衆合地獄 34
「どうしタ? いつまでもそんな所に居ないデ、こっちに来いヨ」
部屋の中央、台座に肘を付いて凭れ掛かるシスター・フィデスは、地上に繋がる梯子付近で未だ留まる一ノ瀬ちりのことを愉快そうに眺めていた。当然この状況でフィデスに近寄ろうなどという安易な行動をちりが取るはずも無いが――それ以上に。先へ進ませることを躊躇わせる要因が、ちりをその場に踏み留まらせている。
それは、この『部屋』に入った瞬間起きていた。気付けばちりの頬からは赤みが消え、脈拍も正常に戻っている。地上では散々苦しめられてきた二日酔いのようなあの感覚が、綺麗さっぱり無くなっていた。
盛者必衰の理が働いていない。この『部屋』は間違いなく――ノアの箱舟と同じ――酩酊を無視している、理外の存在。つまり此処では――暴力を振るうことが出来る。そんな環境で、シスター・フィデスと鉢合わせているこの状況。近付くどころか、身動き一つ取ることさえ躊躇われる。
そんな状況でちりは前方、フィデスの姿を視界に捉え続ける。せめて目を離さないよう、警戒を怠らないよう、全神経をフィデスに向けて集中していた。
「……なんだよ、こんな場所でオレが来るのをずっと待ってくれてたのか? 拷问教會の幹部ってのは案外暇なんだな」
「嗚呼そうサ、ずっと待っていたンだゼ? キサマが此処に来るのヲ、九千年前からずっとナ。来てくれてドウモアリガトウ。退屈で死にそうだったんダ。いやホント、間に合って良かったヨ」
「…………」
牽制のように皮肉を口にするちりに対し、受け流すどころか含みのある言い回しでそれを返すシスター・フィデス。ちりの眉間に皺が集まる。互いの距離は数メートルを維持したまま、縮まる気配は無い。
「安心しロ、殺し合うつもりはナイ。その気なら最初からそうしていたサ。キサマも解っているはずダ」
「……どうだかな」
後ろ手に赤い爪を構えるちりに、フィデスはわざとらしく肩を竦めてみせる。黒いネイルに彩られた左手の爪を、コンクリートのような材質で出来た台座の上、退屈そうに弾かせていた。
その間もちりの思考は回転を続けている。フィデスに交戦の意思が無くとも、ならば他の狙いが必ずあるはずで。それはきっと碌でもない事に違いなくて。故に、隙を見せるわけにはいかない。相手のペースに呑まれてはいけない。むしろ、こちらから仕掛けてやるつもりでいるべきだろう。
そう、盛者必衰の働かないこの『部屋』でなら、一ノ瀬ちりにだって暴力は振るえる。ならば。ともすれば、フィデスを力尽くで無力化してやることだって――
「ヤめとけヨ」
そんなちりの思惑を、やはり見透かしたように彼女は言い放つ。そして直後、彼女は右手を掲げてみせた。するとその周辺の虚空から、黒いモヤのようなものが湧き出して――
「コイツの前で駆け引きなんザァ、何の意味も成さないゼ」
次の瞬間、彼女の手の中には一冊の、黒い装丁の本が顕れていた。六法全書ほども厚みのあるそれは、触れずともひとりでに頁を開いていく。
「それが……オマエの異能か」
明らかに尋常ならざるその物体を前にして、ちりの首筋には冷たい汗が流れ落ちていった。
「『閻魔帳』――ココにはキサマの全てが載っていル。思考、記憶、数値化可能なあらゆる情報、キサマの全てをアタシはキサマ以上に識り尽くしていル。その意味が解るナ?」
フィデスが閻魔帳と呼ぶその本には、これまで出逢った者達の全てが載っている。故にフィデスは全てを識っている。一ノ瀬ちりという本名も、その経歴も、身長も体重も、異能の条件も、そして――彼女の弱点となり得る存在も。
「ホラ。腹割って話そうゼ」
直接的な言葉は使っていないが、それはもはや脅迫以外の何物でもなかった。全てを把握されているのなら、思考を文字通り読まれてしまうのならば、確かに駆け引きの意味は無い。何より――九十九や愛に危害が及ぶ可能性すらある。ちりにとっては圧倒的に不利な状況。今は彼女の機嫌が損ねないよう従うしかなかった。
気安く手招きをしてくるフィデス。その挑発的な表情を睨み付け、唇を噛み締める――それ以上のことは出来ず、ちりはついに一歩、足を踏み出したのだった。
離れていた距離が一気に縮まる。手を伸ばせば届いてしまう程の至近距離。ちりとフィデス、二人の視線、二つの赤が混じり合う。
