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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
第三章 衆合地獄篇
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衆合地獄 23

 ――歓声が聞こえる。


 天より降り注ぐ光が、視界の全てを覆っている。きっとあるはずの、向こう側の景色すら見えない程の眩さ。芥川九十九は、それを。地に仰向けで倒れ込んだまま、見上げていた。


「やあ、レディ。立てるかい?」


 そんな彼女の、凪いだような静謐伴う赤い瞳を覗き込む影が、一つ。


 声にする方へ視線をついと動かし、その視界の端で微かに揺れる、金色の短髪を捉えた。前髪に赤いメッシュの入った、その金髪。長さにばらつきは無く、枝毛一つ見当たらない、完璧と言っていいほど整えられた髪型に、精悍な作りの顔が見事なまでに合っている。更にはその高身長を纏う白いタキシードに至るまで、彼女の第一印象を麗しく決定付けていた。


「フフッ……動揺しているね。私もさ」


 そんな彼女は、倒れている九十九の傍で膝を折り、白い手袋の着けた左手をそっと差し伸べる。その手を九十九は黙りこくったまま、まじまじと見つめていた。


 今に至る一秒前。開戦の合図がアナウンスされた瞬間、九十九は全力で地面を踏み抜き、そらを駆けた。人智を超えた規格外の身体能力、そこから繰り出される踏み込みは、たった一歩で五メートルという距離を限りなくゼロにまで縮める。

 そうして振り翳す右腕は、その拳は音を置き去りにして、衝撃波を纏いながら放たれた。たったこれだけの工程で、芥川九十九は二百年もの間、等活地獄にて不敗伝説を築き上げてきた。

 その疾さは避けること叶わず、防御も意味を成さない。それこそ黄昏愛のような再生能力が無ければ、白兵戦で芥川九十九と渡り合うなど到底不可能――


「だって、本気で殺すつもりだったんだ。それを君は、この通り。少し驚いただけで済んでいる」


 そんな芥川九十九に、放たされたその拳に合わせて、よもやクロスカウンターを決められる怪異がいるとするなら。その者もやはり、規格外の怪物なのだろう。


 ライザが放ったのは蹴りだった。ライザは九十九の繰り出した拳を、顔面に直撃する瀬戸際の紙一重で躱し、逆に九十九の顔面に右足のハイキックを喰らわせたのである。

 クロスカウンターが決まり、九十九はその場に叩き伏せられた。その衝撃音は観客席にまで響き渡り、突風が吹き荒ぶ。その間、僅か一秒にも満たない出来事。


「いや失礼。噂に名高い悪魔の実力が、よもやこの程度のはずがなかったね」


 九十九は仰向けのまま、依然天井を見上げている。その瞳は驚きで僅かに見開かれていた。そう、驚いている。確かにあの拳を躱され、それどころか反撃を受けるとは思ってもいなかった。しかし現に九十九は、蹴りを受けていながら顔に傷一つ無い。驚いた、ただそれだけで済んでいる。


 それどころか、拳を躱したはずのライザの右頬には肉が削がれたような掠り傷が残り、血を流している。蹴りを放ったライザの右足は摩擦によって湯気が立ち込め、白いパンツスーツはその部分だけが焼け焦げ、肌を露出していた。


「大丈夫。安心して君も、本気を出すといい。私は頑丈だ、そう簡単には壊れないさ。でないと――」


 それでもライザは微笑む。いつもと変わらぬ調子で、謳うように言葉を紡ぐ。それこそが彼女の誇りだとでも言うように、ライザは倒れる九十九に左手を差し出してみせる。


「――君達の旅は、此処で終わってしまうよ」


 煽るように、ライザの碧眼は挑発的な輝きを宿して、芥川九十九を見下ろしていた。赤い視線がライザの顔を捉える。差し出された左手を無視して、九十九はその場からようやく上半身を起こし、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がりながらも、その視線をライザから外すこと無く。凪いだような赤い瞳が燃えるように、目の前の敵を見定めている。


「フフッ……ようやく私を見てくれたね」


 明確な敵意の視線を向けられながら、不敵な微笑を崩さないライザ。むしろ嬉しそうに、その声色には熱が籠もっているようだった。


「光り輝く霆王ていおう


 再び相対する両者。互いの距離は一メートルにも満たない。そんな近距離でありながら、ライザの舌は尚も回り続ける。


「……なんて呼ばれていたよ。私にも等活地獄で王と呼ばれていた時代があってね。君と同じように。フフッ……大それた異名だろう? 一体誰が最初に呼び始めたのだろうね。少し気恥ずかしいのだけれど。そう、確か由来は――」


