等活地獄 8
明朝。等活地獄の最東端。水面に沈んだ線路の上を猿夢列車が今日も走っている。黒く濁ったその水面は三途の川と呼ばれていて、この地獄を取り囲んでいる。川と呼ばれているが殆ど海のようで、地獄はさながら島国のように、水の上に浮かんだ構造をしていた。
そんな海辺の砂丘のような川べりに寝転って、芥川九十九は今日も独り、地獄の天井を見上げていた。代わり映えしない、雲一つない赤い空。自分の瞳と同じ色をしたそれを何となしに、ただぼうっと、眺め続ける。
周囲には誰も居ない。それは九十九自身が誰も居ない場所を選んだからか、あるいは芥川九十九がそこに居るからなのか。喧騒の絶えないはずの等活地獄において、そこは稀有なほど、静寂に包まれていた。九十九の視界は、まるで何人の侵入も許さない聖域のように、純粋な赤だけを映している。
「…………」
そんな聖域に這入り込む何者かの気配を感じ、彼女はゆっくりと頭を持ち上げる。川べりから遠く離れた海岸付近、そこにはかつて出会った、あの黒いセーラー服の少女の姿があった。黒い砂浜の上、とぼとぼという擬音が似合うほど、視線を足元に落ち込ませて、少女はひとり歩いていた。
日が暮れて、夜になって、そしてまた日が昇ってきて。まるで普通の世界のように循環するこの地獄で、どうやらその少女はあの日からずっと、休むことなく彷徨い続けていたらしい。
「……ここにも、いない……」
ひとりごちる少女の不満げな声が、風にのって聞こえてくる。不意に歩みを止め、その場に座り込み川の中を覗き込んでみせる彼女は、相変わらず『あの人』を探しているようだ。
「…………」
その健気が、見ていられなくて。九十九はあの日と同じように、するりと川べりを降りて、少女の隣に降り立つのだった。
「川にはあまり近付かないほうがいい」
不意に聞こえてきたその声に、セーラー服の少女は咄嗟に身構える。しかしその目で声の主が先日出会ったあの黒いジャージの少女だと解ると、少し安心した様子で軽く頭を下げてみせるのだった。
「そこから先には何も無い。無理に進もうとすれば、引きずり込まれる」
足元に落ちていた平べったい小石を手にすると、九十九はそれを川へ向けて投げた。川の上を跳ねる石を、突如として水の奥底から伸びてきた無数の白い手が掴もうとする。しかし、手と手が邪魔しあい、石は結局どの手にも捕まらず、ぽんぽんと跳ねて遠くまで行くと、川の奥へ沈んでいった。
「まだ、見つかってないんだな」
その問いかけに頷く少女は、見るからに落ち込んだ様子で、その表情を曇らせる。先日出逢った時よりも明らかに疲弊した様子の少女に、九十九は――
「……どうして、そこまでするんだ?」
つい口を突いたように、そんなことを投げかけていた。
「約束したので」
九十九の疑問に、少女はすぐさま反応を示す。何の躊躇いもなく。言葉を選ぶ仕草も見せず。
「約束?」
「地獄で、花を探すんです。一緒に」
当然のようにそう言い放つ少女に、九十九の疑問は晴れるどころか謎がより深くなっているようだった。
「いけませんか?」
寸分の迷いもない真っ直ぐな視線。濁った黒。それを見つめ返す、凪いだ赤。九十九の疑問は晴れない。少女の気持ちが、理解出来ない。
「…………どうして」
九十九にとって、こんなことは初めてだった。言葉が口を突いて出るという感覚。何かに根本的な疑問を抱くという感覚。目の前のこの少女に、自分は何かを期待しているのだろうか。それすらも解らぬまま、九十九の口は反射的に言葉を吐き出していた。
「どうして、せっかく終わったのに――まだ続けようとするんだ?」
「それは……どういう意味ですか?」
「……すまない。うまく、言葉に出来ない、が……」
ぽつり、ぽつり。ぎこちなくも紡ぎ始める九十九に、最初は予期せず目を丸くしていた少女も何かを察したように真剣な面持ちになっていく。
「……地獄に終わりは無い。だから此処は地獄なんだ。終わりが無いのは……疲れるだろう」
九十九の脳裏に浮かぶのは、たくさんの顔、顔、顔。助けを乞う顔。媚び諂うように笑う顔。殺意を剥き出しに向かってくる顔。それらが自分の周りを取り囲んで、もう一歩も動けない。終わらない、悪夢のような、そんな幻想。
「だから……せっかく終わったのに……どうしてまだ、そのヒトとの関係を続けようとするのか……私には、解らない」
「……あぁ。なるほど」
悩める九十九を尻目に、ひとり合点がいったように不敵に微笑んで――
「さては貴女、誰かを愛したことがありませんね?」
「……え?」
少女の予想外の返しに、九十九は思わず間抜けな声を上げてしまう。彼女の言葉の意味を理解しようと頭を悩ませる暇も無く、彼女の予想外は終わらなかった。
「終わらせたくないのは当然ですよ。だって私は『あの人』のことを愛していますから」
愛。それが何なのかは解らないけれど。
それは、地獄へ落ちるに足る理由になるのだろうか。終わらない苦しみに身をやつしてまで、離し難いものだろうか。