「そう警戒するなヨ。キサマが此処まで来た目的はなんダ? この街から出る方法を捜すためだロ? アタシがソレを教えてやるって言ってんダ。頑張った奴にはご褒美をあげないとナ」
「……オレに何をさせるつもりだ」
わざわざ暗号を作ってまで、この場所に誘い込んだ理由。愉快犯というわけでも無いだろう。狙いがあるはずだ。つまり――それを教える代わりに、何かを求めてくるはずだ。
何よりフィデスは、あの拷问教會の幹部である。その理念は等価交換の絶対遵守。応じない者からは拷問してでも奪い取る。そんな異常者集団の一員である――
「何モ」
しかしちりの懸念を嘲笑うように、彼女はたった一言でそれを否定した。
「アタシはただ教えるだけダ。ソレを聞いて最終的にどうしたいカ、決めるのはキサマの自由サ」
「……それじゃ余計に警戒するっつの」
「心外だナァ……」
どうやら此方側から何を訊いても、どうアプローチしても煙に巻かれるのがオチだと解って、ちりは諦めたように溜息を吐く。
「それじゃあ早速、お望み通リ――この街から出る方法を教えてやル」
今更勿体ぶるような素振りもなく、早速フィデスは本題に入ろうとする。ここにきてようやく腹を決めたように、ちりはその言葉に黙って耳を傾けた。
「結論だけくれてやってもいいガ、せっかくここまで辿り着いたんダ。その苦労に免じテ、キサマが納得しやすいよう順を追って説明してやル。キサマが今抱いている疑問もソレで多少は晴れるだロ」
言いながら、フィデスはスカートのポケットに自身の左手を滑り込ませる。その中から出てきたのは紙のような素材で出来た小さな黒い箱。そのフタを空けて、中から煙草を一本取り出した。それをおもむろに唇の先で咥え始める。
「アタシは羅刹王の配下ダ。この街にスパイとして潜入シ、使えそうな人材を見繕っては羅刹王の下に送り出ス――『獄卒』の役目を任されていル」
そして、同じく取り出した金属ケースのライターで、口に咥えたそれに火を灯しながら――まるでただの雑談のような軽やかさで。フィデスはそんなことを何気なしに突然、暴露し始めたのである。
「使えそうな人材――その前提条件としテ、酒のニオイがしない者、酔う資格の無い者――即ち盛者必衰の理に耐性の有る『適合者』を探していたわけダ。この事を堕天王は知らないシ、そもそも知ることが出来なイ」
ちりが聞き返す暇もなく、フィデスは淡々と話を続ける。彼女の口から言葉と共に吐き出された白い煙は宙に舞い、冗談のように融けて消えていった。
「今の焦熱地獄は食料を始めとする様々な物資を衆合地獄側に提供シ、更に他階層への侵略行為も停止していル。その代わリ、アタシがスパイとして潜り込んでいる事も含めた一切の情報について堕天王は知る権利を失っタ。知ろうと干渉することも許さなイ、破れば関係者諸共その四肢を引き千切られル。開闢王が立ち会いの下、そういう契約が交わされタ」
かつて、黄昏愛が堕天王の部屋に訪れ、開闢王を交えた三人でお茶会をした時にも、同じような事を開闢王は言っていた。
開闢王の異能、通称『腕』――嘘を吐いた者を罰する異能だが、どうやら開闢王の下で交わされた『契約行為』に対しては階層を跨いでもその効果を発揮するらしい。
今日この場所に至るまで、暗号を巡り様々な者達と出逢ってきた。その中には確かに『契約』という言葉を使う者達が少なからずいたことをちりは思い出していた。
つまり彼女達は契約による口封じが施されていたのだろう。特に堕天王に対しては、どんなに些細な情報でも話すことを許されない。故に堕天王は何も知らない。知ることが出来なかったのである。
「いわゆる『三獄同盟』ッてやつダ。今から九千五百年前、この条約が締結した事によってそれまで続いていた羅刹王と堕天王の抗争は一旦の終局を迎えタ。お陰様で地獄は今日に至るまデ、退屈なくらい平和な世の中を維持してきたわけダ」
「……待て」
そんな話の折り、ちりがふとした様子で口を挟む。
「他階層への侵略行為を停止しているだと? それなのに羅刹王は、酩酊への耐性を持つ適合者を集めているのか? そいつは……つまり……」
それはここまで話を聞いた上で出てくる、新たな疑問。三獄同盟などというものが結ばれていながら、フィデスが獄卒の役割を今でも続けている意味である。
「察しがいいナ。まァぶっちゃた話、羅刹王は今でも戦る気満々ってことサ。だからアタシはこの街に居ル。スパイとして堕天王の懐に潜り込んでいるわけダ」
