衆合地獄 9
ところで。愛達の泊まった旅館は三十階建てにも拘わらず、エレベーターは備わっていない。ならばどう移動するのかというと、この旅館は構造上天井が無く、地上一階から最上階までが吹き抜けになっていた。つまり怪異は己の異能や身体能力による跳躍・飛翔といった手段で各階へ飛んで移動するようになっている。
愛達は最上階の部屋から金網で出来た廊下に出てすぐ、建物の中央が空洞になっておりエントランスホールが見下ろせるようになっているこの旅館の構造を目の当たりにし、飛び降りるしか移動する手段がないことを悟る。
それについて三人に焦りは無かった。普通の人間が三十階建てから飛び降りれば運が良くて落下中に意識を失い痛みを感じず即死、運が悪ければ地上に激突する瞬間まで意識を保ったままやはり即死する高さだが、しかし彼女達は怪異である。既に人間ではない。
愛は分身達と共に背中に鳥の羽を生やしてゆっくりと降下し、九十九はちりを抱えて地上エントランスホールまで一気に飛び降りていった。地上三十階から飛び降りても当然のように無傷の九十九だったが、急な運動に再び吐き気が催してきたのか、その端正な造りの顔面はすっかり青ざめている。
「……今夜はもっと階数の低い部屋に泊まろうな」
「そ、そうだね……うっぷ……」
この広い街で連絡手段も無しに離れ離れになれば再会は困難を極めるだろう。ということで、ひとまず三人はこの旅館を拠点とし、夜には宿泊の為に各々のタイミングで集合することにした。出発する前に受付に確認したところ、三階の大部屋が運良く空いていた為、その滞在予約を受付人に申し込むことにする。
「まいど~。そこに書いてってなぁ」
メイドに促され、愛は動物の膠のような材質の名簿帳を受け取った。名簿には既に何百名分もの名前が紙上に所狭しと書き込まれている。受付机の上には筆が置かれており、先端には墨が付着しているのが見て取れたので、愛は促されるがままそれを手に取った。
「あ、そや。王様から聞いたで~。この街は初めてなんやろ?」
愛が自分の名前を書き込んでいると、不意に受付人が話しかけてくる。おっとりとした口調で微笑みかけてきた彼女は大正浪漫な和風メイド服を身に纏っており、その頭上には犬のような動物の耳が生えている。付け耳ではなく本物のようで、彼女がどんな怪異なのか、おおよその見当が付きそうだった。
「せやったらこれ、渡しとかななぁ」
受付人はそう言って机の引き出しの中から一枚の大きな古紙を手渡してくる。それは街の地図のようだった。ひとつひとつの建築物についての詳細な情報は載っていないものの、図書館やショッピングモールといった目印になるような建物と、それらが此処からどの方角に行けば在るのかが解るよう、ざっくりとした位置関係が記載されている。自分達が泊まっていたこの旅館が西区の建物だということも、三人は地図を見て初めて知るのだった。
「ほな、いってらっしゃいませ~」
地図を人数分受け取り、獣皮の絨毯踏み締めて、意気揚々とエントランスホールの出入り口へ向かう愛達。人懐っこい雰囲気の受付人に見送られながら、こうして各々が自由気ままに街へと繰り出すのだった。
◆
「整列っ!」
旅館を出てすぐ前の広場にて。本体の掛け声に従い、分身した五人の愛は横一列に並び立つ。
「作戦会議を始めます」
愛は分身達と思考を共有している為、本来であれば念じるだけで意思疎通が出来るのだが……酔いで頭が回っていないのか、それも上手くいかないようで。仕方なく自分の分身に口頭で命令を下していた。
「この地図を元に、各地区を手分けして調査します。いいですね、私達」
「了解です、私」
ぴしっと手を上げ敬礼のポーズを取る分身達。よく見ると分身達の額にはそれぞれ二から六までの数字が墨のようなもので書き込まれていた。分身とはいえ各個体に自我がある以上コミュニケーションの際に呼称が無いのは不便であろうと、旅館から拝借した墨と筆で、愛は自らこれを書き込んだわけ、なのだが――
