衆合地獄 33
酩帝街、北区。ほんの数メートル先の景色が見えない程の濃霧に覆われた、衆合地獄のブラックボックス。堕天王すら意図せずして、その場所は誰も立ち入れない未開の地となってしまっている。
其処は一歩、足を踏み入れただけで酩酊する。故に誰も棲んでいない、どれほどの広さで何が在るのかも未だ判明していない、地上の深海とも呼べる別世界が広がっていた。
そんな北区だが、食材を始めとした焦熱地獄からの輸入品を運ぶ四足歩行の動物が、定期的に駅の方から歩いてやってくることで有名でもある。その四足歩行の動物は現世では見たことない姿をしていた。ラクダのようなひょろ長い四足、ゾウのような太い胴体、背中には巨大な檻のような形の骨が皮膚を突き破り剥き出しになっている。よく見ると足の先は馬のような蹄が付いており、尻尾も馬のそれとよく似ている。
そして何より、この動物には頭部と呼べる物が無かった。馬のような長い首だけが伸びていて、そこから先、頭にあたる部分には何も無い。故にこの動物は日本の妖怪から名前を取って『首切れ馬』などとこの街の住民からは呼ばれている。
そんな彼らはこの街にやってきて、食材を指定した場所に運び終えるとその瞬間、まるで電源がオフになったようにその場で突然行動を停止、死亡する。そうして自らもまた食材の一部、ただの肉塊となるのであった。
とは言えこの動物の可食部は極めて少なく、その体はほとんど骨だけで構成されている。筋肉を纏っているのは皮膚部分のみで、体内には内臓も殆ど無ければ血の一滴すらも流れていない。通常の生物ならばこんなミイラのような状態で生存は不可能である。
だからなのかは定かではないが、首切れ馬は北区の濃霧に晒されながらも、その中で真っ直ぐ歩くことが出来るようだった。酔う為の頭や内臓が無いということなのだろうか。その原理も未だ解明されていない。
そもそも首切れ馬という名称自体、酩帝街の住人達が勝手に呼び始めたあだ名のようなものである。この存在が実際はどういう名称なのか、誰にも解っていない。いずれにせよ、これが運搬目的の為だけに異能によってデザインされた人造怪異であることは明白である。
「……でっけェ……」
そんな噂の首切れ馬と、北区内の道中、愛とちりはすれ違った。灰色の皮膚に覆われたそれは、四メートル程はあるだろう巨体をゆっくりと前進させている。伝え聞いた通り、背中から伸びた骨檻の中には大量の食材が詰め込まれた籠が積載されていた。それが、五匹。列を成して、霧の中を歩いている。そんな光景を間近に見たちりは、思わず声を漏らしていた。
全ての手掛かりを集め、判明した新たな座標。現在、愛達はそこに向かって濃霧の中を突き進んでいる。目指すは北東方向、その最端の郊外付近。区画内には足を踏み入れたばかり。まだ入口付近である。そこで偶然にも人造怪異の群れとすれ違ったという、そんな状況だった。
「っ……ふ、う……」
ちりが人造怪異に驚いているその一方で、黄昏愛の表情は青ざめていた。それどころではないと言った様子で、既にかなり息が上がっている。地図を片手に先頭を歩いていたはずの愛を、いつの間にか追い越してしまったことに気付き、ちりは慌てて後ろを振り返った。
「おい、平気か?」
「っ……は、い……平気、です……」
などと強がってみせているが、誰がどう見ても平気そうではない。ちりはその場で立ち止まり、愛が追いついてくるのを待つことにした。
その症状は間違いなく、盛者必衰の理によるもの。しかも心地よい酩酊感などは通り越して、体調に悪影響を及ぼす程の虚脱感。それほどまでに北区を覆う濃霧は他とは一線を画す影響力がある。
しかも駅の在る方とは別方向に進んでいるのにもかかわらず、これなのだ。駅に至っては行こうと考えただけで卒倒するレベルである。
今日まで愛達が北区の調査をしてこなかった、出来なかったのはそもそもこれが原因だ。これまで出来なかったことが今日になって突然出来るようになっているはずもない。
愛は一歩進むごとに、その体を前のめりに倒れ込みそうになっていた。今にも嘔吐しそうな体調の悪さを必死に堪え、それでも懸命に前へ前へと足を動かす。
「――げぽっ」
