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怪物少女の無双奇譚《フォークロア》  作者: あかなす
第二章 黒縄地獄篇
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黒縄地獄 35

 永い夜が終わり、朝がやってくる。


 黒縄地獄の赤い空は、ヒトを燃やした排気ガスによって白み掛かっていて、黒い太陽の日差しはその隙間から僅かにしか地上まで届かない。故に黒縄の気候は肌寒く、またどこからか漂う死臭が、訪れた者にこれから此処で味わうことになるであろう過酷さを予感させるのだ。

 そんな場所で激動の数日間を味わった黄昏愛たち一行は無事に夜を越えた。疲れ果てた三人は迎賓館の一室へ到着するや否や一つのベッドに揃って倒れ込み、そのまま川の字で身を寄せ合ったまま朝を迎えたのである。

 体内時計が朝の訪れを察し、鈍かった感覚が蘇る。空気の冷たさを肌が感じ始め、刺激が脳を揺り起こす。そうして――黄昏愛の意識は覚醒した。


 朝が強い方ではない。むしろ低血圧による寝覚めの悪さには生前から悩まされている程である。そんな彼女が三人の中で一番に目覚めたのは、やはり彼女の異能『ぬえ』による影響が大きい。怪異が通常持ち合わせている自然治癒能力を遥かに凌駕した高速再生。誰よりも早く回復し、誰よりも早く復活する。昨夜に受けたダメージは今や万全、とまではいかずとも、行動に支障をきたすほど遺ってはいなかった。


 かくして誰よりも早く黄昏愛は目を覚ます。しかし鉛でも乗っているのかと思うほど重たく感じる頭を持ち上げることは諦め、うつ伏せの姿勢のまま、愛はしばらくぼうっとシーツの感触を顔面に受けるのであった。

 体力は異能で回復した。つまりこれは、気力の問題なのだろう。何せ昨夜対峙した相手が相手である。現実の物質に影響を及ぼす程の狂気。愛はそれに対し、偶然にも耐性があった。そう、昨夜の勝利は偶然の産物以外の何物でもない。あの時、もし歪神楽ゆらぎが自身の肉体と直接繋がっている『くろちゃん』以外のおもちゃを使ってきていたら。そんな気まぐれひとつで、今の結果は覆されていた。


 もっと言えば、あの時――芥川九十九の助力が無ければ。愛の旅は、あそこで終わっていたかもしれない。


「…………」


 ふと、うつ伏せの顔を捩るようにして――愛は右隣に顔を向けた。芥川九十九は仰向けの状態で、そこに眠っていた。


「…………」


 愛は無言を貫いて、そっと自身の上半身を持ち上げる。自分でも意外なほど、その眠りを妨げないよう意識して――静かに。両肘で支えるように、首を擡げる。

 芥川九十九。悪魔的な美貌のその少女。地獄で唯一、殺されると復活することなく、そのまま死んでしまう怪異。死んだように安らかなその寝顔を、愛はまるで魅入ったように、じいっと眺め続けるのだった。

 最初の階層で出逢って、拳を交わした相手。どういう訳だか、自分とはなんの関係も無いはずの『あの人』を探す旅に同伴したいと願い、どういう訳だかこうして今も一緒に居る。最初は迷惑だと思っていた。役に立たなければ殺してしまおうとすら思っていた。しかし――


「…………」


 ――あの時、九十九に叩かれた頬をそっと、指で撫ぜる。

 あの時はまるで、暗闇の中から無理矢理に引き上げられたような、そんな衝撃に脳を揺さぶられた。生前も、死後も、才能に恵まれた。他人に嫉妬や羨望の眼差しを向けられることはあっても――手を差し伸べられるなんてことは無かった。


「…………」


 この時。自分の中で生まれた些細な変化に、愛は明確に自覚してはいなかった。

 けれどそれは、間違いなく――愛にとっての何か決定的なものを、変えてしまったのである。


「……………………へんなひと」


 そうして、ふと。彼女は自分でも気付かぬ内に、ごく自然と手を伸ばしていた。

 その指先が、ゆっくりと。未だ眠る九十九の頬に、触れようとして――


「オイ」


 咎めるようなその音は、不意に降ってきた。それは愛の伸ばしかけた手を、それ以上の進行を阻む見えない壁となり立ちはだかる。柄にも無く驚いた様子で肩を震わせた愛が、声のした方向へ咄嗟に視線を移すと――


