衆合地獄 32
三号が『禁后』の家から再び外へ飛び出した後、その間も九十九は髪の怪異と格闘を続けていた。
「はーっ……きっつ……!」
しかしそれも、いよいよ限界が近い。
あれから更に半日以上が経過した。九十九の全身は顔と腕以外ほとんど繭のようになってしまっている。体内への侵入はどうにか防いでいるが、締め付けられた両脚は麻痺して立っている感覚が殆ど無い。むしろ髪の拘束によって無理矢理その場に立たされているような状態である。
助けが戻ってくるのを持つ間、手の空いていた愛は九十九のサポートに徹していた。紙に書かれた『名前』を交代で見て負担を分散するという方法を取ったりもした。それによって愛は再び右腕と左脚を潰されてしまい、床に倒れている。
空き家そのものを倒壊させてしまうという手も考えたが、どうやらこの建物自体も異能によって補強された特異な空間のようで、九十九や愛がどれだけ暴れても建物内の床や天井は傷一つ負うことはなかった。にもかかわらず窓ガラスは簡単に壊せるあたり、やはり意図的に入口として用意された罠だったのだろう。
「九十九さん……ごめんなさい……私が、足を引っ張って……」
「っ……はは……もう……私は私のしたいことをしてるだけだってば……」
床に這いつくばり、今にも泣きそうな弱々しい表情を見せる愛。そんな彼女に、この状況で九十九は微笑み返す。
「それに……もう大丈夫」
汗の浮かぶ青ざめた表情は、他人からはどう見ても痩せ我慢しているようにしか映らない。それでも彼女が「大丈夫」と言えるのは、二百年間、積み上げてきた根拠があるからに他ならない。
「私が、世界で一番頼りにしてる……あの子がもうすぐ、来てくれる」
いつの時代にも、芥川九十九の隣には必ず一ノ瀬ちりという存在がいた。不器用な九十九に代わって、政に裏で手を回すその狡猾さ――その所業を彼女自身が悔いていたとしても――そんな彼女のことを芥川九十九は、間違いなく頼りにしている。
「九十九ォ!! 生きてッかァ!?」
そうして、不意に。窓の割れた居間の方から、聞き慣れた声が大きく上がって。ばたばたと、乱雑に畳を踏み荒らすその足音に、九十九は「ほらね」と頬を綻ばせるのだった。
一ノ瀬ちり。そして本体の黄昏愛。二人は揃って廊下にその姿を現す。ノアの箱舟で諸々を終えた彼女達は、此処まで文字通り飛んできたのだろう。風で乱れた髪を解かす余裕も無い程に、彼女達は慌ただしく『禁后』の家に乗り込んできた。
「やっほー……」
そんな彼女達へ向け、呑気に挨拶などをしてみせる九十九。その変わり果てた姿に、ちりは――目を見開く。
伝え聞いた以上に、酷い有様だ。部屋中に蠢く髪の毛の群れ。その黒海に呑まれた九十九は、恐らくは本人の自覚以上に危険な状態である。
いくら規格外の膂力を持っているとはいえ、三日以上もの間、弱体化を受け続けてきたのだ。体力以上に精神の摩耗が酷いだろう。そんな九十九の状態を瞬時に理解して、ちりの表情はより険しいものへと変わっていった。
「アレか……」
そして、全ての元凶たる呪いの核は依然、九十九の頭上、天井に貼り付いている。髪の毛が蜘蛛の糸のように周囲を覆い、近付くものを絡め取り、圧し潰す、呪いの結界。ちりは目視にてソレの在る場所を確認すると――そこへ向け、手を伸ばす。両手の鋭く伸びた赤い爪が、薄暗い部屋の中、ぎらりと輝きを放って――
「『赤いクレヨン』ッ!」
咆哮を引き金に、彼女の異能が発動した。瞬間、天井は赤い染みに覆われる。どこから湧いてきたのか、予備動作も無く突然にその血海は出現した。天井に貼り付いていた紙を、その周囲の髪の毛ごと、呑み込んで。赤いクレヨンは、全てを赤く塗り潰す。
