衆合地獄 15
「お待たせして申し訳ありません。少々立て込んでおりまして。つきましてはこちら遅れた時間分と等価になるよう見繕った手土産をご用意致しました。お納めください」
「あははっ★ 冗談だよぉ、そんなの全然気にしなくていいのに★ でもありがとっ★」
その巨躯を纏った黒い神父服と、骨のような素材で造られたペストマスクは、どうあっても見間違えようがなかった。
蒼髪のツインテール揺らす堕天王の小柄な背丈に合わせるように、自ら少し屈みながら両手に携えたバスケットを手渡すその魔女こそは、間違いなく。
ほんの数週間前、愛達が黒縄地獄にて衝突した勢力『拷问教會』のトップ。等価交換のルールに則って不正を裁く断罪者。無垢にして傲慢、黒縄地獄を統べる王、神秘貪る開闢王に他ならない。
「ちょうどよかった! 今あなたのお話をしていたところなのっ★ 愛ちゃんも本人に訊いたほうが確実だと思うし、なんでも答えてあげてねっ、アンサーちゃん★」
この異常事態を前に、呆然とする愛を差し置いて。堕天王はまるでいつもの調子で――開闢王を指して「アンサーちゃん」などと呼び、無邪気に笑っているのだ。
「お久し振りです黄昏愛。存外早い再会でしたね。幻葬王は息災でしょうか」
「……………………」
マスクでくぐもっているだけなのか、あるいは元からそのような声帯なのか、例えるならば焼け爛れた獣の唸り声、そんな重く低い音が、ペストマスクの向こう側から発せられる。
「……あ、あれれっ?★ 愛ちゃん? 大丈夫……?★」
さしもの堕天王あきらっきーも愛の様子がおかしいことにようやく気付いたのか、心配そうに見つめてくる。開闢王はと言うと唖然とする愛を横目に、のそのそとテーブルに向かい合うように座り始めた。機械的な動作で流れるように正座をし、愛と堕天王の間に挟まるような形で収まる。
「…………開闢王。何故、貴女が……ここに」
堪らず口を突いて出た、質問。開闢王に質問をするという行為がどういう意味を孕むのか、先の件で身に沁みて解っている愛でさえ、やはり訊かざるを得なかった。
「彼女とは予てより会う約束を取り付けていましたので」
当たり前のように質問に対してノータイムで答える開闢王。淡々と事実だけを述べるその怪人は、ペストマスクの鼻先を僅か堕天王の方へと向ける。
「暁星。貴女も黄昏愛と知り合いだったのですね」
「あ、うんっ。知り合ったのはつい最近だけどね★ 今日はたまたま会いに来てくれたんだ★ 相席してもらってもいいよねっ?★」
「二人きりでなければならないという契約でも無し。僕は構いませんよ」
しかし、今の状況を異常事態だと捉えているのはどうやら愛だけのようで。
さも当然のように会話を交わす二人の王。何よりあの開闢王が堕天王を指して「暁星」と下の名前で呼んでいる時点で、気の置けない関係性が窺い知れる。
「えっと……仲、良いんですか? 開闢王と……」
依然、事態を飲み込めてはいないものの。困惑と酩酊でごっちゃになった思考からどうにか捻り出した愛の言葉は、あまりに素朴な感想だった。
「そうだよっ★ 付き合いも長いしね★ もう一万年くらいになるかなっ? わたしたち親友だよねっ★」
「いえ、まあ、同盟相手ですので。確かに付き合いは長いですが特別仲が良いというわけではありません」
「まったまたぁ★ アンサーちゃんてば照れちゃってぇ~、あはは……は……えっ……あ、あれれっ……『腕』が発動しないってことは冗談ですらない……? 仲良いと思ってたの、ひょっとしてわたしだけっ……?★」
嘘や不正に反応して対象の四肢を引き千切る、開闢王の異能『腕』。故に誰も開闢王の前では言葉を偽ることが出来ない。それは当の本人自身も同様であり、自他問わず不誠実を許さないその怪異は、殆どの他者からすれば忌み嫌われることの方が多いだろう。
そんな開闢王の異能を知ってなお交流を続けていける者の精神性とは、善くも悪くもやはり普通ではない。堕天王のある意味異常とも言える底抜けた善性は、本人の自覚以上に開闢王との相性が良かったのである。
「ああ、でもそっか。ふたりとも面識自体はあったんだっけ?★」
「おや。ロアから詳細な噂は聴いていませんでしたか」
「聴いたは聴いたんだけど~……ロアちゃんてばウソばっかりつくんだもん! アンサーちゃんと愛ちゃん達が全面戦争したとかなんとか言ってね? ほんとびっくりしたよ~★」