そしてその疑問にも、やはりフィデスは軽やかに応じてみせるのだった。まるでどんな質問にも答えてしまう、開闢王のように。
「まァ……そのせいであの堕天王の道楽に付き合う羽目にもなったわけだガ……」
とは言え、最後の方は若干言い淀んでいるようだったが。どうも『Dope Ness Under Ground』としての活動自体は未だに納得し切れてはいないらしい。常に飄々として掴みどころの無いあのフィデスが、心底面倒臭そうに眉を顰めていた。
「……脱線したナ。話を戻すゾ」
「お、おう……」
気を取り直すように小さく咳払いをしてみせるフィデス。この状況で流石に追求出来る余裕は無く、ちりも素直に頷いた。
「さテ……この場所が酩酊の影響下から外れている事はキサマも気が付いているナ」
煙燻らす魔女の言葉を受け、ちりは自ずと周囲を見渡し始めた。一見して何の変哲も無いこの空間は、確かにノアの箱舟と同様、酩酊の影響下からは確かに外れている。それは言われるまでもなく、訪れた瞬間から把握している。
「この『部屋』もアタシの仲間、つまり羅刹王の配下である『獄卒』の一人が造った物ダ。此処だけじゃナイ、他にもこの街には奴の作品とも呼べる『部屋』が幾つか存在すル。キサマラも実際に見てきただろウ?」
「造った……?」
「そういう異能なのサ。便利だロ」
問題は、これらの異常な空間を造った者がいるという事実。そしてそれが、フィデスの仲間――羅刹王の配下であるという情報。それを、知ってしまったというこの状況。
「奴の造る『部屋』にハ、その空間自体に新たな異常性が付与されル。怪異で言うところの異能だナ。それも再構築を繰り返す程、より異質なモノが出来上がっていク。コイツの異能は羅刹王も重宝しててナァ、獄卒の中でも特に優遇されてやがル」
「…………」
恐らくは地獄に棲む殆どの者が知り得ない極秘の内部事情だ。それを一ノ瀬ちりは今、聞いてしまった。知ってしまったのだ。これが問題だった。否、問題と言うならこの場所に一人で足を踏み入れてしまったこと自体そうなのだが――
フィデスはちりが納得し易いように説明してやるなどと言っていたが、とんでもない。説明の内容自体がそもそも『契約』によって口封じが施される程の規制が敷かれた情報だ。口封じに殺されても文句は言えないレベルの国家機密を、ちりは知ってしまったのだ。
最終的にどうしたいか決めるのはちり自身だとも言っていたが、ここまで聞いてしまった以上、少なくとも後戻りは出来ないだろう。
突っ込んだ片足が、そのまま底なし沼に沈んでいくような――そんなどうしようもない感覚に、ちりの背筋は絶え間なく悪寒を感じ続けていた。
「それデ、今アタシ達が居るこの『部屋』の異常性なんだけどナ――訪れた者に酩酊への絶対的な耐性を付与することが出来るんだヨ」
まだ半分以上の長さが残っている煙草を、もう飽きたと言わんばかりにフィデスはその場に投げ捨てて――踏み潰す。
「この部屋のおかげでアタシ達は酩酊への耐性を後天的に獲得することが出来タ。この街から自由に出入りすることが出来るようになったわけダ」
にたりと邪悪な笑みを浮かべるフィデス。凄い、と言うか、間違いなくこの街の根幹を揺るがす程の異常性なのだが――それをやはり彼女は、事も無げに言い放つのだった。
「だが当然、無償って訳にはいかナイ。等価交換。何かを得る為には同等の何かを支払う必要がアル。勘違いするなヨ、アタシが決めたんじゃないゼ。此処はそういう場所なんだヨ。異能に発動条件があるのと同じダ。仕方のない事サ」
言いかけたちりを先回りして、フィデスがその先を代わりに紡いでみせる。空中に浮かぶ黒い本、ひとりでにぺらぺらと捲られるその頁を眺めながら――
「このハサミで自分の腹を切り開いて、体内から■■を摘出する。それが条件ダ」
――その黒い爪が、台上の鋏を指差した。
鋏の見た目は現世でもよく見かける一般的なそれと何ら変わらない。刃の長さは約7.5センチ程度、黒い柄の部分はもっと短い。銀の刃が松明に照らされ鈍く光っている。
「…………なんだと?」
聞き返さずにはいられなかった。だって――意味が解らない。この鋏を使って、何をすると言った? よく聞き取れなかった。何を摘出するだって?
