衆合地獄 12
夜が来た。北区の図書館より酩帝街西区の旅館に戻ってきた黄昏愛は、受付の獣耳メイドに軽く会釈をしてから螺旋階段を上っていく。
三階の三百三十三号室、複数人が泊まることを想定した大部屋の予約を、愛達は向こう一ヶ月先まで確保している。
もちろん長居するつもりは無いが、万が一長引いてしまった場合の活動拠点として確保出来るのならしておくに越したことはないだろうという一ノ瀬ちりの判断だった。それ自体は妥当であり、黄昏愛が拒否する理由も無い。
階段を上り切った先、プレートに刻まれた部屋番号を確認してからドアノブを回して扉を開ける。玄関先でローファーを脱ぎ捨て、廊下を真っ直ぐ進んだ先のリビングは、やはり現世の洋風ホテルを忠実に再現してみせたような内装で。
其処には既に芥川九十九と一ノ瀬ちり、そして分身達も全員無事に帰還しており、各々が部屋の床やソファに寝そべってだらだらと怠けている。
本体である愛の帰還に気が付き、分身達の視線が一斉に愛へと注がれた。ソファに寝転がっていた九十九は帰ってきた愛に気が付いて「おかえり」とぱたぱた手を振っている。棚を何やら物色している様子だったちりは愛の方を一瞥するが、すぐ興味を失くしたように自分の手元へ視線を戻すのだった。
「ただいま戻りました。各自報告をお願いします」
帰ってきて早々キリッとした表情で、しかしその頬は酩酊で真っ赤な黄昏愛である。分身達もまた程度の差こそあれ酩酊しているのか、本体の呼びかけにすら気怠そうに応じ、リビングの中央、テーブルを囲んで円を描くように座っていく。
「二号から順番にお願いします」
改めて整理しよう。二号は南区大通り、三号は西区住宅街、四号は東区、五号は中央区ドーム近辺、六号は本体と共に北区を調査した。
「了解です、私」
額に書かれていた『2』の数字は汗で既に滲み消えているが、二号と思しき分身は我こそはと率先して口を開く。
「まず、食材の供給源が解りました。第六階層、焦熱地獄から輸入しているようです」
「それは……食材を運搬している者がいる……ということですか!?」
階層間での輸入――核心を突くようなそのワードに、その場に居る誰もが大なり小なり反応を示す。特に本体である黄昏愛は驚いたように目を僅か見開かせ、慌てた様子で声を上げていた。
「はい……ですが、食材を運搬しているのはヒトではなく、運搬用に造られた人造怪異なるものでした」
「人造怪異……?」
「恐らく何らかの異能の産物でしょう。その人造怪異は役割を終えると自動的に機能を停止、食材として処分される手筈になっているそうです」
「……あぁ、なるほど。引き返すことを想定していない、片道切符の使い捨て……そういうのもあるんですね……」
愛にとってそれは本当に欲しい回答では無かったものの、それはそれで興味深かったのか然程落胆はしていない様子で、納得したように頷いてみせる。
「……衆合地獄と焦熱地獄は、物資を輸出し合うような関係にあるってことか」
壁際に背を預け、無言のまま耳を傾けていた一ノ瀬ちりだったが、ここにきて彼女もまた食指が動いたように口を挟む。
「そのようです。そこに黒縄地獄も加えて『三獄同盟』などと呼ばれているみたいですね」
「ふうん……仲が良いんだね」
九十九はソファに寝転がったまま、ちりを見上げるようにして口を開いた。だらしなくシャツをはだけさせ、その隙間から見える九十九の白い肌から、ちりは然りげ無く目を逸らし、人知れず溜息を漏らす。
「他に手に入れた情報はありますか?」
「それと……フライドチキンは結局見つかりませんでした……」
「……フライドチキン? なぜ……?」
なぜだか照れくさそうに答える二号に怪訝な眼差しを向ける他の分身達。ひとりだけ美味しいものをたらふく食べてきたのだ、不公平を感じているのだろう。
