衆合地獄 16
「……あ? 堕天王と開闢王の三人で茶ぁシバいてきた?」
夜も更けた頃。その日誰よりも遅く帰宅した黄昏愛が開口一番放った言葉に、一ノ瀬ちりは思わず聞き返していた。
「え、いいな。楽しそう」
先程まで愛の分身達に囲まれて談笑をしている様子だった九十九は、一旦その輪から離れ、本体の愛の隣に座った。
「……想像しただけで胃が痛くなってくるメンツだな……」
壁際に立ってその様子を目で追うちり、大きく溜息を吐く。ニ週間が経って彼女の損傷した左手は殆ど原型を取り戻しており、ただ皮膚まではまだ完全に再生しきっていないのか、依然包帯は巻かれたままの状態だった。
さて。腰を落ち着かせた愛は、帰宅して早々その日に手に入れた情報を整理し、ちりと九十九の二人に共有することにした。
特に大きなイベントは二つ。ひとつは、脱出の手掛かりになるかもしれない暗号を手に入れたこと。そして、その暗号の解き方を開闢王に教えてもらったこと。
「緯度と経度か……言われてみりゃあ、そっちの赤い紙もある意味ヒントっつーか、青い紙の謎解きには地図が関係してるっつー示唆だったのかもな」
愛は早速暗号の解読に取り掛かった。開闢王のヒントを元に計算し、緯度と経度を導いていく。異能により拡張した脳機能で酩酊に抗い、出した答えを次々と地図上に書き込んでいく。
どうやら四行の暗号はそれぞれの行ごとに特定の座標を示しているようだった。地図自体が全ての建物を記載しているわけでなく大まかな位置とはなってしまうものの、闇雲に捜し回っていた頃と比べれば大きな前進である。
「暗号が示す場所は四つ……このいずれかの場所に、脱出の鍵が隠されてあるのかもしれません……!」
「凄いね。この一日で、大収穫だ」
九十九とちりの持っている地図にもそれぞれ座標の印を書き込んで、愛はようやく一息吐いた。
「場所を絞り込めさえすればこっちのものですね……! 明日からも、調査……がんばり、ましょう……っ」
言いながら千鳥足で後ろに下がり、そのままベッドの上に身を放り投げる愛。僅かに埃が舞い上がる。
「……愛?」
先に気付いたのは九十九だった。よく見ると愛の顔色は少し青ざめており、額には玉のような汗が浮かんでいる。
「酩酊……じゃねえな。疲労か」
「愛、大丈夫……?」
べあ子に同様の心配をされていた愛の体調だったが、実際のところ、芳しくはなかった。酩酊と疲労による心身に与えるストレスに耐えながら食事を摂る暇すら惜しんで調査を続けていた愛の体調は、本人の自覚以上に本調子ではなかったのである。
「ご飯、貰ってこようか?」
「ありがとうございます……少し休めば……大丈夫です……」
「……水淹れてくるか」
見かねたちりが重い腰を上げるように、コップ片手に台所へ行こうとして――
「我々を取り込んでください」
――そんな時。ベッドへ横たわる愛に分身達がわらわらと集まり始めていた。
「本体である貴女が我々分身の肉体をカロリーとして吸収すれば心身の向上を見込めるはずです」
「場所を絞れたのなら我々の数もそこまで必要ではないでしょう」
五体の分身がそれぞれ「うんうん」と頷きながら、本体である愛の手を取る。
「……なるほど、その手がありましたか。ですが……よいのですか?」
「遅かれ早かれですよ。本来我々は一つだったのですから」
本体と一つになるということはつまり、分身にとっては自己の消滅を意味するわけなのだが、どうやら分身達はそこに関して恐怖を全く感じていないようだった。