「ハサミで切除した■■を体外に摘出しテ、この台座の上に置ク。たったそれだけで条件は満たされル。その行為と引き換えにキサマは酩酊への絶対耐性を獲得出来るんダ。簡単だロ?」
何度説明されても理解出来ない。理解することをまるで脳が拒んでいるように、一部の言葉がやはり聞き取れなかった。
「アタシはこの一連の行為を『净罪』と呼んでいル。ちなみに『净罪』は切除する箇所によって得られる効果も変わってくるんダ。どこを切除すれば酩酊への耐性を獲得出来るのカ、最初は試行錯誤の連続だったガ――地獄には実験台が掃いて捨てるほど居るからナァ、特定するまでに百年も掛からなかったゼ」
净罪。この『部屋』は、鋏で肉体を傷付けた者に対し、新たな能力を後天的に与えるという。
一説によると。生前に積んだ徳、犯してきた罪、味わってきた苦楽、伝聞してきた噂話など、その者を構成する様々な情報を総合的に判断した結果、死後に依代となる怪異の名は決定されているという。
そして異能はその怪異に紐づく幾つかの要素からランダムに参照したものである可能性が高いらしい。同じ名を冠する怪異はこの地獄に複数存在する。また、身体的な特徴である『機能』も、依代の名が同じならば被ることもあるらしい。
けれど、異能の効果に同じものは二つと無い。系統的に似ることはあれどその効果には必ず差が生じる。此処では本当の意味で誰もが特別なオンリーワンなのだ。故に地獄において異能はそのままその人間の価値に直結する。
それが全地獄、全階層、全怪異にとっての共通認識、共通概念。だがもし、任意に望んだ異能を後天的に入手する術があれば。それは全ての常識を覆す革命的技術であり、戦争の火種にもなり得てしまうわけなのだが――
「ただシ、そんな『净罪』を行なう上で注意すべき点がヒトツ――『净罪』によって負った傷は絶対に治らなイ」
――そこはやはり、そう簡単な話でも無いようで。
「切り裂いた腹、引きずり出した■■、このハサミで傷付けたモノは全テ、どんな方法を以てしても復元されることはナイ。全ての怪異が共通して持つ自然治癒の機能モ、異能による超再生モ、このハサミはあらゆる異常性を無視しテ、対象に消えない傷を与えル」
説明を受けるちりの視線は、もはや台上の鋏に釘付けとなっていた。
「そして当然、傷付けた箇所には痛みが伴ウ。だから無駄に身体を傷付けないよウ、効率よく■■だけを切除しないといけないわけダ。気を付けろヨ?」
「いや……気を付けるも何も……」
「ククッ……なァニ、大丈夫だヨ」
戸惑うちりに、フィデスは妖しげな笑みを浮かべ――おもむろに、自分の服に手を掛けた。フィデスの纏う修道服は改造が施されている。一般的なローブ状のトゥニカではなく、シャツとスカートで上下に別れたタイプだ。肌の露出が多く、服自体にも鎖や装飾で彩られていて、端的に言えばかなり派手である。
フィデスは纏うそれを自ら捲り上げた。シャツの隙間から細いウエストが露わになり――その素肌を目の当たりにした一ノ瀬ちりは、絶句する。
フィデスの腹部には、あちこちをズタズタに斬り裂かれたような傷が生々しく残っていた。しかもそれが、ホッチキスのようなもので無理矢理に接合されている。
「アタシモ、開闢王モ、同じ事をしタ。ついでにあの『禁后』の怪異もナ。ヤツに限っては自分で自分のカラダを切り刻んデ、髪以外の全てを净罪に捧げやがっタ。そうしてヤツはあの姿に成ったわけだガ……今のキサマがそこまでする必要はナイから安心しロ」