「私が食べてみたくて、一緒に探してたんだ。ね」
「は、はい」
疑問に応えたのは九十九だった。よく見ると腹筋の引き締まった九十九の腹が、大きくぷっくり膨れていることに愛は気付く。
先程からソファに寝転がっていると思っていたが、どうやら食べ過ぎでお腹が苦しくて立てないという方が正しいようだった。
「愛は本当によく食べるよね」
「まぁ……その気になれば臓器なんていくらでも複製できますから、私……」
今日はフライドチキンを捜す道中、色々な料理をつまみ食いしたこの二人。九十九はご覧の有様だがその一方で分身の愛はというと、まだまだ食べられますと言わんばかりにけろりとしている。
「次は見つかるといいね。フライドチキン」
「はいっ」
微笑みかける九十九に二号もまた微笑み返す。どことなく良い雰囲気の二人に、本体を含む他の黄昏愛は「ぐぬぬ」と羨ましそうに唸り声を上げていた。
「……ま、まぁ……二号はしばらくお預けですけどね! 南区調査は順番制なので! はい次三号!」
今にも二号に飛びかかりそうな分身達の雰囲気を察してか、本体である愛は急かすように三号へとバトンタッチする。三号は気を取り直すように咳払いひとつ、そして口を開く。
「三号が調査した西区は、いわゆる居住エリアでした。恐らくこの街の住人の殆どはこのエリアで自らの拠点を確保しているようです」
愛達が今居るこの旅館も西区の建築物である。地獄の住人の殆どが集中するこの街において、西区は誰もが見て取れるほど広く大きい区域だった。所狭しと建築物が立ち並び、歩道は南区のそれと比べて極端に細く狭い。さながら迷路のようである。
「……今日解ったことはそれだけです。このエリアは如何せん広すぎて……今回は調査というより、建物の多さに圧倒されるだけで一日が終わっていました。特に有益な情報も得られず……面目ないです」
「いえ、三号はよくがんばりました。しかし、そうすると……西区の調査は時間が掛かりそうですね」
「ええ。居住エリアということは、すなわちヒトの数だけ建築物がある、ということでもありますから……隅々まで調べ切るには相応の時間を要するでしょう。下手をすれば……数年単位……」
「むう……わかりました。引き続き調査を進めつつ……ううん……」
わかりましたと言いつつ、愛は悩ましそうに首を捻っていた。この街からすぐに出ていくつもりだった愛にとって、西区の調査だけでも数年単位の時間を要する可能性があるという事実は、愛でなくともその途方も無さには頭を抱えるところだろう。
「……ひとまず、先に四号の報告を聞きましょう。四号は東区の担当でしたね。どうでしたか?」
話題を振られた四号に視線が集まる。四号は東区、即ちデスティニーランドの調査を担当していたわけだが……
「…………」
その四号はというと、皆から露骨に視線を逸らし、空気の抜けたような酷い音の口笛を吹いていた。
「四号?」
「あー……東区にはあんま近寄らない方がいいかもな……」
四号の代わりに応えたのは、意外にも一ノ瀬ちりだった。背を預けていた壁からそっと離れ、四号の背後に近付くと、半ば鷲掴むようにその頭の上にぽすんと手を置いてみせる。四号はそれを嫌がる素振りこそしないが、むうと不満げに頬を膨らませている。
「なにかあったんですか?」
「なにかあったっつーか……なにもかもがあったっつーか……」
どこか疲れ切ったような、げっそりとしたような、そんな顔色の一ノ瀬ちり。咎めるように細める鋭い視線は、怒られて拗ねた子供のように縮こまる四号へ向けられている。
「東区には遊園地があった。そこでコイツがバカ騒ぎしててな……」
「ば、ばか騒ぎとはなんですか……りっぱな調査ですし……」