 そんなライザの言葉を無視して、九十九は再び、大きく踏み込んだ。二撃目。今度は左の拳が、瞬きよりも早くライザの眼前に振り翳される。


 しかし九十九の拳は、再び虚空を切ることとなった。僅かに首を傾けて、今度は掠り傷すらも受けず、ライザは九十九の拳を躱してみせる。そのままの勢いでライザもまた、左足を軸に回転蹴りを放つ。反射的な防御すらも間に合わず、九十九は肩に蹴りを受けその場から二メートル、弾き飛ばされていた。


「――天翔る雷霆の如く、誰も私の速さには追いつけない」


 血の滴る頬を親指で拭い、ライザは咲う。その一挙手一投足が舞台の上で演じる役者を想わせる。しかしそれを優雅と呼ぶには、やっていることがあまりにも常軌を逸していた。


「(……確かに、速い)」


 ライザの怪物じみた反応速度を、流石の九十九も認めざるを得なかった。九十九自身、未だ大きなダメージは受けていないものの、相手が自分の全力の一撃を容易く躱すことが出来ているというのもまた事実。九十九にとってライザは、紛うことなき強敵だった。


「(異常な足の速さ。これは十中八九、異能によるもの)」


 ライザとの距離、二メートル。即座に詰めるようなことはせず、九十九はその場でライザの全身を常に捉えながら身構える。息を整え、思考に冷静さを取り戻す。


「(ただの身体強化系……単純に足が早くなるだけなら問題ない。でも……)」


 身体強化系の異能が相手なら、九十九の敵ではないだろう。九十九がその身体強化系の最高峰なのだから。目が慣れれば、ライザの速さにもいずれ対応出来るようになるだろう。だからこの場合、九十九が懸念すべき本質は別のところにあった。


「(……まだ何か、奥の手がありそうだな)」


 異能は応用が利く。異能の発動が結果として副次的な効果を複数齎す場合もある。あるいは異能とは直接関係の無い、ただの身体的な個性的特徴……『機能』と呼ばれる能力も存在する。例えば一ノ瀬ちりの伸縮自在の爪は『機能』に当てはまる。

 もしライザの異常な脚力が異能の齎す副次的な効果でしかなく、その本質は別にあるとしたら。そしてライザの異能、その真の効果が、発動イコール致命傷に繋がるような初見殺しの部類だとしたら――


「…………」


 三撃目を踏み留まり、九十九は様子を窺うことに徹していた。怪異同士の戦闘で重要なのは相手の本質を見極めること。愛が、そしてちりが、助言してくれた通りに。警戒を怠らず、慎重に、相手との間合いを測る。


「おや……フフッ、意外と冷静だね。そういうところも素敵だよ、レディ」


 爪先が、その場で軽やかにステップを刻みながら。ライザの碧眼もまた、九十九の全身を常に捉えて外さない。飄々としているようで、やはりどこにも隙など見当たらないようだった。


「でも……まだ()()を出してはくれないようだ。何か懸念でもあるのかな?」


 九十九は全力を出している。だが、本気ではない。悪魔に変身していないのだから。九十九にはまだ余力がある。それを見抜いているのか、ライザは挑発的な微笑を見せつけてきていた。


 しかし九十九の能力、悪魔への変身はリスクが伴う。特に全身の悪魔化は戦闘後の反動が大きい。黄昏愛との闘いでもそれで命を落としかけている。

 今日の闘い、九十九は負けるわけにはいかない。この街から出る為にも、愛の為にも、九十九は勝たなければならなかった。


 夢の世界での死は現実に反映されないが、もし悪魔化してもライザを殺し切る事が出来ず、返って反動により九十九の方が先に死んでしまったら。その時点で賭けはライザの勝利となってしまう。それだけは避けなければならない。相打ちなんて以ての外だ。悪魔化は相手を必ず殺せるという確証が無ければ、使用は極力控えたい――そんな懸念が、九十九にブレーキを掛けていた。


