衆合地獄 3
地上、辺り一面に広がる、幾千の星を散りばめたような光源の数々が。まず、訪れた者の視界を奪う。喜怒哀楽、全ての感情がごった返したようなヒトの犇めき合う音の数々が。まず、訪れた者の聴覚を奪う。
咽返るようなヒトの熱が蒸気となり、生暖かい風が頬を撫ぜる。伴って漂う肉の臭いは、地獄に堕ちて以来嗅ぎ慣れてしまったそれとは明確に異なる類のもので。血生臭いそれではなく、在りし日にどこかで嗅いだことのある懐かしい匂い。
しかしそれに混じってどこか薬品のような、鼻につんとくる刺激臭も伴って――そんな独特な匂いが、訪れた者の嗅覚を侵す。
「ようこそ、酩帝街へ!」
駅から一歩、外に出ると。そこは紛うことなき、異世界だった。
「さァさァ、腹を空かせた奴ァ寄ってきなァ! 今宵仕入れたばかりの新鮮な肉だッ! 人肉じゃねェぞォ、正真正銘、本物の豚肉だッ! 銭は要らねェ、早い者勝ちだぞォ!」
「いらっしゃ~い! 可愛い女の子、入ってるよ~! 今ならすぐご用意できますよ~! おっ、そこのお兄さん寄っていかない!? 近場でオススメのホテルもご案内できますよ~!」
「繝帙ユ繝ォ縲らゥコ蟶ュ縲よョ九j縺イ縺ィ縺、縲ゅ♀譌ゥ繧√↓縲」
二度と聞く機会が無いものと、誰もが諦めていた単語の数々が、其処では当たり前のように飛び交っていた。地獄という非日常に慣れてしまった旅人達にとって、その光景は筆舌に尽くしがたい衝撃だろう。
そしてそれは、やはり黄昏愛にとっても同様だった。
「…………こ、れは…………」
黄昏愛の、元から大きかった黒い瞳が、更に大きく、丸く広がっていく。地獄に堕ちた瞬間から『あの人』以外の全てを諦める覚悟は決まっていた。それは、そんな彼女でさえ、目を奪われる光景。
頭上に広がる黒い空と赤い月、ということは今は夜――だというのに真昼と見違う程の光源の正体は、辺り一面、地上に無闇やったら散りばめられた灯籠だった。やたら湯気の立ち込める白み掛かった風景を朱色に淡く染めている。
朱色の風景に溶け込むように、壁の如く聳え立つ建築物の数々。イメージとしては中華街、具体名を挙げるなら九龍城砦が近い。事実、建築物が壁の役割を担い、必然的にヒトが通る為の道が形成され、街として完成しているようだった。
そして其処にこれでもかと言うほど詰め込まれた、ヒト、ヒト、ヒト。ヒトの群れ。まるで混雑した観光街のような様相。等活地獄のそれとは明確に異なる種類の活気が其処には満ちていた。
つまり弱肉強食の縄張り争いなどではなく、人間としての共存社会が確立されているが故の、正しい意味での活気。其処の人々が発する言葉は殺気を顕にした怒号などではなく、日常の営みを感じさせるそれであった。
「……地獄じゃ、無いみたい」
その街に広がる光景は、まるで現世に見た風景そのものだったのです。
「なんだこれ……幻覚か……?」
驚いているのは当然、黄昏愛だけではない。一ノ瀬ちりもまた、その異常な光景に唖然としているようだった。 現世を知る者であれば、そして地獄を知る者であれば、誰もが最初、このような反応になることだろう。だって地獄には人間以外の動物は堕ちてこない。稀に堕ちてくる無機物といえば現世で廃棄された物ばかり。ヒトも、モノも、殺し合い、奪い合うのが当たり前。地獄とはそういう場所のはずだった。
「ウチの焼き鳥も食ってけぇ! 黒縄じゃねぇんだ、対価なんざいらねぇぞ! 好きなだけ取ってけ泥棒ってなぁ!」
「何? 肉は好きじゃない? だったら魚だ! 寿司、刺し身、活け造り、何でもあるぞ!」
「そこのキレイなお嬢さんっ、寄ってかない? イケメン揃ってるよっ! 俺らと一杯やってかない!?」
「蝣募、ゥ邇九??繝ゥ繧、繝悶??蟋九∪繧九??縺頑掠繧√↓」
そんな常識を、この街は尽く覆す。
衆合地獄、南地区。駅のホームから一歩出ると、そこは地獄最大の観光都市『酩帝街』の南端にして中央区まで続く大通り、その名も歩行者天国ならぬ『歩行者地獄』。そこでは現世以上の活気で満ちていた。
壁のように両脇に聳え立つ建築物の殆どが何らかの出店のようで、その周囲には塊のような人混みが出来ている。その多くが飲食店で――提供されている食品は、人肉ではなかった。
聞こえてくる呼び込みの声を聞く限り、鳥、豚、牛――様々な種類の動物を取り扱っているようである。
その匂いが周囲あちこちから漂ってきて、訪れた者に空腹を自覚させる。地獄という環境で麻痺してしまった欲求が蘇っていく。
『ぐう』
その音は黄昏愛、そして一ノ瀬ちりの腹の底から、二人同時に鳴り響いていた。
「……ふたりとも?」
不思議そうに首を傾げる九十九から目線をずらす愛とちり。困ったような恥ずかしいような、なんとも言えない表情を浮かべている。
「……い、いやいや。なんだこれ、ありえねェだろ」
三人の中で最も衝撃を受けているのは一ノ瀬ちりだった。二百年間、あの弱肉強食の等活地獄に留まり、死物狂いで闘ってきたのだ。時間を掛けてゆっくりと、全てを諦めてきたのだ。そうせざるを得ない環境だったのだ。