しかしそれも、とうとう我慢出来ない程になって。数歩先を行くちりの隣に追いつくことすらままならず、愛はその場で嘔吐してしまう。白濁の液状体が喉を通って口から溢れ出す。それが指の隙間から地上に零れ落ちると共に、愛自身もまた崩れ落ちるように地に膝を付けるのだった。
「おいおい……っ!」
慌てて愛の傍まで駆け寄るちり。彼女の左隣で自身も膝を折り、右手でその背中を擦る。咳き込む彼女が落ち着くまで、ちりは黙ってそれを続けていた。
やがて深く呼吸を繰り返して、どうにか落ち着きを取り戻した愛が顔を上げる。しかし未だに視線の焦点は定まっていない。
「っ、は……すみ、ませ……」
「……いけそうか?」
静かに問いかけるちりに、愛は首を縦にも横にも振らない。ただ、その背中は小刻みに震えていた。身体に力が入らない。意識が朦朧としている。もう一歩も先には進めない――それが解ってしまうからこそ、悔しくて。地面に両膝を付けたまま、悔しさを滲ませた表情を浮かべる愛。その拳は爪が食い込むほど握り締められていた。
「……ここまで、きたのに……っ!」
悪質である。この街から出る方法を捜していると、結局は北区に向かわざるを得ない。この暗号はそういう風に仕組まれている、謂わば出来レースのようなものなのだ。悪質極まりないだろう。
同時に疑問でもある。それはちりが当初より抱き続けていたものと同じ違和感。解読されることを望んで暗号を用意しておきながら、ほとんどの者がそれを解ける環境ではないこと。場所を指定しておきながら、ほとんどの者がその先に進めないようになっていること。
これでは暗号を解読出来ない。構造上の欠陥、矛盾と呼んでもいい。単なる出題者側のミスなのか、あるいは何の意味も無いただの嫌がらせなのか。
もしこれがミスでも嫌がらせでも無いのだとしたら。明確なクリア条件が定められているのだとしたら。
「(……選別か)」
やはり、そうなのだろう。これは言うなれば、その資格を持つ者に対しての――今回に限っては一ノ瀬ちりというただ一人を標的とした、ゲームマスターからの挑戦状。誘っているのだ。望んでいるのだ。一人でその場所に来ることを。
「……黄昏愛。おまえは境界付近まで戻って休んでろ」
ちりのその言葉に、愛はハッとした表情で顔を上げた。
「ここから先はオレ一人で行く」
蹲る愛の左隣、片膝を付いたちりの赤い瞳は、真っ直ぐに前だけを見据えていた。その姿を見て、愛はようやく気が付いた。
「っ、え……あなた……平気、なんですか……?」
ちりの頬は確かに朱に染まっている。酩酊の影響は間違いなく受けている。だが愛のように体調を悪くするほどの悪酔いではない。視線も定まっているし、呼吸も正常。それは愛の目から見ても明らかに、酩酊に対して耐性があるように映っていた。
「……まあ、なんとかな。どうもオレはそういう体質らしい」
背中越しに感じていた手のひらの感触が不意に離れたかと思うと、ちりはその場から立ち上がっていた。赤いスカジャン翻すその後ろ姿を、弱々しい表情のまま見上げる愛。
「安心しな、抜け駆けなんざしねェよ。この街から出る方法とやら、さっさと見つけてきてやらぁ」
首だけを後方に傾けて、ちりの赤い視線は愛を見下ろす。ぶっきらぼうに言い放つその赤い後ろ姿に、愛は思わず息を呑んでいた。つまり彼女は、一人で先に進もうとしている。愛にもそれが解った。
「で、でも……っ!」
そしてそれが解ったのなら、止めるべきだ。『禁后』という前例もある。何が待ち受けているのか解らない。だからこそ、ここまで単独行動は避け続けてきた。何よりそれを誰よりも提唱してきたのはちり自身である。だというのに、彼女は一人でこの先に進むと言う。
「今はそれしかない。解るだろ、おまえなら」
この状況、きっとそれしかないのだろう。理屈は解らないが、酩酊に耐性があるのもまた事実。ならばそれを利用しない手は無い。もともと彼女達は、そういう利害関係の一致で成り立っている。止める理由は無い。特に愛とちり、この二人はそれをよく理解している。
「ま、待ってください……だいじょうぶ、なんですか? ほんとうに?」
「だから大丈夫だって。オレのこと信用できねえって気持ちは解るけどなあ――」
「いえ、そうではなく……!」
