衆合地獄 31
結局、二号の放った鳥が拠点に着いたのはその次の日。二日目の早朝のことだった。
廃墟から拠点まで片道数時間かかる距離とは言え、九十九達が『禁后』の家に侵入した頃にはまだ太陽が空に昇っていた。ならば遅くともその日の夜までには到着して然るべきだろう。
だというのに、拠点にしているホテルの部屋、その窓枠に鳥が足を着けたのは次の日の朝になった頃であった。
あの家に滞在していた時間が九十九達の体感以上に長かったのか、それともあの家の中と外とで時間の流れが異なっていたのか。いずれにせよ、結果として。相応のタイムロスがそこで発生してしまったのである。
「ん……?」
鳥がくちばしで窓を突付く音によって、待機していた分身がその意識を覚醒させる。浅く眠りについていた彼女は慌ててベッドから身を起こし、音のする方へと視線をやった。
「……!」
その鳥が黄昏愛の造り出した複製動物であることを一目で解ってすぐ、三号は窓を開ける。鳥は彼女の右手の甲の上に飛び乗り、口を開いた。
「――キンキュウジタイ、ハッセイ。キュウエン、モトム――」
異能によって予めプログラムされた言葉をヒト特有の音を模倣し読み上げる。それを最後まで聞き届けた後、すぐさま三号は出発した。
ちなみに、一ノ瀬ちりの血文字によるメッセージが天井に出現したのは、その数時間後のこと。ほとんどタッチの差で、三号は先に九十九達の救援に向かっていたのである。
◆
助けに向かう道中、もっと速度を出そうにも、まるで法定速度の遵守を強いるように酩酊がそれを邪魔をして、三号が廃墟に辿り着いた頃にもやはり数時間が経過していた。
指示の通り、割れたガラス戸から空き家に侵入する。そして居間から廊下に出てすぐ、三号はその光景を目の当たりにしていた。
溢れ返るような髪の毛の海、その中央には相変わらず、それらに絡みつかれている芥川九十九の姿がある。両腕と顔以外はほぼ全て髪の毛に覆われており、空いた両手でそれ以上の侵食から抵抗するように襲い来る髪の群れを引き千切っている。
その傍の床で倒れている分身の二号は、両脚と左手を欠損。その状態で右手を蛸の触手に変え、九十九の周囲に群がる髪の毛を引き千切り、サポートに徹している。
助けが来る前と状況が異なる点があるとしたら、やはり九十九の体力の消耗だった。顔は青ざめ、玉のような汗を顔に浮かべている。呼吸は荒く、髪を引き千切る指もズタズタに傷付いて、その膂力に明らかな衰えを見せ始めていた。むしろこの場合、そんな状態で助けが来るまで耐え続けられていた事の方が異常でもあるのだが。
「これは……!?」
その凄惨たる有様に、思わずその場に唖然と立ち尽くしてしまう。そんな彼女の気配に気付いた二号が顔を上げた。
「……っ! 九十九さんっ、ようやく助けが――!」
その声に九十九もまた視線を上げ三号の姿を確認すると、その表情を明るくさせて――
「あれ……ちりは……?」
しかし助けに来たのが三号の他に誰もいないことが解ると、不思議そうに目を丸くするのだった。
「実は……二番目の座標に向かった部隊も、昨日から帰ってきていなくて」
「……なるほど。あっちでも何かあったようですね……」
同時刻、ちり達の部隊はまさに今、奇しくも部屋に閉じ込められるという同じ状況に陥っていたわけである。この時点で九十九達のアテは外れてしまっていたが、九十九はすぐに気を取り直し、落ち着いた眼差しで三号のことを真っ直ぐに見据える。
「じゃあ……ごめん。わざわざ、来てくれたのに、申し訳ないけど……ちりの方を先に助けに行ってあげてほしい……」
「それは……構いませんが。どうして……?」
「ごめん……説明してる余裕はないんだ。でも、ちりならきっと解ってくれる……」
「……三号に、何か出来ることはありませんか?」
「残念ながら、黄昏愛達にはどうしようもありません。今この場においては……」
天井に貼り付いた白い紙、呪いの核は、あらゆる物理的な攻撃を髪の結界によって遮断してしまう。愛と九十九が本気で攻撃を放てばそれも破壊出来たかもしれないが、酩酊によって出力を制限されてそれも今は不可能。黄昏愛の複製がひとり増えたところで、それは変わらない。
「とにかく……お願いします。赤いひとを……呼んできてください」
だから、この状況を打破するためには。二号と九十九が考えた作戦には、どうしても一ノ瀬ちり、彼女の存在が必要不可欠だった。歯がゆい想いをしながらも、三号はその言葉に頷いてみせる。