「嗚呼、そういえば……賭けの対象をまだ言ってなかったね」


 そんな九十九の葛藤を知ってか知らずか、ライザの軽薄な語り口は止まらない。用意された台詞を読むように紡がれる彼女の言葉は、殺し合いの最中とは思えない程に、良く言えば優雅で、悪く言えば巫山戯ているような。いずれにせよその場に不釣り合いな印象を与えていた。


「私が勝利した暁には、君の処女ヴァージンを貰おうか」


 どこまでも軽薄で、故にどこまでが本気なのか、相手に読み取らせない。だから、処女を奪う、などと。九十九を指差しながらそんなことを宣うライザの声色や表情仕草から、その真意を読み取ることはやはり出来ないのだった。


「……闘いの最中にゴチャゴチャと。よく舌の回る奴だ」


「相手を口説きながら殺す。それが私のり方なのさ。それよりどうだい? 了承してくれるかな」


 相変わらず爽やかに微笑みかけてくるライザに、流石の九十九も溜息を吐いていた。


 ちなみに処女という概念がどういうものかを、九十九は知っている。この世界のバグとも呼べる特異な現象によって、九十九は現世における一般常識を身に着けないまま地獄に堕ちたがしかし、地獄に堕ちて早々に運良く一ノ瀬ちりと出会った九十九は、彼女から人間の生理現象における必要最低限、一般的な知識を教えてもらっている。

 しかし、あるのは知識だけ。処女というものが何なのかは知っているが、それを奪われるという事態がどういう意味を孕むのか、九十九は知らない。


「どうしてそんなものを欲しがるのかは解らないが。別に構わない。勝つのは私だから」


「フフッ……決まりだね」


 かくして、九十九はその条件をよく解っていないままに了承した。ライザは満足気に頷いてみせる。その場で小さく跳ねるように、軽くステップを刻んで――


「――それじゃあ、本気でろうか!」


 刹那、ライザの姿は九十九の目の前から消失した。直後に感じた背後からの殺気。ライザは一瞬で九十九の後ろに回り込んでいた。

 防御はやはり間に合わず、九十九は背中に強烈な衝撃を受ける。雷が落ちたような轟音が周囲に鳴り響く程の前蹴りが、九十九の身体を宙に浮かせた。

 無敵の頑健さを誇るはずの九十九の肉体が、その骨が、衝撃に軋む。一瞬でその場から五メートル程蹴り飛ばされた九十九、咄嗟に身体を捻り後ろを振り向いて追撃に備える。


「頑丈な身体だ……何回蹴れば壊せるかな?」


 しかしその声は、再び背後から聞こえてきていた。未だ宙に浮く九十九の身体を、その背中を、ライザは雷の如き疾さで蹴り飛ばす。

 今度は地面に叩き付けられるように、踵が九十九の背にめり込んでいた。雷を落とされたような衝撃を受けた九十九は、しかし倒れない。両足で大地に踏ん張って、奥歯を噛み締め衝撃に耐えていた。


「……っ、ふ――!」


 喉の奥から呼吸を絞り出し、九十九がその場で回転するように右腕を振るう。その大振りは虚空を切るが、九十九の赤い瞳は再びライザの姿を捉えた。前方三メートル、熱を放出するようにその両足からは湯気が立ち込めている。


「フフッ……」


 微笑を漏らしながら、ライザは再び九十九へ距離を詰める。その軌跡はもはや残像を描き、音すらも置き去りにして、死神の鎌と化した怪脚を振り翳す。

 その尋常ならざる疾さに、未だ目が慣れない九十九。しかしそれでも、彼女の天性の直感が、殺意への敏感さが、眼前に迫るライザの蹴りを紙一重で躱していた。反射的に、九十九は目の前にいるであろうライザ目掛けて腕を伸ばし掴み掛かる。


 が、九十九の手はやはり空を切った。瞬間、殺意の方向を真下に感じ、九十九は反射的にその場から飛び退こうとする。

 ライザは九十九に蹴りを避けられた直後、重心を下に移動させ、上半身を獣のように大地へと沈ませていた。九十九の掴みをそれで躱しながら、そのまま脚を上空に持ち上げ、地に付けた両手を軸に身体を回転させる。


 ――カポエイラ。独楽のように回る怪脚が、その場から飛び退こうとしていた九十九の顔に直撃した。衝撃で仰け反る九十九、蹴り飛ばされながらもライザから目を離さない。ライザはすぐにその場から立ち上がり、九十九目掛けて駆け出していた。