だからこそ、愛がちりを咄嗟に引き留めようとしたのは。信用出来るとか出来ないとか、それ以前の問題で。
「……普通に、心配なんですけど……」
単純に。危ない場所に行かせるのが躊躇われる程度には、愛はちりのことを身内だと思うまでになっていた。ただそれだけのことである。
「……くくっ! こりゃ雪が降るな」
鋭い歯の隙間から、くぐもった嗤い声が漏れ出す。口角を上げ、愉快そうに目を細める赤い少女。その反応を見て、どうやら自分がガラにも無いことを口走ってしまったと自覚したのか、愛の頬はたちまちに朱を帯び始めていた。
「オレだって別に好きで危ない目に遭いたいわけじゃねェ、もしヤバかったらすぐ引き返す。場合によっちゃ異能で連絡も取る。それでいいだろ」
「……無茶、しないでくださいね」
「おー。まあ任せとけって……」
ひらひらと右手を振りながら、そうして一ノ瀬ちりは前進する。遠のいていく彼女の背中を、黄昏愛は黙って見送ることしか出来ない。
それもほんの数メートル先へ歩いた頃には、その姿は深い霧の中に見えなくなってしまって。愛に出来る事はもはや言われた通り、引き返す他無いのであった。
◆
北区、最端、郊外付近。ここまで来れる者はそうそういない。先に進むごとに霧はより深くなり、酩酊の影響は強くなっていく。流石のちりも次第に気分が悪くなり、その顔を青ざめさせていた。それでもどうにか辿り着いた。地図の示す座標、そこは――
「マジで降ってんじゃねーか……」
辺り一面の銀世界。霧に覆われた空からは、延々と白い結晶が降り続けている。真冬を想わせる此処は所謂、豪雪地帯というやつなのだろう。降り続ける雪の中、気温は更に下がり、ちりの吐く息はいつしか白くなっていた。
もはや本来の地表の姿は見えない程に降り積もった雪の上、ちりは無理矢理に足を持ち上げその白い絨毯を踏み抜き、どうにか前に進んでいる。
地獄の階層は基本的に、周囲を三途の川に囲まれた島国となっている。川から向こうに行こうとすると、その水底から白い触腕が一斉に伸びてきて、どんな怪異もそこへ引きずり込まれてしまう。無法地帯であるこの地獄において、それは数少ない共通概念であると言えよう。
ちりが今居るこの場所も、ここが地獄の最果てである証左を示すように、耳を澄ますと川のせせらぎが聞こえてきていた。それに加えて、遮蔽物が無いために風が強く、時折雪を巻き込んだ強風が吹き荒れる。ここがもし酩酊の影響が強く及ばない場所だったとしても、とてもじゃないがこんな環境でヒトは棲めないだろう。
更には空を覆う霧によってもはや地上に太陽の光が届くことも無く、そこは常に夜のような薄暗さを保っていた。闇に慣らした目で注意深く観察すれば、なんとか前方の景色が判る程度。その景色も雪と霧によって全容までは解らない。まさに白い闇とでも呼ぶべき世界が、ここに在る全てだった。
この豪雪地帯に一歩足を踏み入れて、ちりが真っ先に懸念したのは、遭難の可能性である。当然と言えば当然だろう。故にちりはヘンゼルとグレーテルさながら、赤いクレヨンのインクによって地上に目印を残しながら進むことにした。そうして指定された座標付近になんとか到達した彼女だったのが――
「……クソッ。何も見えねェし……」
周囲、見渡す限りの白い闇。座標は間違いなくこの周辺を指し示しているのだが、建物やそれに類するオブジェはおろか、当然他にヒトの姿も見えない。
「そもそも何も無ェじゃねーか……!」
そう、何も無い。何かが在るようには到底思えないし、実際そこには雪と霧しか見当たらない。座標がそもそも間違っている……とは思わない。というより、考えたくもない可能性だ。そこはもう前提として信じる他ない。
ならば此処に、必ず何かが在るはずなのだ。この街の脱出に繋がる、恐らくは限りなく答えに近い決定的な何かが。何より、彼女の勘が告げている。これが最後の問題だと。
「考えろ……奴は……フィデスはオレに、何をさせたい……?」
今までもそうだった。座標は、ただそこに行くだけでは何も得られない。そこには必ず謎が用意されていた。今回もそうだとしたら、ちりはこの場所で何らかの謎を解かなければならない。
