衆合地獄 2
時は一ヶ月前にまで遡る。
衆合地獄に到着する数刻前、地獄の階層を繋ぐ猿夢列車。出入り口から最も近いボックス席に、彼女達――黄昏愛、一ノ瀬ちり、芥川九十九の三人は座っていた。
窓側に座る九十九、その左隣に愛、そしてその正面にちりという配置で。特に会話が弾むこともなく、三人は半日ほど列車の中で過ごしていたのだが――
「……あァ、そういえば……」
黒いタンクトップの上から羽織る赤いスカジャン翻し、不意に一ノ瀬ちりが口を開いた。切り落とした左手首から先を庇うように右手で抑えながら。視線は依然、車窓の外に向けている。
「おまえ……死んだ時、西暦何年だった?」
「……2017年です」
それが自分に対しての質問だということに遅れて気が付いて、黄昏愛は内心驚きながらも言葉を返す。
「へえ……」
躊躇いがちに返答する愛に対し、気の抜けた相槌を打つちり。依然、視線を交わすことはなく。
「……ちなみに、オレが死んだのは1997年だ。それから200年、オレはあの等活地獄に棲んでいた」
しかしながら、意外にも二人の会話は続く。そしてそんな彼女の言わんとしていることを察し、愛は微かに眉を顰めていた。
「おかしいよな。おまえが地獄に落ちてきたのは、オレが死んでから200年後ってことだ。なら今の現世は西暦2197年じゃないとおかしい。けど実際には……おまえが生きていた時代から、たった20年しか経っていないことになる」
愛の感じた違和感を、ちりがそのまま代弁する。そんな二人の会話を隣で聞き耳立てながら、九十九は車窓の向こう側の景色を眺め続けていた。
「さらに付け加えると……おまえと同じ2017年の日本から地獄に落ちてきたって奴を、オレは100年前の時点で既に会ったことがある」
それは地獄の仕組みを理解していない者が聞けば、意味の解らない内容であることだろう。事実、その仕組みを理解するのに愛もまた些かの時間を要したが――すぐ合点がいき、その淀んだ黒い瞳を床から掬い上げるように、僅かに前方へと移すのだった。
思えば愛は地獄に堕ちて、ほとんど戦ってばかりだった。地獄の仕組みについて知る余裕も、本人にその興味自体も無かった。断片的に手に入れた情報だけを頼りに先に進んでいるような状況である。
もしも九十九やちりと出逢っていなければ、愛は今頃宛もなく途方に暮れていた可能性が高い。それは愛自身も自覚していた。
「どうもこの地獄って場所は、時間の流れが酷く曖昧らしい。現世とはそもそも時間の進み方からして違う。陽は登るし夜もやってくるが、本当に時間が経過しているとは限らない。まさに異世界だな」
故にこれは、教えようとしてくれているのだろう。ちりは不器用ながら、地獄の常識を愛に叩き込もうとしているのだ。愛もそれを察し、素直に耳を傾ける。
「私よりずっと未来で死ぬはずの人間が、私が逝くよりも先に地獄に居る可能性がある……変な世界ですね、此処は」
生前に同じ時代で死んだとしても、地獄に堕ちる順番は完全にランダム。過去、現在、未来――全ての時代の死者が平等に一箇所に集められ、順不同で落とされる。こういう仕様の時点で、現世と地獄ではそもそもが異なる時間軸に存在した別世界であることが解る。
しかし、そんな地獄という場所がいつから存在していて、いつから人間がそこに堕ちるようになったのか、誰も知らない。
そしてその事実は、ともすれば『あの人』はまだ地獄に落ちてきていないかもしれない、ということにもなるわけだが――
元より黄昏愛に待つという選択肢は無い。まだ落ちてきていないのなら待てばいいだけの話。だがもし愛より先に地獄に落ちてきていたら――むしろ『あの人』を待たせてしまっているかもしれない。そっちの可能性の方を愛は嫌う。
だからこそ、無間地獄。開闢王曰く、其処の王は訪れた者の願いを叶えると云う。ならば。『会いたいという願い』を叶えれば。『あの人』がどこに居ようと会うことが出来るはず。故に、彼女の旅路は前進あるのみであった。
「あとは……生まれも育ちも違う、生きていた時代すら異なっている、にも拘わらずオレ達はこの地獄で相手が喋っている言語を理解することが出来ているだろ」
「あぁ……言われてみればそうですね……」
「そいつに関しては『声』がオレらに与えた怪異としての機能のひとつだと云われている。所謂、怪異化の影響ってやつらしい」
「……その『声』というものが何なのか、よく解らないのですが……」