「フッ……ハハッ……!」


 その間、ライザの微笑は崩れない。それどころか、むしろ――


「ハハハハハッ! 嗚呼、愉しい! なんて愉しいんだろうね! これだから殺し合いは止められない! そう思うだろう、君もッ!」


 咲っている。花が咲くように、心底愉快そうに、その表情は頬を紅く染めた満面の笑みを作っていた。追撃の蹴りが放たれる。一撃目は辛うじて避けられるようになったが、続く二撃目はどうにもならない。怪脚が九十九の胴体を蹴り飛ばし、内出血の痣を作る。


「私はね、人を殺すのが好きなんだ」


 そんな囁き声が耳元に聞こえてきて、九十九は反射的に身を翻す。振るった手の甲がライザの頬を掠め、血が滴り落ちる。あるいはわざと掠り傷程度になるよう攻撃を受けているのか、ライザの表情に一切の動揺は見られない。


「現世の私がいつの時代に生き、どんな人生を送ってきたのか……今となってはもう、ほんの少しも思い出せないのだけどね。でもきっと、生前の私は人殺しだったよ。でなければ、これほど心が躍るはずもない」


 一息吐く暇もなく、再び距離が詰まる。九十九の腕とライザの脚が交差する。攻撃が激しくなっていく。それにつれて、ライザの舌もまた踊るように回り続ける。まるで、そうしなければ生きていけないかのように。


「私は血が好きだ。滑らかなあの感触が好きだ。芳しいあの香りが好きだ。あの色が好きだ。あの味が好きだ。私は血が大好きなんだ。生前むかしから、死後いまも、ずっと……!」


 ライザの右ハイキックが九十九の左腕を打つ。筋肉が痺れ、骨が軋む。そんなダメージにも物怖じせず突貫し掴みに掛かる九十九。ライザの疾さにも迫る勢いで放たれた右手はライザを掴めこそしなかったものの、掠めた指先で胸を抉り、肉を削る。

 白かったタキシードが出血で瞬く間に紅く染まっていく。相応の痛みを伴うはずだが、しかしライザの表情から恍惚の笑みは消えない。


「だから私は殺してきたよ。等活地獄に堕ちてすぐ、視界に入ったものは全て殺してきた。それが愉しくて愉しくて、つい殺し過ぎてしまって……」


 血に酔うライザの今の姿は、最初の印象とは丸っ切り別物だった。ライブ会場でギターをかき鳴らし、観客を魅了していた面影はもはやどこにも見当たらない。今目の前に居るのは、ただの血に飢えた狂人でしかなかった。


「……そんな私の振る舞いを、()()()はいたく気に入ったようでね。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。私は雇われの王だったのさ。もう一万年以上前の話になるかな。フフッ……懐かしいね」


 なぜそこで羅刹王の名前が出てくるのか、などと聞き返す余裕も無い。九十九は地面を踏み抜き、加速する。両の腕を交互に振るう拳の連打がライザに降り注ぐ。


「そんな私が、今は……この街に居る。暴力禁止、人殺しなんて以ての外、そんな平和の楽園にね。フフッ……絶望的だろう? ()()()()()()()()()()()()、最初は堪えたよ。この闘技場と、愛するあの子のおかげで……随分救われてきたけどね。それでも、私の渇きが癒えることは無い。今この瞬間も……」


 拳が通り過ぎる度、タキシードがその下の皮膚ごと引き裂かれていく。ライザの異常な反射神経は直撃こそ躱してはいるものの、まるで闘いの最中で成長を遂げていくように疾さを増す九十九の拳をもはや無傷で避け切ることは困難となっていた。


「……私はずっと飢えている。だから少しばかりお喋りになってしまうのも目を瞑ってほしいな。君と逢えて本当に嬉しいんだよ。こんなに愉しい殺し合いは、本当に久し振りなんだ……!」


 全身が血で濡れていく。それでも、ライザの紡ぐ歌は途切れない。その笑みが絶えることはない。


「なあ、聞かせておくれよ! 君はどうだい? 今この瞬間を愉しんでくれているかい!? 私は君にッ、これまでの人生の中でッ、最高の愉悦を与えられているかな!? 他の誰よりも――()()()()()()()ッ!」