こんなことを大真面目にやっているのだから、酩酊というものは恐ろしい状態異常だ。律儀にも本体である自分自身の額にさえ『1』などと書き込んでいる始末である。
「二号は南区大通り、三号は西区住宅街、四号は東区、五号は中央区ドーム近辺、六号は一号と共に北区へ向かいます。では出発――」
「ちょっと待ってください」
本体の提案を阻むのは、額に四の数字が刻まれた分身の愛。挙手をする彼女へ一斉に視線が集まる。
「どうかしましたか、四号」
「四号も南区大通りの調査希望です。配置変更を要求します」
「その心は?」
「その土地のことが知りたければ、まず食を知るべし。故に出店の集中する南区大通りの調査は最も優先度が高く急務であると判断します」
きりりとした真剣な表情で発言する四号だが。
「……なるほど。つまり?」
「お腹が空きました」
直後に鳴り響く腹の虫の嘶きがその本心の全てを物語っていた。
「む。ならば五号も南区の調査員に加えていただきたいのですが」
「抜け駆けは狡いですよ。二号だって色々食べたいです」
「ハンバーグの再調査を希望します!」
まるで小さな子供のように喚き始める分身達。酩酊による知力低下もここまでくると愉快極まりないが本人達は至って真面目である。
「……気持ちは解ります。ええ解りますとも。貴女達は他ならぬ私なのですから。しかし南区に人員が集中してしまっては、まともな調査は出来ないでしょう。なので……こんなことをするのは非常に心苦しいのですが……」
逡巡の後、本体が指を鳴らした次の瞬間、分身達の身体の中から重みが消えていた。まるで何か大切な物が自分の中からすっぽり抜け落ちてしまったような。事実、愛達の体重はその瞬間、激減していたのである。
「私達の胃袋を全摘出しました。これで食欲は減退したはずです」
生物界において胃袋を持たない動物は意外と多い。異能によりその状態を再現させられた愛達は忽ちに食欲不振に陥るのだった。
「ぬわぁ……なんてことを……」
「鬼です……悪魔です……」
「我ながらこの容赦の無さ、流石私……」
脱力感に見舞われ嘆く分身達。しかしその中でただ1人、分身の二号だけがその状況にキョトンとしている。二号の胃袋だけは消失しておらず、食欲は健在であった。
「しかし四号の言葉も尤もです。食の調査は必要。なので南区の調査は交代制で実施し、調査員の胃袋はその日に限り元に戻しましょう」
分身達は渋々と言った風に本体の提案に揃って頷く。「それでは散ってください」という合図と共に、かくして六人の愛達はようやく探索を開始するのだった。
「何やってんだアイツら……」
「楽しそうだね」
そんな一幕を一部始終、遠巻きに眺めていた九十九とちり。
「じゃあ……オレはその辺ぶらついてみるけど、九十九はどうする?」
「私は……そうだな」
九十九の顔色はすっかり良くなって、むしろ良くなりすぎて、ほんのり赤みがかった顔をしている。
「愛に付いていってみようかな」
「……そうかい。じゃあまたな」
「うん。またね」
ふわり軽い足取りの九十九とは対照的に、どこか気怠そうに足を引き摺るちり、二人はそこで別れた。
さて、どうやって時間を潰すかな――と。酒気の霧をいくら吸い込んでも酔いの回らない頭で、一ノ瀬ちりはそんなことをぼんやり考えながら、九十九の背中を見送るのだ。
◆
酩帝街北区。第四階層行きの駅が近いということもあり、酒気の霧は濃く深く、少しでも邪な考えを持つ者が訪れれば卒倒間違い無しの危険区域。建物の屋根という屋根を飛んだり跳ねたりして一気に北区近辺まで近付いた愛だったが、近付くにつれて酔いが強く回り始めていることを体感していた。
「む、う……」
軽快に飛び移っていた屋根もいよいよ距離感を測り切れなくなり、跳躍は困難だと判断した愛は堪らず屋根を降り、ふらつく足取りで壁にもたれ掛かる。