「あれのどこがだよ……」
酩帝街名物、東区のデスティニーランド。自らの血を賭けたギャンブルが横行するその区域で、四号は調査どころか豪遊していたわけである。あそこで一ノ瀬ちりの仲裁がなければ今頃どうなっていたことか、想像に難くない。
「いやまァ、それはともかくとして……拷问教會の幹部が居やがったんだよ。しかも……ふざけたような話だが……そいつがその遊園地を含む東区一帯丸ごと管理してるらしい」
「拷问教會が……? なぜ……?」
「さァな……とにかく何を考えてるのか読めねェ奴だった。だが、奴等が関わっているとしたら一筋縄にはいかねえだろ。普通に客として利用する程度ならまだしも、本格的な調査に乗り出すには危険な場所だ。情報も足りない。準備が整うまで、ひとまずは後回しで問題無いんじゃねえか」
「……なるほど。そうですね……わかりました。四号は他区域の調査に回しましょう」
何やら言いたげな表情を浮かべる四号のことは無視して、愛はちりの言葉に頷いてみせる。
「あ、でしたら五号も他区域の人員に加えていただきたいです」
そんな時、分身の五号が手を挙げ発言を始めた。
「五号……あなたは中央区の調査担当でしたね」
「はい。ですが中央区は、他区域への移動の為に人通りこそ多いですが、建物自体は少なく調査する場所も限られていました。後回しでも問題ないかと」
中央区は『Dope Ness Under Ground』がライブで使用する中央ドームを除けば建築物は殆ど見当たらない。他区域への移動の中継に使われるので必然的に人口密度こそ多いものの、調査という意味では五号の言う通り優先度は低いだろう。
「わかりました。では……そうですね……」
テーブルに広げた地図と睨み合う愛。
「次回の調査ですが、二号は私と六号に加わり北区の図書館を担当。三号は南区、四号と五号は西区を担当としましょう。明日も頑張りますよ、私達」
「了解です、私!」
おーっ、と拳を突き上げる愛達。それらに混じって九十九も小さく拳を上げている。そんな光景にちりはやはり、息を深く吐くのだった。
◆
作戦会議も終わり、夜もまた更けてきた。分身達がリビングで次々と雑魚寝していく中、寝室に三つ並んだシングルベッド、その一番右に愛は背中を沈ませ寝転がっていた。
ランタンの灯りすら無い暗い寝室で、愛は自らの目を夜目の利く動物のそれへと変化させ、両手に掲げた地図を無言で眺めている。その様子を隣、真ん中のベッドに肘をついて横になる九十九もまた、その姿をじっと眺めていた。
「……大丈夫?」
この中で酩酊の影響を最も強く受けているのは間違いなく黄昏愛である。情緒は乱れ、思考は鈍り、異能の扱いも一部制限され万全ではない。けれどそれは、逆を返せば誰よりもこの街から出たいという現れでもあった。
きっと今すぐにでもこの街から出て先に進みたいと誰よりも願っているのは愛で、停滞している今の状況を歯噛みしているのもまた愛なのだ。流石の九十九もそれに気付かないほど鈍感ではない。だから、そんな愛の姿を見ていたら、つい口を突いてそんな言葉が飛び出していた。
九十九の声に反応して、愛は顔だけを僅かに傾け、その赤い瞳に愛は視線を合わせる。
「大丈夫です。まだまだこれからですよ」
「……大丈夫じゃなくなる前に、言ってね?」
「……はい。頼りにしています」
黄昏愛の記憶には欠損がある。故に細部まで定かではないものの、生前の自分は独りで生きてきたという実感だけは今の愛には確かにあった。信じられる他人などいなかった。他人に頼るという経験を生前ではついぞしてこなかった。頼れる存在は『あの人』だけ――そのはずだった。
そんな在り方をしてきた黄昏愛が他人に頼れるようになったのは、つい最近のことである。
