衆合地獄 38
酩帝街北区の大図書館。境界付近という立地が幸いしてか、あるいは単にこの街の住人たちが活字に興味を抱かないためか、此処に訪れる者の数は常に限定的である。高い天井を支える太い柱と、視界の果てまで整然と立ち並ぶ木製の書架。其処には無数の書物が眠り、年代を経た紙特有の甘く饐えた匂いと、乾いたインクの香りが冷たい大気の中に澱んでいる。外の世界の喧騒から完全に隔離されたこの静謐な空間は、狂騒と享楽に支配された酩帝街においては極めて特異な場所であり、黄昏愛にとって最も足を運ぶ機会の多い避難所であった。
窓から射し込む鈍色の光が、無数の塵を空中に浮かび上がらせながら、長大な机の片隅を四角く切り取っている。その光の海に身を浸す形で、一人の女性が静かに座していた。緩く束ねられた紫色の長髪が、彼女の僅かな動きに合わせて背中で滑らかな弧を描く。肌寒い室内に合わせて纏われたクリーム色のニットは柔らかな起毛感を主張し、ゆったりとしたフレアスカートが下半身の輪郭を優美に覆い隠している。
数千年前からこの図書館の管理を任されている彼女は『バックベアード』と呼ばれる怪異であり、その顔の半分を占める巨大な単眼が彼女の人間離れした正体を雄弁に物語っていた。
そしてつい最近『べあ子』という愛称を手に入れた彼女の前には、その名付け親である黒いセーラー服の少女、黄昏愛が座っている。愛は今日この図書館を訪れ、べあ子のすぐ目の前という距離で向かい合い、同じ机を共有していた。
「すごい……本当に、やり遂げてしまうなんて……」
べあ子の口から零れ落ちた感嘆の声は、静まり返った閲覧室の空気を微かに震わせる。単眼の奥に宿る瞳孔が限界まで収縮し、信じ難い奇跡を目の当たりにしたかのような驚愕がその表情を支配している。
その日、愛はこの停滞した街からついに脱出する方法を手に入れたという事実を、隣に座るべあ子へと打ち明けていた。出口のない迷宮に等しい衆合地獄から抜け出すという偉業は、この街の住人にとって到底信じられない出来事である。
愛はこの時、その具体的な手法までを彼女に開示することはなかった。知ったところで彼女にはどうしようもないという現実的な理由もあるが、最大の懸念は他にある。この街から外部へ繋がる真実には、三獄同盟が結んだ厳格な契約が絡み合っていた。フィデスが警告した通り、外部に秘密を漏洩した者は関係者もろとも例外なく『腕』の苛烈な制裁を受ける運命にある。もしも愛が軽率に真実を語り、べあ子がその知識を共有してしまえば、彼女もまた制裁の対象として理不尽な死の螺旋に巻き込まれる危険性が高い。
その万が一の破滅を危惧し、愛は『净罪』というシステムに関する一切の詳細を自らの口内に封じ込める。結果として、とにかくいつでもこの地獄から立ち去れる状態が整ったという事後報告のみをべあ子に伝えるに留めたのであった。
斯くして永遠の牢獄から抜け出す鍵を手に入れたという報せを受けたべあ子は、元来大きな単眼をさらに大きく見開いたまま、しばしの間呆然と愛の顔を見つめていた。数千年、あるいは数万年の孤独を生き抜いてきた彼女の知性を以てしても、その事実を咀嚼し理解するには相応の時間を必要としたのである。
「……やっぱり、思った通りでした」
長い沈黙の果てに、べあ子は滴り落ちる雨雫のような静けさで言葉を紡ぎ始めた。普段の彼女は知の番人に相応しい落ち着きと物静かな雰囲気を纏っているが、現在の彼女の声音にはどこか深い悲哀の色が混じっている。
「愛さんは、主人公だったんです。誰よりも特別な、代わりのいない唯一人。先に進むべき、光の中の人……」
べあ子の脳裏に去来していたのは、かつて自分自身が胸に抱いていた遥か遠い日の情熱であった。次の階層には一体何が待ち受けているのか。この地獄の果て、最奥底にはいかなる真理が隠されているのか。かつての彼女もまた、未知の領域を求め歩みを進める探求者の一人であった。数多の困難を乗り越え、理不尽な暴力に耐えながら、彼女は必死に先を目指して足掻き続けた。しかしその旅路の果てに彼女が辿り着いたのは、この終わりのない酩帝街という巨大な停滞の沼であった。
