衆合地獄 38
酩帝街北区、図書館。黄昏愛にとって此処は、この街で最も訪れた機会の多い建物の一つだと言える。境界付近に位置するとは言え北区に近いことも相俟ってか、来館者の数はそれほど多くはない。静謐さの保たれた場所は酩帝街においては存外珍しく、この図書館はその数少ないスポットであった。
そんな図書館を数千年前から管理している一人の女性がいる。紫の長髪を緩く束ね、クリーム色のニットとフレアスカートを纏う単眼のその女性は『バックベアード』の怪異であり――最近になって『べあ子』というあだ名を手に入れた。
その名付け親とも呼べるのが、黄昏愛。彼女は今日この図書館に訪れて、べあ子と同じ机に隣り合って座っている。
「すごい……本当に、やり遂げてしまうなんて……」
その日、愛はこの街から脱出する方法を手に入れた経緯をべあ子に語り聞かせていた。ただしその方法自体をべあ子に教えてはいない。
知ったところでどうしようもないというのもあるが――この街から出る方法、その真実は、三獄同盟の契約内容にも関わってくる。フィデス曰く、外部に秘密を漏らした者は関係者諸共に『腕』の制裁を受けてしまう。もし知ってしまえば、べあ子もその関係者として制裁に巻き込まれかねない。
その万が一を危惧し、愛は『净罪』について詳細を語ることは避け、とにかくいつでも出られる状態になったという結果のみをべあ子に伝えたのであった。
斯くして街から出る方法を手に入れたという報せを受けたべあ子、元々大きかった瞳を更に大きく見開かせ、しばし呆然。
「……やっぱり、思った通りでした」
彼女はやがて、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。いつも落ち着いていて物静かな彼女だが、今日は落ち着いているというよりむしろ、どこか落ち込んでいるようである。
「愛さんは主人公だったんです。誰よりも特別な、代わりのいない唯一人。先に進むべきひと」
彼女もかつてはそれを夢見ていた。次の階層には何が待っているのか、その最果てには何が有るのか、彼女は未知を求め進み続け――そうしてこの街に流れ着いた。
「たとえ何百年かかっていたとしても、愛さんは諦めなかったと思います。私と違って……」
彼女の旅はそこまでだった。そこで彼女は先に進むことを諦めた。本の中にその夢想を抱いて、彼女はこの街の一部と成ったのである。
「……いいえ。私ひとりではどうしようもありませんでした。皆さんの助けがあってこそです」
寂しげに俯く彼女の手の甲の上に、自分の手をそっと重ねて、愛は口を開く。
「そして、その皆さんの中には……べあ子さんも含まれているんですよ。本当に……ありがとうございます。お世話になりました」
その言葉にべあ子は顔を上げ、ようやく愛と視線を交わした。
「……これでもう、お別れなんですね」
愛が今日ここに訪れたのは他でもなく、べあ子に別れを告げる為である。この街で過ごした一ヶ月。長いようで短かった衆合地獄での日常は、間違いなく愛にとって思い出に残る時間であり、特にべあ子との出逢いは愛にとって強く印象に残るものとなっていた。
「私の目的は、『あの人』を捜すことですが――べあ子さんの分まで、観てきます。この世界の全てを、この目で」
真っ直ぐに向けられたその純黒の瞳に、べあ子の視線は釘付けになっていた。べあ子にとっては自分よりも遥かに年下の少女であるはずなのに、芯の通った愛の言動はまるで自分より大人びているようで。事実、子供離れした美貌の愛に見つめられて、べあ子は思わず頬を朱に染めている。
「……ありがとう」
無論、その美貌に見惚れているばかりではない。この世界の全てを観たいというべあ子の想いを汲んだその言葉が何よりも嬉しくて、べあ子の表情はようやく笑みを取り戻したのだった。
「愛さん。もしも……いつかまた、お会いすることが出来たら……」
まるで本の中から飛び出したような、規格外の怪物少女。彼女ならば本当に、この世界の全てを暴いてみせるのではないか。初めて出逢ったあの日から、そんな期待を抱かずにはいられなかった。