「……何してんだオマエ」


 芥川九十九の右隣。肩肘を突いて、気怠そうに睨み付ける、一ノ瀬ちりがそこに居た。今の愛に勝るとも劣らない顔色の悪さ、その上、ちりは昨晩のシスター・エウラリアとの戦闘で左手首から先を失っている。赤いクレヨンの異能によって血流を操作し出血を抑え、布切れで傷口を覆っているような状態である。

 怪異の自然治癒能力であれば失った手首もいずれ元に戻るが、当然すぐにというわけにもいかない。体の一部位が完全に再生するまで最低でも一ヶ月は掛かるし、その間傷口には痛みが伴う。重傷であることは間違いなかった。


 そんな一ノ瀬ちりと黄昏愛の視線がかち合う。いつから起きていたのか、一ノ瀬ちりは目を覚まし、愛の奇行とも呼べるその一部始終を目撃していたのだ。


「…………」


「…………」


 すっと、無言で手を引っ込める愛。


「……別に、何もしてませんけど」


「……いやいや。なんかしようとしてたろ、今」


「この私が何をするって言うんですか」


「知らねーよ。だから訊いてんだろうが。……何か妙なマネしようとしてたんじゃねーだろーな」


「は? なんで私が。そんなわけないでしょ」


「あ? だったらなんだよその手はよ」


「は?」


「あ?」


 九十九を挟んで謎の口論を発展させる愛とちり。朝の静謐が一瞬でヒリついた空気になってしまったが――


「ん……ぅ」


 ――そんな静かな抗争がそれ以上発展することはなく。蠢く気配に、思わず愛とちり、両者揃って口を噤むのだった。


「…………あ、れ……」


 掠れた声を微かに上げながら――芥川九十九、ようやく目を覚ます。凪いだような赤い瞳が、ゆっくりと周囲を見渡して。そして既に起きていた両脇ふたりの顔を確かめたのち、眠気で開き切っていない瞼を気怠そうに擦るのだった。


「ちり、愛……おはよ……ぅ、く……ぁ」


「……おう」


「……おはようございます」


 小さく欠伸をして。呑気に挨拶などしてみせる九十九に、先程まで犬猿の雰囲気だったふたりもすっかり牙を抜かれた様子で溜め息を吐くのだった。


「うん…………――っ、けほ……けほっ……」


 芥川九十九。彼女は怪異でありながら死の概念が存在する。規格外の膂力を行使した代償、特に悪魔の如き怪物への変身能力の使用は、彼女にとって命を危険に晒す行為である。


「ッ、オイ、九十九……大丈夫か……!?」


「……うん。いつもの反動だ。大したことない」


 とは言うものの、彼女の内臓はズタボロに傷付いている。三人の中で最も深いダメージを負っているのは間違いなく九十九であった。口の中に広がる血の味を感じながらも九十九は努めて平静を装ってみせるが、しかしそんな彼女に二百年を連れ添ってきたちりは当然勘付いている。


「ッ……黄昏愛、オマエの異能で……!」


「わかってます。私が直しましょう」


 今まではどうにもならなかった。しかし今は黄昏愛がいる。等活地獄においても、瀕死の重傷を負った九十九を愛は治療している。異種移植による臓器の修復。万能を極めた愛の異能だからこそ実現可能な、九十九にとって唯一のライフラインである。


「それじゃあ、九十九さん。お口、開けてください。触手、入れますので」


「えっ……あ、そんな感じなんだ……」


 ちなみに等活地獄での手術時、九十九は意識が無かったので、実質これが初めての手術なのだが――愛の右手がぶよぶよとした触手のような何か――よく見ると無数の眼球のようなものが生えている――に変貌を遂げたのを目の当たりにして、九十九は想像する。それが今から自分の口の中から体内に入ってくるところを。それが体内で蠢くところを。