「たとえ何百年、何千年かかっていたとしても、愛さんは諦めなかったと思います。私とは違って……」
彼女の旅程は此処で途絶えた。果てしない時間の奔流を前にして、彼女はついに前へ進む意志を喪失したのである。未知への渇望は色褪せ、無限に等しい時間の中で擦り切れ、最終的に彼女は本の中に記述された文字の羅列に己の夢想を託すことを選んだ。彼女はこの図書館の一部となり、安全で退屈な箱庭の中で永遠に微睡むことを受け入れたのである。だからこそ、決して諦めることなく特異点であり続けた愛の姿が、べあ子の目にこれほどまでに眩しく、遠い存在として映るのだ。
「……いえ。私ひとりではどうしようもありませんでした。皆さんの助けがあってこそです」
過去の挫折を噛み締めながら寂しげに俯くべあ子の視界に、白磁のように滑らかな少女の手が入り込む。愛は机の上に置かれたべあ子の手の甲へ、自らの華奢な手をそっと優しく重ね合わせた。ひんやりとしたべあ子の肌の表面に、愛の確かな体温が静かに浸透していく。
「そして、その皆さんの中には……べあ子さんも含まれているんですよ。本当に……ありがとうございました」
愛の口から発せられたのは、紛れもない真実であった。狂気に満ちたこの街で、愛が自分を見失うことなく平穏な思考を保てたのは、この図書館という静域と、べあ子という存在があったからに他ならない。一人では決して扉をこじ開けることはできなかったという愛の謙虚な言葉は、べあ子の冷え切った心を内側から温かく満たしていく。
その真っ直ぐな感謝の念を受け取ったべあ子は、長い睫毛を震わせながらゆっくりと顔を上げた。単眼の焦点が合い、至近距離で愛の整った顔立ちと正面から視線を交差させる。
「……これでもう、お別れなんですね」
愛が今日、限られた時間を使ってこの図書館へ足を運んだ理由は他でもない。べあ子に対して最後の別れを告げる為である。この狂騒の街で過ごした一ヶ月という月日。永遠を生きる者からすれば瞬きをするほどの短さでありながら、愛にとっては酷く濃密で、間違いなく記憶の底に刻み込まれる時間であった。特にべあ子との静かな交流は、数少ない安らぎとして愛の心に強く印象付けられている。
「私の目的は『あの人』を捜すことですが――べあ子さんの分まで観てきます。この世界の全てを、この目で」
愛の放ったその宣誓は、単なる気休めなどではなく、魂の底から湧き上がる純粋な決意の表れであった。一切の淀みを持たない純黒の瞳が、真っ直ぐにべあ子の単眼を見据えている。深い夜の闇を凝縮したかのようなその瞳の奥には、どんな障害をも退ける強靭な意志の光が宿っていた。
べあ子の視線は、その恐ろしいほどに純粋な瞳孔の引力に完全に釘付けとなる。自分よりも遥かに短い時間しか生きていない、か弱き未成年の少女。それにも関わらず、愛の背骨を貫く確固たる芯の強さは、数千年を無為に過ごしてきた自分よりも遥かに大人びて見えた。ただでさえ子供離れした人間離れした美貌を持つ愛に、至近距離でその熱を孕んだ眼差しを向けられ、べあ子は自身の心臓が早鐘を打つのを自覚する。白い肌に隠された微細な血管が熱を持ち、彼女の頬を無意識の内に薄紅色へと染め上げていた。
「……ありがとう」
べあ子の胸を打ったのは、決してその圧倒的な美貌に対する感嘆だけではない。かつて自分が諦め、捨て去ってしまった未知への探求。この世界の全てを観たいという、かつての自分の無念を汲み取り、それを背負って歩むと誓ってくれた愛の言葉が、何よりも深くべあ子の魂を救済したのである。喪失感に沈んでいたべあ子の表情に、ようやく一筋の光が差し込み、柔らかな笑みが本来の美しさを取り戻していく。
「愛さん。もしも……いつかまた、お会いすることが出来たら……」