「本気で此処から出られると思ってんのか?」
並んだシングルベッドの一番左、上半身を起こし壁にもたれかかっていた一ノ瀬ちりが不意にぼそりと呟いた。水を差すような物言いだが、それもまた尤もな意見である。
今日の調査で解ったことは、とにかくこの街は広大で、ヒトも物も途方も無いほど在るということ。西区だけでも調査で数年単位の時間が掛かる。それは、常人であれば諦める理由としては十分過ぎるものだろう。寿命の概念がない怪異とはいえ、その精神強度は所詮、人間のそれなのだ。
「むっ……またそうやってこっちのやる気を削ぐようなことばかり言って。赤いひとはどうしようもないですね。九十九さんを見習ってください」
しかし常人であればという仮定は、黄昏愛には当てはまらない。
「そんなことばかり言ってたら、脱出する方法を見つけても教えてあげないんですからね」
「けッ……おい九十九、こいつはまだまだ大丈夫そうだぜ。心配するだけ無駄だ」
愛がそう答えるであろうことは当然ちりにも解っていた。黄昏愛という人間の在り方をこれまでの旅で嫌というほど思い知らされてきたのだ。もはや止めても無駄だろうし、止める気も無い。
だから本当に言いたいことは、この後の台詞だった。
「いや、オレは別にどっちでもいいんだがよ……手っ取り早く有益な情報が欲しいなら地道な調査よりも、本丸を直接叩いたほうが早いんじゃねェかって話だ」
「本丸……? それは……堕天王のことですか?」
愛のように夜目が利かないちりは、どこに焦点を合わせるでもなくぼうっと暗がりの天井を見上げている。
「でも堕天王は殺せないって言ったのは貴女ですよ?」
「なんでおまえはすぐ殺そうとするんだよ……普通に話をして情報を引き出せってことだ」
「話……ですか。でも、あきらっきーは……堕天王は、自分の異能は自分でもどうしようもないと、言っていましたが……」
あれが嘘をついているようには見えませんでした、と付け加えて。少し不安そうに呟いた愛の疑問に、ちりは頷いてみせる。未だ完治しない左手首、その切断面を布ごしに軽く触れながら、ちりは先刻の愛の分身が放った言葉を思い出していた。
「三獄同盟、だったか。この街から出られないのに、そもそもどうやって他の階層と同盟なんか結べるんだって話だろ。王の立場で何も知らないなんてありえねェんだよ。仮に本当に知らないとしても、そこらへんの住人より有益な情報は握ってるはずだ」
「た、たしかに!」
「ちり、天才……!」
「…………」
わーっと拍手する愛と九十九に「コイツらマジか」という溜息混じりの心の声が聞こえてきそうなジト目を送る一ノ瀬ちりであった。
「でも、堕天王はどこにいるんでしょうか……中央ドームには居なかったようですが……」
「西区は居住エリアなんだろ。だったらそこのどこかに住んでるんじゃねぇの」
少女の外見をしているが、一ノ瀬ちりはこう見えても二百年を生きた老獪である。これくらいのことならば直ぐに考え及ぶというものだ。むしろ普段の黄昏愛ならばこれくらい思い至っていいものだが、酩酊が思考を鈍らせているのか、あるいは酩酊していない一ノ瀬ちりだからこそ思い至れたのか。いずれにせよ、この三人の中で思考が最も冷えているのは間違いなくちりだった。
「あー……それとだな……潰しておくべき可能性がもう一つ」
そんな彼女だからこそ、この謎にも気付けていたのだろう。自分に集中している二人の視線に気付いたのか、ちりは気難しそうに目を逸らしながらも、二人に向かって語りかけるように言葉を続ける。
「オレ達が今把握出来ている限り、この街を出入りしている存在は二人いる」