紙にも種類がある。呪いの核、『名前』の書かれたあの白い紙は、いわゆる半紙に該当する。半紙は墨の浸透のしやすさから習字に使われることが多いが、破れやすく脆い。そして――水に溶ける性質がある。
「血のインクで紙を溶かす……!」
赤いクレヨンの発動に必要なのは、座標だ。血のインクは、指定した座標そのものに対して、その結果を出力する。攻撃とか防御とかそういう次元の話ではなく、念じればそこに現れる。外部からの干渉ではなく、内部から発生した現象なのだ。故に、防ぎようが無い。
血溜まりに浸された紙は溶解を始めた。周囲の髪の毛が慌てて血を拭おうと這い寄るが、それも意味を成さない。異能で作った血のインクは、ちりの意思以外で解除されることは無い。
紙の形が瞬く間に崩れていく。それに伴って髪の毛の蠢動も激しさを増して、家中が軋み始める。まるで家そのものが悲鳴を上げているような地鳴りが、床を震動させていた。
「わっ……!」
九十九を拘束していた髪の毛は、途端にその力を失ったように萎れていき、蜘蛛の子を散らすように引っ込んでいった。拘束から解放され、支えを失った九十九の体は床に投げ出される。
「九十九さん……!」
その体を支えたのは、本体の黄昏愛。衰弱し冷たくなったその体を正面から抱き留める。九十九が解放されたのを見届けた後、ちりは床に転がっている愛の分身に肩を貸し、その体を持ち上げた。
「よし……行くぞ!」
そのまま彼女達は廊下を渡って居間の方まで移動していく。髪の群れが蠢く気配を背後に感じながら、彼女達は脇目も振らず居間の部屋に入り、窓の外で待機していた三号に傷付いた九十九達の体を担ぎ上げ引き渡す。
その間も家はがたがたと震え続けている。床のみならず、壁も、天井も、一階から二階に至るまで、全てが地震のように大きく揺れていた。
ともすれば断末魔のような、最期の足掻きにも見える光景。髪の群れは未だに、血の中で溶けゆく残骸を掬い上げようと、必死に蠢いていた。
攻撃よりも防御の方がタスクの優先度を高く設定していたのだろうか、ボットのように繰り返し行なうその挙動には、少なくとも人間らしい意思をやはり感じられなかった。
この家はどういう存在だったのか。怪異の正体は何だったのか。何故こんなものがこの街に存在出来たのか。結局、何も解らないまま――最後の一人、殿を務めていた一ノ瀬ちりが窓から外へ飛び移った直後、誰もが無言のままその場から駆け出していた。
急いで廃墟から離れる彼女達。その間、誰も後ろを振り返る者はいなかった――
◆
斯くして。無事とまでは言い難いまでも――どうにか全員揃って、彼女達はこの『禁后』からの脱出に成功した。
道中のことは殆ど覚えていない。無我夢中で走り出して、そうして廃墟からようやく拠点に戻った彼女達は、部屋のリビングに一歩足を踏み入れた瞬間、次々とその場に倒れていった。
この三日間、色々な事がありすぎて疲れ果ててしまった彼女達。着替える余力も無く、全員揃ってリビングで雑魚寝を始めたのである。
◆
その翌日。
「……起きねェな」
いつもと変わらぬ拠点の一室。そこにはベッドに仰向けで寝る芥川九十九と、それを取り囲む愛とちりの姿があった。
朝を迎えた頃には愛もちりも目覚めていたが、九十九だけが起きることはなかった。ひとまず床からベッドに移動させたが、そこから昼頃になった今でも、九十九が起きる気配は無い。
呼吸は落ち着いているが、その顔色は若干青ざめている。全身に受けた擦り傷切り傷はあの後愛の異能によって治療を施したが、締め付けられた時に出来た痣は未だに消えない。
「回復が遅いですね。同じ攻撃を受けた私の分身、二号も同様の症状が見られます」
「まるで呪いだな……」