愛の分身は一人ひとりに自我があるように見えるが、本来その役割は本体と意識を常に共有し手足として行動する末端機能である。酩酊による弱体化によってリンクが切れているため仕方なくスタンドアローンで行動させていたに過ぎない。
むしろこの場合、分身に提案されなければ気付けないほど本体が疲弊してしまっている、ということの方が愛にとって恐怖を感じるべき状況であると言える。
「……そうですね。では、そうしましょうか」
愛はベッドから上体を起こし、自分の前で整列を始めた五体の分身と向き直る。精巧に真似て作られた人形のような彼女達。いつでも準備は出来ていると言わんばかりに、分身達は揃って目を閉じていた。
「自分の分身を取り込んで回復か……何でもアリだな」
「愛の異能って便利だよね」
九十九は分身達と入れ替わるようにベッドから離れ、壁に背を預けながらその様子を見守っていた。ちりも同様に九十九の隣に佇み、台所の蛇口から汲んできた水をそのまま自分で飲む――
「…………ん? オイ待て。カロリーとして吸収するって、どうやって――」
ふと、愛の漏らした言葉の中にあった違和感にちりが気付いた、直後。本体である愛の顔が――花火のように、弾けた。
それはまるで花のように。ぱっかりと割れて――敢えて動物に例えるのならば、ヒルのような。顔そのものが巨大な口のようなカタチに、変形する。
顔が大きく膨れ上がり、先端が鳥の嘴のように伸びていく。それがチューリップの花びらのようにぱかっと広がって――その腔内は小さい牙のような突起がびっしりと。
「い た ダ キ ま ス」
その異形を一言で表すのならば、やはり、怪物としか言いようがなかった。怪物と化した愛は、そのまま自分の分身達を――頭の天辺から足の先まで、纏めて呑み込んだのである。
血の一滴も零さぬよう、丸呑みにして。むしゃむしゃ……むしゃむしゃ……と。大顎蠢かせ、咀嚼する怪物。その冒涜的な光景を前に、ちりも九十九も思わず言葉を失っていた。
忘れかけていたのだろう。あるいは考えないようにしていたのかもしれない。いつの間にか軽口を叩き合うような付き合いになっていたのだから尚更だ。黄昏愛という怪異の異常性。ともすれば、あの歪神楽ゆらぎですら霞むほどの狂気を、この場にいる誰もが改めて認識させられた。
「……ごちそうさまでした」
気付けば愛の顔は元のカタチに戻っていた。まるでさっきまでの出来事が悪い夢だったかのように、怪物だった頃の名残など綺麗さっぱり見当たらない。ただの美しい顔の少女がそこにいた。
「……急にそういうのやめろマジで。心臓に悪いんだよ……」
血色が少し良くなった愛とは対照的に、ちりはげっそりと萎えた表情を浮かべていた。
「うん。私もちょっとびっくりした」
「えっ? あ、すみません……お騒がせしました。もう大丈夫です」
しかし。愛の顔色は依然、蒼いままである。それもそのはず。空腹による身体の消耗はともかく、精神の疲労は一朝一夕で完全に取り除けるものではない。
自らの分身を非常食として取り込み、確かに肉体の疲労は軽減された愛だったが。肝心要の精神面、そこだけはどうしようもないのだった。
「……でもさ。ねえ、愛。しばらく、ゆっくりしてみない?」
そんな愛の状態を、九十九は見逃さなかった。凪いだような赤い瞳が見透かしたように愛の黒い瞳を正面から見据える。
「愛は今日凄く頑張った。だから、少し休憩」
愛からしてみれば、まさに文字通りの悪魔の誘惑に聞こえたことだろう。九十九の心からの気遣いが解るから余計に、愛の心は揺らぐ。
「ですが……」
「大丈夫。座標は逃げないよ」
猪突猛進、傍若無人が黄昏愛の性分であることは間違いないが、そんな彼女も学び成長する。こういう時、無理を通すより素直に甘えた方が利口であることは、酩酊の回った頭でも理解出来ていた。
