衆合地獄 30
蠢動する黒海が、世界を侵食していく。
畳の隙間から際限なく生えてくる髪の毛が、まず愛の四肢に絡みついた。天井から生えた髪は愛の首に巻き付き、壁から生えた髪は愛の胴体に纏わりつく。
特に畳から生える髪の毛は、下へ下へと引きずり込むように愛の身体を引っ張っていた。海の底へ沈んでいくように、愛の身体は髪の中へ取り込まれていく。
しかしどれだけ引っ張っても、下には畳がある。髪は愛の脚を執拗に畳へ押し付けているようだったが、当然、愛の身体がそれ以上沈むことは物理的にありえない。
だからその髪の触手は、まず愛の脚を握り潰した。
「ぎッ……!」
愛の喉奥から呻き声が漏れる。ぬえの異能ならば感覚を遮断が出来るはずなのに、愛のその表情は苦悶に歪んでいた。
纏わりついていた髪の毛が、愛の脚を押し潰す。一体どれほどの力が込められているのか、愛の脚はばきばきと砕けるような音と共に、見る見るうちに縮んでいく。髪に包まれた脚部は、毛の隙間から血が溢れ、ぐしゃぐしゃのミンチになっていく。
髪は愛の脚をミンチにして、畳の隙間に無理矢理引きずり込もうとしていたのだ――
「やめろォオオオオオオオオオッ!!」
不覚にも反応が一秒遅れた、そんな瞬きの刹那に起きた目の前の光景に、悔いる暇もなく――九十九は半ば悲鳴に近い叫び声を上げながら手を伸ばしていた。
愛の全身に絡みついた髪の束、それを正面から両手で引っ掴み、愛の身体から引き離そうと力を入れる。引き千切らんばかりの勢いで、九十九の両指は大量の髪を引っ張り上げていく。
髪はぶちりぶちりと確かに千切れるような音を立て、愛の身体から引き剥がされていく。しかしそれを補うように次々と生えてくる髪が愛の身体に絡みついてきて、九十九は休む暇もなく愛の身体から髪を引き剥がし続けていた。
そんな九十九の抵抗を受けたからか――天井から伸びる髪が愛の首から上までも包み込んで、今度は上へ上へと引き上げていく。肉が無理矢理引っ張られ、ぎちぎちという筋繊維が千切れるような音が愛の首から髪の毛越しに聞こえてくる。
「くそ……ッ!」
急いで首から髪の毛を引き剥がしにかかる。九十九の膂力をもってすれば髪を千切ること自体は出来る。しかしいくら千切っても髪は際限なく湧いてきて、愛の身体を決して離そうとはしない。
「っ、お、ご……ェ……」
不意に嗚咽を上げる愛。顔に覆う髪が、口の中へと侵入を始めていた。口だけではない。鼻から、目から、耳から、あらゆる穴という穴から、髪の毛が侵入を試みようとしているようだった。
「愛――――ッ!!」
咆哮する九十九、彼女の周囲に黒い霧が立ち込める。その肌に亀裂が走り、割れた肌の隙間から覗くのは――悪魔の如き黒い肌。
次の瞬間、九十九の尾骶骨からは蛇のような尾が伸びていた。九十九の異能――否、機能のひとつ。身体の一部が怪物のそれへと変貌を遂げる。
悪魔の尾が鞭のようにしなり、群がってくる髪の毛を瞬時に切り裂き一掃する。はらはらと宙に舞う髪の群れ。無論ただの時間稼ぎにしかならないが、時間が稼げればそれで充分だった。
九十九はすぐさま愛の身体に抱きつくと、そのまま渾身の力でその場から飛び退いた。大量の髪の毛を一気に引き千切りながら、愛と共に後方の床に倒れ込む。そうして髪の群れからどうにか距離を空けると、九十九は愛の身体を抱えたまま立ち上がり、部屋から一目散に飛び出したのだった。
「愛……! 大丈夫……!? しっかりして……!」
ぐったりとしている愛に何度も呼びかけながら、九十九は二階の廊下を突っ走る。そのまま減速することなく階段を駆け下りていく。
「くッそ……ォオ!」
それでも、家中のありとあらゆる隙間から伸びてくる髪の毛が、尚も愛に絡みついてきて――九十九はその口を大きく開け、獣のようなその歯で以て、愛に纏わりつく髪を噛み千切るのだった。
「――ッ、かハッ……げほッ……ぅ……」
顔にへばり付いていた髪を九十九が引き剥がしてくれたおかげで、ようやく呼吸が出来るようになった愛。その口からは涎と共に髪の毛を吐き出している。
「つく、も、さ……ッ……」
「愛……! くそ……ッ!」