 無論、愉しいはずもない。芥川九十九に殺人欲求は無い。自身の快楽目的で戦ったことなんて一度も無い。生きる上で必要だから、誰かに求められるから、だから戦う。それ以上の理由は無い。それが芥川九十九という存在。ライザのこれまでの言葉に共感できる部分は一切無かった。だから九十九はずっと無視を決め込んでいた。


「――――…………」


 そんな九十九の拳が、不意に。ほんの僅か、鈍る。ライザの言葉で、九十九は思い出していた。想起させられていた。脳髄の奥底に焼き付いた、鮮明な記憶。走馬灯にも似た、強烈に印象付いた体験を。


 ――黄昏愛。誤解から始まった数奇な巡り合せ、その果てに繰り広げた死闘。後先考えず本気でぶつかり合い、それでも届かなかった、初めての相手。あの瞬間、確かに高揚した自分を憶えている。


「……フフッ。嗚呼……やはりそうか。私じゃあ君の本命にはなれないようだね。私なんかじゃあ物足りないって顔だ。妬けてしまうな……」


 今の自分がどんな表情をしているのか、今の九十九には知る術もない。鏡でもあればよかったのだけれど――否この場合、鏡なんか無くてよかったと言うべきだろう。

 ()それが何なのかを知りたくて――考えれば考える程に、思考が奪われる。そんな間抜け面を、自覚せずに済んだのだから。

 ともすれば。黄昏愛の齎した未知は、どんな救済よりも、どんな酩酊よりも、芥川九十九を狂わせてしまったのかもしれなかった。


「けど、ようやく隙を見せてくれたね」


 拳の切れが僅かに衰えた刹那。視線を僅かに外した刹那。意識が他に削がれた刹那。その刹那の隙が、命取りとなる。

 手袋を脱ぎ捨てた、ライザの血に濡れた左手が、その刹那の隙に――九十九の右肩を掴んでいた。それに遅れて気が付いた時にはもう――手遅れだった。


 光が氾濫する。青白い輝きが、文字通りの光の速さで周囲一体を埋め尽くす。その輝きを放っているのは他でもない、芥川九十九の肉体だった。ライザが九十九の肩に触れた瞬間、彼女の掌を通じて九十九の肉体に迸ったのは――電流。


「っ、あ――――」


 自身の体内を駆け巡る高圧電流が、骨を、肉を、内臓の隅々まで焼き尽くさんと輝きを放つ。その間、呻き声を上げることすらもままならない。


「――――――――」


 落雷の直撃すらも生温い衝撃。常人であればコンマ何秒にも満たぬ間に全身が炭と化している。芥川九十九だからこそ耐えられている――が、それもどこまで保つか。


「――――…………」


 芥川九十九の中身は、外側ほど頑丈ではない。それでも九十九は並の怪異ではない。だからこの場合――ライザの異能が齎すこの電流が、常軌を逸した破壊力であると言えよう。


「……………………」


 これこそが『麒麟きりん』の怪異。人殺しの麒麟児てんさい殺人飢さつじんきライザの異能。

 体内の蛋白質を変異させ通電メカニズム及び電荷量の改造、体内電流の操作による神経系への伝達速度強化、体内での意識的な発電及び帯電、そして帯電した電気の体外放出――つまるところ、電気を操るわけである。それも極めて、自由自在。


「…………………………………………」


 瞼の裏で火花が散る。脳みそをシェイクされたような衝撃に意識が霞む。太陽にも匹敵する雷霆の熱が血液を沸騰させ、肉体を灼き尽くしていく。


 この間、僅か一秒。芥川九十九は、耐えている。まだ耐えられている。が、次の一秒後にはどうなるかは解らない。どうにかして現状を打破する手を打たねばならない。

 しかしその為に下すべき次の判断が出来ない。雷鳴ノイズが思考を侵す。死はまだ遠い。だがこのままでは、それよりも先に意識の方が途絶えてしまうだろう。


 闘技場における勝利条件は、相手を殺すか、降参させるかの二択。殺せずとも、降参させればそれでいい。ここで妙となるのは、降参の意思表示の方法が明言されていない点だ。

 つまり、相手の意識を奪ったのち相手の降参を捏造する。例えば腹話術の要領で――否、ライザの異能ならば腹話術すら必要なく、相手の筋肉運動を電流により操作して、任意の言葉を喋らせることも不可能とは言い切れない。