「……どう考えますか、六号」
北区の調査に同伴していた自分の分身を声を掛ける。分身の六号もまた酩酊でその場に座り込んでいた。
「これ以上近付くのは難しいと判断します。周辺ならばともかく、駅へと続く道は視界に入れただけで吐きそうです」
「私も同意見です。調査どころではありませんね……」
愛は改めて地図を広げる。手書きを複製したその地図によれば、北区は他の地区と比べて極端に建築物が少ないようだった。
最北端には駅の記号が刻まれているが、その周辺には何も無い。辛うじて愛が今居る北区の入口付近には建築物がちらほらとあるものの、外を出歩く人影はほとんど見ない。事実、その人口密度は中央区と比べれば都会と辺境の田舎程の差があった。
「この辺りで調べる価値のありそうな場所といえば……」
そんな北区にも地図に書き込まれるほどの巨大な公共施設が一軒だけ存在する。
「……ここですね」
愛が先程からもたれ掛かっている壁の正体こそ、酩帝街を代表する公共施設の一つ、国立大図書館である。黒縄地獄の大聖堂ほど煌びやかなものではないものの、規模だけで言えばそれ以上の大きさを誇る白壁のその施設は、濃い霧の中で人知れず聳え立っていた。
愛は壁を伝いながら図書館の出入口にまで辿り着く。十段程度の階段を上がり、鉄製の大きな両開き扉を愛は分身と共に押し開いていった。
ぎぎと音を立てながら開かれていく扉。途端に施設の内部から漂ってくる紙の匂いに、訪れた者は否応なく懐かしさと哀愁を覚える。そうして扉が開き切り、愛を出迎えたのは……圧倒的な光景としか言いようのない、本の楽園であった。
見渡す限りの本の海。本棚は地上から天井近くまで積み重なり、視界いっぱいに広がっている。石畳の上に木製のテーブルと椅子が置かれた空間を除けばその殆どが本棚に埋め尽くされており、そこはやはり、本の海としか形容の出来ない有り様であった。
「……あっ、わっ」
そんな本の海の中から蠢く人影。本棚の迷宮の隙間を縫うように奥からそれはやってきた。
「い、いらっしゃいませ……!」
扉の開く音で来訪者に気が付いたのか、少し慌てた様子で愛を出迎えたその女性の顔には、目がひとつしか無かった。顔の半分を占めるほどの大きな瞳がひとつだけである。
身に纏っているのは白いニットと紫のロングスカート。ふわりウェーブがかった紫の長髪を後ろに束ねたその単眼の怪異は、やはり例に洩れず酩酊によって頬を上気させている。
「あはは……ごめんなさい。あまりヒトが来ないものだから油断して、つい奥に篭って読み耽ってしまって……」
大きな一つ目をぱちくり瞬かせて、気恥ずかしそうに何度もお辞儀をしている。
「大丈夫です。ここで本を読んでいってもよろしいですか?」
「はい、ゆっくりしていってくださいね。私は受付にいますので、御用があればなんなりとお申し付けください」
単眼の女性の穏やかな対応に愛は少し安堵しつつ、再びその視線を本の海へと向けた。本は知識の源であり、図書館は知識の宝庫である。情報収集にはもってこいの場所だと言えよう。本体である愛がわざわざ分身を連れてやってきたのもここの調査がある意味本命であった為だ。
誤算だったのは、その規模が愛の想像を遥かに凌駕していたことか。ぱっと見ただけでもありとあらゆる分野の本が所狭しと並べられている。強化された愛の処理能力でも全てを読み切るには相応の時間を要することは間違いなかった。
「ふうむ……分身をもう少し連れてくるべきでしたか……」
「……あ、えと。どのような本をお探しですか?」
途方に暮れ立ち尽くす愛に、単眼の女性が心配そうに声を掛けてくる。
「酩帝街から脱出する方法を探しているんです。心当たりはありませんか?」
「あっ……なるほど。見ない顔だと思ったんです、旅人さんだったんですね」
聞けば此処に訪れたばかりの旅人は脱出の手掛かりを求め、まさに今の愛のようにまず図書館へやってくる者が多いという。