べあ子の脳裏に、一つの壮大な幻想が組み上がっていく。古い書物のページから直接現実世界へと抜け出してきたかのような、常識外れの怪物少女。彼女の歩む道程は、きっと数多の困難と奇跡に彩られているに違いない。彼女ならば本当に、この腐り切った世界の全てを暴き、誰も到達できなかった最深部の真理へと辿り着くのではないか。初めてこの図書館で出逢い言葉を交わしたあの日から、べあ子は密かにそんな期待を抱き続けていたのだ。
「ぜひ、聞かせてくださいね。貴女の冒険譚……めくるめく物語を……」
故に、胸の奥底で燻り続けていた積年の願いを、べあ子はその震える声に乗せて紡ぎ出す。窓から射し込む鈍色の光が、静かに旅立ちの時を告げる。塵の舞う静謐な空間で、図書館の主は目の前の少女に向けて静かに微笑んだ。これから始まる苛烈な運命の旅路を祝福し、少女の背中を穏やかな祈りで見送るために。
◆
酩帝街南区の大通りから大きく道を外れた、西区との境界に近い南西方面。計算された区画整理など存在しない無軌道な建築物たちが、互いに肩を寄せ合うようにして乱雑に建ち並んでいる。常に淀んだ酩酊の霧が充満するこの地区の片隅には、周囲の退廃的な空気とは一線を画す広大な敷地を持つ学校が存在していた。
地獄という理不尽な死後の世界において、子供の姿をした怪異の数は決して少なくない。それは即ち、現世において幼い年齢のまま命を落としてしまう人間が数多く存在するという残酷な事実の裏返しである。さらに地獄という空間は性質上、生前に深い縁のあった人物と再び巡り会える可能性は極めて低い。ましてや家族と無事に再会できる確率に至っては、天文学的な数字と言っても過言ではない。
この地獄において、身寄りを持たない脆弱な子供は、よほど戦闘に特化した強力な異能を保持していない限り、悪意に満ちた大人の怪異の餌食にされるのが典型的な末路であった。弱肉強食という言葉すら生温いその凄惨な連鎖を断ち切るため、児童達に安全な居場所と再び学べる機会を与えるべく、堕天王の鶴の一声によってこの酩帝街では比較的早い段階で教育施設が建造されていたのである。
「あ、王さまだ!」
堕天王こと如月暁星が学校前の敷かれたブロック舗装の歩道を通りかかった瞬間、弾けるような元気な声が大気を震わせた。乾いた土の匂いが漂うグラウンドに校内から飛び出してきた無数の児童達が群がり、鉄柵越しに暁星へ向かって一斉に小さな手を振っている。
「こんにちはー!」
「はーい、こんにちは★」
無邪気な声援を受け、暁星もまた満面の笑みを浮かべて手を振り返す。現在の彼女は灰色のパーカーに黒い短パンという極めてラフな装いに身を包んでいた。特徴的な青い髪をストレートに下ろして目深にキャップ帽を被り、顔の半分を覆い隠すような伊達メガネを掛けるという、彼女なりの厳重な変装スタイルである。
「あはは……おかしいなあ、変装してるのに……なんですぐバレちゃうんだろ……★」
賑やかな学校前を通り過ぎた後、暁星は不思議そうに首を傾げながら苦笑いを浮かべていた。隠し切れない華やかなオーラと独特の歩様からすれば、もはや変装の意味は無いに等しいのだが、彼女自身がその根本的な原因に気付く日が果たして来るのかは定かではない。
「それで、お話の続きだけど★」
周囲の喧噪が少しずつ遠ざかる中、暁星は自身の左隣を一定の歩調で歩く少女、黄昏愛へと再び視線を戻した。
「この場合、おめでとう……で良いんだよね★ 愛ちゃんすごいなあ……ほんとにこの街から出る方法、見つけちゃうなんて★」
「はい、ありがとうございます。あきらっきーさんには大変お世話になりました」
「あはは★ わたしは何もしてないよー★」
べあ子と最後の別れを交わしたまた別の日、愛はこの酩帝街の頂点に君臨する堕天王・如月暁星の元へ出向いていた。豪奢なマンションの自室を訪ねた愛に対し、暁星は軽い調子で散歩を提案し、現在に至るまでこうして南区の裏通りを二人で並んで歩いている。