話題に出た愛の分身、二号と呼ばれるその個体はというと、九十九の眠るベッドから少し離れたところに佇んでいた。その表情に暗く影を落としている。
「……すみません」
二号は九十九と違い目覚めこそしたものの、やはりその顔色は悪かった。もうひとりの分身、三号に肩を貸された状態で、どうにか立つことが出来ている。
「二号が付いていながら……二号のせいで……」
冷静に判断するなら、あの場面での最適解は分身を犠牲にして九十九を逃がすことだった。もしかするとあの家自体、最初から他人を犠牲にすることを想定された罠だったのかもしれない。
その時の状況を朝方、ちり達に共有した二号は、その罪悪感に苛まれているようにずっと元気が無い様子だった。
ただの非常食であるはずの分身でありながら、助けるべき九十九に助けられ、あまつさえ生存に固執してしまったこと。それ自体は生物の本能として間違いではないのだけれど――それは彼女の存在意義にとって、深刻な自己矛盾になり得た。
そもそも科学技術の発達した現代でさえクローンの倫理問題は未だ解決していない。何が正解で何が間違っているのか、法律の存在しない地獄に身を置いて尚、個人がその問題に明確な答えを出すことは難しいだろう。
「九十九はなんて言ってた?」
「えっ……?」
そんな彼女に、ちりは声を掛ける。その表情は喜怒哀楽は感じさせない澄ましたもので、背後の分身に視線をやっている。
「……禁后から、二人で一緒に出る……これが私のしたいことだから、と……」
「あいつがそう言ってるなら、それでいいんじゃねぇか」
九十九が求めたのは未知と自由だった。それが彼女にとっての旅の動機で、その結果の行動に、誰にも咎める権利は無い。少なくとも今のちりはそう考え――それはそれとして、確かに無謀だった九十九の行動に呆れながら――溜息を漏らすのだった。
「でも……ほんとうに優しいですよね、九十九さんって」
「……ああ。そういう奴なんだ。困ったことにな……」
その寝顔を見下ろしながら、愛も静かに溜息を吐く。ちりの背負ってきた二百年分の気苦労が、なんとなく解った気がしたのだった。
「さて。ひとまずはこれで……全ての手掛かりが揃いましたね」
ひとまず九十九のことは寝かせたまま、彼女達はリビングのテーブル前に移動した。テーブルの上に広げた街の地図、愛はその上に筆を走らせる。
「座標は『45●437222■141●037778』――つまり、ここです」
「北区、北東方向……それも最北端の郊外か」
ここまでで手に入れた四つの数列、それらを組み合わせることで解った新たな座標。その場所は地図上で見る限り、その周辺に何も無い、ただ空白のみがそこに広がっていた。第四階層行きの駅からも離れた、三途の川に近い郊外である。しかし向かうにしても、まだ懸念はあった。
「『禁后』の件もあるしな。この座標にも、何が待ち受けてるか解ったもんじゃねえ」
廃墟で出会った、髪の怪異――『禁后』と呼ばれる都市伝説を由来とした異常現象。『名前』を見た者に呪いを与えるという極めて特殊な発動条件の異能だが、問題はそこではない。この存在の異常性、その本質は別のところにある。
「『禁后』……私達が閉じ込められていた、あの部屋と同じ……酩酊を無視する存在……」
それはこの先、酩酊という縛りから解放された存在が、敵対してくる可能性。解っていても防ぎようが無い脅威が待ち受けているかも知れない。その可能性自体が愛達にとって最大の懸念だった。
「図書館や地下闘技場はともかく、ホテルと禁后……あの二つの部屋は、最初からそういう存在だったのではなく、手掛かりを隠す為の場所として後から再構築されたような……そんな作為的なものを感じます」