「……焦っても仕方ねえだろ。もうすぐこの街から出られるかもしれないんだ、休めるうちに休んどけ」
そんな愛を後押しするように。溜息交じりに呟くちりの言葉が決め手となって、愛もまた深く長い溜息を吐くのだった。
「……そうですね。最近は、あまり眠れてなかったので……少し、少しだけ……休みます」
「うん。それがいいよ」
薄く微笑む九十九の顔が、目の前で微睡んでいく。肩の力を抜いた途端、一気に襲いかかってきた睡魔に身を委ねるように、愛は再びベッドへ横たわった。
「一日……一日だけ、ゆっくりして……すぐにまた……調査、を…………」
自分に言い聞かせるようなうわ言は、すぐに寝息へと変わっていった。
その安らかな寝顔は、先程まで怪物に変貌していたとは思えないほどの美しさで。ここだけ切り取れば、誰も彼女があの怪異殺しの悪魔と呼ばれ畏れられた怪異だとは思わないだろう。
「……本当に凄いよね、愛は」
眠る愛の体にそっと毛布を掛けながら――九十九は囁くように小さく漏らす。
「こんなになってまで、逢いたいヒトがいるなんて。私には解らない、想像も出来ないけど――」
まだ見ぬ未知を追い求めて、九十九は愛に付いてきた。愛との出逢いが、九十九の運命を変えた。そんな愛の運命を更に変えてしまった相手が居る、という事実。
この感情に名前があるのか、今の九十九には解らない。
「だからこそ――解りたい。いつか、私も」
そんな、誰に語りかけるでもない独り言を――
「…………」
ちりは、聞こえないフリをし続けた。
◆
――それが、昨晩の話。
次の日。太陽は登り朝を迎え、昼になり、そして日が暮れかかった今になっても、黄昏愛は宿泊先の一室で眠り続けている。想像を絶する疲労が溜まっていたのだろう。思えば等活地獄に堕ちてきた日からずっと、愛の張り詰めた緊張は地続きだったのかもしれない。
もしもこの旅に九十九やちりが同行していなければ彼女はもっと無理をし続けていたのかもしれないし、そもそも此処まで辿り着けていなかったかもしれない。誇張無しに、九十九やちりとの出逢いは愛にとって何よりの幸運だったと言えよう。
「(――それがオレ達にとっても幸運だったとは言えないがな)」
心の中でそんなことをぼやく彼女、名を一ノ瀬ちり。彼女は今日も酩帝街南区、飲食店建ち並ぶ歩行者地獄――その路地裏でひっそりと営む古びた居酒屋に一人、酒を呑みに来ていた。
その居酒屋はカウンターのみの狭い店内で、看板も出さず照明も点けず、店として開いているのかも定かではないような有り様で。実際、店の中は常に閑古鳥が鳴いている。
偶然にも立ち寄った其処が居酒屋だと知って以来、ちりは其処に入り浸るようになっていた。
蝋燭だけがぼんやりと照らす淋しい店内で、今日もちりは奥のカウンター席にひとり腰掛ける。飴色のグラスに並々注がれた透明の液体には、球状に削られた氷の塊が一つ。
ちりはそれを唇の隙間から捩じ込むように傾け、躊躇いなく自分の中へ流し込んでいく。あっという間に飲み干して、グラスを離した口からは小さく息が漏れ出していた。
カウンターの向こう側では、陽炎のようにシルエットのぼやけた何者かが、ピックのような道具を用いて、氷の塊へ目掛けて一心不乱に穿ち続ける様子が窺える。
この店の従業員に違いないのだろうが、目の前にいるのに何故かその姿を正しく認識出来ない。恐らくはそういう異能を持った怪異なのだろうと納得して、そんな奇妙な様子をちりはぼうっと眺めていた。そんな彼女の頬は依然として、白いまま。
