩るたびに、参列者からは歓声が湧く。特別な魔術によるフラワーシャワー。
本来ならば国の祝賀行事などでしか披露しない魔術師団のとっておきの魔術だ。王族以外の結婚式で振る舞われるのは、それこそ花嫁花婿が魔術師団の団員か、相当に縁のある人物であるときくらい。
騎士団長の結婚式で、この光の花が空に咲くなんて誰も予想してはいなかったのだ。
光の花はゆっくりと本物の花びらに姿を変え、ひらりひらりと花嫁たちの上に降り注いでくる。
「どうして、光の花が……?」
喜びよりも戸惑いが大きい伯母とそんな彼女を落ち着かせようとしている伯父、その隣で大はしゃぎの新郎新婦たち。ハリエットは意を決して、彼を紹介することにした。
「伯母さま、ご紹介いたします。私の夫のサイモンです。魔術師団の団長を務めています。エミリーのご主人とは親友だそうで」
にこにこと満面の笑みを浮かべたエミリーがハリエットに抱きついてくる。
「ハリエット、好きなひとと無事に結婚できたのね。おめでとう!」
「ありがとう。これも全部エミリーのおかげよ」
最近までただのハリエットの恋人だった魔術師団長は、婚約者を飛び越えて一気に夫になっていた。
ハリエットの母親は魔術嫌いだ。もともと魔術が得意なのは、この国の先住民の血を引くもの。彼らのことを「蛮族」と蔑んでいたハリエットの母は、たとえ魔術師団長が相手であろうと結婚を認めてはくれなかった。
それが『好きなひとを盗られたと誤解されたまま式に出るなんて恥ずかしい』と訴えれば、今までのことが嘘のように簡単に結婚を認めてもらうことができた。娘が恥をかくことを憂いたのではなく、エミリーに負けた形になるのが許せなかっただけのようだが。
それは、文官系の家系であり、騎士団をあまり快く思っていないエミリーの母親が、「ハリエットの好きなひとを盗った」と嘘をついたことで、簡単に結婚に許可を出したのと同じようなものだ。
母親に振り回されてきたハリエットとエミリーは、母親同士の確執を自分たちの初恋を叶えるために利用した。それは良くないことなのかもしれないけれど、そろそろハリエット達だって自由になってもいいはずだ。
***
「あなたたち、わたくしのことを騙したのね!」
ハリエットにつかみかかろうとしていた伯母は、空から舞い落ちてきた花びらが肩に触れるやいなや、へなへなと座り込んでしまった。
「ご婦人、こちらには浄化や癒しの作用がありましてね。興奮した民衆が暴動を起こさないようにするための効果もあるのですよ」
その声が聞こえているのかいないのか。座り込む伯母のことを、ハリエットは伯父に託した。
「それにお怒りになるなら、まずはご自身のことを振り返られるべきです。あなたがたの身勝手が、どれだけハリエットたちを苦しめたか、ご存知ないとは言わせませんよ」
いつの間に連れてこられていたのか、ハリエットの母親もエミリーの母親同様にぐったりと座り込んでいる。
「それでも今回のやり方について何か言いたいことがあるのなら、どうぞ僕の方まで。この作戦を考えたのは僕ですから、いつでも相手になりますよ。その代わり、ハリエットの実家であることは考慮せずに徹底的に対応させていただきますが」
「それは俺も同じだ。エミリーの実家であろうとも容赦はしない」
魔術師団長と騎士団長は、それぞれの最愛のひとをその背に庇うようにして立つ。だからこそ、ハリエットとエミリーは彼らの背の後ろではなく、隣に並び立った。共に戦ってくれるひとがいるなら、もう何も怖くないから。
「何を言っているの。ハリエットは一人娘よ。家を潰すなんてそんな」
「そうよ。エミリーと結婚したのだから、婿に入るのが当然でしょう」
床に座り込み、夫に支えられながら、それでもその口は止まらない。その我の強さには感心するばかりで、ハリエットとエミリーは困ったように顔を見合わせた。
「彼女たちは家を継ぎませんよ。必要なら、養子を取るなり、もう一度子作りに励むなり頑張ってください。あなた方は余暇があるとすぐに下らないことばかりお考えになるので、これくらい窮地に追い込まれたほうが静かでいいんです」
真っ青になって震えているのはハリエットとエミリーの母親たちだけ。ふたりの隣に立つ父親たちが何も言わないところを見ると、すでに話はついているらしい。