何事にも例外はある。だが、例外は数が少ないからこそ例外なのだ。にも拘わらず、この街からの脱出を目指そうとすると、そんな例外と立て続けに遭遇するように仕向けられている。作為的なこの状況が、あまりにも不穏だった。
「薄々そうじゃないかと思ってはいたが……ほぼ確定だな。この暗号の出題者は、酩酊を無視する効果を他のものに与えることが出来るんだ。それが奴の能力なのか、別の何かを利用したものなのかは解らないが……」
そして、そこまでの権限を持つ何者かが、裏で糸を引いているという事実。それもまた彼女達の頭を悩ませる要因である。このように、懸念材料は挙げれば切りが無い程あった。
「……本当に堕天王は何も知らないのか? いや、知っていたとしてもどうすることも出来ないのか……いずれにせよ、酩帝街の勢力も一枚岩じゃないって事か……?」
特に黒幕の正体を逸早く知ってしまった一ノ瀬ちりは、あの狡猾で底知れない雰囲気を思い出し、人知れず身震いしていた。
拷问教會の第二席、シスター・フィデス。『雇い主』の正体が彼女であることをちりが隠しているのは、ともすれば自分一人で背負える問題なら、厄介事を九十九達から遠ざけたいという気持ちもあるのかもしれない。
「じゃあ、例の『雇い主』は……その気になれば酩酊を無視して、私達を一方的に攻撃する事が出来るわけですか」
「……そうだな。だが、殺すつもりなら最初からそうしてるはずだし、その気は無いと思いたいぜ。実際、どうしようもないしな」
「どうしようもない……結局いつも通り、当たって砕けろというわけですね……」
うーむ、と腕を組み唸る愛。その表情は険しいまま、地図を見つめている。
「しかし、それよりも……根本的な問題があります」
愛にとっての最大の懸念は、ちりとは少し異なっていた。ちりは酩酊に多少抗える程の耐性がある。しかしこれは極めて稀な体質で、ほとんどの者が酩酊に抗うことすら出来ない。それはあの黄昏愛にとっても例外ではなく、つまり彼女の懸念はそこにある。
「北区は、近付いただけでも酩酊する。より正確に言うなら、駅の在る方角へ向かおうとすると、強制的にその効果が発動する……」
酩帝街の北区は特に霧が濃く、酩酊の齎す効果が強く働いている。それは対象がこの街から出ようという意思が無くとも強制的に発動してしまう程である。
故に北区はヒトの住める区画ではなく、霧の内部が具体的にどうなっているのか、この街に長く棲む者達でさえ知る者は少ない。次なる座標はそんな北区の、しかも最北端付近を示している。
「座標は駅からかなり離れた位置にある。だから酩酊の効果もまだマシ、と思いたいが……」
酩酊の強い影響を受けながらそこまで近付けるかどうか――愛の懸念をちりも察し、眉を顰めていた。
「嫌がらせみてーな配置だな。性根の悪さが窺えるってもんだぜ……」
「それでも……行くしかありません。行かなくては」
そもそも次の座標が最後という確証も無いし、向かったところでそこに待ち受ける者の真の狙いも解らない。それでも、ここまできて、彼女達に諦めるという選択肢は無かった。
「……で、いつ出発する?」
「今から」
「言うと思ったぜ……」
テーブル上の地図を折り畳み、スカートのポケットに入れながら――黄昏愛はその場から立ち上がる。その隣、やれやれと肩を竦めてみせながら、一ノ瀬ちりもまた重い腰を上げるのだった。
「私とあなた、二人で行きます。九十九さんは休ませてあげましょう」
「分身共は引き続き、此処で待機だ。九十九の看病を任せる。いいな?」
「っ……はい、任せてください……!」
指示を受けた分身達の中で、二号が真っ先に声を上げそれに応える。三号もそれに続き頷いていた。
「ほら、善は急げですよ! 早く!」
「へいへい……」