「……なんで酔えねえんだよ……」
これで三杯目だった。溜息交じりに独りぼやく彼女に反応を示す者は周りに誰もいない。
最初に堕天王に会った楽屋での一件以来、一ノ瀬ちりはこの街に来てから殆どまともに酔った試しが無い。一瞬酔えたと思っても、すぐシラフに戻っている。事あるごとに酔っ払っている黄昏愛とは対照的に、一ノ瀬ちりは酔いたくても酔えない日々を過ごしているのだった。
酒なんて飲まなくても酔える街に来ているのに、酒をあおっても酔うことが出来ない。まるでそれを世界から許されていないかのような、一人だけ仲間外れにされているような、そんな感覚。
昨晩は進展があった。愛が脱出の大きな手掛かりとなるであろう暗号を見つけてきて――あの夜、ちりの心はさざめき立っていた。九十九でさえ、解らないなりに街から出る方法を調べているというのに――ちりはここ数日、何もしていない。その現実から逃げたくて――今日も彼女は、酔うことも出来ないというのに、それでも酒をあおり続けていた。
「(オレは何をしている? どうすればいい? どうすれば――)」
「ソイツは質問カ? ナラ答えてやらねェとナァ?」
心の中で密かに、救いを、断罪を求めていた、彼女の声は――いったい、何に届いてしまったのだろう。
「この街で酔うには条件が必要なのサ。ソレは前向きでも後ろ向きでもイイ、自分の意思を持つことダ。今のキサマはどっちともつかず中途半端なまま立ち止まっていル。だから酔えナイ。酔う資格がナイ」
不意に。右隣の席から突如として聞こえてきたその言葉は、その声色は、今まで聴いてきた誰のものよりも酷薄で。驚きで心臓を飛び跳ねさせることすら赦さないかのように――それは杭となって、一ノ瀬ちりの心臓に突き刺さるようだった。
「よォ赤いクレヨン。偶然だナァ?」
それはいつの間にか、音も無く其処に居た。ちりは目の端で、それの姿を捉える。
膝まで長く伸びた銀髪の長髪。その長い前髪の隙間から鋭く覗かせる、輝きを失った灼眼。宝石を散りばめた黒い修道服を着崩し、服の隙間からおよそ生気を感じられない蒼白い肌を垣間見せる、その女の名は――フィデス。
衆合地獄の堕天王率いる偶像崇拝の音楽集団『Dope Ness Under Ground』のメンバー……そのはずである。
「マスター、隣のヤツと同じモノを頼むヨ」
言葉を失うちりの隣で、さも当然のように酒を注文している。彼女の声色は決して低い音ではないものの、どこか重厚な響きを感じる音色で。聴く者を不安にさせるような、露悪的なまでの冷徹さを感じさせるその声に、一ノ瀬ちりは心臓を掴まれたようにその場から動けないでいた。
咄嗟に視線を逸らし、目を合わせないようにする。だって目が合えば最期、取って食われるのはでないか。そんなことを本気で感じさせるような気配が、フィデスにはあった。
「良いチョイスだゼ、赤いクレヨン。ココはアタシも気に入ってるんダ。イツ来てもヒトがイナイ。密談にはピッタリだゼ。ダロ? 店には悪いけどナ。ククッ……」
どうして此処に、と訊くことは簡単だ。本当に偶然なのか、と問い質したくなる気持ちは確かにある。だが、それは時間の無駄だ。そんなことより、もっと他に訊くべきことがある。
「…………アンタが『雇い主』なのか?」
「あァン? 急に何の話だヨ?」
依然、へらへらと、酷薄な微笑を浮かべるフィデス。二人は視線を交わすことなく、手元のグラスを思い思いに弄ぶ。
「……確証は無い。ただ、オレは……暗号を作って、各所に根回しして――この街の脱出方法を隠している黒幕が、アンタじゃねえかと思ってる」