愛の両脚は股の付け根から先が押し潰され縮んでしまっている。そこから血が絶え間なく滴り落ちていた。
「……にげて……ください……」
腕の中に抱かれる愛の顔は青ざめていく一方だった。その声はか細く、呼吸は浅い。
「これは……おかしい……」
おかしい。おかしいと言うのなら、全てがおかしかった。普段の愛ならこの程度の損傷であればすぐに異能で治してしまうのに――先程から愛は、なぜか異能を使おうとしない。
異能が正常に働いていないのか、他に原因があるのか――いずれにせよ、原因は十中八九、あのメッセージカードの裏面だろう。都市伝説の舞台を忠実に再現していると思わせておいて、最後の最後に仕掛けていた。性根の悪さを想わせる、悪辣な罠だ。
そして、この状況で最も大きな違和感の一つに、九十九は直面することになる。
「うッ……!?」
階段を下りて一階の廊下に辿り着いた九十九、そのまま出口を目指そうとした矢先――その進路に待ち構えていたのは、やはり髪だった。宙に浮かぶそのシルエットはまるで、いやまさに、黒い長髪の女性を想わせる後ろ姿で――鏡台の前の棒に吊るされた黒い長髪のカツラ。それがそのまま、宙に浮かんでいる。それは廊下の突き当たり、九十九達の遥か前方、間取りとしては便器に位置するその場所で、静かに佇んでいたのだ。
宙に浮かぶカツラは、その毛先が際限なく伸び続けている。まるで大地に根ざすように、伸び続けた髪が廊下に溢れ、河のように蠢いている。それは一斉に、正しく川が氾濫するように、束となって九十九達に襲いかかった。
「邪魔だァアアアッ!」
再び、九十九の尾がしなる。結界のように、九十九の周囲で回転するように振り回され、近付く髪の毛を切り裂いていく。海の中を掻き分けるように、愛を抱えた九十九は廊下を突き進む。
進む足が目指しているのは、九十九から見て廊下の左側、居間の部屋。そこは最初に九十九達が入ってきた時に壊した窓ガラスがある。そこから脱出するしかない。
しかし、襲い掛かる髪の量が尋常ではない。尾では捌ききれず、その隙間を縫うように髪の毛が次々と愛の身体に絡みつく。一本絡みつけば、そこから枝毛のように分かれ、愛の全身を黒い触手が侵食していく。そうして九十九が居間の前に辿り着いた時には、既に愛の胴体は再び大量の髪のよって巻き付かれてしまっていた。髪の海が、愛の身体を九十九から引き剥がそうと引っ張り始める。
「やめろ……ッ!!」
引っ張られ、自分の腕の中から離れていく愛の身体に、九十九は慌てて手を伸ばす。しかしそれも間に合わず、便器の前に佇むカツラから伸びる髪の毛が、愛の身体をまるで丸呑みにするように引きずり込んでしまった。廊下に蠢く髪の足を取られ、九十九もまたその場に躓き膝をつく。
出入り口となる窓がある居間はもうすぐそこ、九十九のすぐ左側にある。あとほんの数歩で脱出できる、それなのに――愛の体は九十九から離れて遥か前方。
「……つくも、さん……」
宙に浮かぶ髪の塊に呑み込まれた愛。全身に髪が巻き付き、もはや殆ど肌の見えない状態。辛うじて髪の塊の中からはみ出た頭部のみ、髪の侵食が少なく生身のまま残っていた。そんな愛が、最後の力を振り絞るように口を開く。
「わたしは……だいじょうぶ……それより……つくもさんは、にげてください……」
髪に押し潰され、全身が軋み始める。毛の隙間から噴き出した血を、その上から更に塞ぐように髪の毛が這い回っている。
「手掛かりは、手に入れました……もう、この場所に……用は……」
そんな状況で、血と汗と涎に塗れた顔で、愛は言葉を続ける。ここにきてその表情は、ひどく落ち着いていて。
「……わたしは、黄昏愛の本体ではありません。ただの複製です。代わりはいくらでもいるんです。だから……なにも問題は……」
「ォォォォオオオオオオオオッッ!!」
けれどそれ以上の言葉を、芥川九十九は許さない。自分のすぐ左にある居間を無視し、九十九は真っ直ぐ駆け出した。咆哮に呼応するように、その身体から黒い霧が溢れ出す。
肌に割れたような亀裂が走る。筋肉が躍動する。秘めたる黒き魔性を、剥き出しにする。それは全身の悪魔化。九十九の本気の姿。発動すれば最後、全てを破壊し尽くす悪魔の、その規格外の膂力は――