その話題を口にした瞬間、酒気の白霧が部屋の中を侵食し始めていた。気付けば愛も九十九もすっかり頬を上気させている様子だったが、ちりはまだ比較的酔いが回り切っていないのか僅か頬を紅くしただけで済んでいる。酩酊特有の頭の重さを実感しつつも、ちりの語り口が衰えることは無かった。
「一人は開闢王。もう一人は――」
「はーーーーいボクでーーーーす! 呼ばれてなくてもジャジャジャジャーーーーン! 地獄の水先案内人、ロアだよっ!」
――それは、何の脈絡もなく。ぱんぱかぱん、クラッカーがあちこちから鳴り響いて。道化はどこからともなく現れた。
白と黒に真っ二つ別れたその道化は自称地獄の水先案内人、噂の名を冠する怪異。どういう原理なのか自らを白く発光させ、ロアは三人の頭上、部屋の天井にまるで蝙蝠のようにぶら下がった状態で、突如として其処に現れたのである。
「……やっぱり出やがったな」
「だってボクのこと呼んだでしょ? 呼ばれたらどこへでも駆け付ける、みんなのアイドルかわいいロアちゃんとはボクのことだからねっ!」
「まだ呼んでなかっただろ……」
脈絡もなく、とは言ったものの。それはやはり、意味のある登場だった。
「そうか……確かにロア、あなたは猿夢列車で各階層を行き来できている……この街を出入りしている」
「……あ、ほんとだ。今まで当たり前過ぎて気付かなかった」
街を出入りしている二人の存在。その片割れこそ、この案内人である。
「ははーん、なるほど? キミ達はこの街から出る方法が知りたいわけだ。ボクからその方法が聞きたいんだね?」
「ああ。どうなんだ?」
誰も出入りが出来ないはずの酩帝街、その盛者必衰を、この道化は間違いなく無視している。少なくとも愛達にはそう見える。
「うーん…………残念! キミ達の期待には応えられそうにないなあ。厳密に言うとボクはこの街を出入りしているわけじゃないからね」
しかし愛達の期待を、やはりこの道化は呆気もなく悪びれもせず裏切るのだった。
「単純な話さ。ボクはひとりじゃないんだよ。つまりボクは全ての階層に無数に同時に存在していて、情報を同期し合っているんだ。黄昏愛、キミの分身と似たようなものさ。ボク達はその階層に居る全ての怪異を一人一人、監視している。キミ達の知覚出来ない領域からね。それがこの世界の一部としてのボクの役割であり――『フォークロア』の怪異としてのボクの在り方なんだ!」
ロアが時折口にする、この世界の一部、という単語。それは即ち、永劫を過ごす中で人格も記憶も性質も変異してヒトならざる『本物の怪異』へと堕ちてしまった者を指す言葉でもある。機械的に自身の役割を遂行するだけの、文字通りのシステムとして、今のロアはこの地獄に存在していた。
「だからボクは街を出入りしているわけじゃないし、特別な方法を使わない限り他の怪異と同様、今此処に居るこの個体のボクは酩帝街の外に出ることは出来ないんだよ。期待外れな回答でゴメンね!」
火の無い所に煙は立たない。逆を返せば、ヒトの在る所にウワサは必ず存在する。それがロア――『フォークロア』という怪異そのものである、彼もしくは彼女の異能だった。
「……特別な方法、ね」
しかし、そもそもロアの発言に一ノ瀬ちりは何の期待もしていない。
「つまり開闢王は開闢王自身の異能ではなく、その特別な方法とやらを使って街を出入りしている。その方法を知ることさえ出来れば誰でも出入りが可能になる。そういうことで、いいんだな」
聞きたかったのは答えそのものではなく、その問題には答えが在る、という確証だったのだ。
「……ま、このくらいのヒントはいいか! そうだよ! そしてその方法は、この街のどこかに必ず在る。頑張って捜してみるといいさ。徒労で終わるかもしれないけどね!」
「勿体ぶらないで今すぐ教えてくださいよ」
「だめだめ! そんなのフェアじゃないでしょ? 部外者のボクがこれ以上口をだすのは面白くない!」