ハリエットとエミリーにとって、母親たちはあまりにも理不尽で、父親たちは母親を野放しにする頼りない存在だった。
けれどこうやって見ると、彼らにとっては子どもの存在よりも、妻の方が大切なだけだったのかもしれなかった。巻き込まれた子どもにとっては、迷惑以外のなにものでもなかったが。
「お父さま、お母さま、どうぞお元気で」
ハリエットたちは美しく一礼すると、新しい一歩を踏み出した。
***
魔術師団内の執務室にて、てきぱきと事務仕事をするハリエットにサイモンが声をかけた。
「お疲れさま。何か困っていることはありませんか?」
「ありがとう」
いくつかの書類について確認を取るハリエットは、実家にいた頃よりも生き生きとして見える。けれど、跡取りとして育てられたはずのハリエットを家から連れ出し、王宮で働かせてしまって本当によかったのか。本人の希望だったとはいえ、ときどきサイモンは心配になっていた。
「あなたにこんな事務仕事をさせてしまってよかったのでしょうかね。あなたなら、当主としてその才能をいかんなく発揮できたのでは」
「サイモンさまったら、買いかぶりすぎだわ。でもそうね、当主となるべく教育を受けてきたお陰で、あなたの隣に立っていても卑屈にならずに済んでいるの。並みのご令嬢じゃあ、あの妬み嫉みになんて対応できないわよ。それだけは、お母さまのスパルタ教育に感謝しているわ」
ハリエットは微笑む。彼女の母の教育方針が子どもにとって良いものだったとはお世辞にも言えない。それでも学んだことは決して無駄ではなかったこと、ハリエットを守る鎧になっていたことを、サイモンと結婚し王宮での職に就いてからハリエットは実感していた。
「御義母上はご健勝だろうか」
「大丈夫。お母さまも伯母さまも、凹んでも翌朝にはけろっとしているひとたちだから気にしないで」
「ハリエットは強いですね」
「エミリーも私もテキトーに受け流すのがうまくなっただけよ。エミリーと言えば、おめでたって聞いたわ。素敵なプレゼントを用意しなくちゃ」
苦い子ども時代の傷が今はそれほど痛まないことに密かに驚きながら、ハリエットは微笑んでみせた。
あの母親たちは見た目よりも存外強い。家を継いでもらうべく養子に迎えた相手ともそれなりにうまくやっていると聞いている。何より、彼女たちには辛抱強く相手をしてくれる夫たちがいるのだ。心配することはないだろう。
「お母さまと伯母さまは、どちらがより良い養母になれるか、毎日競争しているそうよ」
「やれやれ、仕方のないひとたちですね」
「とはいえ、自分たちの見栄の張り合いで子どもに圧力をかけてくるよりは、遥かにマシだもの。それに、簡単にひとは変われないわ。今までのことを思えば、今はこれで十分なのでは?」
「ハリエットは優しいですね」
「なんだかんだ言って、一応あれでも自分の親だから。酷い目に遭えばいいとは思えないの。ただ少し距離を置いて、挨拶程度の関係ならうまくいくわ。親子だと思うからきっとダメなのよ」
サイモンはハリエットを抱き寄せる。
「サイモンさま、まだ仕事中!」
「なんだか無性にこうしたくなりまして」
「そう? それじゃあ、ちょっとだけね」
そんな軽口を叩きながら、サイモンの温もりに救われているのは自分自身だとハリエットはちゃんと理解している。
(サイモンさま、私はこんなに幸せでいいのかしら?)
いつか子どもが生まれたら、少しでも穏やかな気持ちで過ごせる家にしたい。けれど、本当にそれができるのかときどきたまらなく怖くなる。だから、不安を感じたときには、黙々と働くのだ。身体を動かしていれば余計なことを考えずに済むから。
そんなとき、サイモンは黙って抱きしめてくれる。それだけでハリエットの不安は、ほどけて消えていくような気がするのだ。
「ハリエット、大丈夫ですよ」
「なにが?」
「なんでも。全部うまくいきます」
「そうだといいわね」
サイモンと一緒なら、きっとうまくいく。そんな根拠のない自信を得られるくらいには自分は今満ち足りていて幸せなのだと、ハリエットはサイモンの腕の中で微笑んだ。
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