「へェ? どうしてそう思うんダァ?」
口火を切ってしまったのだ、もう今更止まれない。ちりは唾を飲み込んで、それでも乾いた口の中を懸命に動かす。
「シスター・アナスタシアから聴いた。アンタはオレ達が黒縄地獄で起こした騒動の全てを識っているみたいだな」
「ハァ? ナンだそんな事カヨ。ロアから聴いたに決まってんダロ?」
「オレも最初はそう思ってたぜ。でもそれはありえないんだよ」
気付けばカウンターの向こう側にいた従業員の影すらも見当たらなくなっていた。忽然と、まるでこうなることを見越して人払いを済ませたように。そんな静寂の中、二人の息遣いだけが空間に響く。
「ロアは禁域の怪異を語れない。冗談でも口にすることが出来ない。だが、シスター・アナスタシア。アイツはオレ達が禁域の怪異を倒したことを知っていた。アンタから聴いたって言ってんだ、フィデス。ロアが語れないことを、衆合地獄に居ながら何故知ることが出来た?」
それが最初に一ノ瀬ちりが抱いた疑念。聞く者によっては関係が無いと聞き流す程度の情報を、ちりは今日まで違和感を抱き続けていた。
「あァ……そのことカ」
訊かれたフィデスは表情も声色も何一つ変えず、酷薄な微笑のまま、ちりと合わせるように会話を続ける。
「イヤ悪かっタ、ロアから聴いたってのは嘘ダ。本当は黒縄に潜伏していたアタシの仲間から一部始終の報告を受けていたのサ。だから知ることが出来たんダ」
「……それも嘘だな。アナスタシアは禁域の怪異だけでなく、オレが美咲を……シスター・アガタを倒したことまで知っていた。あの場にはオレと美咲以外誰もいなかったはずだ」
液体に浸った氷がグラスの中で溶け、微かに音を鳴らす。形が崩れていくそれを、フィデスは気怠そうに眺めている。
「識り過ぎてんだよ。まるで自分の目で隅々まで観てきたって感じだぜ。だが、そうすると違和感がまだ残る。あの日、楽屋でオレ達を見た時の、アンタの反応だ」
店の外で蠢く雑踏が、やけに遠く聞こえる気がする。
「覚えてないか? あの時アンタは、オレ達を見て咄嗟に『誰だ』と言ったんだぜ。つまりあの時点でアンタはオレ達のことを知らなかった。いや、もしかすると名前くらいは知っていたのかもしれないな。でも、アンタはオレ達を見て『誰だ』と言った。具体的なオレ達の容姿は知らなかったんだ。更に言えば、オレ達があの日あのタイミングで楽屋に来るということも知らなかった」
「はァ。そんなコトよく覚えてんナ」
「……そうするとアンタは、オレ達の詳細な情報に関しては後から知ったことになる。既に知っていたのではなく後から知ったんだ。そこが重要なんだ。この事実だけを鑑みるなら、アンタは過去を遡ることは出来るが、未来を予知することは出来ない――ということになる。だが過去が解るなら未来の行動も予測出来るはず。けどアンタは、少なくとも初対面の時点では、オレ達のことを知らなかった……つまり、それが発動条件だ」
酔えないからこそ気付けたのかもしれない、ほんの些細な違和感。
「……今からオレは突拍子もないことを言うぜ」
自分の中で論理が飛躍していく実感。それを妨げるものはなく――
「フィデス、アンタは……他人の記憶や心を盗み見る、そういう類の異能を持っている可能性がある」
疑念が言葉として形となった瞬間、フィデスは僅かに目を見開かせるのだった。
「であれば、やはりアンタはこの街を出入りする方法を知っている。むしろ知らなきゃおかしい。もしも本当に他人の記憶を、情報を……心を読むことが出来るのなら……あの開闢王の胸の内すら一方的に知ることが出来るはずだ。アンタは酩帝街を出入りする方法を簡単に知ることが出来るはずだ」
