衆合地獄 13
黄昏愛、彼女が酩帝街に来てから二週間が経過した。
しかし二週間、とは言ったものの。この地獄に正確な暦は存在しない。時間の流れが必ずしも一定であるとは限らないこのセカイにおいて、時間の概念とは酷く曖昧なものだ。朝が終わらない日もあれば、夜が終わらない日もある。時間の進みが早い日もあれば遅い日もある。全ては神様の気紛れ、賽の目次第。
付け加えると、生きていた時代も死んだ後の経緯も何もかもが違う地獄の住人達にとって、時間の計り方にさえ個人差が生じる始末。故に、自分が一日経ったと思えば、事実がどうあれ自分にとってはそれが真実となる。暦が存在しないと言ったが、各々が自ら定めた暦に従っていると表現した方がより正確だろう。
さて。つまり黄昏愛は、酩帝街に足を踏み入れてから今日に至るまで二週間、およそ三百三十六時間ほどの経過を体感した、ということである。この二週間、やることは毎日、さして大きく変わらず。今日も今日とて酩帝街北区、図書館にて彼女は脱出の手掛かりに繋がる情報を捜していた。
古今東西あらゆるジャンルの書籍が溢れんばかりに蒐集された本の海。床に積まれた書の海原の中で、まるで平泳ぎでもしているように自らも床に仰向けで寝そべったまま、愛はその細い指先でページを弾くように捲っていく。一面全ての文字列に目を通し、次のページを捲るまでに掛かる時間はおよそ十秒。そんな作業を延々と繰り返していた。
「…………はぁ」
脱出の手掛かりは依然、糸口すら掴めていない。それはそうだ。脱出の手掛かりとは言うものの、捜している本人がその方法について、具体的なイメージすらも湧いていないのだから。
目的ははっきりとしているが、手段が漠然とし過ぎている。堕天王を見つけ出せばそれも明確になると思ったが、その堕天王が見つからない。
西区のどこかに住んでいるはずだが、表札が出ているわけでもなし、勝手に上がり込むわけにもいかず。故に何十億という人間が暮らす住宅を一軒一軒虱潰しに回るしかない。今も分身達が西区を彷徨っていることだろう。
無論すぐにどうにかなるなんて思ってもいなかったが、しかし。その途方もなさに、さしもの黄昏愛も思わず溜息が漏れていた。
我慢は苦手な方だ。事実、第一階層等活地獄では我慢出来ず暴力に訴えた彼女である。それを叶えるだけの圧倒的な異能が彼女にはあった。しかしこの街ではそのやり方も封じられ、目の下に隈を作るほどのストレスを感じている今日此の頃、である。
愛の背中から生える四本の蛸の触手が、本棚の中身を順番に手に取っては捲り、複製した眼球で速読していく。無論、読み飛ばすわけにもいかない。内容をしっかり記憶しながら、けれど読む速度は緩めない。この人智を超えた早業でもって、黄昏愛はこの二週間、途方もない作業量に対し健気にも立ち向かっていた。
「あ、えと……おつかれさま、です……」
そんな異様も流石に見慣れたか、触手うねらせる愛に気安く声を掛けるのは、この図書館の管理人。単眼の女怪異である。紫がかったウェーブロングを耳にかけて。今日はクリーム色のニットセーターに深緑のロングスカートを纏ったその女性は、愛がこの街に来て初めて顔見知り程度の仲になった、他人である。
彼女は愛の傍まで近付きしゃがみ込んで、盆に乗せた陶器を恐る恐る差し出していた。陶器の中からは湯気が立ち込めており、ほんのりアルコールの匂いが漂ってきている。
「粗茶……というか、白湯、ですが……温かいもの、どうぞ……」
「……温かいもの、どうも」
「進捗、どうですか……?」
「……進捗、だめです……」
愛は寝そべっていた床から上半身を僅かに起こし、単眼の女性から陶器を受け取った。陶器の中身は確かに白湯だったが、しかし漂ってくるこのアルコールの匂い。恐らくこの街特有の酒気が僅かに染み付いたからであろう。愛は程よい熱さを保ったそれを喉の奥へ一気に流し込み、そして溜息。
「ええと……そろそろ休憩になさってはどうでしょう……? 今日も朝からずっと……何も食べていませんよね……?」
ここ数日、開店から閉店まで図書館に引き籠もるような生活を送っていた黄昏愛。その間、ろくに食事も摂っていなかった。図書館が閉店する頃には他の店も同様に軒並み閉まっており、旅館に帰った後も何も食べず水だけ飲んで就寝している。