「ぜひ、聞かせてくださいね。貴女の冒険譚……めくるめく物語を……」
故に、積年の願いを言葉に乗せて――
図書館の主は、その旅路を静かに送り出す。
◆
酩帝街南区、大通りから外れた、西区寄りの南西方面。多種多様な施設が乱雑に建ち並ぶその地区には、学校が存在する。
地獄では子供の怪異が存外多い。それだけ現世では子供の内に死んでしまう人間が多いということでもある。更に地獄はその性質上、生前に縁のあった人物と出会える可能性は極めて低い。家族と再会できる確率に至っては天文学的な数字となるだろう。
故に地獄では身寄りのない子供達で溢れかえっている。そしてそんな子供達は――よほど戦闘に長けた強力な異能を持っていない限り――大人の怪異の餌食にされるのが、この地獄において典型的な末路である。
そんな児童達に地獄でも再び学べる機会を与える為、堕天王の指示により酩帝街では比較的早い段階で学校施設は造られていた。
「あ、王さまだ!」
堕天王、如月暁星が学校前の歩道を通りかかった瞬間、聞こえてくる元気な声。校内から飛び出した児童達がグラウンドに群がり、暁星に向かって一斉に手を振っていた。
「こんにちはー!」
「はーい、こんにちは★」
暁星もまた満面の笑みで手を振り返す。そんな彼女は今灰色のパーカーに黒い短パン、伊達メガネを掛けて、青い髪をストレートに下ろしキャップ帽を被ったいつもの変装スタイルである。
「あはは……おかしいなあ、変装してるのに……なんですぐバレちゃうんだろ……★」
学校前を通り過ぎた後、苦笑いを浮かべる暁星。もはや変装している意味は無いに等しいのだが、彼女がそれに気付く日は果たして来るのだろうか――
「それで、お話の続きだけど★」
そうして暁星は、自身の左隣を並んで歩く少女――黄昏愛に再び視線を戻したのだった。
「この場合、おめでとう……で良いんだよね★ 愛ちゃんすごいなあ……ほんとにこの街から出る方法、見つけちゃうなんて★」
「はい、ありがとうございます。あきらっきーさんには大変お世話になりました」
「あはは★ わたしは何もしてないよー★」
べあ子と最後の別れをしたまた別の日、この日の愛は暁星の下へ出向いていた。暁星の住むマンションに訪れると「ちょっとお散歩しよっか★」と誘われ、今はこうして南区を並んで歩いている。
ここまでの道中、愛は端的に、この街から出る方法を手に入れた経緯を暁星に伝えた。しかし如月暁星は契約によって『净罪』を含め羅刹王に関わる内部情報を知ることが出来ない。その権利を恒久的に失っている。教えようとすれば関係者全員の四肢が引き千切られる。愛はべあ子の時と同様に、それ以上の詳細な説明はせず口を噤むのだった。
その制約自体は暁星本人も把握している為、言葉を濁す愛の説明にも追求することなく、理解を示してくれた――のだが。
「でも……うん。正直ちょっと複雑かな★」
その言葉の通り、暁星の浮かべる笑顔はいつものそれとは異なり、どこか困惑の色を宿したような苦笑いだった。
「寂しいのも勿論あるけど……やっぱり、危ない目には遭ってほしくないからね」
そもそもこの酩帝街という場所を第三階層に造ったのは、それ以上先の階層へ誰にも進ませたくないという想いもあってのこと。それを申し訳ないと思いながらも、暁星にとってやはりそこは、どうしても譲り難い感情があるようだった。
「第三階層から先には何も無い……この噂の本質はね、先に進めないからじゃない。二度と帰ってこれないからだって、わたしは思ってるの」
歩く速度を僅かに落とし、暁星はゆっくり言葉を紡いでいく。それは隣にいる愛へ言い聞かせるように、優しくもどこか意思の強さを感じさせる声色だった。
「羅刹王さんは昔から……ちょっと過激なヒトでね★ どうにか今は同盟を結ぶことが出来て、戦争を止めてもらえたけど……多分まだ諦めてないと思うんだよね……★」
