10 ジェイク視点
ズキズキズキ
さっき思いっきり力を入れて手すりに掴まった右手首が、どんどん痛みを増していく。
見るからに腫れたその手首。
薬を塗って寝れば朝には治るだろうと、薬と包帯を貰いに行った。
「よし。利き手とは逆だけど、なんとかできるでしょ」
普通貴族であれば、怪我した時にはメイドに手当てをお願いするんだろう。
でも、平民だった僕はまだメイド達に甘えることができずにいる。
まぁ、これくらいなら自分でできるし。
他人に触られるのもそんなに好きじゃないしね。
自分で薬を塗ろうとしたその時、部屋の扉をノックされる。
コンコンコン
ん? こんな夜に誰だ?
さっき薬を用意してくれたメイドが、処置しようと来たのかな?
「はい?」
「あの、リディアです」
「えっ? リディ?」
なんで彼女が?
不思議に思いながらも、すぐにドアを開けに行く。
廊下には、髪のまだ濡れた状態のリディが不安そうな顔で立っていた。
どうやら僕が怪我していることがバレてしまったらしい。
薬を貰ったところを、彼女のメイドにでも見られたかな?
せっかくうまく隠してたのに……って、だからってなんで、わざわざ部屋までその確認に来たんだ?
リディは部屋の中に入ってきて、薬を塗ってくれると言う。
なんだかいつもと様子の違う彼女に戸惑いながらも、僕は言うことをきいた。
と、いうか、こんな時間に自分から男の部屋に入っちゃうなんて……皇子が知ったら大変なんですけど。
まぁ僕は紳士だからね?
そこは信頼されてるのかもだろうけど、あとでちゃんと注意しておかないと。
「どこを痛めたの?」
「右手首だよ」
そう正直に答えて、右手を素直に差し出す。
美少女に傷の手当てをしてもらえるなんて、拒否するのはもったいない。
リディは薬を手に取ると、優しく撫でるように塗ってくれている。
でも、人にやってもらうのは苦手なのに、なんでリディだと嫌じゃないんだろう?
それは美少女とかは関係ない気がするけど……もしかして、僕って自分で思ってるよりリディを気に入ってるのかな?
他人事のようにそんなことを考えていると、リディがかすれた声を出した。
「私のせいで……ごめんなさい……」
「いや。別にリディのせいじゃ……って、えっ!?
泣いてる!? えっ!? な、なんで!?」
彼女の顔を覗くと、大きな瞳には今にもこぼれ落ちそうな涙が浮かんでいた。
ええ!? なんで!? 今、泣くようなことあった!?
あっ……私のせいでって言ってたし、もしかしてこの怪我の責任を感じてる?
貴族令嬢が男性に守ってもらうなんて当たり前のことじゃないか。
泣くほど気にするような令嬢がどこにいる?
「大丈夫だよ!? こんな怪我、仕事柄よくしてるし!
赤くなってるだけで、痛みだってないから!」
慌ててそうフォローするが、リディは泣き止むどころかさらに泣いてしまった。
浮かんでいるだけだった涙も、とっくにボロボロとこぼれ落ちている。
「うーー……。もう、なんでそんなに優しいのーー」
「ええ!? なんでそれで泣くの!?」
優しいという理由で泣かれるなんて初めてなんだけど、何これ?
え。僕、どうしたらいいの?
涙を流しながらも僕の手に包帯を巻いてくれているリディが無性に可愛くて、抱きしめたい衝動に駆られた。
勝手に動き出した左手を、なんとか残ってる理性で止める。
……いや。いやいや、ダメでしょう!
ここは僕の部屋だし、夜だし、何故かリディはお風呂上がりっぽくていい匂いがするし、絶対にダメなやつでしょ!
「ふぅ……」
なんとか心を落ち着かせて、彼女の頭に手をのせてポンポンと撫でた。
本当は頭ではなく背中に回そうとしていた左手だ。
うん。よく我慢した。えらい、僕。
自画自賛しながらも、今度は彼女を落ち着かせるために話をする。
泣いて謝られるよりも、笑顔で『ありがとう』と言われたい……そう伝えると、彼女はキョトンとした顔でジーーッと見つめてきた。
胸がギュッと軽く締めつけられる。
うーーん……そんな顔で見つめられると、せっかく我慢した僕の理性がまた緩いじゃうんですけど。
なんとかこらえようと、いつもの悪ふざけのモードに入る。
しおらしいリディじゃ手を出しそうになっちゃうから、普段のリディに戻ってほしい。
「まぁ、リディの泣き顔もそれはそれでいいんだけどねぇ〜!
思わず抱きしめたくなっちゃうほど可愛いし?」
「抱き……!?」
「あっ! 冗談冗談! 怖いお兄様には言わないでね?」
なんて。冗談じゃないんだけどね。
リディは最初呆れたような顔をした後に、少しだけ頬を赤くした。
濡れた髪が目に入り、熱が出てきたんじゃないかと不安がよぎる。
「リディ、なんか顔が少し赤いけど大丈夫?