酩酊への耐性を得る為に、彼女はその鋏で自ら永遠に癒えることの無い傷を負ったのだ。今もその痛みに苛まれているはずだ。それは彼女の蒼白に染まった顔色の悪さが、ただ単に血色が悪いというだけではないと言うことを、恰も裏付けているかのようで。肉体を失えば酩酊することは無いというシスター・アナスタシアの考察は、当たらずも遠からずというわけだったのだ。
「というわけデ、これがこの街から出る唯一の方法ダ。さてキサマはどうすル? 自分で腹を掻っ捌いテ、永遠に苦しみ続ける罰を負ってまデ、わざわざこの平和な街から出たいカ?」
「……………………」
第三階層から先は何も無い。そう言いたくなる先人の気持ちを、ちりはこの時、真の意味で理解していた。これまでもフィデスの暗号を解いて、どうにかこの場所にまで辿り着いた『適合者候補』がいたのかもしれない。そんな彼らがこの真相を聞いた時、こう思ったはずだ。
――果たして、そこまでしてこの街から出て先に進む意味はあるのだろうか?
この街はまだまだ発展途上だが、およそ生活には困らない程度のインフラは既に整っている。治安も安定している。普通にこの街で生きていて、死ぬような目に遭うことは滅多にない。
そんな安全な生活を捨ててまで、永遠に苦しみ続ける罰を背負ってまで、先に進みたいと願う者がどれだけいるだろう。
それこそ、自分の髪以外の全てを净罪に捧げようなどと考える異常者でも無い限り、殆どの者が忌避するはず。誰だって痛いのは嫌だ。嫌だからこの街に来たのだ。それ以上の何を求める?
「…………テメェ、マジで何考えてやがる」
何より――全ての真相を知ってなお、シスター・フィデスが何を考えているのか解らない。何がしたいのか解らない。それが何よりも、一ノ瀬ちりの恐怖を駆り立てていた。
「オレを先に進ませたいのか? それとも諦めさせたいのか? どっちなんだよ」
「言ったロ? アタシはただ教えるだけダ。確かに『適合者』を先に進ませるのが『獄卒』であるアタシの役割だガ、強制はしないヨ。どうしたいか決めるのはキサマの自由ダ」
捲り上げていた服を元に戻しながら――フィデスの燃える瞳は静かに揺らめく。
「けどナ、キサマはともかく――あのふたりハ、先に進む動機が有るわけだロ?」
そう。一ノ瀬ちりには先に進みたいと願う動機が無い。けれど、黄昏愛は『あの人』に会いたくて。芥川九十九は未知に憧れて。それぞれ先に進む動機は、確かにある。
「鵺とジャージー・デビル。もしも奴等ガ、先に進む為には净罪しか方法が無いと知ってしまったら……どうするだろうナァ……?」
「……テメェ……」
一ノ瀬ちりの形相は鬼のように怒りを滲ませ、鋭い目付きでフィデスを睨み付ける。それは暗に――否、もはや明確な脅迫だった。
既に『净罪』を受けた身であるフィデスは、その気になればあっさり真実を話すことが出来る。愛に、九十九に、この街の脱出方法を伝えることが出来てしまう。二度と癒えない傷を与えてしまう。それは、ちりが真実を全て知ってしまったからこそ成立する、実質的な人質であった。
「……大体、耐性を獲得出来るのは净罪した本人だけなんだろ? 意味ねーんだよそれじゃあ……!」
「だったらキサマがアイツ等を担いで運んでやりゃあイイじゃねえカ。運ばれてる間は眠り続けることになるだろうガ、酩酊の効果は階層を跨がないからナ。次の階層に着く頃にはちゃんと目を覚ますから安心しロ」
「ッ……だったら……仮にそうしたところで、羅刹王にとってオレ達は適合者……つまり兵力ってわけだよな。そうなりゃオレ達のことを……無理矢理にでも仲間に引き入れようとするんじゃねーのか」
今にも襲い掛かりそうな雰囲気を纏いながらも、ちりの思考はあくまで冷静に回り続け、その口を動かす。
「言っとくが、オレ達はテメェ等の事情には一切興味ねェぞ。戦争なんざ勝手にしてろよ。オレ達は協力しない。もし無理矢理にでもそれを手伝わせようってんなら……オレ達はテメェ等と敵対する……!」