三獄同盟。それを結ぶに至った背景は、当事者達にしか知り得ない。地獄から戦争を無くす――そんな無謀にも近い野望を掲げ、如月暁星はこうして今実現に至っている。そこに至るまで彼女がどれほどの犠牲を払ってきたのか、愛には想像もつかなかった。
シスター・フィデスもそこまでは詳しく一ノ瀬ちりに教えることは無かったが――少なくとも。羅刹王との間に生まれた何らかの因縁、確執のようなものは、一万年前から今でも続いているようである。
「確か愛ちゃんは……ヒトを捜してるんだったよね?★」
「……はい。なんとしてでも、会わなければならない人がいます」
きっと暁星にしか知らない景色があって、だからこそ愛を先には進ませたくないのだろう。それが純粋な善意によるもので、それを理解して尚――黄昏愛は力強く、はっきりとその言葉を口にする。
「うん……そうだよね★ ならきっと、全部覚悟の上だと思うけど……それでも言わせてもらうね」
暁星は歩みを止め、その場に立ち止まった。そして愛の肩にそっと手を置いて、自分の方へ優しく振り向かせようとする。愛はそれに応じるように、自ら暁星の方へ顔を向けた。赤と青のオッドアイ。銀河のような輝きを放つ彼女の両目を間近に覗いて――愛は思わず息を呑む。
「――きっと死ぬより辛い目に遭うよ。羅刹王さんの領土に踏み込むっていうのはそういうことなの。正直、わたしは愛ちゃんに、先へ進んでほしくない」
黄昏愛よりも一回り小さなその身体で、一万年。酸いも甘いも呑み干した如月暁星の言葉には相応の重みがあり、笑みを消したその真顔は王の名に相応しい貫禄を感じさせる。
それを前にして一瞬、反射的に逸しかけた視線を――
「……忠告、ありがとうございます」
愛はその場にどうにか踏み留まらせていた。
「私は、大丈夫です」
「――だよねっ★ わたしも愛ちゃんなら大丈夫だと思う★」
先程までの緊張感はどこへやら、如月暁星は途端にいつもの調子で明るい笑みを咲かせる。
「脅かしてごめんね? でも心配は心配なんだよっ!? ほんとのほんとに気をつけてねっ!?★」
「もちろんです。本当に、ありがとうございます。気にかけてくださって」
お互い微笑み合って、彼女達は再び歩き出した。愛としては既に別れと感謝を伝えるという目的は果たされたのだが――このまますぐに帰るのはなんだか惜しい気がして。二人はしばらく、談笑と共にこの街をぶらつく事にしたのだった。
元より世代の近い二人の少女である。何でも無いようなことでも会話が弾み、帰り道の最中でも二人揃って笑顔が絶えることは無かった。
「あぁ、そっか……わかっちゃった★」
そんな愉しげな帰路の途中、暁星がふと何かに気付いたように声を上げたのだった。
「どうしてわたし、愛ちゃんのこと見てると放っておけなくなっちゃうんだろうって……自分でもちょっと不思議だったんだけど――」
暁星は愛の顔をまじまじと見つめ、何やら納得したように一人でウンウンと頷いている。
「わたし、妹がいるんだよね★ きっと愛ちゃんに、妹ちゃんの面影を重ねちゃってたのかも★」
「へえ……妹さんがいるんですね」
「そうなの★ よく出来た妹でねえ★ 生きてた頃はわたしのアイドル活動を裏で支えてくれた一番の立役者★ ていうか、プロデューサーだったんだよねっ★」
如月暁星に妹がいるという情報は、生前に彼女のアイドル活動を追っている者ならば誰もが知っている程度には有名な話である。
しかし姉である暁星とは違い表舞台に顔を見せることは無く、その素顔を知る者は関係者を除けば殆どいない――という話を『あの人』が語り聞かせてくれたかつての記憶を、愛はぼんやりと思い出していた。
「あぁそうだ……そうだよ、どうして気が付かなかったんだろ。考えれば考えるほど、妹ちゃんって……愛ちゃんとそっくりかも」
「そ、そんなに似てるんですか……?」
愛の美貌も相当だが、如月暁星に至っては一万年に一人の美少女と謳われる程の超美貌である。そんな顔の持ち主がすぐ傍でこちらを覗き込んでくる状況に、流石の愛も思わずたじろいでいる。
「あ、お顔の造りがどうとかじゃなくてね……なんていうか……」
「……?」