ここまでの道中において、愛はこの停滞した街から抜け出す方法を確保した経緯を、極めて端的に暁星へと伝達した。しかし如月暁星は過去に交わした契約によって、『净罪』を含めた羅刹王に関わる全ての内部情報を知る権利を恒久的に剥奪されている。もし愛が不用意に真実を語れば、関係者全員の四肢が即座に引き千切られるという無慈悲な制裁が下る。愛は以前べあ子に対してそうしたように、それ以上の詳細な説明を腹の底に飲み込み、固く口を噤む選択をした。
その制約の存在自体は暁星本人も深く把握しているため、言葉を濁す愛の不自然な説明を深く追求することなく理解を示してくれたのである。
「でも……うん。正直ちょっと複雑かな★」
しかしその言葉が紡がれた直後、暁星の唇に張り付いた笑顔はいつもの底抜けに明るいそれとは異なり、どこか言い知れぬ困惑と憂いの色を宿した複雑なものへと変貌していた。
「寂しいのも勿論あるけど……やっぱり、危ない目には遭ってほしくないからね」
そもそも彼女がこの酩帝街という巨大な享楽の街を第三階層に築き上げたのは、これ以上先の階層へ誰一人として進ませたくないという、切実な願いが根底にあったからだ。自らの身勝手な想いを申し訳なく感じながらも、一万年という途方もない時間を生きてきた暁星にとって、そこはどうしても譲り渡すことのできない感情の領域であった。
「第三階層から先には何も無い……この噂の本質はね、先に進めないからじゃない。二度と帰ってこれないからなんだ」
歩を進める速度を僅かに落とし、暁星は愛に寄り添うようにゆっくりと言葉を紡いでいく。それは隣を歩く年端もゆかない少女へと言い聞かせるような、優しくも確固たる意思の強さを孕んだ声色だった。
「羅刹王さんは昔から……ちょっと過激なヒトでね★ どうにか今は同盟を結ぶことが出来て、戦争を止めてもらえたけど……多分まだ諦めてないと思うんだよね……」
三獄同盟。それを結ぶに至った背景は、当事者達の歴史の中にしか存在しない。地獄から一切の戦争を無くすという無謀にも等しい野望を掲げ、現に如月暁星はこの第三階層に平和を実現させていた。しかしそこに至るまでの過程で彼女が何を犠牲に払ってきたのか、愛の想像が及ぶ範疇を遥かに超えている。
かつてシスター・フィデスも一ノ瀬ちりに対して詳細を語ることはなかったが、少なくとも羅刹王との間に横たわる深い因縁や凄惨な確執は、一万年という悠久の時を経た今でも冷えることなく燃え続けているようだった。
「確か愛ちゃんは……ヒトを捜してるんだったよね?★」
「……はい。なんとしてでも、会わなければならない人がいます」
暁星の瞳の奥には、彼女にしか見えない焦土の景色が広がっているのだろう。だからこそ無垢な愛をその業火の中へ進ませたくないのだ。それが果てしなく純粋な善意から来るものであると深く理解した上で、黄昏愛は一切の迷いを持たず、力強くその言葉を口にする。
「うん……そうだよね★ ならきっと、全部覚悟の上だと思うけど……それでも言わせてもらうね」
不意に暁星は足元の舗装を踏み締め、完全にその場に立ち止まった。そしてゆっくりと愛の華奢な肩に手を置き、自らの正面へと優しく振り向かせる。愛は導かれるままに身体の向きを変え、眼前の王と真正面から向き合った。赤と青の鮮烈なオッドアイ。銀河の星々を凝縮したかのような底知れぬ輝きを放つ彼女の両目を至近距離で覗き込み、愛は無意識の内に鋭く息を呑む。
「きっと死ぬより辛い目に遭うよ。羅刹王さんの領土に踏み込むっていうのはそういうことなの。正直、わたしは愛ちゃんに、先へ進んでほしくない」
黄昏愛よりも一回り小さな躯でありながら、その内側に一万年分の業を秘めた如月暁星の言葉は、大気を圧するほどの重みを伴っていた。親しみやすい笑みを完全に消し去ったその静かな真顔は、第三階層を統べる堕天王の名に相応しい圧倒的な貫禄を放っている。