「あ、あー……私は本当に大丈夫、だよ? 放っておいても一応、少しずつ治っていく、し……」


「遠慮なさらず。すぐに済みます。神経系の接合時には麻酔も効かせますので痛くはありません」


「う、うーーん……や、優しくしてね……」


 すっかりドン引きの九十九だったが、愛の押しに負ける形で渋々了承するのであった。


「……ついでに。あなたの手首も直してあげましょうか?」


「……ふん。オレの方こそ大したこたねえ。ほっときゃ治る」


「あっそ。……はい、九十九さん。じっとしててくださいね」


「もがもが……」


 ◆


 手術も無事終えて。三人揃って最悪な顔色のまま迎えた、勝利の朝である。

 しかし決して手放しで喜べるような戦果ではない。辛勝も辛勝。受けた傷痕は大きく、拷问教會イルミナティとの戦いが如何に壮絶だったかを如実に物語っているのだった。


「…………で? どうだったんだよ」


 そもそもこうなった全ての元凶、黄昏愛の捜し人、その行方の手掛かりを開闢王に尋ねる――という目的が果たされたのかどうか。結果的に身を削ってまでそれを手伝うことになったのだ、犬猿の仲とは言え気になるところではあるのだろう。文字通り重い腰を持ち上げるように、ちりはベッドの端に改めて腰掛ける。


「開闢王から何か聞き出せたのか」


 そして、そんな一ノ瀬ちりの問いかけに、しかし黄昏愛が即答することはなかった。ベッドの上で正座をする愛の、言葉を選んでいるかのように視線を右往左往させる姿に、ちりは怪訝そうな視線を向けるのだった。


「……あ? ンだよ……もしかして収穫ナシか?」


「いえ……ただ、なんというか……その」


 愛のただならぬ様子に、仰向けのまま寝転がっていた九十九も姿勢を正すように上半身を起こし始める。

 しばらく逡巡している様子の愛だったが、しばらくして。


「……わかりました。話し、ます」


 そう言ってようやく、うつむきがちだった顔を真っ直ぐ前に向けるのだった。


 ◆


 そして愛は語り始めた。地獄の第八階層にして最深部、無間地獄。そこに地獄で唯一、花の咲く場所が存在すること。無間地獄に棲む怪異の王は、そこに訪れた者の願いを叶えるということ。そして――


「はァ? 『あの人』のことを()()()()()だァ!?」


 愛が捜している『あの人』。その人物を、そもそも愛自身が、よく覚えていないということ。それを聴いて、思わず一ノ瀬ちりは声を荒げていた。


「お、思い出はあるんです。ちゃんと覚えてます。『あの人』はいつだって、きれいで、優しくて……でも……――」


 そこまで言って急に歯切れが悪くなり、


「――……名前が、思い出せないんです」


 諦めたように、ぽつり呟くのだった。


「それに、実は……声や顔すらも、なんだかおぼろげで……『あの人』のこと、正確に思い出せなくなってて……」


「……それだけか?」


 そこへ追い打ちをかけるように、一ノ瀬ちりが切り込んでくる。


「……え?」


「思い出せないのは『あの人』のことだけか。つまり……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「あ……」


 言われて、青ざめていく。まるで()()()()()()()()()()()()()ような、そんな取り乱し方をする愛に、二人の会話を様子見していた九十九も目を丸くしていた。


「……自分がどこで暮らしていて、どういう人間だったのかは、なんとなく覚えているんですけど……それ以上のことは……」


「オマエなあ……」 


 呆れ返ったように溜息を吐くちり。しかし横目に見る愛の表情があまりにも弱々しく、寂しげで――どこかやり辛そうに顔をしかめてみせるのだった。


「まあ……怪異化の影響か、はたまた直前の死因が関係してんのか……記憶を失ったまま地獄に落ちてくる奴は此処じゃ少なくねえけどよ……」


「でも、会えば解ります! 顔を見れば、それが『あの人』だって……!」


「根拠は?」


「根拠……は……」


 一瞬、言い淀んだ愛が視線を僅かに下げるが――すぐにその顔を上げ、真っ直ぐちりを見据える。


「……無間地獄。そこに辿り着けば、いずれにせよ……私の願いは叶うんです。私は、先に進みます……!」


「等活だけじゃねェ、今回で黒縄も敵に回した。もう後戻りはできないし、先に進み続ければ今回と同じような目に何度だって遭うことになる。ろくに顔も名前も思い出せねえ相手の為に、そこまでする覚悟が――」