しかし暁星はというと、愛に妹の面影を重ねた途端、その顔を珍しく曇らせているようだった。
「……妹ちゃんね。わたしが死んだ後すぐ、自殺したんだって。わたしを追いかけてさ」
はっとした。その一言で暁星が言っている「妹の面影」の正体に愛自身も気が付いて、目を静かに見開かせる。
「あ、そもそもわたしが死んだのは二十歳の時なんだけど★ その日はね、とある外国同士の戦争をわたしの歌で仲裁しに向かった後、帰りの日本行きの飛行機がジャックされてさー★」
「……んん?」
一瞬、聞き間違いかと思った。ので、思わず聞き流しそうになったが――やはりどう思い返してもおかしな事を口走っていたので、たまらず愛は口を挟む。
「ちょ、待ってください……え、国同士の戦争を……? 歌で仲裁……?」
「もともと妹ちゃんには反対されてたんだけど……わたしの独断でね。どうしても放っておけなくてさ★ 戦争の方はなんとかなってね、仲直りしてもらったんだけど……ジャック犯は最初からわたしを狙ってたみたいで……殺されちゃった★」
「えぇ……?」
戸惑う愛を差し置いて、嘘か真か判断に苦しむとんでもエピソードを淀みなく言ってのける如月暁星であった。2017年の時点で、愛が知る如月暁星ことあきらっきーは既に世界的に有名なアーティストでありアイドルではあったが、戦争云々に関わったという話を当時の愛は聞いたことも無い。
愛が死んだ後、彼女の人生で一体どんな経緯があったのか。少なくとも、とんでもない伝説の数々を作り出しているのは間違い無さそうである。
「そんなこんなでわたしは地獄に落ちてきたんだけど……その千年後くらいだったかな? 今よりずっと発展途上だったこの街でね……妹ちゃんと再会したんだ」
「再会……できたんですね……」
そこでもまた、愛は思わず声を上げていた。先に述べた通り、この地獄という場所で家族と再会できる可能性は極めて薄い。如月暁星がいくら目立つ存在だったとはいえ、それは奇跡に近い確率である。
「その時に、わたしを追って自殺したって聞いて……わたしが勝手なことして先に死んじゃったの、妹ちゃんすごく怒ってて……そこで喧嘩別れしたきり、一度も会えてないんだ」
地上の星が天を仰ぐ。遥か昔、離れ離れになってしまった面影に思いを馳せて――如月暁星はその日初めて、溜息を漏らすのだった。
「わたしは全人類のことが大好きだけど……それでもやっぱり、妹ちゃんのことは特別なんだよね★ だから……今でもそれがずっと心残りで。もっとちゃんと、お話し……しておけばなあって……」
妹は今でもこの街に居るのだろうか。たとえ居たとしても今どんな姿をしているのだろうか。既に廃人と化している可能性すらある。もう二度と再会出来ないかもしれないし、実際に一万年もの間、妹の姿を再び見ることはなかった。
「愛ちゃんは、もし大切な人にもう一度会えたら……いっぱいお話ししてあげてね。……ま、それこそ愛ちゃんなら大丈夫だと思うけど★」
それは、生前も死後も戦争を止めてきた怪物的伝説を誇るあの堕天王ですら、叶わぬ夢。如月暁星はその夢を、確かにこの時、黄昏愛に託したのだった。
「……はい。任せてください」
戦争を止めるなんて芸当は到底真似できないけれど。大切な人に想いを伝えるなんて、そんなことは言われるまでもないことで。力強く頷いてみせる愛に、暁星は心底嬉しそうに口元を綻ばせていた。
今まさに、霧の街を見下ろす黒い太陽が少しずつ、西の方角へ傾きつつあるように。時間は止まらない。変わらないものなど存在しない。そして殆どの場合、それは劣化を意味する。
そういう意味でもやはり、酩帝街という場所は間違いなく、地獄に仏と呼べるだろう。殆どの者が停滞を求める。忘却を求める。それによって楽になりたいと考える。
それでも、そんな救いの手すらも振り払って。先に進みたいと願う者は確かに存在する。それが先に進む者としての、ある種の責任だとでも言うように。出逢ってきた者達の意思を受け継ぎ、黄昏愛はその決意を強く固めるのだった。