「……わかりました。ですが、その前に……あなた達に治療を施します。せめてそのくらいはさせてください……!」
愛は異能によって動物のあらゆる特徴を再現できる。これによって可能となるのが、異種移植と呼ばれる治療方法だ。正確には現世でそう呼ばれるモノをアレンジした、より高度かつ異常な方法だが。
愛は自身の細胞を損傷箇所と同じ臓器や部位に変化させ、対象に移植できる。三号は家から出る前に、二号と九十九へそれぞれ治療を施すのだった。
「ありがとう……これで、一日……いや、二日は耐えられる……!」
修復したのは、二号の両脚と左腕、そして九十九の傷付いた内臓と筋肉の組織。これでしばらくは保つだろうが、しかし根本的な疲労までは癒せない。それが精神的なものとなれば尚更、三号にそれ以上出来ることは無かった。
「っ……すぐ、戻ってきますから……!」
治療は相応の時間が掛かり、その後三号が家から出た頃には日が暮れ始めていた。急いで拠点へと戻り、部屋に帰ってきたのは夜も深けた頃のこと。
そこでようやく三号は天井に書かれた血文字のメッセージを確認し、休む暇もなく三号はそのまま、ちり達の閉じ込められている場所――ノアの箱舟へと向かったのだ。
◆
そして、現在。ちり達が『セックスしなければ出られない部屋』に閉じ込められて三日目、その明け方。
『――――お願いします。九十九さんを、助けてください』
ここまでの経緯を壁越しに伝え聞いた愛は、その内容をちりとも共有した。九十九と二号は『禁后』の部屋に囚われている。そこから脱出する為に、どうやらちりの協力が必要らしい。
しかし、なぜちりの協力が必要なのか。その理由を三号は聞いていない。それを言葉にすることで敵に盗み聞かれることを警戒し、九十九は敢えて三号にその理由を説明しなかった。その必要もないと判断して。
だって一ノ瀬ちりには、芥川九十九のことを二百年間支えてきた実績がある。故に、彼女は九十九の言わんとしていることを瞬時に理解できていた。九十九達の考える作戦に、自分が必要とされるその理由。三号からの共有で判明した内部の状況、その間取りを想像して、赤いクレヨンが脳内に新たな作戦を思い描く。
「…………」
「…………」
しばしの沈黙があった。壁に背を向け、立ち並ぶ愛とちり。互いに顔を突き合わせ、一瞬の静寂。状況は全て把握した。兎にも角にも――芥川九十九が囚われている。重要なのは、その事実だけ。
「……オイ」
「……ええ、そうですね」
ここにきてもはや、それ以上の言葉は必要無かった。ちりはおもむろに壁から離れると、その足でベッドに向かいながら――羽織っていた赤いスカジャンを床に脱ぎ捨てる。そして愛も、壁を背にもたれかかりながら――スカートのチャックを下ろていた。
「九十九を助けに行く。さっさと此処から出るぞ」
「わかっています。速やかに実行しましょう」
あれほど恥じらい躊躇っていたのは一体なんだったのか。もはや此処に留まる理由は無いと言わんばかり、まるで豹変したかのような心変わり。結局、彼女達の最後の後押しになったのは、芥川九十九の存在だった。
「三号は先に拠点に戻っていてください。すぐに追いつきますので」
『――――えっ。あ、はい……?』
出られないから助けに来てくれと言っていた張本人の口から出たとは思えない言葉に、流石の三号も困惑し切っていた。とは言えそれ以上どうすることも出来ず、言われた通りに壁から離れ、彼女は部屋から退出する。
彼女達が今日まで性行為を避けてきたのは、何も本当にお互いがお互いを完全に嫌悪し切っていたからではない。最終的にはそうせざるを得ない事態も両者想定し覚悟もしていた。
だからそれは、ある意味当然の話。この部屋から出た後も、彼女達の関係性は続いていく。今回の件で遺恨が残ってはいけない――お互いそれを危ぶんで、ここまで安易に手は出さなかったのだ。
好き同士というわけでもない。互いに想い人は別にいる。だからこそ――誠実でなければならない。そう在ろうとすることが大切で。そんな具合に、妙なところで貞操観念が一致している愛とちりなのであった。
だがもう、なりふり構ってなどいられない。今はそんなことよりも、優先すべきは芥川九十九の安否だ。小難しいことをあれこれ考える必要もその余裕も無くなった。今はもう、彼女の身の安全の方が、自分達の貞操なんかよりも百倍大事である。