「あ…………?」
発動しない。九十九の身を包む悪魔の黒い霧を、更にその上から塗り潰すような勢いで――酩帝街の白い霧、盛者必衰の理が立ち込める。
「う……あ……っ」
その一瞬で、九十九の思考は酩酊に侵される。全身の感覚器官が異常をきたし、呂律が回らなくなる。真っ直ぐ駆けていたはずの九十九の身体は大きく左に逸れていき――そのまま壁に激突していた。
「ぐ……っ……!?」
それでも前に進もうと、藻掻くように手を伸ばす。しかしそれは空を切り、九十九の身体は床の上に為すすべもなく倒れ込んでいた。
「……く、そ……っ」
倒れ込んだ先は、鏡台のある部屋だった。鏡台の前に立てられていた棒は床に倒れており、そこにかけられていたはずのカツラは見当たらない。いや恐らくは、そのカツラ自体が今まさに愛の身体を蝕んでいる髪の正体でもあるのだろう。
そうこうしている間にも、愛に纏わりつく髪の塊はまるで咀嚼をするように、その肉を磨り潰していく。意識が微睡む。頬が熱い。この症状は間違いなく、この街の酩酊によるもの。酩酊によって悪魔化を阻止されたのだ。つまりこの部屋でも正常に、酩帝街の異能は適用されている。それは疑いようもない。
「なん、だよ……じゃあ、なんで……ッ!」
そう。それこそが九十九の覚えた、最も大きな違和感。ならば何故、この髪は――『禁后』の怪異は、愛に対して何の制約も無く攻撃が出来ているのか?
思い当たる可能性があるとすれば――先日の、シスター・アナスタシアのあの言葉。正確にはそれを代弁した、ジョンの言葉。
『そこで聡明なるアナスタシア様は考え至ったのです! つまり、枷となっているのはこの肉体なのだと。肉体さえ無ければ酩酊することは無いのだと。精神と肉体を切り離すことが出来れば――酩酊を克服出来るのだと!』
「(……そういう、ことなのか? 身体が無いから……髪だけだから、この怪異は……酩酊せず、私達に攻撃が出来ている……!?)」
他人に対して物理的に、直接危害を加えるものは、この街に存在できない。間接的にでもその思惑がある時点で、それは誕生自体を拒まれる。それがこの街のルールである。
しかしこのルールを、何らかの方法で掻い潜っている者達が確かに存在する。そしてその方法は、恐らく一つだけではない。禁后はその数少ない例外の中の一つであるということで間違いないだろう。その出自までは現時点で推理することは難しいが――
「(いや……今はそんなこと、どうでもいい)」
重い身体に無理やり鞭打って、九十九が再び立ち上がる。その間、髪の海は既に愛の頭までも取り込んで、その全身が黒い塊によって完全に飲み込まれていた。
家中の隙間から蛇のようにしなりながら生えてくる無数の髪の毛は、ただ一点、その黒い塊にのみ向かって伸びている。
「…………はぁ…………」
その黒塊の中で――黄昏愛の意識は、今にも閉じようとしていた。
骨を砕くほどの圧力で、愛の全身をゆっくりと締め上げていく。まるで雑巾を絞るように。既に下半身は崩壊し、上半身は今まさに両腕の骨が折れたところだ。口から侵入してきた髪の毛で腹が満たされていく。目も耳も鼻も、その全てを塞がれて。このままなら、あと数秒ほどで死ねるだろう。
それでいい。分身はあくまで本体の複製だ。使い捨てのモルモットとして消費される、その役割を全うすることが大前提としてプログラムされた個体。場合によってその身を食料として捧げることすら何の躊躇いも無い。死んでも記憶は連続性を保たれたまま次の個体に引き継がれる。黄昏愛にとって死とは、寝て起きる一連の流れと変わらない。
今回のケースがいつもと違うのは、本体との同期が酩酊によって正常に実行出来ない関係で、今体験しているこの記憶は引き継ぐことが出来ないローカルデータになってしまっているということ。しかし、今回この場においては芥川九十九がいる。最低限必要な情報は彼女と共有しているし、その問題も解消されている。
だから本当に、何の問題も無かったのだ。
「こっちだッ!!」
それなのに。