言ってる傍から既に玄関まで走っていってしまった愛。溜息を吐きつつ、その背中をちりは追いかける。そんな彼女達を、黄昏愛の分身達は手を振り見送るのだった。
「…………」
「…………」
「気付きましたか、二号」
「はい。気付いてしまいました。三号」
「赤いひとの首筋にあった、あの痣……あれの意味するところは、恐らく……」
「ワンナイト……ラヴ……ッ!」
「はぁ……『あの人』という者がありながら、本体は一体何を考えているのでしょうか……」
「まったくです! 九十九さん相手ならともかく、よりにもよってなぜ赤いひとなんかと……!」
「うんうん……え?」
「え?」
◆
酩帝街、中央区。街の中央に聳え立つ巨大な球状ドームを除くと、この区画には他に建築物がほとんど見当たらない。代わりにこの区画を埋め尽くしている物は、コンクリートで出来た道だった。
全ての区画と面している中央区は人通りが多い。それ故に、縦横無尽に張り巡らされた交通道路によって、人通りがスムーズになるよう配慮されている。地上だけではなく、地下にはトンネルを開通し、上空には橋が架かっていた。
一部の交通道路は、愛のように動物の姿に変身出来る怪異などが高速で走ることを想定され造られた物もある。いわゆる高速道路だ。これらを利用することで、人混みの多い狭い路地を使わずとも、ある程度快適に各区画の特定座標に到着することが出来る。
尤も、愛や九十九ほど身体能力が高ければ、道を無視して建物を飛び越え真っ直ぐ突き進んで行ったほうが早く着く場合もあるが。
そんな中央区のドーム付近、中央広場を並んで歩くのは、黄昏愛と一ノ瀬ちり。彼女達はヒトの流れに逆らって、歩道を北へと進んでいく。黒い太陽は真上に差し掛かっているが、霧に覆われたこの街では昼時でも気温は低い。凍えてしまう程では無いにしろ、半袖では少々肌寒いだろう。とは言え、そんなことは気にもならない程度には、この街では誰もが酔っ払っているのであった。
「…………」
「…………」
その道中、特に会話も無い二人。いつも通りと言えばいつも通りではあるのだが、心なしか落ち着きの無いような、どことなく緊張の空気が漂っていた。それはそうだろう。何せ昨日の今日である。昨日、あの部屋で、愛とちりはセックスしたのだ。
昨日はあれから、事が済んだ後、いつの間にか壁に扉が現れていた。彼女達はそれに気が付くと急いで身支度し、部屋から飛び出したのだ。
それ以降、あの部屋で起きた出来事について、特に言及することなく彼女達は今日という日を迎えている。事実それどころでは無かったので仕方ないと言えばそうなのだが、やはりどことなく、気まずいものがあった。
ちりはふと無意識に、自身の首筋をその指で触れていた。そこには小さな内出血の痣がある。それはあの部屋で、愛に噛まれた時に出来た傷痕。痛みはないが、なんだかむず痒いような気がして、無意識にそこを撫でてしまう。
未だにあの瞬間の出来事が、夢ではないかと疑ってしまいそうになる。だって何も変わっていない。自分という人間が、昨日と今日で劇的に変わったとは、とてもじゃないが思えない。
けれど、首に出来たその痣を撫でていると。その存在を確かめると、やはりあれは現実に起きた出来事なのだと思い知らされる。
それでも、あの行為で齎された変化がこの小さな傷痕ひとつだけなのだとしたら、どうやら人間という生き物はセックスしたくらいではそうそう変わることはないらしい――
「無かったことにしてもいいんですよ」
そんな時、不意に右隣から聞こえてきたその言葉に、ちりは視線を傾ける。黄昏愛、彼女は遙か前方、濃霧に覆われた北の景色を見据えていた。その表情は怒りも哀しみも無い、人形のように整った横顔がそこにある。