「……最初に言っておく」
血に薄汚れたホットパンツを脱ぎ捨てて、赤いショーツと黒いタンクトップ一枚の姿になる一ノ瀬ちり。そしてそんなタンクトップすらもあっさりと脱ぎ捨てて、胸をサラシで巻いた生身の肌を晒す。
「変な勘違いはするなよ」
「はいはい」
そして黄昏愛、彼女もまた黒いセーラー服を勢いよく脱いでいた。畳む時間も惜しいと言わんばかりに床へ放り投げ、上下白のショーツ姿になった彼女。先にベッドの上に登り胡座をかいているちりの隣へ、自身も歩み寄る。
「そっちこそ、私のこと好きにならないでくださいよ」
「言ってろ」
キングサイズの白いベッドの上、向かい合う赤と黒の少女。踏ん切りはついている。互いの了承も済んだ。躊躇いはない。今はとにかく時間が惜しい。
「……………………」
「……………………」
だと言うのに、お互い睨み合ったまま。事が起こる気配は無い。
「……なにしてるんですか」
睨み合って数秒後。そうこうしていると、堪らず愛が口を開いた。
「さっさとそこに寝転がってください」
「あ? なんでだよ」
「は? 私が上だからに決まってるでしょう」
「あ? ふざけんな。オレが上に決まってんだろ」
「は? どうせあなた経験無いでしょう。私がリードしてあげますから、さっさと下になってください」
「あ? てめーに好き勝手触られてたまるか。オレが上、オマエが下だ」
「は?」
「あ?」
距離にして数十センチ、目と鼻の先にいる相手に対して、バチバチと火花を散らし合う愛とちり。こんな状況だというのに、ここにきてまた別の問題が彼女達の間で浮上していた。
つまり、どっちが上でどっちが下になるか。
「もうっ! この期に及んで面倒くさい女ですねえ! 処女のクセにナマイキ言ってないでさっさと股開いてくださいよ!」
「オレに指図すんなッ! つーか経験が無いとか勝手に決めつけてんじゃねえ!」
「だったらシたことあるんですか!? セックス! 九十九さんと!」
「なッ……!? つッ……九十九とは……そういうんじゃ……ねぇし……」
「はあ!? なら九十九さん以外とは経験があるんですか?」
「オレが九十九以外とそんなことするわけねえだろッ!! ナメんじゃねえッ!!」
「なんなんですかあなた!? ていうか二百年も一緒に居て浮かれた話ひとつも無いとか、そんなことあります!? さっさと告白しろ!!」
「はあッ!? こ、告白、とかッ……そッ……そんなことでッ、出来るわけねえだろォッ!?」
「九十九さんとセックスしたくないんですかッ!?」
「つッ……九十九には、そういうのとは……無縁でいてほしいし……!」
「私のコトとやかく言う前にあなたも大概ですよねえ!?」
けれど、ちりの言い分が全く解らない愛ではない。この際やむを得ないとは言え、ならば触られるよりも触る側でありたい。それが彼女なりのささやかな抵抗――想い人以外と行為に及ぼうとしている自分自身への言い訳――であることを、愛は理解していた。
しかし、ちりにはそもそも経験自体が無い。今のちりがもし上になったら、今回の行為は失敗に終わる可能性が高いと愛は踏んでいた。バキバキに鋭く伸びた両手の爪から見てもそれは明らかである。
せめて爪を切れ、と言いたいところだが――それよりもっと確実なのは、やはり愛がちりをリードすべきなのだろう。今更言い争っている時間も惜しい。かくなる上は――
「ああ、もう……なら、こう考えてみてください」
こういう時、黄昏愛は一枚上手だった。
「これからするのは、あくまで練習です。これはあなたにとって、下の練習」
「れ……練習……?」
必要なのは口実である。それが最適解かどうかは重要ではない。口実さえ出来ればヒトは先に進めるのだ。
「あなたの気持ちも解りますが……初めてだと言うのなら尚更、練習は必要だと思います。いざ本番という時に、大切なひとの前で醜態を晒すのはイヤでしょう?」
「む……」
言い包められている、という自覚はちりにもあった。だが愛の言い分は尤もで、大切なひと――九十九を引き合いに出されてしまっては、ちりも納得せざるを得ない。
けれど、それ以上に。
「だからひとまず今は、下の練習をしてみませんか? それに……上の練習でしたら……また別の機会に、付き合いますから」