髪も濡れてるし、君、お風呂上がりだろ?」
「あっ、そういえばそうだったわ」
「寒くなって熱でも出ちゃった?
ほら、僕が温めてあげるから、こっちにおいで?」
本音を冗談っぽく言って両手を広げると、リディがジッと真顔で見つめてくる。
きっと、「まったくジェイクは……」って呆れたように言うんだろうな。
そう思っていると、リディが僕に抱きついてきた。
ぎゅっと背中に手を回される。
「!?」
え!? …………え!? 本当に来た!?
身体の中心に感じる柔らかい温もりに、すぐ近くから香ってくるリディの香り。
これが空想ではなく現実だと、嫌というほど伝わってくる。
「え、えーーと、リディアさん?」
「なに?」
「あの。何して……」
「ジェイクがおいでって言ったから来ただけだけど?」
「そ、それはそうだけど」
確かに僕が言ったけど!
でも、本当に抱きついてくるとは思わないじゃないか!
え!? なんなのこの子!! 危機感をどこに落としてきちゃったの!?
今の状況わかってる!?
いつもなら軽く受け止めて、ラッキーとばかりに抱きしめ返すところだけど……できない。
そんなことしたら、それだけでは終わらないかもしれない。
手は背中には回さず、リディの肩に置いた。
引き剥がすことも抱きしめることもできずに困っていると、彼女が自分から離れた。
うつむいているので顔が見えない……と思ったら、笑顔の彼女が顔を上げる。
ドキッ
心臓が大きく跳ねたのがわかる。
「ジェイク、今日は色々とありがとう」
そう言うなり、リディは僕に背を向けて部屋から出ていった。
「おやすみ!」と声をかけたが、コクッと頷くだけでこちらは振り向かなかった。
バタン!
ドアが閉まった途端に、「はああーー……」とため息をつきながらうずくまる。
完全に足の力が抜けてしまった。
なんだったんだ……小悪魔か? いや、悪魔か?
見事に人の心を乱してくれちゃって……。
『緊張』という言葉とは無縁の僕が、今でもまだドキドキと鼓動の速い心臓に驚いている。
きっと今の僕の姿を見たら、マリはニヤニヤしてとても喜ぶだろう。
なんとか立ち上がり、すぐ後ろにあるベッドにゴロンと横になった。
こんな近くにベッドがあったことを、リディはわかってたのか?
「……いや、わかってないな。絶対」
ここは悪役に徹して、ベッドに押し倒すくらいした方がよかったかな?
そうしたら、こんな状況で男に抱きついたらダメなんだよってことを伝えられ……って、ダメだ。
万が一にも僕がそんなことしたってバレたら、兄や皇子に殺されちゃう。
こわいこわい。
鬼の形相をした兄2人と皇子と騎士の姿が頭に浮かび、ブルッと寒気に襲われる。
彼女を手に入れるには、あの鬼4人と戦わなくてはいけないのだ。
そんな無茶な戦いに挑む猛者はいるのか?
「無理無理!」
このまま寝てしまおうと、クルッとうつ伏せになる。
枕に顔を埋めて目を閉じる。
どこでも寝られる僕は、とっても寝つきがいい男……のはずなのに。
「…………」
「…………」
「……寝られない!!!」
大きな独り言を叫んでガバッと起き上がる。
悔しいことに、僕の胸にはまだリディの感触が残っている。
顔にかすかに触れた濡れた髪や、彼女の香りまでも頭から一切なくなってはいなかった。
ああ、もう!! こんなの初めてだ!
思春期でもあるまいし、どうしちゃったんだ。
落ち着かせるために鬼4人の顔を想像してみるが、すぐに最後に見たリディの笑顔が浮かんでしまう。
……こうなったら、騎士くんの部屋にでも忍び込んでみようかな?
めちゃくちゃに怒られたら、気持ちがスッキリするかも。
そういえば、リディの人柄が変わる前は騎士くんに対して異常にベタベタしていたと調査書に書いてあった。
夜に自室に呼ぶことも多かったとか。
当時の騎士くんは彼女にかなり冷たかったらしいから、それを迷惑がっていたみたいだけど。
今の騎士くんがリディにそんなことされたら、彼はどうなってしまうのか。
「ははっ」
真っ赤になって慌てる騎士くんを想像すると、思わず笑ってしまった。
おもしろいと思うと同時に、胸のどこかにモヤモヤとした影を感じる。
少し前まではリディと騎士くんを応援していたはずなのに、不思議な感情だ。
「ほんと、思った以上に気に入っちゃったなぁ……」
そう呟いてから、そっと目を閉じる。
まだまだ眠れそうにないけど、こんな夜も悪くないかもしれない。
そう思いながら長い夜を過ごした。