吊るし上げられるように宙を浮かんでいた愛の身体が次の瞬間、落下していた。前に放り出されるようにして、愛の身体は髪の塊の中から吐き出される。鏡台のあった部屋の前、床に倒れた愛の身体からは、まるで蜘蛛の子を散らすように髪の毛が勝手に離れていった。
「…………っ、え…………?」
床に這い蹲る愛は、上げた視線のその先で――その光景を目の当たりにする。
鏡台の置かれた部屋の中央、そこに芥川九十九は立っていた。そんな彼女の手には一枚の、白い紙が、握られている。そんな九十九に向かって、髪はにじり寄っていく。その周囲を取り囲むように這い寄ってくる。まるで愛のことなどすっかり忘れてしまったかのように、髪の群れは一転して九十九にだけ、その矛先を向けている。
そんな九十九の足元に、あの鏡台が倒れていた。鏡台の、三段目の引き出しが、開いていたのだ。
九十九の右手に握られている白い紙。それは最初にふたりで確認したひとつ目の鏡台、その三段目に封じられていた、呪いの爆弾。幸か不幸か、偶然にも倒れ込んだ先が鏡台の前だった九十九は、この状況で咄嗟に引き出しの中からそれを取り出したのだ。
そこに刻まれていた、呪いの言葉、呪いの名前。それを九十九が見た瞬間、髪の標的は愛から九十九へと移ったのである。
「……やっぱり、思った通りだ」
髪は『名前』を見た愛に対して執拗なまでに攻撃を続けていた。この事からも『名前』を見るという行為が攻撃の引き金になっているのは間違いないだろう。しかし目も耳も鼻も口も無い、身体の存在しない、髪だけのこの怪異がどうやって愛の位置を特定しているのか。
髪を遠隔操作している本体がいる? 違う。周りにヒトの気配は無い。更に言えば、髪は愛のすぐ傍に居た九十九のことは徹底して無視し続けていた。この髪が何者かの意思によって操られ攻撃しているのなら、九十九を無視する理由が無い。酩酊の制約を受けないのなら尚更だ。
ならば考えられる可能性は一つ。この髪は意思を持って行動しているわけではない。『名前』を見た相手を自動的に攻撃する。そういう挙動をプログラムされた存在なのではないか――
「かかってこい……!」
九十九の読みは当たっていた。床を這いずる黒髪が、九十九の両脚へ容赦なく絡みつく。
「なにを……してるん、ですか……っ!?」
芥川九十九が何をしでかしたのか、その瞬間に全てを悟った愛は、思わず声を荒らげていた。そんな愛だが全身が傷だらけだったものの、髪が離れたことで異能が働くようになったのか損傷の再生が始まり、出血が止まっている。
いつもより再生速度は遥かに遅いが、ひとまず危機は脱したようだ――視界の端でそれを確認して、九十九はその頬を僅かに綻ばせていた。
「言ったでしょうっ、私はただの複製です! 私の命に価値は――」
「関係ない」
言葉を途中で遮って、彼女はきっぱりと言い放つ。絡みついてきた髪の群れを、無理矢理に腕を振るって引き千切ってみせながら。凪いだようなその赤い瞳に、恐怖はまるで見られない。
「これが私のしたいことだから」
意味があろうと無かろうと、望まれずとも、芥川九十九は手を差し伸べる。自らを王の器ではないと卑下しながら、その行ないは間違いなく王のそれだった。
あるいはそれこそが、芥川九十九の原典。始まりのあの日、赤い髪のあの子を救ったのだって――最初は、自分がそうしたかったから、そうしたまでのことで。
もううんざりだ、もう懲り懲りだ、自分の不甲斐なさが情けない――純粋であるが故に己を呪ってきた彼女は、つまるところ、どうしようもなく――お人好しだった。
「なんて……非効率的……」
こんな状況で、思わず溜息が漏れる。何も危機を脱してはいない、それなのに。そんな風に気が抜けてしまうほど、芥川九十九という人間は精神的にも肉体的にも強靭であった。思わず見惚れてしまうくらい。彼女ならばきっと、どんな絶望的な状況でもなんとかしてくれるかもしれないと、そう想わせてくれそうで――
「うっ……お……!?」
――などと、愛が呑気に感慨耽っている間。九十九の身体は見る見るうちに、足元に広がる髪の海の中へと引きずり込まれていた。最初はそれも手や足を無理矢理に動かして引き千切っていた九十九だったが、次第にその動きも鈍くなっていく。気付けば両腕に両足、胴体までもが侵食され、縄で縛り上げるように締め付けられていた。