「おっ! そこの嬢ちゃん達、見ねぇ顔だな! おのぼりさんかい! ならまずはうちの牛串食っていきな! うまいぞぉ!」
それがどうだろう。今や坊主頭に白い布を巻いたよく分からない中年男性に牛串を勧められる始末である。牛肉なんて生前ですら食べたことがないのに。
「ちり? 大丈夫?」
狼狽えるちりに思わず九十九も声をかけていた。
「大丈夫……ッつーか……なんつーか……」
「……似てるんですよ。現世に」
言葉を選ぶちりに代わって愛が答える。
「……そうなのか」
頷いて、九十九は少し思案するような素振りをみせた。九十九は産まれてすぐ殺されている。現世の世界というものを見たことがない。故に目の前の光景の異常さに実感を持てずにいたが――
「現世は、楽しいところだったんだね」
等活地獄とも黒縄地獄とも違うその異質さは、十分すぎるほど伝わってはいるようだった。
「繝輔Μ繝シ繝上げ縺励∪縺帙s縺」
「つーかさっきから明らかに人語喋ってない奴混じってんな!?」
声と呼ぶには殆どノイズのようなその音がする方へ視線をやると、辛うじてヒトガタを保つ青い液状物体がそこに蠢いていた。
恐らくは『スライム』の怪異なのだろう。あらゆる言語を翻訳するはずの地獄において尚、何を喋っているのか全く解らないが、街の住民達は特に気にかける素振りも無く当たり前のように横を素通りしていく。
改めて周囲を見渡すと、流石は地獄最大の人口を誇る階層といったところか、等活に引けを取らない多種多様な怪異が居るようだった。
怪異と成った者が生前と同じ姿のまま堕ちることは、実をいうと稀な現象なのである。多くが依り代となる怪異の要素に引っ張られ、変容する。
例えば一ノ瀬ちりであれば、生前と比べ肉体が数歳ほど成長している上に髪の色素が真紅に染まったように。衆合地獄の住民達もまた、耳が複数あるもの、目が複数あるもの、手足が複数あるもの、あるいは逆に少ないものなど、様々な姿でそこに居た。
等活と違うのは、そんな彼らが敵対し争う素振りもなくお互いを隣人として受け入れている様子だった。それどころか、現世のような形態で店を開き、他者と円滑にコミュニケーションを取っている。
その様子を見て九十九は「楽しそう」と評したが、まさにその通りだった。黒縄の『救済』に支配された狂気の笑みとは異なる、人間本来の穏やかな表情を、其処に居る誰もが浮かべているのである。
「……あのお肉は……本物、なのでしょうか……食べられるのでしょうか……」
腹の奥で虫が鳴き止まない様子の黄昏愛、その視線はもはや建ち並ぶ出店に釘付けとなっていた。
「ばッ……落ち着け……ッ! 罠かもしれねェだろ!?」
「で、でもこの匂いは……少なくとも人肉ではありません……まともな食用肉の匂いですよ……!?」
「やめとけ……! こういう一見して美味そうなモンはな……一口でも食えば最期……豚になっちまうんだよ……! そういう噂を昔聞いたことがあるぜ……!」
などと警戒する素振りを見せるちりだったが、やはり身体は正直で。一度自覚してしまった空腹を耐えることは難しいのか、これからヒトでも殺すかのような一際険しい表情を作っていた。
「縺翫>縺励>縲ゅ♀蠎励?ゅ≠縺」縺。縲」
「ありがとう」
ぐるぐる目で空腹に耐えるふたり、その一方でスライムと普通に会話をしている芥川九十九。
「ふたりとも、あっちにおいしいお店があるんだって」
九十九が指差す方向には、出店の中でも一際大きな建築物があった。開け放たれた店の出入り口、その上に立てかけられた看板に書かれた文字が、ふたりの視界に飛び込んでくる。
「な……ハンバーグ……だとッ!?」
「しかも……牛、ひゃくぱーせんと……!?」
「現世の料理……私も食べてみたいな」
九十九の素朴な感想も、今日この時に限ってはまさに悪魔の囁きだった。
「…………い、いいやっ! ダメだダメだっ! 怪しすぎるッ、怪しすぎるぜッ!」
地獄では何が起きるか解らないし、何が起きてもおかしくはない。食べたら本当に豚になってしまうかもしれない。そんな危険な目に、九十九を遭わせるわけにはいかない――!
「……いえ。ならばまず私が毒味をしましょう」
葛藤し震える一ノ瀬ちりのその小さな肩に、ぽんと、意を決したように黄昏愛はその手を置いてみせた。
「私の異能は動物に変身できます。毒に耐性のある動物に変身すれば、安全に毒味が可能です……!」
「お、おまえ……っ! でも……でももし本当に……豚になっちまったら……!」
「大丈夫……私を信じてください。ですが、いざという時は……後のことは任せましたよ」
ハンバーグを目の前にして明らかに普段のテンションと異なる舞い上がり方をする二人を、九十九は「仲がいいなあ」とほのぼの眺めていた。
長い葛藤の末、ついに一ノ瀬ちりが顔を上げる。
「……………………よし、行くぞッ!!」
かくして戦場に赴く兵士が如き強い足取りで、衆合地獄に訪れた三人が最初に向かったのは――ハンバーグ専門店であった。