しかしそうは言っても、やはり此処には何も無い。解くべき問題となり得る、例えば建物であったり、敵対する怪物であったり、そういった物はまるで見当たらない。
そうこうしている間にも、吹き荒ぶ雪がちりの体温を着実に奪っていく。酩酊に加えてこの寒さ、肉体が耐えられない。活動限界時間は刻一刻と迫っている。
「つっても、此処には……何も……何も、無い……」
焦燥で視線が定まらない。どこに目を向けても変わらない景色に、諦めかけた――その時。
「……いや……有る……?」
落とした視線の先で、不意に訪れた天啓。ちりの目が見開いていく。直後、ちりはその場に蹲ったかと思いきや――その両手を足元の、降り積もった雪の中へと突っ込んでいた。
「そうだ……此処には、雪が有る……雪で隠された、大地が……ッ!」
自身の直感を信じて、ちりは一心不乱に足元の雪を掻き分け始める。雪に手を沈める度、その冷たさは痛みとなって襲い掛かる。それを歯を食いしばって耐え、両手で雪を掘り進めていく。
しかし雪の下から出てきたのは、舗装されていない剥き出しの黒い大地。やはり何も無い。それでも諦めず、足元だけでなくその周辺一帯にも手を伸ばす。
そうして指の先が血で滲み始めた頃。
「…………ッ!」
赤い爪が、硬い感触に突き当たる。その感触が地面のそれではないことはすぐ解った。そうして雪の下から現れたのは、赤銅色の蓋だった。いわゆる、マンホールの蓋である。
ここまできて、ただのマンホールかと気を抜けるはずもなく。ちりは慎重に、その蓋の取っ手に指を掛けた。それは難なく持ち上がり、ちりはそのまま蓋を横にズラす。
蓋の下には、地下へと続く空洞があった。お誂え向きに梯子まで掛かっている。座標が示す場所は、地下にあったのだ。
「…………よし」
それを前にして尚、努めて冷静に。昂ぶる心臓の鼓動を抑え、ちりは息を整えつつ様子を窺う。空洞の中は完全な暗闇だった。目を凝らしても下に何があるのか解らない。
だからまず、ちりはその空洞の直下目掛けて、血のインクを指から滴り落とした。血は暗闇の中へ引きずり込まれるように、抵抗なく下へ下へと落ちていく。
意識を集中させる。空洞に向かって耳を澄まして――その数秒後。びちゃりと、血のインクが地上に激突したような飛沫の音が聞こえてきた。
音が聞こえるまでにそれほど時間が掛からなかったところを鑑みて、どうやらそこまで深いわけではないようだった。そして間違いなく言えるのは、この下には足場があるということ。それが解っただけでも上々である。
現時点でこれ以上確認出来ることは無い。後はもう実際に、梯子を降りるだけ。息を潜め、可能な限り余計な音を出さないよう、慎重に――ちりは梯子を下っていく。狭い空洞の中を、ひたすら下へ、降りていく。
下の空間からは何も聞こえてこない。何かが潜んでいる気配も伝わってこない。しかし地上からでは解らなかったが、降りていくにつれて、どうやら灯りのようなものが微かに足場を照らしていることに気が付き始める。
そして灯りがあるということは、ヒトが訪れることを想定された場所だということでもある。その微かな光を頼りに、金属で出来た梯子へ慎重に、その足を掛けていって――
「…………っ」
思っていた通り、空洞にそこまでの深さは無く。ちりはすぐにそれを降り切ってしまい、地面に足を着けることになるのだった。
足場に両足を付けたちりが振り返ると――そこにはやはり、地下の空間が広がっていた。コンクリートのような材質の滑らかな壁、その四方には松明が掛けられていて、部屋全体を淡く照らしている。
その部屋の中央には、地上から伸びる台座があった。明らかに異質な存在感を放つその壇上に置かれてあったのは、灯りに照らされ鈍く光る――大きな鋏。
「――――よォ、赤いクレヨン」
そして、そんな昏い地の底で待ち受けている者は、やはり。
「やッと来たナァ。待ち草臥れたゼ」
銀の長髪、紅く燃えるようなその灼眼。鮫のような鋭く尖った歯並びに、他人の神経を逆撫でするような昏い声色。綺羅びやかな装飾に彩られた、黒い修道服を身に纏って――
「オメデトウ。此処が物語の終着点ダ」
シスター・フィデス。悪辣極まる怪物少女は、暗闇の奥からその姿を現した。