むうっと頬を膨らませ抗議する愛に対して、やはりロアは涼しい顔で受け流すばかりだった。
「そもそも教えたくても教えられないんだけどね。ボクだって盛者必衰の影響を受けるんだよ? 教えようとした瞬間、この個体のボクは昏倒しちゃうのさ」
「案内人のくせに案内しないなんて……」
「きゃははっ! それを言われちゃ立つ瀬が無いね!」
原理不明の白い粒子を全身から撒き散らして、くるくる宙を舞うロア。真偽不明の噂を流すその道化の取り留めのない発言は冗談半分に聞き流すのが正解だ、というのが地獄の住人にとっての共通認識でもある。
「……今、フェアじゃない、と言ったな?」
結局、嘘の中に混じった真実を受け手が気付けるか否か、という問題なのである。
「それは誰のことを指した言葉だ?」
そしてロアの語る噂の中から一握りの真実に今この場で気付けたのは、やはり一ノ瀬ちりだった。
「……キミは妙に鋭いところがあって困るね。これ以上キミとは話したくないな! それじゃあボクはこのへんで――」
「あー……わかったわかった。それについてはもう訊かねえ。ただ最後にもう一つだけ」
自身の身体を霧散させ消えようとするロアをちりは慌てて呼び止めていた。ちりにはまだロアに訊かなければならないことがある。
「オレ達の噂……黒縄での一件について、随分触れ回ってるみたいだけどよ。オマエ、どこまで喋った? オレが美咲と殺り合ったこととか……オレ達が禁域の怪異と戦ったことなんかも、全部リークしてんのか」
それは予てより抱いていた疑問でもある。つまりロアは、誰に、どこまで自分達の噂を流しているのか。愛達の同行を知っているのは、現在把握している限りだと開闢王、堕天王、そして拷问教會の幹部達。問題はロアがどこまでの内容を話しているのか。
疑問、というより懸念である。怪異にとって情報は命だ。自分達の情報がどこまで相手に知られているのか、それを把握しておかなければこの先必ず足を掬われるだろうという懸念が、三人の中では一ノ瀬ちりが最も強くあったのだ。
「――――…………」
ロアは基本的に、尋ねられたことに対しては必ず返答する。腐ってもロアは案内人、真偽は不明だが必ずロアは旅人を案内する。そういう存在である。だから本来、ロアが質問を答えないという現象はありえないのだが……しかし。
「…………――――」
ちりの質問に対して、ロアの返答は、沈黙だった。
「……あ? どうした」
突如として無言になるロア。フリーズした機械のように、その表情も動きを失っている。流石のちりも思わず不安に駆られるほどだった。が、その直後。
「――――ボクの前で禁域の怪異の話題を出したね!? もぉ! それだけはやめてよ本当に! ボクはあの怪異の噂だけは語れないんだよっ!」
数秒の間の後、ようやく動き出したロアは、いつものように表情をせわしなく動かして喚き始めるのだった。
「さっきも言ったよね、ボクは全ての怪異を一人一人、常に監視しているって! それはつまり、誰よりも近くでキミ達のことを知覚しているということなんだ! それがどういう意味か解る!?」
突然動き出したロアは、見るからに怒っていた。空中でばたばたと手足を動かして、質問主のちりに対して抗議の声を上げている。そんな状態を見たのは愛や九十九は勿論、ちりにとっても初めての光景で。三人とも目を丸くしてロアの醜態を眺めていた。
「ボクはアレを常に知覚している状態なのさ! 話題にさえ出さなければ影響は出ないけど……その話題を振られたらボクは……ボク、は……う……」
喚き始めたかと思いきや、またもや動きが止まるロア。今度は苦しそうな表情のまま、空中に浮かんだまま硬直している。
「……………………」