やろうと思えば無理矢理にちりを押し倒すことも出来るはずだ。特に異能を万全な状態で使える今の愛なら尚更、容易にそれが可能だろう。
にもかかわらず、愛はそれをしようとしない。今この場においても、話し合いで解決に持っていこうとしている。
「ッ……し、しょうがねェな……」
以前なら考えられなかった。だって、あの黄昏愛が。一度は殺し合い、今でも啀み合っている、気紛れな怪物少女がだ。
こういう時、こういう場面で。一ノ瀬ちりという人間に対し、言葉を尽くして接しようと努めてくれている。そこまでの関係値を築くことが出来たのだと、その変化を実感して――
「……わかった。練習、だな。練習……これは練習……」
――正直に白状してしまえば。そんな些細な変化が、一ノ瀬ちりは嬉しかったわけである。当然そんなことは、本人の前では口が裂けても言えないけれど。
「練習です」
「練習……浮気じゃない……」
「そう。だから……」
愛の細くしなやかな白い手が、ちりの頬に伸びてくる。それが触れるか触れないかというところで、ちりの体は反射的にびくりと震えた。
「……肩の力を、抜いてください」
囁きながら近付いてくる、その顔。目を奪われる程の美貌が、一ノ瀬ちりの眼前に迫ってきた。呼吸の音がすぐ目の前から聞こえてくる。汗の臭いに混じって、熟れた果実のような甘い匂いがほのかに漂ってくる。
「…………っ」
頬が熱い。心臓の鼓動が速くなっていくのを感じる。ハイライトの無い純黒の瞳が、まるで奈落のようにぽっかりと大穴を空けているようで。見つめていると、その中へ吸い込まれていくような錯覚に溺れそうになる。
「大丈夫です。すぐに終わりますから」
ちりの緊張を察してか、囁く愛の口調は泥のように柔らかい。愛はその両手をちりの肩に乗せ、優しく撫ぜていく。羞恥で真っ赤に染まった顔を隠したい気持ちをどうにか抑え、ちりは拳を静かに握り締めていた。
吐息が、唇に触れる程の距離にまで迫ってきている。あと数センチ。瞳が、互いの睫毛が絡み合う程の距離にまで迫ってきている。接触まで、あと数センチ――
「ちょ、ちょ……待、って……!」
――といったところで。突如、ちりは顔を仰け反るように、そっぽを向いてしまう。
「唇は……その……」
「……ああ、そうですね。では……」
思いの外素直に顔を離した愛に、どこか安堵したように胸を撫で下ろすちり。だったが――
「え……? ん……ぁっ……!?」
ちくりと、不意に首筋に突き立てられた微かな痛みに、ちりの声は裏返る。視線を下げると、愛はちりの首に噛み付いていた。その細い首筋に、牙を突き立てていたのである。
犬歯が皮膚を傷付け、そこからじわりと滲む血液を、愛は啜っているようだった。まるで吸血鬼のように、妖艶な微笑を浮かべてみせて。
「なっ……に……?」
困惑するちりを他所に、首を吸い続ける愛。そのなんとも言えない感触に、ちりがすっかり戸惑っていると。
「……安心してください。食べたりなんかしません。ただ……」
ようやく首元から口を離した愛が、再びちりと顔を向き合わせる。妖しげな微笑を浮かべる彼女に、ちりが訝しんでいると、その直後。
「あ……っ?」
ぐらり、意識が傾きかける。不意に訪れた酩酊とも違う浮遊感。体中が熱を帯び、発汗する。呼吸は荒く、涙で滲んだ瞳がとろんとしている。全身の感覚が鋭敏になるのを肌で実感する。自分の体が自分のものではないような、そんな感覚に襲われたちりは――確信した。
「っ、おまえ……今、なんか……したな……!?」
「ふふ……」
例えば、中央アメリカに生息するアマガエルのオスは、唇から性フェロモンを分泌する機能がある。交尾の際にこれをメスの体に押し付けて、体内にフェロモンを流し込み産卵を促すという特徴がある。
このように、他にも動物の中には、人間には無い機能を有する種族が無数に存在する。それらを都合よくアレンジして使えるのが黄昏愛の異能であり、その万能は何も戦闘に限った話ではないのだ。
「練習をするのはあなただけでは無いということです。大丈夫、任せてください。きっと……気持ちいいですから」
妖しげな微笑を浮かべる黄昏愛。その妖艶さは若干十七歳とは思えない程に大人びていて――しかしよく見ると、その背後には蛸のような触手が、何やら粘液のような物を纏って蠢いている。
「(……練習で済むのか? これ……)」
一ノ瀬ちりは諦めたように溜息を吐いて――静かに、その瞼を閉じるのだった。