「成る程。しかしそれは強ち間違いというわけではありません」
途端、ペストマスクの向こう側から刺すような視線を感じ、愛は少し気まずそうに表情を歪ませていた。
「確かに彼女達に戦争の意思はありませんでしたが、事実我々は衝突し、結果として――我々の切り札である禁域の怪異、歪神楽ゆらぎは正に今目の前にいる彼女、黄昏愛に一度殺されましたので」
歪神楽ゆらぎ――その名を開闢王が口にした瞬間、堕天王に襲い掛かる頭痛と目眩。知覚しただけで、その存在を意識しただけで、どこにいようと対象を狂わせる『くねくね』の異能は、無敵と謳われる堕天王すらも例外なく侵す。
「う……っえ……? え、え……ええええっ!? 愛ちゃん殺したのっ!? あのゆらぎちゃんを!? ていうか殺せるのっ!?」
その頭痛も目眩もどうでもよくなる程に――あの歪神楽ゆらぎが倒された、という事実が何よりの衝撃となって堕天王の脳天に直撃した。
「あー……その節は……なんというか……」
「お気になさらず。ゆらぎの蘇生は完了しています」
言葉を選ぼうとする愛を遮って、開闢王は全てを見透かしたような視線で刺し続ける。
「むしろ感謝していますよ黄昏愛。結果的にそれはゆらぎにとって自身の弱点を克服する貴重な機会となりました。次に相見えることがあったとしてもゆらぎが貴女に負けることは二度と無いでしょう」
およそ温度を感じられない冷淡な声色は普段通りのそれではあるものの、しかしどこか棘のようなものを愛は感じていた。
「……………………次があっても私が勝ちますけど?」
こういう時、逆ギレしてしまうのが彼女の悪い癖である。文学少女のような見た目に反して彼女の沸点はあまりに低い。もしこの場に一ノ瀬ちりが居たなら胃痛に苛まれていたことだろう。
「コラコラコラーッ!? 売り言葉に買い言葉になってるぞーっ!? 喧嘩しないでねーっ!?★」
幸いにも今日この場には堕天王が居た。慌てて二人の仲裁に入る。
「事情はよく知らないけどっ、二人共ちゃんと話はつけてきたんだよねっ!?★ だったら大丈夫っ! これからは仲良くできるよっ★ ねっ?★ ねっ!?★」
「むう……」
堕天王に窘められた黄昏愛、いつの間にか酔いが回りすっかり赤くなった頬を不服そうに膨らませながらも、それ以上突っかかることなくその場は引き下がった。
「ていうかアンサーちゃん珍しいね、あなたがムキになるなんて……でもだめだよ? ここではみんな仲良く、ね?★」
「……いや失礼。……それで、僕に質問があるのではないですか。黄昏愛」
「そうそうっ★ 愛ちゃん、この街から出たいんだって★ だから協力してあげてよアンサーちゃん!★」
愛は頭を冷やすよう努め、深呼吸をして――これが、またとないチャンスであることに気付く。開闢王はどんな質問にも必ず答える。彼女自身の異能がそうさせているのだ、拒否権は無い。
一万年という永い刻の中で謎を貪り喰ってきた開闢王は、地獄に現存する殆どあらゆる謎の答えを持ち合わせている。残念なことに愛の捜し人である『あの人』の行方は開闢王にすら解らなかったけれど――代替案として無間地獄の噂を教えてくれたのも彼女だ。彼女に質問すれば、必ず何かを得られる。
「貴女がどうやって酩帝街を出入りしているのか……教えてください」
今日この場に愛が立ち会えたことはあまりにも幸運だった。これを活かさない手は無い――自らの置かれた状況を自覚した途端に緊張してきて、声を少し震わせながら、愛は尋ねる。核心を突く。
「それが質問であるならば、僕はそれに答えねばなりません――」
開闢王はその質問に狼狽えることもなく、淡々と口上を述べる。
「――が、僕はその答えを教えることが出来ません」
しかしその答えは、愛の望んだものではなかった。
「確かに僕は答えを識っています。僕はその答えをもってして衆合地獄を出入りしている。けれどその答えを教えることは出来ない――正確には教えることを禁じられている。そういう契約なのです」
訝しげに目を細める愛の対面、堕天王はというと、開闢王がこう答えることを既に解っていたようだが、それでも愛の気持ちを察してか残念そうに眉尻を下げ肩を竦めていた。
「黄昏愛。貴女は三獄同盟というものをご存知ですか」
「……知ってます」