「あります。覚悟なら、最初から」


 力強く言い返す愛に、ちりはそれ以上何も言えなかった。根拠も無い。見通しも甘い。けれど本人がそれを承知の上で挑むというのなら。これ以上、他人に止める権利は無い――


「――うん。よし。それじゃあ行こうか。無間地獄、三人で!」


 まるで話が全て決着したとでも言わんばかり、元気にそんなことを言い出した九十九に対して、ちりはもう何度目かも分からない溜息を吐くのだった。


「……九十九。オレらは引き返すんだ、ここで」


「え? なんで」


「なんでって……解るだろ。死にかけたんだぞ? ……これ以上は危険だ。付き合ってやる義理も無い」


 今回、九十九は何度も命の危機に晒された。開闢王に捕まり解剖されそうになったし、歪神楽ゆらぎの狂気に耐性が無いにも拘わらず無謀にも立ち向かっていった。結果的に今こうして無事ではあるが、しかし一歩間違えれば死んでいた。そして九十九は――そのたった一度の死が命取りになる。それをちりが見逃せるはずもなく。


「……違うよちり。これが私のやりたいことなんだ。これは元々、誰かの為じゃない、私の為の旅なんだ。たまたま行き先が一緒だったってだけだよ」


 しかし九十九もまた、力強く言い返す。心配するちりをよそに、その赤い瞳はかつてなく活き活きとしていて。だがちりも、ここで引き下がるわけにはいかない。どう説得したものか、彼女が言葉を悩んでいると――


「……おねがい、します」


 ――その時。聞こえてきたその言葉に、ちりは思わず我が耳を疑っていた。


「いっしょに、来てくれませんか……?」


 九十九の羽織る黒い学生服の裾を、親指と人差指で微かに引っ張ってみせて。遠慮がちに、上目遣いで――あの黄昏愛が。唯我独尊の怪物少女が。そんなことを言い出したのである。


「うん。もちろん」


 明らかにいつもと違う様子の愛に、九十九は気付いていないのか、いつもの調子で接している。この場においてはただ一人、ちりだけが敏感だった。黄昏愛の変化――異常事態に。

 まるで信じられないものを目の当たりにしたかのように、ちりは目を丸くしたまま、しばし言葉を失っていた。


「は……? オマエ……どういう風の吹き回しだ……? 何を企んで……いや……頭でも打ったか……?」


 恐る恐るといった風のちりを見て、愛自身もまた自分らしくないことをしていると気が付いたのだろう。その青白い頬が朱を帯び始める。


「…………貴女はついてこなくて大丈夫です。九十九さんだけで充分なので」


「あァ!?」


「いや、ちりも一緒だよ」


 九十九は、左手でちりの右手を、右手で愛の左手を、それぞれ手に取って。


「三人で一緒に、花の咲く場所へ往こう」


 穏やかな、それでいて力強い、どこまでも透き通った声色で、言の葉に願いを乗せる。芥川ジャージー九十九デビル。望まれなかった悪魔の子。そんな彼女だからこそ、その願いは限りなく純粋で、透明だった。その無垢に触れたふたりの少女もまた、否応なしに感化されてしまっていた。


「まぁ……九十九さんがそれでいいなら……私は別に……」


「っ……はぁ……もう……クソッ! しゃーねェなあッ!」


 やがて諦めたように、ふたり、そっぽを向いて。そんなふたりの両脇に挟まって、九十九はふっと笑みを漏らすのであった。


 ◆


 かくして。時刻にして正午を回ったあたり。迎賓館を出た三人は、倒壊して未だ復旧作業中の大聖堂を横切って北へ進み、数時間歩いてようやく其処に辿り着いたのだった。

 黒縄地獄最北部。三途の川の海岸付近。次の地獄、次の階層へと進む為、海上に引かれたレールを進む片道列車。それに乗り込む為の無人駅が、人気の無い霧の中、静かに其処に佇んでいる。

 手入れなどされていない、形だけの黒ずんだ改札機を通り、階段を登った先の駅のホームに足を踏み入れる三人。この駅に時刻表などは無い。待っていればそのうちにやってくる。地獄の列車はそういうものとして存在する。

 川のせせらぎだけが静かに流れる駅の中、愛、九十九、ちりの三人、肩を並べて立っていた。特に話すこともなく、愛と九十九は赤い空をぼうっと眺め、ちりは黒い地面に視線を落とす。自分達以外に誰もいない、一時の静寂。


 そんな中で、ふと。ちりが僅かに顔を上げた。列車はまだ来ていない。


「……あー、悪い。ちょっと野暮用」


 突然そんなことを言ったかと思いきや、ちりは下り階段へ向かって歩き始めた。目で追う愛と九十九だったが、特に声を掛けることも無く、黙ってそれを見送る。階段を降りていくちりの後ろ姿を見えなくなるまで見届けた二人は、また揃って赤い空に視線を移すのだった。


