衆合地獄 1
夢を見ていた。『あの人』との思い出が自分の中に確かに遺っている実感に安堵すると共に、未だ『あの人』の名前が思い出せないという事実に焦りも覚える、そんな夢だった。
夢から醒めたことを自覚した途端、止まっていた心臓が急速に動き出したかのような錯覚に伴って、血が全身を駆け巡り感覚を呼び起こしていく。暗闇に閉ざされていた意識が光を求め、自然と目蓋が開いていく。
そうして黄昏愛は目を醒ました。その黒い瞳が最初に映し出した景色は――何の変哲もない、ただの天井である。
構成する壁も天井も全てがピンク一色に染まっている、その部屋。四方の壁に掛けられたランプが、薄暗いこの部屋全体を桃色に淡く照らしている。
そんな場所で黄昏愛は今日も一日、部屋の中央にどっかりと置かれたダブルベッドの上で制服を着たまま、いつの間にか眠りこけていたのだ。
「――……呑気な奴だな」
愛が目覚めたのを見計らったように、不意にその声は愛から対角線上に離れたベッドの片隅から聞こえてきた。苛立ちを隠そうともしないその声色に愛が視線をやると、そこに一ノ瀬ちりの姿を確認する。
地獄の第三階層、衆合地獄に訪れて一ヶ月が経過した。黒縄地獄での死闘で左手を失っていた一ノ瀬ちりだったが、怪異特有の自然治癒能力によって、今ではほぼ元通りにまで左手を再生させている。
そんな彼女は今、自分の膝を自分で抱えて縮こまり、ベッドの隅に収まっている。初めて出会った時から変わらないそのギラついた赤い瞳と灼熱のような赤い髪を目視にて確認し、愛はこれみよがしに深く溜息を吐いていた。
軋むベッドの上で身体を起こし、重い頭を持ち上げるようにして、愛は改めて周囲を見渡した。愛がこの部屋に訪れた時から何も変わらない。桃色の壁、桃色の天井、桃色の床、白いシーツのダブルベッド、ただそれだけが配置された四角形の空間に、黄昏愛と一ノ瀬ちりが一緒に居る。そこに芥川九十九の姿は無い。ふたりきりである。
「この状況で……よく寝てられるよな、オマエ」
「……退屈だったもので」
床に両足を下ろし、愛は疲れた表情で前髪を掻き上げる。腰元まで伸びた長い黒髪は地獄に堕ちて以来その美しい艶を保ったまま揺れ動く。視界の端でその様子を捉えていた一ノ瀬ちりもまた、疲れ切った顔で何度目かの溜息を溢すのだった。
あまりにも奇妙な状況。ふたりとも心ここにあらずといった様子で、所作の一つ一つにどこか苛立ちの色が垣間見える。しかしそれも当然のことだと言えるだろう。
なぜなら。この場所にふたりが閉じ込められて――丸三日が経とうとしているのだから。
「なんでこんな事に……よりにもよってオマエなんかと……」
「それはこっちの台詞ですよ……」
いつものようにお互いの言葉に噛み付き合うふたりだったが、しかしその声にいつものような迫力は無かった。此処に来てから何度も同じようなやり取りがあったのだろう、もはや飽きてしまったと言わんばかりにふたり揃って覇気の無い溜息を吐くのだった。
桃色の壁、桃色の天井、桃色の床、白いシーツのダブルベッド、ただそれだけが配置された空間。この部屋について、先にそう説明したが――つまりこの部屋には、窓も扉も存在しない。
実はそれらに加えてもう一点、この状況について説明しなければならない要素がある。
ベッドの南側に位置する壁。そこの壁にだけ、額縁が飾られている。シンプルな木造の額縁――その中には、文字の羅列が書き込まれた鉄板が埋め込まれていた。そしてその文字の羅列は、こう書かれてあったのである。
――セックスしなければ出られない部屋、と。