「地獄に落ちる直前、変な声が聞こえただろ? 声の正体は、この世界の神……いわゆる『閻魔大王』じゃないかって噂がある」
記憶を遡り、その声色を思い出しながら――愛は頷いてみせる。
「とは言え、所詮は噂。実際のところは何も解っていないに等しい。声の主が何者なのか。何が目的なのか。そもそもこの世界は何だ? 怪異とは何なんだ? 異能の原理は? 太陽が黒くて空が赤い理由は? 七不思議なんてもんじゃねえ、此処は謎だらけだ」
云いながら、ちりと愛、ふたり揃って自然と車窓の向こうへ視線を移していた。車窓の向こう側の景色は絶えず変化を続けている。黒い海の中へ車体ごと飛び込んだかと思いきや、虹色の泡飛沫に一面満たされて、やがてそれが晴れたかと思うと今度は赤い空の上を逆さで飛んでいたりする。
「謎といえば、この猿夢列車も謎ですよね。怪異なんですか? これ」
「さあな。怪異かもしれないし別の何かかもしれない。間違いなく言えることは、コイツが階層間の行き来が可能な唯一の存在だって事だけだ」
時間も空間も支離滅裂な景色の中を、今日も猿夢列車は当たり前のように滑走していた。
「それで……そう……それでだ。思い出したことがあるんだよ」
こんな謎だらけの地獄でも、二百年も住めば色々と解ってくることもある。等活地獄において相応の場数を踏んできた一ノ瀬ちりもまた、これまで培ってきた経験と拾い集めてきた噂話から、情報通と呼ばれても差し支えない程度には今の地獄の有り様を把握していた。
「オレ達が次に向かう、衆合地獄について。そこに関する、こんな噂があるんだが――」
そんなちりが、改めて愛に向き直り、神妙な面持ちで本題に入ろうとする――
「第三階層から先には何も無いんだよね!」
そんな時、底の抜けた明るさと底の見えない不気味さを伴った奇天烈な声が突如割り込んできて――ちりの話の腰を唐突に折ってきたのであった。
その声色を地獄の住人は誰もが知っている。だからこそ、驚きこそしないものの、三人の少女は揃って大小様々な溜息を吐くのであった。
「やあやあ、ボクはロア! キミたちの旅路をサポートしちゃうよ~!」
七色の布が幾重にも重ねられた分厚い虹色のフレアスカート、幾何学のまだら模様浮かぶパーティースーツ、白塗りの顔を左半分覆い隠す黒仮面、束感のある白髪、頭上には先が黒と白の二又に分かれた道化の帽子――
性別不明、正体不明、神出鬼没、奇人魔人。自らを噂と称するその怪異は、今日もまたどこからか現れて、ろくでもないことを旅人達に嘯くのだ。
「呼んでねェ、引っ込んでろ」
「引っ込みませ~んっ! だって噂と云えばボク、ボクと云えば噂だからね。ここで出しゃばらなきゃボクの出番が無くなっちゃうからね!」
道化は三人の頭上を雲のようにぷかぷか浮かんでいる。地獄の水先案内人を自称するこの怪異もまた七不思議のひとつに数えられていて、本人がそれについてどう思っているのか、そもそも普段から何を考えているのか、やはり全てが謎に包まれている存在であった。
「……あなたの話はノイズにしかならないので、黙っていてほしいのですが……」
「安心して! ボク、ウソ、ツカナイ! ただ大事なことを黙っていたり曖昧な解釈を嘯いてミスリードを誘ったりするだけの善良な案内人だよ?」
「それをやめろ」
頭上でけたけた笑う道化を露骨に毛嫌う愛とちりだったが――その場でひとり、芥川九十九だけが静かに思案していた。
「第三階層より先には何も無い、って……どういうことだ?」
九十九の言葉に皆の視線が一斉に集まる。宙に浮かんでいたロアの身体は、まるで待ってましたと言わんばかり、九十九のすぐ目の前まで降りてきていた。
「くくっ、気になるよね? ハイッ、というわけで! 噂話をここでひとつ、紹介しようじゃあないか! 何? 怪しい? 信じられない? キミ達が信じようと信じまいと関係ないよ、ボクはただ過多に気ままに語り騙るだけだからね」
そうして彼は、にんまりと怪しげな笑みを浮かべて、エンジンが掛かったように口遊むのだった。
「とは言っても、言葉通りの意味だよ。地獄は第三階層より先、つまり第四階層以降が存在しないんじゃないか、という噂があるのさ。だってみんな第三階層より先に進むことを諦めてしまうから、その先に第四以降の階層があるってことを確認することが出来ないんだよ」
「……本当ですか?」
それを聞いた愛が些か驚いたように声を上げた。この噂を既に知っていた一ノ瀬ちりは、そんな愛に対して軽く目配せする。