そして、まるでいつもと変わらない凛とした声色から出た、その言葉――無かったことにしてもいい。その意味を理解して尚、咄嗟には返す言葉が出てこなかった。胸の奥にざらざらとした何かが蠢いている。それを自分の体内から吐き出すように、ちりは重く息を漏らしていた。その濁った赤い瞳は天を仰ぐ。
「ナメんなよ」
数秒の沈黙の後、やがてぼそりと呟いたちり。その横顔を、今度は愛の方が視線を向けていた。
「手前の都合でそんなほいほい忘れていいコトでもねェだろ。ヤっちまったモンは仕方ねェし、別にオレも気にしちゃいねェ。おまえも変な気遣うなよ。そっちの方がだりィだろ、お互い……」
愛にしては珍しく、他人のことを気遣った提案のつもりではあったのだが。どうやら愛が考えている以上に、ちりという少女の肝は据わっているようだった。ぶっきらぼうに紡がれたその言葉に、愛は驚いた様子で目を僅か見開かせる。
「……あなたがそれでいいなら、私も別に構いませんけど。はあ、まあなんというか……律儀ですねえ……」
何もかも諦めたように溜息を漏らすくせに、妙なところで義理堅い。そんな不器用な生き方しか出来なかった彼女の二百年間を想像して、愛もまた溜息を禁じ得なかった。
「ただ、まァ……なんだ。その……」
ここまで躊躇いなく言い切ったちりだが、ここにきて途端に歯切れの悪い様子を見せる。その視線は自らの足元に注がれ、声のトーンも明らかに落ちていた。
「……九十九には秘密にしておいてくれ。……頼む」
無かったことにはしないが、流石にそこは別問題のようである。
「言われなくてもそのつもりですよ。わざわざ言う必要も無いでしょうに」
愛にとっても、今回の事は『あの人』には言えない秘密となってしまったわけで。練習という口実で生まれてしまった関係性。秘密の共犯者。その事実を背負ったまま、彼女達は先に進む道を選んだのだった。
「……悪かったな、色々」
それはそれとして。自分のことはさておいても、相手を巻き込んでしまった事への申し訳無さは、どれほど言葉を重ねても拭い切れない。一ノ瀬ちりという人間はそういう性質なのである。
「……あれれ。ひょっとして、そう言うあなたの方が気を遣ってくれてません?」
「う……うるせェな。だったらなんだよ……」
そっぽを向いて唇を尖らせるちり、その横顔を愛は微笑う。
「安心してください。私だって無かったことにするつもりはありませんよ。だって……」
つんつん、と。愛の指が、ちりの右肩を突っつきはじめる。ちりが鬱陶しそうに振り返ると、黒い瞳がこちらを覗き込んでいた。
「結構、楽しめましたし?」
自分より遥かに年下だとは到底思えない、その妖艶な表情に――昨日の情景が重なって。瞬間、ちりの頬がかあっと赤みを帯び始めていた。
「…………やっぱ忘れろ、今すぐ忘れろッ!」
「え~? だから忘れられないですってば。あーあ、普段からあれくらい大人しければ扱いやすいんですけどねぇ」
「ぐッ……調子に乗りやがって……! テメェ覚えてろッ、次は絶対オレが――」
「次?」
「~~~~ッ!? く……っ……殺す!!」
「ふ……面白い反応しますよね、あなた」
喚き、啀み合い、煽り合う、ふたりの少女。それは、すっかりいつも通りの光景――とは、微妙に異なるものだった。
セックスしたくらいで人間はそうそう変わらない。もし変わるものがあるとしたら、それは本当に些細なこと。歩く速さだとか、言葉数だとか、肩と肩の触れ合う距離感だとか、そんな程度のもので。
代わり映えのしない街を、昨日より少しだけ変わった自分達が往く。こんな風に街を歩くことも、あと数えるほどしかないのだろうという予感を抱いて。彼女達のその足は、それでも躊躇うことなく、北へ、北へ。突き進んで往くのだった。