「こ、これ……思った以上に……きつい、ね……?」
「本当に何やってるんですかぁっ!?」
「あ、はは……ごめん……」
髪の怪異、その行動原理は解ったが、勝算があったわけではない。とにかく目の前の、愛を助けることに無我夢中で、咄嗟に取った行動である。
「でも……絶対に……っ! ここから、出る時は……ふたり一緒じゃなきゃ、嫌、だったから……!」
――なら今度は、私の番だ。
「わがままで、ごめんね……?」
「……いえ。なら、出ましょう。ふたりで、一緒に、ここから――!」
どうやらあの髪に触れられたものは弱体化してしまう。愛は身をもってそれを思い知り、そして今、九十九もそれを体験していた。愛の場合は異能の使用が出来なくなったが、九十九はその腕力が時間経過によって衰えを見せ始めているようである。
それでも九十九の膂力が異能由来のものではないからか、愛よりも抵抗は出来ていた。身体に絡みつく髪を毟り取るように引き千切っていく。
が、やはりその動きは鈍い。愛の細い脚を容易く押し潰した髪の圧力にも耐えられてはいるが、それも弱体化が進行すればどうなるか。
そして髪の拘束から解放された後でも、その後遺症とでも呼ぶべきダメージを愛の身体は引きずっていた。破壊された愛の両脚は、出血こそ止まったものの、いつもの高速再生が働かない。
それでも徐々に治っている実感はあるが、並の怪異の自然治癒より多少早い程度に落ち着いている。これではしばらくの間、立ち上がることもままならない。
全ては、あの『名前』を見てしまったことが原因で――
「(……あれ? そういえば……)」
そこでふと、気付く。自分も九十九も、それぞれ紙に書かれた呪いの文字列を見てしまったことが原因で、まさに呪いと呼ぶべき攻撃を受けているわけだが。
その紙は今、どこにある?
気付けば愛の手元に、あの黄色い台紙のメッセージカードは無かった。いつの間にか落としてしまったのだろうか。けれど九十九はつい先程まで『名前』の書かれたあの紙を確かに持っていた。しかし今改めて彼女の姿を見ると、その手元には何も握られていない。
「九十九さん、さっきまで持っていたあの紙は?」
「っ、え? くッ……か、紙? えーと……あ、あれ……?」
その場に縛り付けられながらも、襲い来る髪の攻撃をどうにか捌き続けている九十九。そんな彼女に向けて放った愛の言葉によって、九十九自身もまたその違和感に気が付いたようだった。
「無いや……いつの間に……どこいった……?」
やはり九十九も気が付いていないうちに、先程まで持っていたはずの『名前』の書かれた紙を見失っていた。九十九の空いた両手は髪を引き千切るので精一杯である。
愛はすぐさま周囲を見渡し始めた。部屋の中は床一面髪の海、倒れている鏡台もそこに埋もれず浮かんでいるが、肝心の白い紙はどこにも見当たらない。廊下も同様だ。下には落ちてない。となると――
「…………あった」
愛の予想通り。その白い紙は九十九の頭上、天井に張り付いていた。無論、紙がひとりでに動いて天井へ登ったわけではあるまい。どうやら白い紙は、蜘蛛の糸のように張り巡らされた髪の毛によって、天井に文字通り貼り付けられていたのである。それはまるでこの怪異の髪が、白い紙を天井へと避難させているような、そんな光景だった。
この怪異の髪にプログラムされた行動は、『名前』を見た者を自動的に攻撃するという単一のパターンのみ――本当にそうであるならば、わざわざ『名前』の書かれた白い紙を拾い上げて天井に避難させるなんて、それは明らかに不自然な行動である。
しかし、わざわざ無駄な行動をプログラムするはずがない。つまりあの紙は重要ということだ。ならばこうも考えられる――『名前』の書かれたあの紙自体が、この怪異の核なのではないか。
「アレを……破壊すれば、あるいは……ッ!」
思い至ってすぐ、愛の右手は蛸の触手に変化していた。勢いよく放たれた触手は宙を飛ぶように伸び、天井の紙へ目掛けて突貫する――!