「それもキサマラ次第ダ、任せるヨ。まあ無間地獄に行きたいなラ、羅刹王との衝突はどのみち避けては通れないだろうがナ。だからって無理に仲間になれなんて言わないサ。全部キサマラの自由ダ」
剥き出しの敵意を向けられてなお、フィデスは薄ら笑いを浮かべるばかり。
「なんなんだよ……そもそも無間地獄の噂は本当なのか? 訪れた者の願いを何でも叶えるとかいう……それ自体が嘘なら、オレ達がそもそも先に進む必要は……!」
「本当だヨ。無間地獄は訪れた者の願いを叶えル。ただ『何でも』ってのは語弊があるナ」
咄嗟に口を突いて出た質問。どうせ答えられないだろう――そんな想いもあって何気なく放りかけたその問いにすら、フィデスは顔色ひとつ変えずに答えてみせる。
「無いモノを有ったコトには出来ナイ。それが無間地獄のルール。無から有は産み出せないガ、有を無限に産み出すコトは出来ル。そういう願いの叶え方ダ」
「……なん、で……そんな事を、オマエが知ってやがるんだよ……!」
「知ってるサ。アタシは何でも識っていル。『声』が何者なのかモ。何が目的なのかモ。そもそもこの世界が何なのかモ。怪異とは何なのかモ。異能の原理モ。太陽が黒くて空が赤い理由モ。アタシは全部、識ってるヨ」
全てを識る銀の魔女、シスター・フィデス。元より『開闢王は全てを識っている』という噂は今の開闢王ではなく、当時のフィデスを謳ったものなのだ。
嘘のような真実を、真実のような嘘を、残酷なほど淡白に、彼女は事も無げに口遊む。果たして彼女の言葉は嘘か真か――それはもはや重要ではない。いずれにせよ、そんなものを聞かされたところで、どうすることも出来ないのだから。
「……わかった。もういい。よせ。それ以上喋るな、聞かせるな。頭がおかしくなる……」
彼女の紡ぐ言葉は聞く者全てを惑わせる。聞けば聞くほどどんどん深みに嵌っていくような、そんなフィデスの悪辣さは、およそ今の開闢王が持ち合わせてはいないものだった。
「ククッ……それデ? どうすんダ? 净罪は自分の手でヤらなきゃ効果がナイ。介錯はしてやれねェゾ?」
かくして、一ノ瀬ちりは答えに辿り着いた。教えるべきことは全て教えたとでも言わんばかりに、フィデスはそれ以降口を噤んでしまう。
この場で判断を聞かせろということなのだろう。その燃えるような灼眼が目の前の少女を静かに射抜く。
「……どうする、だと? ふざけんなよ――」
そんな眼差しを向けられたところで、考えるまでもなく、一ノ瀬ちりがそんなことをする道理は無い。彼女に先へ進みたいという動機は無い。むしろ進みたくないとすら思っている。どう考えても彼女にそこまでするメリットは無い。
後々になって愛や九十九に危害が及ぶかもしれないという可能性だって、そもそもあの二人がそう簡単にやられる場面なんて想像も出来ない。
もし敵が襲ってきたとしても、これまで通り協力して対処すればいい。歪神楽ゆらぎという史上最大の脅威ですら、彼女達は乗り越えてみせたのだ。この地獄に彼女達の強敵となり得る者はそうそういない。
フィデスの言葉だって、どこからどこまでが事実なのかも定かではない。拷问教會の幹部でありながら、羅刹王の配下でもあり、今では堕天王の身内をも気取っている。何重のスパイを掛け持ちしているのかという話だ。信用に値しない。
そう、考えるまでもない。
「――決まってんだろ、そんなもん」
考えるまでもないことだった。
一ノ瀬ちり。彼女は躊躇いなく台上の鋏を手に取って、流れるような所作で――まるで当たり前の事のように。その刃を、自身の腹部に突き立てたのだ。