「……戻ってきますかね」


「大丈夫だよ」


 ◆


 階段を降りて改札口の手前、ちりはそこで立ち止まった。改札機を隔てて向こう正面、一ノ瀬ちりは――阿片美咲アガタミサキと対峙していた。

 爬虫類を想起させる鋭い眼が、改札口の向こう側、一ノ瀬ちりを睨み付ける。それを涼し気な顔で受け流すちり。無言のまま対峙する。


「――――行くのか」


 静寂を破る、阿片美咲の第一声。


「ああ。オレ達は先に進む」


 拷问教會イルミナティはこれ以上愛達に手を出さない。開闢王との公約がある限り、美咲がちりを襲うことは無い――とは、言い切れない。ちりに油断は無かった。何でもないように振る舞いながら、美咲の一挙手一投足に至るまで神経を張り巡らせていた。


 しかし、美咲から手を出してくるような気配は無い。改札の向こうから、ちりの側へ這入ってくるようなこともしない。ただ、じっと。佇んでいる。それは、まるで――ちりの方から、こちらへ来るのを待っているかのように。


「……なんだよ、マジで見送りに来ただけか? だったらもう戻るぜ」


 敵意が無いのが解ると、ちりは途端に興味をなくしたように赤いジャケット翻し、踵を返そうとする。


「っ……ちり……!」


 美咲は咄嗟に手を伸ばす。引き留めようとする。そんな資格などないことは重々承知の上、それでも美咲は、手を伸ばさずにはいられなかった。


「――――好きだ」


 たかだか一年、共に戦った時代があっただけだ。それも三十年も前の話だ。今更、なんの関係性も無い。それでも、美咲の裂けた口から突いて出た言葉は、それだった。


「好きなんだ。あんたのことが」


 手を伸ばさずにはいられなかった。狂ってしまうほど焦がれてしまった。その為に手を尽くした。それでも、届かなかった。手に入らない。だったら――


「此処に……残ってくれ……」


 ――だったらもう、彼女には祈るしかなかった。


「悪いな」


 しかし。一度向けた背を、彼女が再び振り向かせることは無かった。


「オレには九十九がいる」


 その一言で全てが終わった。階段を登っていくちりを阿片美咲は、ただ黙って見送る他無い。


「……ああ、神よ……」


 ――私はどうすればよかったのですか。

 その祈りは、踏切に鳴り響く警報音によって無残にも掻き消されてしまうのだった。


 ◆


 ちりが改札口に向かってからしばらくして、なんの前触れもなく踏切の遮断器が点灯し、ノイズ混じりの警報音が鳴り始めた。遠くから霧の中、淡い光で前方照らす列車の影が浮かび上がる。

 ちょうどその時、階段を上がってきた一ノ瀬ちり。その姿を見て、芥川九十九は微かに頬を緩ませるのだった。


「ほらね」


「……私は別に、どっちでもよかったんですけど」


 顔を近付けてそんなことを囁き合う愛と九十九に、ちりは不機嫌そうな顔でにじり寄る。


「……おいオマエら、やっぱなんかあっただろ。何があった。言え。白状しろ」


「貴女には関係ありません」


「あ? 殺すぞ」


「は? やってみろ」


「ほら。列車。来たよ」


 ホームの前に滑り込むようにして、薄汚れた外装の列車が霧の中から現れる。行き先を示す方向幕には――衆合地獄、の四文字。

 ガスの抜けるような音と共に、自動ドアがゆっくりと開かれる。売り言葉に買い言葉、言い合う愛とちりが二人同時に乗り込んで、遅れて九十九が入ってくる。三人を乗せた列車は一度大きく揺れ、そして再びゆっくりと、自動ドアを閉じていった。


「調子に乗るなよ。オレはテメーのことなんざァ、まだこれっぽっちも認めちゃいねェからな」


「認めないから何なんですか? どうでもいいんですけど」


「あ?」


「は?」


「ふたりは仲が良いなあ……」


「「どこが?」」


 それぞれの願い、それぞれの思惑を乗せて、列車は動き始める。次に向かう先は地獄の第三階層、衆合地獄。

 其処もまた、同じ地獄なれば――どこまでも続く線路の上、等しく赤い空が広がっているのだろう。

第二章・黒縄地獄篇、終幕。


第三章・衆合地獄篇に続く。

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