「く、ッ……!?」
しかし触手が紙に届くことはなく、その手前、天井の隙間から伸びてきた無数の髪の毛によって阻まれてしまった。髪の群れに掴まれた触手で、次の一瞬で粉微塵になるまで押し潰されてしまう。
まるで結界のように、天井に貼り付いた紙を守るような挙動を取った髪の群れ。その行動により、愛の中で疑惑が確証へと変わる。
「つ、九十九さん……ッ! 上です! 天井ッ!」
愛が指差した方向、自身の頭上を見上げる九十九。蜘蛛の糸のように張り巡らされた結界の中、あの紙があることに九十九も気付く。
「アレをどうにかすれば――」
「わかったッ!」
愛の伝えたいことを瞬時に理解し、九十九は再び悪魔の尾を生やしていた。次の瞬間、その矛先を槍のように天井目掛け突き上げる。
愛の触手とは比べ物にならない程の速度で迫る悪魔の尾槍。並の怪異ならば反応も出来ず腹に風穴を空けることになるであろうそれを、しかし。あと僅かで届き得る数センチ手前、髪の結界は、やはり阻む。無数の髪の毛が悪魔の尾を掴み、動きを封じ、そのまま押し潰さんと締め上げていった。
「この……ッ!」
尾にどれだけ力を込めてもそれ以上先には進めず、それどころか押し戻されていく。更には酩酊の霧も影響して九十九の身体は悪魔化を維持するのが困難になり、堪らず悪魔の尾を引っ込めてしまうのだった。
「くそ~……! こっちばっかりハンデ背負わされて……!」
文句を言う九十九、その表情にも流石に焦りの色が見え始めていた。控えめに言って、絶望的である。『名前』の書かれた紙がこの怪異の核であると解ったところで、攻撃が届かなければ意味がない。今の愛と九十九に、核を破壊する手段は無い。やはり誰か一人を犠牲にするという選択を取らない以上、この状況から抜け出すのは不可能。
「……はぁ。仕方ない。だったら、もう……あの方法しかありませんね……」
そう呟く愛は、どこか諦めたような面持ちで。溜息を吐きながら、その視線は遥か遠くを眼差している。
「あ、愛……!? 言っとくけど……やっぱり犠牲になるとか……絶対駄目だからね……!」
そんな愛の様子に何を思ったか、慌てて口を開く九十九。相変わらず、全身に絡みついてくる髪の毛のことよりも、床に倒れる愛の方に意識を割く九十九に対し、愛は深く息を吐いて――
「……勘違いしないでください。助けを呼ぶだけです」
そう言って、愛は自身の右手を蟹のようなハサミに変化させた。そしておもむろに、自身の左手首をそれで、切り落とす。ぼとりと床に落ちた手首は、愛の身体から切り離された直後、内側から盛り上がるように蠢動し始める。かつて手首だったその肉の塊は、次第にカタチを変えていく。頭が出来て、足が出来て、翼が出来て、表面には羽毛を纏って――
そしてそこに現れたのは、一匹の青い小鳥だった。鳥の種類は、セキセイインコ。人間の言葉を模倣する、喋る鳥である。
「拠点に、この鳥を飛ばします。で、連れてきてもらいます。助っ人を」
「す、助っ人……? それは、心強い、けど……」
「ええ。心強い助っ人ですよ。彼女ならきっと、この状況でも――痒いところに手が届きそうです」
――その言葉で理解する。愛が今、脳裏に思い描いている人物像。理解して、瞬間、九十九の目は大きく見開かれていた。
「……そうか。ああ……そうか、そうか! 確かに、いけるかも!」
「まあ、これも半分賭けみたいなものですが……」
彼女達の希望を乗せ、鳥は羽ばたいた。廊下を通り抜け、居間から割れたガラス窓を潜り抜け、空へと飛び出す。
「よし、じゃあ……もう少し……踏ん張ってみるかー!」
「……こうなったら、私だって……足掻いてやりますよ……!」
髪の海に囲まれた、絶望的なその状況で。彼女達の、長い長い戦いは、こうして始まったのだった。