ちなみに愛の作り出した分身達は、自分の体を長期間維持させるために食事が必要不可欠である。従って分身達は定期的に必ず食事を摂るように本体である愛本人から命令を受けているのだが、逆にその本体が食事を摂る時間も惜しんで調査を続けているような状態だった。
「いくら不死身の怪異でも、不健康が祟れば病んでしまいますよ……」
知り合ってまだ日が浅いとはいえ、そんな状態の愛を毎日観ていて、人見知りを言い訳に放っておけるほど単眼のその女性は薄情ではなかった。
彼女は白湯に続いて更に小皿を愛に正面に向かって差し出す。小皿の上には牛串が三本。差し出されたそれを、愛は少し驚いた様子で覗き込む。
「……いいんですか?」
「も、勿論です。どうぞどうぞ」
「……すみません、ご迷惑をおかけして……」
言いながら、愛はすぐに牛串を手にとって、そのまま口の中へ突き刺す勢いで頬張った。舌と歯で肉を絡め取り、殆ど咀嚼もせずに呑み込んでしまう。久し振りの食事に脳が喜んでいるのが解る。じんわりと広がるように口内では唾液が分泌され、そのまま愛は二本目、三本目と立て続けに、あっという間に平らげてしまった。
そして、そうしている間にも愛の触手は働き続けている。作業を中断するどころか、速読を緩める様子も無い。
「……これまでも、この街から出ようとする方は……たくさん見てきましたけど……」
半ば唖然としたように、そんな光景を目の当たりにした大粒のブラックパールのような瞳を彼女はぱちくり見開かせて。愛の左隣に恐る恐る、ゆっくりと腰掛ける。
「……何か、理由があるんですよね? どうしても、この街から出なきゃいけない、理由……」
単眼の怪異。彼女はこの図書館の管理人である。そういう役割の下、ここにいる。役割以上のことはしない。訪れた者に必要以上の干渉はしない。それは彼女がこの街に来て最初に与えられた仕事だった。
だから黄昏愛に対しても……この二週間、挨拶を交わし、様子を見守る程度で、踏み込んだ話は一切してきていない。未だにお互い名前すら知らない赤の他人同士だ。それでよかった。
「そこまでする理由って……なんですか?」
そんな彼女が一歩、踏み込む。
「『あの人』に会いたいんです」
「あのひと……?」
言いながら、愛の表情はほんのり朱みを帯びていく。
「有り体に言えば……恋人ということになります」
それが酩酊に因るものとは異なる類であることなど、誰の目に見ても明らかであった。
「そもそも『あの人』と逢う為に、私は死を選んだのです。もう後には退けないし、『あの人』がこの街に居ないのならば私が此処に留まる理由も無い」
そしてその頬の朱みは、ただの恋する少女のそれというだけでなく――
「一秒でも早く『あの人』に逢いたい。その可能性が僅かにでもあるのなら、私は前に進みたい……それだけです」
「…………!」
文字通り、全てを擲ってでも叶えたい願いがあるという、覚悟を決めた者の熱に他ならない。
「…………す、すみませんっ! 不謹慎かも、しれませんが……!」
その熱を目の当たりにし、もともと大きな一ツ目が、これ以上ないという程に見開かれて。
「とても……とても素敵だと思います……! まるで本の中の主人公みたい……あ、いえ……!」
単眼の女性は少々興奮気味に、ずいと愛の傍へ身を乗り出す。これが本当に赤の他人であるならば、黄昏愛という人間の性格上、すぐにその場から離れようとしただろう。しかし彼女に対しては気を許すまでに至っていたのか、少したじろぐ程度で済んでいた。
「……わかりました。そういうことなら、私……応援します……!」
「あ、ありがとうございます……?」
――余談だが。地獄に堕ちて幾星霜。先に進むことを諦め、此処で本の虫となっている彼女もまた、かつては夢見る旅人であった。
もしかすると主人公になれたかもしれない彼女は、今ではそれを夢物語として憧れることしか出来ず。そんな彼女が愛の話を聴いた途端、何かが吹っ切れたようにその場からゆっくりと立ち上がる。
「つ、ついてきてください……!」
「……えっ?」
言いながら単眼の女性が向かった先は、出入り口に設営してある受付窓口だった。なぜだか意を決したようにそこへ向かう彼女の背中を、愛は少し戸惑いながらも付いていく。
「ほ、ほんとうは……ずっと迷ってたんです……」
受付窓口は古びた木製の机と揺りかごのような椅子で形成されている。来訪者はそこで入館の手続きを行なうようになっていた。もちろん、愛もそこで名簿に自身の名前を書き込んでから入館するようにしている。