「もちろん地獄は第八階層まであるよ。なのに全地獄の総人口は、その殆どが第一階層から第三階層までの区間に集中している。第四階層から先は人口が極端に少ないんだよね」
「……そもそも、地獄ってどれだけ居るんですか? ヒトの数」
「さあ? 地獄の人口はリアルタイムで増え続けてるからね。まあ最終的にはこれまで現世で産まれてきた人間の総数とイコールになるだろうけれど、それもまだ先の話かな。落ちてくるまでにタイムラグがあるからね」
「ふむ……」
そこまで聞いて、愛はどこか腑に落ちない様子で首を傾げる。そんな彼女の反応を見て何か思い付いたように、ロアは指を鳴らしてみせる。
「あぁ、ちなみに地獄で一番人口の多い階層は等活地獄だよ。まあ当然と言えば当然かな? でも、等活地獄はその人口の殆どが物言わぬ死体になっちゃってるからねぇ。死体はノーカンとして、生きている人間のみをカウントした場合なら、衆合地獄こそが最も人口の多い階層だと言えるかな」
「……なるほど」
ロアの矢継ぎ早な説明に、愛は途端に納得した様子でひとり頷いていた。
等活地獄。地獄に落ちた誰もが最初に其処へ辿り着く。黄昏愛は一週間、等活地獄を彷徨い続けていた時期がある。
そんな彼女が等活地獄という場所に対して抱いていた、ひとつの疑問があった。それは――全ての死者が一同に介する場所としては、些か人口が少なすぎるのではないか――というもの。
実際、等活地獄の人口はその殆どが死体と化している。ほんの一握りの運良く生き残った者達が徒党を組み、十六小地獄や屑籠といった組織を結成し、縄張りのようなものが出来ていったのが今の等活地獄の形である。
そして当然、等活地獄から次の階層へ命からがら逃げ延びた者達もいる。どうやらその殆どが衆合地獄に留まっているらしい。つまり地獄の総人口は、等活と衆合で実質二分している状況なのだ。ならば愛の感じた、等活地獄の人口の少なさにも納得がいく――
「……それについてはオレも疑問に思っていたんだがよ。等活地獄は勿論、あの黒縄地獄や、その他の階層を差し置いて……どうして衆合地獄にばかり人口が集中する? 他の階層と何がそこまで違うんだ?」
――しかしそれはそれでまた、新たな疑問を生んでいた。
「さあ、どうしてかな? どうしてみんな、先に進むことを諦めてしまうんだろう? 不思議だよね? でも事実として、今の王様が衆合地獄を支配するようになって以来、みんな先に進むことを諦めて第三階層に留まる選択を取るようになったんだ。何か裏がありそうだよねぇ? 例えば……自分にとって大事なヒトが、そこに人質として囚われている……とかさ?」
「後半のロアの感想はさておき……だ」
疑問に答えないばかりか、余計なことまで云い始めたロアに対し、ちりはこれ見よがしに舌打ちする。
「オレも第三階層まで来たことは流石に無いからな……実際のところはどうなのか、何が待ち受けているのか、何も解らん。用心は怠るなよって話だ」
「用心ねえ? 意味あるかなあ……くくっ……――」
不意に車体が大きく揺れ、金切り音が響き渡る。トンネルを抜け、遠くに三途の川を一望出来る線路の上、徐々に速度を落としながら滑走する列車の様子に、誰もが期待と不安に心臓を僅か跳ね上げさせていた。
くつくつ、どこか意味深に嗤うロアを、もはや誰も見てはいない。それを意にも介していないように、ロアは再び宙へ浮かび上がり、くるくる優雅に一回転。
『――――……次は……終点……衆合地獄……です……――――』
ノイズ混じりの無機質なアナウンスが車内に響き渡る。車体の揺れが激しくなり、減速の一途を辿っていく。
「さあさあ、噂の第三階層、衆合地獄に到着だ。小便は済ませたか? 神様にお祈りは? 部屋の隅でガタガタ震えて命乞いをする心の準備はオッケー? それでは、サヨナラ、お元気で――」
いよいよ完全に停止しようという時、ロアは最後、巫山戯た言い回しだけをその場に遺して、自身の肉体を霧散させた。蒸気の噴き出す音が外から聞こえてきて、三人の少女はゆっくりと席から腰を持ち上げる。
「衆合地獄……もしかしたら此処に、『あの人』が居るという可能性も……」
「……まァ、そうだな。可能性だけならそりゃあるだろ。気が済むまで捜してみろよ。だがオレらは手伝わねーぞ。これ以上厄介事に巻き込まれるのは御免被るぜ」
「よし……行こうか、ふたりとも」
そんな彼女達を快く迎え入れるように、列車の扉は勢いよく開け放たれた。
斯くして少女達は辿り着く。
其処は来る者拒まず、去る者を憂う街――
ようこそ、酩帝街へ。