 無論、今の九十九がこの状況で勝利条件の分析など出来るはずもない。だが、彼女の天性の直感が告げていた。このままでは負けてしまうぞ、と。内なる悪魔の声が囁いている。


 しかし、どうすることもできない。その直感が次の判断を下すよりも先に、九十九の意識は――


「九十九さん……っ!」


 ――閉じかけたその瞬間、再び覚醒した。


 観客席から、数多の歓声に混じって、その声は誰のものよりも大きく聞こえてきた。凛としていて、それでいてどこか不安を煽るような、不可思議な音色のそれ。空耳だったのかもしれない。けれどその声は、確かに。


『ッ、ォ――――』


 勝利を捧げると約束した、あの少女のものに似ていたから。


『――――ォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオッッ!!』


 考えるよりも早く。雷霆が意識に到達するよりも疾く。何よりも速く――芥川九十九の肉体は変貌を遂げる。即ち、悪魔への変身。『ジャージー・デビル』の怪異としての、彼女の真骨頂である。

 全身から放出される黒い煙。皮膚が罅割れ、内側から黒い肌を覗かせる。渦巻く羊の角が頭蓋骨を突き破り、蝙蝠の翅が迫り上がって、蛇の尾が鞭のようにしなる。やがて白い肌は全て剥がれ落ちて、黒い筋肉が肥大していき――


「…………ハハッ…………!」


 その変貌を目の当たりにしたライザの笑みに、いつもの余裕は感じられない。それはそうだ。ライザからすれば、一秒。致死量の電流を受けてなお、たった一秒の間に芥川九十九はそこから抜け出した。雷霆の光すらも覆い隠す暗黒の煙を吐き出して、次の瞬間現れたのは――悪魔の如き怪物の姿。


『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!!!』


 咆哮。その瞬間にライザの身体は闘技場の最端、壁にまで吹き飛ばされているのだった。衝撃で会場全体が大きく揺れる。壁に叩き付けられたライザの傷だらけの全身から血が迸る。

 対する九十九の黒い肉体は、無傷。悪魔化したその身には、受けた電流の傷痕すら見当たらない。命を永遠に失う可能性の代償と引き換えに、その規格外の膂力は成立していた。


「……フ……フフ……ククッ……」


 頭からの流血が、顔の右半分を覆い隠す。右の瞼が開かない。それでも残った左目で、ライザは前方、悪魔を見据える。喉から絞り出した音の色は苦痛に歪んでいる。


「参ったなあ……いくら『()()』の怪異だからってさ……! 無傷はあんまりだろう……! 反則じゃあないか、それ……! フフッ……ハハハッ……!」


 それでも、彼女の浮かべる表情は笑みだった。ライザは咲うことをやめない。求められる役割を、求められた通りに遂行する。それが彼女の存在意義ポリシーでもあった。


「嗚呼……しかしさて、どうするか……。一気に勝てる気がしなくなってきたな……」


 とはいえ九十九にとっても油断出来る状況ではない。変身してしまったからには短期戦だ。長引けば長引くほど、九十九の肉体に掛かる負荷は大きくなっていく。もしもライザが逃げに徹すれば、勝負はまだ解らない。


「……フフッ」


 覚束ない足取りで壁から身を離す。前方には、幻すらも葬ると畏れられた悪魔の如き怪物王。そこに向かって、ライザの足は真っ直ぐ前に進んでいた。


「なら、せめて最期は――華々しく幕を引きたいね!」


 全身に電流を纏う。青白い光が筋肉を輝かせる。『麒麟』の怪異として発揮できる全出力を、前のめりに傾ける。

 刹那、全ての時間を置き去りにして、光にも迫る速度でライザは宙を翔けていた。左脚は雷槌となり、地上目掛けて振り下ろされる。

 その輝きを呑み込まんと迫る、巨大な黒塊。光に包まれたライザの姿は、悪魔の動体視力を以てしても見えていない。

 にも拘わらずその拳は、光の中にいる彼女を正確に捉えていた。それを脊髄反射と呼ぶにはあまりにも異次元の反応速度で、第六感などという陳腐な表現が返って適切であるかのよう。


 かくして悪魔の拳と麒麟の脚、二対の闇と光が交差する。衝突、衝撃、爆発。遅れて音がやってきて――それが観客席にまで届いた頃には、全てが終わっていた。

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