「愛……って、何?」
「……知らないんですか? ほんとうに不思議なヒトですね……」
浜辺に座り込んだ少女は、不思議そうに九十九のことを見上げている。そのハイライトの無い黒い瞳に、いつしか目が離せないようになっていた。この感情の正体を、芥川九十九は解らない。
「まあ、いつか貴女にも解る日が来ますよ。終わらせたくないと想えるほど、愛せる人が現れたら、きっと」
およそ感情と呼べるものを置き去りにしてきてしまった芥川九十九にとってそれは、途方も無い難題だった。
「しかし、愛の無い人生ですか……私には想像出来ませんね。貴女、普段は何をしてるんですか? 好きなヒトとか……出会いとか無いんですか?」
「好き……とか、よく解らない。普段は……みんなの為に、戦ってる」
「えぇ……? 何ですかそれ……」
さながら恋愛マスターを気取ったようなしたり顔で、軽やかに会話を弾ませる黒い少女。彼女からしてみればこのやり取りも、ただの歓談のつもりでしかないのだろう。そして彼女にとっては久しく味わっていない、まともな人間との会話でもある。普段はそれほど口数の多くない彼女が、今日ばかりは饒舌であった。
あるいは相手が他人だから、いい加減な事も適当に言えてしまうのだろうか。事実、今の彼女は特に何も考えずに喋っていた。ただ思ったこと、感じたことを、そのまま口に出しているだけ。
それが後にどれほどの影響を九十九に与えることになるのか、今の彼女には当然知る由もない。
「みんなが……仲間が……助けを、求めてくる。だから、戦うんだ。私が。それが私の……役割……」
「役割? 仕事ってことですか? 仕事で好きでもないヒト達の為に戦ってるってことですか? それじゃモチベ上がらないですよね?」
「もち……?」
「と言うかそれって、あなたがしないといけないことなんですか?」
わからない。だって初めから、そうすることが当たり前だったのだ。
「自分の人生ですよ? それを好きでもないことに縛られるなんて、私なら耐えられません。事情がお有りなんでしょうけれど、嫌なら辞めちゃえばいいんですよ」
「……無理、だよ。そんな……無責任、な……」
「うーん……でしたら、これだけは言わせてください」
少女の黒い瞳が、九十九の赤い瞳と交差する。ハイライトの無い、深淵を覗いたような漆黒のそれは、見ているだけで吸い込まれそうになる。そんな暗い井戸の底から、手招きをするように――少女はまるで悪魔のように囁くのだ。
「責任の代役は誰にでも出来ますが、貴女自身の代役は誰にも出来ません。貴女がいなくたって世界は回りますが、貴女がしたいことは貴女にしか出来ません」
呆気もなく、彼女はそれを口にしてみせる。二百年間、九十九が思いも至らなかった事を、まるで簡単なことのように。
「どうか貴女の好きが、見つかりますように」
九十九は思わず息を呑んでいた。言葉を失っていた。少女の語る全てが途方もなくて、九十九には一片たりとも理解が及ばなかった。
けれど、だからこそ――惹かれてしまった。焦がれてしまった。理解できないからこそ、愛という未知に――彼女の語りに耳を傾ける芥川九十九は、この時間違いなく、心を弾ませていたのである。
「……ふぅ。やっぱり、この辺りにはいないようです。そろそろ次の場所を探します」
しばらく静寂が続いたことで会話が終わったと判断したのか、少女は不意に立ち上がった。ぱんぱんとスカートの裾をはらう所作をして。
「お話、してくれてありがとうございました。おかげで少し気が紛れました。それでは、私はこれで……――――」
微笑み、踵を返して。そうして今まさに、少女が自分の前から去ろうとする――
「あ、待っ……な……名前……っ!」
――そう認識した刹那、ほとんど無意識に、九十九の口からはそんな音が零れ落ちていた。
「え?」
「……君の、名前。まだ、聞いてなかったと思って」
終わらないのは、疲れる。そのはずなのに。何故そんなことを問いかけたのか、九十九自身、やはり解ってはいなかった。解らないのに、それでも聴かなければならないような気さえして、咄嗟に口から出ていたのがその言葉だった。
少女は最後、視線だけをやり――平常運転、淡々とそれに応じる。
「愛。黄昏、愛です」
「……愛」
「はい」
「……ありがとう」
「……? あ、はい。それでは、私はこれで」
セーラー服の少女――黄昏愛は、もう露ほど興味などなさそうに応えると、軽く会釈をして、その場を立ち去っていったのだった。愛、などという。途方も無い難題だけを、芥川九十九に植え付けて。
そう。今にして思い返せば。ターニングポイントはきっと、この時だった。黒い長髪靡くその背中から、芥川九十九は確かに異臭を感じ取っていた。
地獄に落ちて間もないはずの、可憐な少女からは似つかわしく無い、地獄特有のその臭い。九十九にとっては嗅ぎ慣れた、地獄特有のその臭い。その違和感を、芥川九十九は黙って見送ってしまったのである。