「ただ……雇い主に許可なく、それを見せることは禁じられていて……破ったらどんな目に遭うか、わからなくて……」
そんな受付窓口の、机の引き出しに手を掛ける。その中には傷んだ古紙が雑に詰め込まれており、その中を手探りで、彼女は弄り始めるのだった。
「で、でも……いいです、いいんです……! だって……!」
そうして奥の奥から引っ張り出したのは、二枚の洋紙。それを彼女は、愛に向かって差し出す。
「貴女はきっと、先に進むべきヒトだから……!」
その手は微かに震えていて。
「これは……?」
彼女の差し出した洋紙を受け取る愛。その二枚の紙は、それぞれが一冊の本の中の一頁を千切り取った物のようだった。活字のみが記載されている方の紙は表面が薄っすら青く、地図のような記号が記されているもう一枚の紙の方は表面が薄っすら赤い。
「黙っててごめんなさい……実は……隠してました。脱出の手掛かり……」
愛の目が見開く。両手に取った赤と青、二対の洋紙を直ぐさま確認する。
「昔、私もこの街から出ようと色々模索していた時期があって……その時に、今の雇い主にこれを渡されたんです。『脱出のヒントだ。此処の管理を任す代わり、特別にくれてやる』と。赤い地図の方はオマケだとも言っていましたが……」
罪悪感からか、居心地の悪そうな伏せ目がちで彼女は語る。
「隠しておいてなんですが……私にも結局それがどういう意味なのか解らなくて。ただ、他の人間には見せないようにと命令されたので、今まで隠していました……ごめんなさい」
「……その、雇い主というのは、誰ですか?」
「名前は言えません……言おうとすると酩酊が回って、卒倒してしまうんです……」
「なるほど……」
名前を呼ぶだけで卒倒する。つまりその雇い主の正体自体が、脱出に繋がるヒントそのものということに他ならない。
しばしの沈黙があった。周囲に酩酊の香りが漂う中、愛は手元の洋紙を見つめ続けている。その様子を固唾を飲んで見守る単眼の女性、彼女の頭の中は後悔と自責の念でいっぱいいっぱいであった。
「(――ああどうしよう、雇い主の命令に背いてしまった。バレたらきっとハチャメチャに怒られるんだろうなあ。いやそんなことより、どうせならもっと早くこの子に教えてあげるべきだったよね。雇い主はともかく、この子に誹られるのはキツいなあ。ああ嫌だなあ、憂鬱だなあ――)」
「…………お姉さん」
「ひゃいっ!? ごめんなさい!?」
愛の一声にすら大袈裟に反応する彼女。いつでも誹られる覚悟は決まったという風に、大きな瞳をぎゅっと瞑って待ち構える。
「お名前は、何と言いましたっけ」
「……へ? 私の、ですか?」
「はい。そういえばお互い、自己紹介もまだだったなと。私は、愛。黄昏愛です」
予想外の問いかけに瞳が揺らぐ。不安からか少し涙で滲んでいるのは気の所為ではないだろう。
「あ……ええと……実は私、自分の名前を忘れてしまいまして……。雇い主には、依代にしている怪異の名前からそのまま『バックベアード』と呼ばれることが多いです」
「ばっくべあーど……長いですね。では……べあ子。私は貴女をべあ子さんと呼びます。べあ子さん」
「べ、べあ……? あ、は、はい……!」
「――ありがとうございます」
しかし黄昏愛の表情は、尚も穏やかであった。
「私には詳しい事情は解りません。けど、そんな事情がある中で、それでも貴女は私の為にリスクを背負ってまで行動に移してくれた。だからきっと、貴女は善いひとです。それは解ります」
夜の海のような静謐さを伴った、凛とした声が館内に響く。ハイライトの無い漆黒の瞳は、まるでブラックダイヤモンドのようで。その黒に、単眼の女性――もとい、べあ子は否応なく惹き寄せられていく。
「私は私の邪魔をする全てが嫌いですが、話の通じる相手は好きです。だから、ありがとうございます。私と、話をしてくれて」
そうして素直に感謝の意を伝える愛の一挙一動に、べあ子は目を奪われていた。
「――……はっ」
魔性と呼んで差し支えない愛の美貌を前に呼吸を忘れていたことを自覚し、慌てて戻ってくる。
「あ、あはは……えっと……ご、ごめんなさい……私が悪いのに……気を遣わせてしまって」
「いえいえ。むしろこちらこそ、なんとお礼を申し上げればよいか……あ、そうだ。ここは一つ、芸でも披露いたしましょうか。異能で目だけを蛇のそれに変化させて、脱皮……これが本当の、目から鱗……」