「僕はその三国を統べる三人の王の中で唯一、酩帝街を渡って各階層間を制限無く移動することが出来る存在でした。この同盟は僕が最初に提案し焦熱地獄と衆合地獄の橋渡しを担うことで実現したのです」
望んだ答えを得られそうにないことは愛にも察しがついたが、それでも黙って耳を傾けているのは、やはり開闢王の言葉に一定の信頼があるからだろう。そんな愛の淡い期待に応えるように、開闢王は粛々と語り始める。
「三獄同盟の起源は、今からおよそ一万年前……正確には九千と五百年ほど前になりますか。黒縄地獄の王となった僕は、まず最初に羅刹王と接触しました。交渉の末、黒縄は焦熱と同盟を結ぶ事と相成りました。その同盟を結ぶにあたって、焦熱地獄の王――羅刹王はある条件を提示し、僕はそれを等価交換に則った契約として認め、承諾した」
開闢王の言葉を遮る黒い触腕は現れない。その状況そのものが騙りではないことの証左に他ならない。
「その幾つかある条件の中で――酩帝街を渡る方法とそれに関連する人物の詳細を誰にも教えてはならない、という条件を、僕は羅刹王と契約しているのです」
「そうなんだよねぇ……衆合地獄と同盟の契約を結んだのはその後だったから……わたしにも教えてくれないもんね……★」
「僕がそれを教えてしまうと僕は羅刹王との契約を破ることになってしまう。等価交換に則った契約は絶対です。僕自身これに抗うことは出来ない」
つまり、一度契約を結んでしまうと開闢王は自身の異能によってその契約を破る行為の全てを禁じられてしまう。およそ一万年前の時点で既に、羅刹王が先回りをする形で、手を打たれてしまっていたというわけである。
「以上です。僕からの回答を終了します」
「……答えになってないです」
俯いて愚痴っぽく呟く愛に、堕天王はテーブルを回り込む形で這って近付き、痛ましい表情を浮かべる愛の頭をそっと抱き寄せる。
「ごめんね……?★ アンサーちゃん、いじわるしてるわけじゃないから……許してあげて?」
「わかってます……」
ここまで辿り着いて、ようやく手に入った情報が「結局何も解らない」なのだ。流石の黄昏愛もすっかりしょげてしまっていた。そんな愛を守るように肩を抱く堕天王の、ともすれば抗議の声が聞こえてきそうな視線が、開闢王に突き刺さる。
「アンサーちゃんのケチ★」
「…………」
マスクに隠れて表情が見えない開闢王だが、なんとなく、堕天王の視線から逃れるようにどこかそっぽを向いているような、ほんのり萎縮したような雰囲気が伝わってくるのだった。
「はぁ……でも不思議だよねぇ……羅刹王さん、どうしてそんな契約をアンサーちゃんと結んだんだろ……?★」
そう溜息を吐きながら、愛の頭を撫で続けている。
「ねえアンサーちゃん、他に愛ちゃんに教えてあげられるようなヒントはなあい?」
「……ヒント、ですか。契約違反にならないよう伝えるのは非常に困難ですが……考えてみましょう」
珍しく少し困ったような様子で、ペストマスクが天を仰ぐ。堕天王に抱かれた腕の中、釣られて愛も視線だけ動かして天井を見上げた。白い天井は染み一つ無く、パステルカラーの赤と蒼が水玉となって散りばめられている。赤と蒼……
「……あ」
その色を視界に入れた瞬間、ふと、思い出して――愛は自身のスカートのポケットを弄り始めた。
「そういえば、こんな物を貰ったのですが……」
それは図書館でべあ子から受け取った、真実への手掛かり。赤い紙と青い紙。赤い方には堕天王の棲むパンデモニウムを中心に、その周辺の地図が描かれている。そしてもう一つ、青い紙の方には活字の文章が四行、掠れたインクのようなもので刻まれていた。
その文章は数字と記号でのみ構成されており、以下の通り。
43●069611■141●500583
34●697483■135●180597
26●186111■127●676389
35●632778■139●880556
「なあにそれ……? 何かの数式……?★」
「恐らく何らかの暗号だと思うんです。手掛かりであることは間違いなさそうなんですが……」
四行で構成された数字と記号の羅列の暗号。愛は勿論のこと、これを所持していたべあ子にさえも結局今日まで解けなかったという。解らなかったからこそ後回しにし、先に赤い地図のほうへ向かったのだが――。
「それは緯度と経度ですね」
――しかし、それをあまりにもあっさりと。隣からそれを覗き込んできた開闢王は、当たり前のように答えてしまう。