肌を刺すようなその重圧を前にして、愛の純黒の瞳が反射的に視線を逸らしそうになる。
「……忠告、ありがとうございます」
しかし愛は奥歯を強く噛み締め、震えそうになる足に力を込めてその場に踏み留まった。
「私は、大丈夫です」
「……だよねっ★ わたしも愛ちゃんなら大丈夫だと思う★」
張り詰めていた緊張の糸が切れたかのように、如月暁星は瞬時にいつもの快活な調子を取り戻し、顔いっぱいに明るい笑みを咲かせた。
「脅かしてごめんね? でも心配は心配なんだよっ!? ほんとのほんとに気をつけてねっ!?★」
「もちろんです。本当に、ありがとうございます。気にかけてくださって」
お互いに柔らかな微笑みを交わし、彼女達は再び並んで歩き始めた。愛の目的である別れと感謝を伝えるという役目は既に果たされたのだが、このまますぐに帰路に就くのは何故だかひどく惜しい気がした。霧に包まれた街の景色を眺めながら、二人はしばらくの間とりとめのない談笑を続けることにしたのである。
元を正せば世代の近い十代の少女同士だ。他愛のない些細な話題でも軽快に会話が弾み、薄暗い路地を歩く最中でも二人の間から明るい笑い声が途絶えることは無かった。
「あぁ、そっか……わかっちゃった★」
そんな愉しげな散歩の途中、暁星がふと空から啓示を受けたかのように、ポンと手を叩いて声を上げた。
「どうしてわたし、愛ちゃんのこと見てると放っておけなくなっちゃうんだろうって……自分でもちょっと不思議だったんだけど――」
暁星は立ち止まり、愛の端正な顔立ちを穴の開くほどまじまじと見つめた後、自分一人で納得のいく答えを見つけたように首を縦に振っている。
「わたし、妹がいるんだよね★ きっと愛ちゃんに、妹ちゃんの面影を重ねちゃってたのかも★」
「へえ……妹さんがいるんですね」
「そうなの★ よく出来た妹でねえ★ 生きてた頃はわたしのアイドル活動を裏で支えてくれた一番の立役者★ ていうか、プロデューサーだったんだよねっ★」
稀代の天才アイドルである如月暁星に優秀な妹が存在するという情報は、生前に彼女の熱狂的な活動を追っていた者ならば誰もが知っている程度には有名な逸話である。
しかし華やかな表舞台で光を浴びる姉とは対照的に、妹がメディアに顔を露出することは決して無く、その真の素顔を知る者は極一部の関係者を除いて皆無である。かつて『あの人』が愛に語り聞かせてくれた古い記憶の断片を、愛は脳裏の片隅でぼんやりと引き摺り出していた。
「あぁそうだ……そうだよ、どうして気が付かなかったんだろ。考えれば考えるほど、妹ちゃんって……愛ちゃんとそっくりかも」
「そ、そんなに似てるんですか……?」
愛自身の持つ子供離れした美貌も相当なものであるが、眼前にいる如月暁星に至っては一万年に一人の奇跡と謳われるほどの超絶的な美貌の持ち主である。そんな恐ろしいほどに整った顔面が至近距離まで迫り、熱を帯びた瞳でこちらを覗き込んでくる状況に、流石の愛もたじろいで僅かに身を引いた。
「あ、お顔の造りがどうとかじゃなくてね……なんていうか……」
「……?」
しかし暁星は言葉を濁し、愛の瞳の奥に確かな妹の面影を捉えた途端、いつもは晴れやかなその顔を酷く沈痛なものへと曇らせたのである。
「……妹ちゃんね。わたしが死んだ後すぐ、自殺したんだって。わたしを追いかけてさ」
息が止まるような感覚だった。その重苦しい一言によって、暁星の言う「面影」の正体が単なる外見の類似ではないことに愛自身も気付き、純黒の瞳を静かに見開かせる。
「あ、そもそもわたしが死んだのは二十歳の時なんだけど★ その日はね、とある外国同士の戦争をわたしの歌で仲裁しに向かった後、帰りの日本行きの飛行機がジャックされてさー★」
「……んん?」
あまりにも突拍子のない内容に、一瞬だけ自分の聴覚が異常を来したのかと疑った。そのまま聞き流してしまいそうになったが、何度脳内で反芻しても明らかに常軌を逸した事象を口走っていたため、たまらず愛は会話の腰を折る。