「わ、わぁ……なかなかグロ……いえ……お気持ちだけで十分です、ほんとうに……」
ようやく手に入れた手掛かりらしい手掛かり。実際、愛は浮足立っていた。周囲の酩酊の香りがどんどん強くなっているのが何よりの証左である。作業している他の分身達がその香りに半ば巻き込まれる形でその場に突っ伏していることなど本人は露知らず。
昼下がりの図書館。黄昏愛はついに一歩、希望へ前進したのであった。
「そういえば、この地図。どこを指しているのですか?」
「あ、ええと……それは、確か――」
◆
あの夜のゲリラライブが終わって二週間が経った。ライブは恙無く成功し、勘違いだったとは言え結果的に幻葬王とも和解した。上々である。
そんな偉業を成し遂げた中心人物こそが彼女――衆合地獄を統べる堕天王、ヒト呼んで『あきらっきー』。毛先だけが紅く染まった、スカイブルーの長髪を双つに別けて結ったツインテールが特徴的なその少女は、今。酩帝街西区、違法建築の高層住宅建ち並ぶその一画、一際大きな内一棟、ヒト呼んで『パンデモニウム』。その六百六十六階、六六六号室にて――
「だる~~~~~~ん……………………★」
この二週間、部屋から一歩も出ることなく。その名にな恥じぬ堕天、堕落、怠惰の限りを尽くしていた。
反動というやつだ。ライブの後は決まってこうなる。生前も死後も変わらず、天性の美貌と引き換えに彼女の身体は貧弱だった。
二十畳ほどのリビングは彼女の趣味か一面ピンクの壁紙で。その中央、ピンク色のクッションの上で仰向けに寝そべている彼女。もこもことした素材の、現世で言うところのジェラピケのような、白とピンクのボーダーラインが挿入ったそれで全身を包み込んだ姿の彼女は――
「…………だるだる~~~~~……………………★」
今日も朝目覚めてから夕暮れに至るまで。半分白目を剥いたまま、先程から謎の言語を口から漏らし続けている。もはやライブで見せたあの天真爛漫な笑顔とその美貌は、影も形も――
――影も形も、残っている。残ってはいた。生前において一万年に一人の美少女とまで謳われた彼女である。ただ化粧を落としたというだけで、ただ油断し切った表情を晒しているというだけで、彼女の天性の美貌が崩れることは無かった。
彼女の名誉の為にも言っておくが、これはあくまでもオフの時の姿である。あくまで今の彼女は『あきらっきー』ではなく……『如月 暁星』という一個人として、プライベートを満喫していた。
そんな彼女の平穏は、この日、容易く崩れ去る。
「…………ん、おっ?★」
それはリビングを出て廊下の向こう、玄関先から聞こえてきた。
こん、こん、こん。ノックの音が三回――来客である。彼女のもとに誰かが訪ねに来ること自体、非常に珍しいことだ。その音に半ば寝落ちかけていた意識を彼女はすぐさま取り戻す。そしてその瞬間、他人の来訪というスイッチが『如月暁星』を『あきらっきー』へ切り替えさせた。
乱れた髪は彼女がその場から立ち上がると同時、一瞬でキューティクルを取り戻す。すっぴんだったはずの彼女の頬には朱が挿し込まれ、赤と青のオッドアイには星を散りばめたような輝きが還ってくる。もはやどういう原理なのか。瞬く間にトップアイドル『あきらっきー』の姿がそこには在った。
「はーいっ★」
羊毛のようなもこもこで出来たスリッパをぱたぱた鳴らしながら玄関に向かう彼女。薄暗い廊下を歩いていって、石畳の玄関。扉の向こうに他人の気配を感じながら、彼女は何の警戒も無くドアノブを捻る。
「もーっ、そのまま入ってきてくれていいのに★ 待ってたよ――」
そう、ノックの主に彼女は心当たりがあった。以前よりそういう約束を交わしていた。だから躊躇いなく扉を開け放つ。
「……あ、あれれっ?★」
しかし扉を開けた向こう側で待つ来訪者は、彼女の予想を裏切る人物であった。
「やっと…………見つけましたよ…………!」
きょとんとした表情のまま硬直している堕天王に対峙するのは――黄昏愛。黒い長髪、乱して。肩で息をするその少女は――ようやく、辿り着いたのである。
酩帝街西区、違法建築の高層住宅建ち並ぶその一画、一際大きな内一棟、ヒト呼んで『パンデモニウム』。その六百六十六階、六六六号室――
手に入れた手掛かりの内一つ、赤い地図の指し示すその場所は、紛うことなき――
「――あれあれっ、愛ちゃんっ!? わあっ、久し振りぃ~っ!★ よくここが分かったねっ!?★」
堕天王の根城であった。