「……え?」
思わず聞き返す愛を後目に、開闢王はおもむろに懐から一枚の古ぼけた紙を取り出す。それは愛達も持っている、酩帝街の案内地図だった。愛達が泊まったホテルで配られた物と同様のそれを取り出し、テーブルの上に広げてみせる。
地図をよく見てみると確かに、定規で引かれたような線が薄っすら、縦横無尽に引かれていた。それ自体の存在は愛も当然解ってはいたのだ。今日までそれを特別気にも留めていなかったが――
「現世においては常識ですが、緯度と経度は数値化が可能です。それは異世界においても同じこと。例えば暗号の一行目。43●から始まる数列を緯度、141●から始まる数列を経度であると仮定し、地図に当てはめると――」
地獄は階層ごとに空間自体の広さが異なる。階層はその周囲が三途の川で囲まれ、島国のような構造となっている。川を超えて先に進むことは出来ず、地球と同じように一周出来るかどうかも実は未だ明らかにされていない。
そもそもこの地獄に宇宙は存在するのか。仮に存在するとして、では自分達が今存在しているこの異世界は球状の惑星なのか、その保証すら無い。
太陽が昇ってくる方角で東西南北を判断すること自体は可能だが、はたして地獄の太陽が地球の太陽と同じ法則で昇降しているのかどうかも不明であり、それを確かめる術も無い以上、地獄の緯度と経度もまた正確に定める事は本来不可能。
愛の手に入れたこの地図に引かれている縦横の線も、経緯度を指し示す物としては正確では無いだろう。
しかし正確ではなくとも、緯度と経度は『その場所における原点と軸さえ定義できれば』求めること自体は可能である。それは異世界だろうと同じこと。そして今回に限って重要なのは正確さではなく、この地図で経緯度が定義されているという事実。この暗号文はそれにさえ思い至れば、答えとなる数値を導き出せるようになっていたのである。
と、口で言うだけなら簡単だ。しかし何もかもが曖昧なこの地獄という環境に永く身を置く程、現世における常識は忘れていってしまう。
それが指摘されればすぐに思い出せるような事でも、まさに今回のように、その機会が無ければ永遠に思い出せない事だってざらにある。
それは仕方のないことでもあるが――誰もが忘れてしまう、そんな過去の常識をいつまでも憶えている。だからこそ彼女は一万年もの間、神秘貪る開闢王として畏れられてきたのだろう。
「――酩帝街北区、大図書館。その近辺に座標がほぼ一致する」
開闢王の人差し指が、暗号の答えを指し示す座標をなぞり上げる。しかし次の瞬間――
「おや」
彼女の指の動きは不意に、不自然に停止した。正座をしていた開闢王、彼女の足元の空間に突如黒い亀裂が走り、そこから黒い触腕が伸びてきて、開闢王の右腕を掴んでいたのである。
「どうやらここまでのようですね。これ以上は契約違反になるようです。ヒントというものは存外難しい。僕の場合喋りすぎてしまいます。ですが――」
周囲に漂っていた霧が急速に濃くなっていく。先程まで力なく項垂れていた面影はどこへやら、黒い瞳を大きく見開かせて――
「――貴女が求める答えの、参考程度にはなりましたでしょうか」
もはや蒸気のように立ち込める酒気の中で、黄昏愛は立ち上がった。
「あ、あ、ありがとうございましゅっ!!」
回っていない呂律で感謝を述べるその姿は、無事に活路を見出したようで。玄関へ向かって慌てて駆け出そうとする愛に、堕天王は「わわっ」と驚きの声を上げる。
「もう行っちゃうのっ?★」
「はいっ、こうしちゃいられないので!」
気付けばカーテンの向こう、窓の外は日が落ちすっかり暗くなっていた。 千鳥足になりながらも、愛はどうにか玄関先で靴を履き直し、扉を押し開ける。
「ほんとうに、ありがとうございました! この御恩は必ずお返しいたします、失礼しましたぁっ!」
「ふふっ、元気になってよかった★ またいつでも来てね~!★」
それを笑って見送る堕天王と――
「……ええ。必ず返して貰いますよ」
――黄昏愛に貸しを作ることに成功した開闢王。
「愛ちゃん、この街から出られるといいねぇ……★ ……あっ、ごめん! アンサーちゃんの分のお茶、すぐ淹れてくるからね!★」
「有難う御座います」
嵐が過ぎ去り、残された二人の王。何もかもが正反対の彼女達は当初の予定通り、奇妙なお茶会を続けるのだった。
 