「私も個人的に気になって色々調べていた時期があったんですが……皆目見当も付かなくて。お役に立てずすみません……」
「いえ。ではこの図書館に脱出と関係のありそうな本はありませんか?」
「関係のありそうな本、ですか。ううん……どうでしょう。私も此処の書籍を全て読んだわけではないのですが……」
単眼の大きな瞳が愛を見上げる。
「でも、もし本の中に答えが載っていたとしたら、誰にでも解るようには書かれていないはずです。暗号のようになっているのかも。そういう意味では全ての本に手掛かりが隠されている可能性がありますね……」
「む……確かに、そうですね……」
しかしこの量の本を全てか……と、愛は思わず腕を組み唸っていた。
「……仕方ない。手当たり次第に読み漁ってみる他なさそうですね。では頼みましたよ、六号」
「了解です、私」
本体の命令を受けた直後、分身の体が見る見るうちに変化していく。触手が伸び、そこから複製された眼球が無数に生えてくる。それは堕天王のライブ時にも見せた形態であった。触手が手当たり次第に本棚から本を取っていき、複製した目が内容を瞬時に処理、次々と速読していく。
しかしこの形態ですら、この図書館の本を全て読むにはとてつもない時間がかかることを察した愛は、次の来訪時には連れてくる分身を増やすことを思案していた。
「よし……ところでお姉さん、貴女にもお尋ねしたいことがあるのですが――」
分身に処理を任せつつ本体は再び単眼の女性の方へ向き直る、と。
「ぴゃ~…………」
単眼の女性は白目を剥いていた。
「えっ……だ、大丈夫ですか?」
今にも倒れそうな単眼の女性を愛は思わずその背中に腕を回し、体を支えていた。
「す、すみません……少し驚いてしまって……ええと……異能、ですか? 凄い、ですね……」
単眼の女性から見れば、分身の愛は双子の姉妹か何かに見えていたのだろう。そんな愛の片割れが突如全身から触手を生やし無数の眼球を全身に浮かび上がらせる冒涜的な姿へと変貌を遂げたのだ。
九十九やちりが見慣れていたというだけで、普通ならばこういう反応にもなるだろう。発狂しなかっただけマシというものである。
「ごめんなさい、驚かせてしまって……」
「い、いえいえとんでもないっ、こちらこそ失礼しました……! 単眼の私が人様の外見に何を驚いているんだって話ですよね、あはは……」
単眼女性の冗談めいた発言の後、しばらくの間を置いて、なんだか可笑しくなった二人は揃って微笑み合うのだった。
「お姉さんはどうして此処で働いているんですか?」
「働いている……というつもりは無くて、私はただやりたいことをやっているだけなんです。きっと他の人たちもそうだと思いますよ。その為の居場所を王様が提供してくださるんです」
労働ではなく趣味。誰もがやりたいことをやっているだけ。この街では誰もが表現者であり、自由であり、そうしてこの街は廻っているのだと、女性は大きな瞳を煌かせる。
「あ、でも……私の場合は頼まれて此処の受付になったんだ。そういう意味では、働いていることになるのかな……? まぁ良いんですけどね、おかげで本が読み放題ですっ」
「ふふ……ほんとうにお好きなんですね、この場所のことが」
「はいっ」
静謐なる本の海、ぱらぱらと紙を捲る音がソナーのように周囲に響く。そろそろ分身にだけ任せたままでは忍びないと、愛もまた近場の本棚から一冊、手に取るのだった。
「日の暮れる頃までは開放していますので、それまでどうぞゆっくりなさってください」
「はい。ありがとうございます」
其処は酩帝街で唯一の大図書館。彷徨い辿り着いた者達が、己の知見を遺していった場所。あらゆる知見が集まった結果、其処は旅人が求めて止まない知識の宝庫となった。其処に巣食うは、美しい瞳の管理人。今日も彼女は紙のめくる音に耳を傾けて、穏やかな時間を過ごすのだった。