目は見開かれたまま、銀色の瞳はしかし輝きを失っている。そんな状態がやはり数秒に及んで――
「縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺溘☆縺代※」
――直後、突然。まるで警告音のような、ノイズがかった電子音のような聲が、ロアの口から周囲一体に轟いたのだった。
「うおっ……!?」
「これは……『発狂』……?」
ロアの銀色の瞳は虹色の輝きを宿し、口からは虹色の光が溢れ出している。解読不能な言葉の羅列を吐き出し続けるロアの状態に、愛は覚えがあった。
発狂。即ち、禁域の怪異、歪神楽ゆらぎの異能。知覚しただけで対象を発狂させる『くねくね』の怪異。
ロアは全ての怪異を常に知覚している。それは歪神楽ゆらぎに対しても同様だった。階層をひとつ跨いでいても、ロアにとっては目の前に彼女が居るのと同じなのである。話題に出しても軽度の頭痛で済んでいる愛達と違って、ロアには深刻なダメージになり得た。
『――――このアプリケーションは応答していません。強制再起動を実行します』
彼なのか彼女なのか解らない、性別不明のはずのロアの口からその時、愛達がこれまで聴いたこともない女性の『声』が聞こえてくる。その『声』が聞こえた直後、ロアの警告音は鳴り止んで、虹色の光は徐々に勢いを失っていった。
一瞬、ロアの全身が小刻みに震えた。輝きを失った銀色の瞳が僅かに収縮し、口から呼吸のような音が漏れる。
「――――……………………ああ、死ぬかと思った」
愛達が見守る中、ロアは再び意識を取り戻した。時間にしてしまえばほんの数秒の出来事である。しかしその一瞬で、ロアは歪神楽ゆらぎに殺されたのだ。それでもこの世界の一部であるが故か、ロアはそれ以上狂うこともなく、生き返ったのだった。
「……わかった? ボクはアレに関係する噂は流せない。嘘でもね」
「お、おう……悪かったな……」
そう応えるロアは、依然輝きを失った銀色の瞳は、咎めるように一ノ瀬ちりを見据えていた。
「はい、というわけで! ボクは失礼させてもらうよ! まったく! 踏んだり蹴ったりだよまったく!」
ぷりぷりと憤るロアはそうしてようやく、自らの身体を白い粒子に分解、霧散させ、この場から跡形もなく消え失せる。その場に残された三人、揃ってきょとんとした表情で、互いを見つめ合っているのだった。
「びっくりした」
皆の気持ちを代弁するように、九十九が素朴な感想をひとつこぼす。こくこくと頷く愛。
「……まあ、おかげで色々と収穫はあったな」
ひとり何かに納得したように溜息を吐くちり。背を預けていた壁際から離れ、ベッドに横になった。もうこれ以上喋ることもないと口を噤んで目を閉じる。ロアから得た情報を反芻しながら、意識を暗闇へと傾けていく。
「……ですね。少なくとも、明日以降の調査の方針は定まりました」
とにもかくにも、堕天王を探し出す。闇雲に調査するよりも手掛かりになり得る方針が定まったところで、愛はその目をゆっくり閉じていく。
「そうと決まれば、明日も早いです。おやすみなさい……」
「……うん、おやすみ。ふたりとも」
そんな二人に釣られて、九十九もまた目を閉じる。黒縄以来のベッドの感触を味わいながら、誰よりも早く眠りへと誘われていく。
遠くから祭り囃子のようなヒトの声が微かに聞こえてくる。酔っ払い達の楽園、酩帝街。その夜は永い。この享楽がいつまで続くのか、どこまで続くのか、最初はそんな不安に駆られていた者達も、いつしかそんなことすら忘れていつまでもどこまでも酔い続けるようになった街。
いずれ彼女達にも、此処で永遠に日常を過ごすこともきっと悪くはないのだろうと、そう思うようになる日が来るのだろうか。
少なくとも既に一人、そう思っている者がいるのだから。




