プロローグ 3
二〇一七年 七月
カーテンの開け放たれたガラス越しに見るベランダの風景は、雲一つ無い青一色。地上で泣き喚く蟲の鳴き声は、三十階建て三十階のこの部屋にも微かに聞こえてくる程の騒々しさで。冷房のガンガンに効いた、暑さとは無縁の日陰に居て尚――これ以上無いってくらい、夏だった。
最高気温を更新したのも今年に入って何度目だろう。きっと外は、うだるような暑さに違いない。それこそ、地獄と表現して差し支えない程の。
ならば今、私達が居る此処はきっと、天国に最も近い場所。冷風吐き出すエアコンの真下、一糸纏わぬ姿のまま白いシーツに包まって、隣には『あの人』が居て、共にキングサイズのベッドの上でうたた寝をして過ごしている。そんな私こと黄昏愛は、最高に快適な休日を過ごしていた。
高校三年、最後の夏。進路も決まり、成績も優秀、不安要素は何一つ無い。気兼ねなく羽を伸ばせるというものだ。朝から『あの人』とだらだらいちゃいちゃと時間を貪り、昼食の冷やし素麺を平らげて、しばらく経った昼下がりの午後一時。幸せとはこういう事を指して呼ぶのだろう。
ただ少しだけ、ほんのちょっぴり気に掛かることと言えば――先程から『あの人』が、私の隣に居ながら、その視線を携帯端末の液晶画面に釘付けにしている点だった。
ほんの数分もすれば満足して、また私に視線を戻してくれると思っていたが――どうやら見通しが甘かったらしい。『あの人』が液晶の向こう側に夢中になり始めてから、もうかれこれ三十分近くにもなる。
すっかり熱の冷めた私の身体は寂しさに震え、人肌に餓え始めていた。有り体に言ってしまえば嫉妬である。『あの人』を夢中にさせる液晶の向こうの何者かに、私はとうとう些細な苛立ちを覚え、頬を僅かに膨らませるに至っていた。
「…………何を見ているんですか」
両肘を白いシーツの沈ませて液晶を食い入るように見つめる『あの人』に、私はとうとう唇を尖らせながら、頭をその右肩にわざと体重をかけて押し付けるのだった。
我ながら子供っぽいその主張に、『あの人』は紫のアイライン鋭く引かれた目蓋の中身をぎょろりとこちらに向けて、やがて困ったように微笑んでみせるのだ。
「あきらっきー様の配信。一緒に見る?」
「……むう……」
精一杯の主張も虚しく再び液晶の中へ吸い込まれていった『あの人』を追いかけるように、私もまた冷え切った黒い視線を液晶の中に放り込んだ。
それは有名な動画配信サイトで、そこでは個人がパフォーマンスを世界中に向けて自由に発信することが出来る。そこで活動する配信者の中には、社会現象を引き起こす程の強い影響力を持つインフルエンサーもいる。『あの人』が推しと表現しているその対象も、所謂インフルエンサーの一人で。世間の流行に疎い私でも、その顔には覚えがあった。
「いやあ、ありがたいよね。今となってはどのメディアにも引っ張りだこの一流アーティスト……毎日めちゃくちゃ忙しいはずなのにさ。それでも今もこうやって、いつものプラットフォームで生配信を欠かさずやってくれる。昔からのファンも大事にするそのプロ意識の高さがまた推せるっていうか……」
『あの人』はそいつの話になると普段より何倍速だか早口になる。そして、一度語り始めれば最後、呪文のような言葉の羅列が湯水のように溢れ出してきて、それが数分間にも及ぶ。どこで息継ぎをしているのか心配になって、本人にそれを指摘したところ、曰く――
「オタクという生き物に推しを語らせるとね、自然とこうなるものなのよ。そういう習性なの。だから大丈夫気にしないで」
――とのことだったので、正直よく解らなかったけれど、ひとまず気にしないことにした。
だがそれはそれとして。自分の恋人が自分以外の何者かに入れ込んでいるという光景は、やはり見ていて面白いものではない。私の頬はますます膨らんでいって、嗚呼このままだと風船のようになってしまって、やがて破裂してしまいますよ、それでもいいんですか――とは敢えて口には出さず、ぐりぐりと自身の頭部を『あの人』の頬に押し付けることで主張する。
「はいはい、よしよし……」
それでも視線を液晶から一切外そうとしない『あの人』に、私はとうとう抗議の声を上げるのだ。
「もうっ……! 私とその人、どっちが好きなんですかっ」
「あのねぇ……推しは推し、愛は愛だから。比べるようなものじゃないでしょ~?」
「そういう問題ではなくてぇ……っ!」
こんな事を言っても『あの人』を困らせるだけだという事は分かっている。分かっていて尚、それは止めようがなかった。その困ったような微笑も、私をいつまでも子供扱いしているようで――これではまるで、本当に子供の駄々のようだけれど――このままでは引っ込みがつかない。
ぶうぶうと唇の先を尖らせる私に、そうしてようやく『あの人』は、そっと顔を近付けて――
「私が愛してるのは、愛だけだよ」
欲しかった言葉を、ようやく私にくれたのだった。
そう、愛している。『あの人』の為なら何だって出来る。勉強も、家事も、全部完璧に。私は『あの人』に愛される為に存在している。
「っ……私も■■さんのこと、愛しています!」
「はは……よーしよし、ういやつめ」
それなのに。そのはずなのに。私はどうして『あの人』の名前を思い出せないのだろう。
外から聞こえてくる蝉の鳴き声に混じって――蠅の羽音がどこからか聞こえてくるのは、どうしてだろう。