確かに突拍子の無さは否めない。フィデスの異能の正体について、考えられる可能性は他にも幾つかあった。だからこそ、ちりは真っ先にこの答えを選んだのだ。突拍子も無いと切り捨てたく成る程の――考え得る中で、最悪の可能性だからこそ。
「何度も言うが確証は無い。証拠も無いし全部オレの憶測に過ぎない。考え過ぎなだけかもな。ただ、いずれにせよ……オレ視点じゃあ、アンタが一番黒に近い」
最悪を常に想定する一ノ瀬ちりだからこそ辿り着いた結論。どこか否定されることすら期待した答え。
「……っていう、オレの個人的な感想だが。これを聴いて、アンタは……どう思う?」
溶けた氷の雫が底に溜まったグラス、静かに傾けながら。僅かな水滴で乾いた喉を潤す。
一瞬の静寂。視線は依然、交わらない。
「問題を無視して出題者を先に当てやがっタ。ククッ、なかなかどうして小賢しイ」
牙を剥き出して心底可笑しそう口角を上げるその女の顔を、うっかり視界に入れてしまわないように、ちりは眼前を掌で覆う。
「正解だゼ、赤いクレヨン。アタシは『さとり』の怪異、他人の心を『読む』ことが出来ル。文字通りの意味でナ。そんなアタシは当然、街を出入りする方法を識っていル。アタシはそれを暗号化しテ、ロアやバックベアードを使いこの街に隠させタ」
嫌な予感ほどよく当たる。重く、重く、ちりは息を吐き出した。
「あァ、ちなみにナ。逆だヨ。開闢王に街を出入りする方法を教えてやったのはアタシだゼ。アタシが最初にソレを見つけテ、ソレを交渉材料に羅刹王と同盟を組むよう開闢王に指示したンダ」
あの開闢王に指示を出せる。自分がそういう立場の存在であると、このフィデスという女、いや怪物は、確かにそう言っている。
「…………アンタ、何者だ」
「さてナ。今のキサマラには関係の無いコトダ、気にしなくてイイ」
自分の異能を言い当てられたというのに、フィデスは意にも介していないように、くつくつと嗤うだけだった。
「重要なのはこの街から脱出する方法ダ、そうダロ? 四つの座標は絞り込めたンダ、あともう一息ダゼ。衆合地獄篇はもうスグ終わル」
その余裕が余計に不気味で、ちりの首筋に冷たい汗が流れ落ちる。
「……オレには、アンタが何をしたいのか解らない」
半ば苛立ちを込めたちりの声は微かに震えていた。
「暗号ってのは解かれることを期待して作るもんだ。本当に解かれたくない真実は、謎にすらならないよう跡形も無く隠すもんだろ。それなのに、アンタはこの街の脱出方法を暗号として残した。アンタは誰かにこの謎を解かれることを期待している。何故だ? アンタにどんなメリットがある」
「ソレもキサマラが今知る必要の無いコトだナ」
不意に、右隣から衣擦れの音が聞こえてきて――フィデスが席から立ったことを気配で感じる。
「安心しロ、いずれ解ル。アタシに辿り着いたキサマならナ」
修道服翻し、狭い道を渡って店の出入り口へと向かうフィデス。そのブーツの音が少しずつ遠のいていく。
「さテ。寄り道もいいガ、そろそろ本筋を攻略したらドウダ? その先デ、マタ会おウじゃないカ。赤いクレヨン――」
金縛りを振り切るように、ちりは慌てて自分の右隣に振り返った。しかしその時には既に、銀髪灼眼の魔人――拷问教會第二席――シスター・フィデスの姿は、店内のどこにも見当たらない。
影も温度すらも痕跡を残していない、そのカウンターテーブルには――空になったグラスだけが鎮座していて。白昼夢のようだったその瞬間の出来事が、どうしようもなく現実であることを突きつけてくるようだった。