「ちょ、待ってください……え、国同士の戦争を……? 歌で仲裁……?」
「もともと妹ちゃんには反対されてたんだけど……わたしの独断でね。どうしても放っておけなくてさ★ 戦争の方はなんとかなってね、仲直りしてもらったんだけど……ジャック犯は最初からわたしを狙ってたみたいで……殺されちゃった★」
「えぇ……?」
完全に理解の範疇を超え戸惑いを見せる愛を置き去りにして、嘘か真か判断する術もない壮絶なエピソードを、暁星は昨日の夕飯を語るかのような滑らかさで言ってのけた。二〇一七年の時点で、愛が知覚していた如月暁星ことあきらっきーは既に世界中を熱狂させるアーティストであったが、国境を越えた戦争の調停に関与したなどという荒唐無稽な話を、当時の愛は一度たりとも耳にしたことがない。
愛自身が命を落とした後、彼女の人生の空白期間に一体いかなる激動の歴史が刻まれていたのか。少なくとも、凡人の想像を絶するとんでもない伝説の数々を築き上げていることだけは疑いようの無い事実のようである。
「そんなこんなでわたしは地獄に落ちてきたんだけど……その千年後くらいだったかな? 今よりずっと発展途上だったこの街でね……妹ちゃんと再会したんだ」
「再会……できたんですね……」
その言葉の重みに、愛は思わず微かな声を漏らしていた。先ほども思考した通り、この広大で無慈悲な地獄において生前の家族と再会できる可能性は無に等しい。如月暁星がいかに光り輝く目立つ存在であったとしても、それが奇跡の連続であることに変わりはない。
「その時に、わたしを追って自殺したって聞いて……わたしが勝手なことして先に死んじゃったの、妹ちゃんすごく怒ってて……そこで喧嘩別れしたきり、一度も会えてないんだ」
地上の星が、暗く沈む霧の空を寂しげに仰ぎ見る。遥か遠い昔、不器用な感情のすれ違いによって離れ離れになってしまった大切な面影に思いを馳せながら、如月暁星はその日初めて、深い溜息を肺の底から吐き出した。
「わたしは全人類のことが大好きだけど……それでもやっぱり、妹ちゃんのことは特別なんだよね★ だから……今でもそれがずっと心残りで。もっとちゃんと、お話し……しておけばなあって……」
妹は今でもこの地獄のどこかで生き長らえているのだろうか。たとえ存在していたとしても、長い月日が彼女をどのような姿に変質させてしまったのか。終わりのない絶望の中で廃人と化している可能性すら否定できない。もう二度と視線を交わすことは叶わないかもしれないという恐怖が付き纏い、実際に一万年もの途方もない時間、彼女は妹の姿を再び目にすることはなかったのだ。
「愛ちゃんは、もし大切な人にもう一度会えたら……いっぱいお話ししてあげてね! ま、それこそ愛ちゃんなら大丈夫だと思うけど★」
それは、生前も死後も怪物的な伝説を誇るあの堕天王ですら叶えることの出来なかった悲願。如月暁星はその純粋な祈りのような夢を、確かにこの瞬間、目の前に立つ黄昏愛へと託したのである。
「……はい。任せてください」
戦争を止めるなんて芸当は到底真似できないけれど。大切な人に想いを伝えるなんて、そんなことは言われるまでもないことで。力強く頷いてみせる愛に、暁星は心底嬉しそうに口元を綻ばせていた。
今まさに、霧の街を見下ろす黒い太陽が少しずつ、西の方角へ傾きつつあるように。時間は止まらない。変わらないものなど存在しない。そして殆どの場合、それは劣化を意味する。
そういう意味でもやはり、酩帝街という場所は間違いなく、地獄に仏と呼べるだろう。殆どの者が停滞を求める。忘却を求める。それによって楽になりたいと考える。
それでも、そんな救いの手すらも振り払って。先に進みたいと願う者は確かに存在する。それが先に進む者としての、ある種の責任だとでも言うように。出逢ってきた者達の意思を受け継ぎ、黄昏愛はその決意を強く固めるのだった。




