黒縄地獄 34
「降参です」
愛に殴り飛ばされたゆらぎは宙を舞い――しかし、そのまま地面に倒れることはなかった。
開闢王。反り立つ壁のような巨体でもって、宙に浮くゆらぎの小柄な身体を受け止める。そして開口一番、愛に向け放った言葉が、それだった。
「拷问教會はこれ以上あなた方を追撃しません。幻葬王の捕獲も諦めます。ですので、どうか。これ以上は――」
ゆらぎは鼻から血を垂れ流したまま、どうやら気絶しているようだった。黒蛇に食い破られた腹は開きっぱなしのまま、しかし出血はどういう訳だか止まっている。
「……拳を、収めてはいただけませんか」
そんな傷だらけの小さな身体を抱きしめながら、開闢王は懇願するのだった。淡々とした口調のまま、しかしその声色にはどこか感情の色が見え隠れするような悲痛さを伴っているようで。
『――――――――ォォォォオオオオ…………』
愛の頭上で悪魔の咆哮が鳴り響く。見上げると、赤い月に照らされて、身体の端から徐々に霧散していく白鯨の姿がそこにあった。ゆらぎの意識が途絶えたことで存在の維持が出来なくなったのか、声を上げることもなく消滅していく白鯨と共に、悪魔に変身していた芥川九十九もまた、その身を少しずつヒトのカタチへと戻しながら地上へ下降している。
その光景は歪神楽ゆらぎの敗北を意味し、それは事実上、拷问教會側の完全降伏ということになる。
周囲ではゆらぎの異能によって変質を遂げたあらゆる物が音を立てて崩れ落ちていく。先刻まで狂気に満ちた叫び声を上げていた者達も、今や正気を取り戻し苦痛を訴える呻き声に変わっていた。
「なら……答えて下さい」
疲れ切った様子で自身の前髪を掻き上げる黄昏愛。心身ともに既に限界なのか、目の下には大きな隈が出来ていて、全身に汗を滲ませている。今にも崩れ落ちそうな膝を、彼女がそれでもどうにか奮い立たせているのは全て、今この瞬間のため。
ここまで長かった。ようやく念願の、開闢王と一対一のこの状況。余韻に浸る暇もなく、愛は早速本題に入るのだった。
「『あの人』は、どこですか」
こうなったそもそもの元凶。黄昏愛の捜し人。その行方。
「……約束したんです。地獄で一緒に、花を観ましょうって……!」
首から下げた茜色のペンダント――『あの人』との思い出が刻まれたそれを、強く握り締めながら。ついに彼女は言い放つ。
ここに至るまで答えを渋ってきた開闢王だったが、この期に及んでまだ時間稼ぎをすることの無意味さを、物事の引き際を見誤るほど、彼の魔女も盲目ではない。
彼女はペストマスクの中でそっと、瞼を閉じて――
「第八階層、無間地獄。其処に貴女の求める答えが待っている」
――粛々と、語り始めるのだった。
◆
「まず最初に断っておきますが、僕は貴女の捜し人を識りません。僕は全知ではない。貴女自身がそれを忘れているのなら尚更、僕にそれを確かめる術は無い」
「本来であれば貴女のその問いに答えはありません――ですが僕は開闢王、質問には必ず答えなければならない存在。なので僕はどんな質問にも答えを用意することが出来る。それがたとえ僕が識らない事でも。僕がこれから語るのは、あくまでも可能性の話。代替案です。後の判断は貴女に委ねます」
「――地獄の第八階層にして最深部。地獄で唯一の未開領域。無間地獄には白き花の咲き誇る理想郷が在る。僕自身がこの目でその場所を直接見たわけではありませんが、しかし現に第一階層から第七階層に至るまでどこにも花は咲いていません。なのでこの地獄で花が観たいのならばいずれにせよ第八階層まで赴きその目で確かめる必要があるでしょう」
「そして何より、無間地獄にはこんな言い伝えもある――無間地獄の王は、其処に辿り着いた者の願いを叶える」
「繰り返しになりますが僕は第八階層を直接見たわけではありません。僕がこの足で到達する事が出来たのは第七階層までです。僕では第八階層に進むことが出来なかった。ですが『訪れた者の願いを叶える』という噂自体は間違いなく真実です。開闢王が識らない答え、本人すら忘れてしまった願いをも、無間地獄ならきっと叶えてくれるでしょう。以上――これが僕の識り得る限りの全てです。貴女が求める真実の、参考程度にはなりましたでしょうか」
◆
全てを明かしたと言わんばかりに、それ以上開闢王が口を開くことは無かった。開闢王が語り終えると、再び辺りは静寂に包まれる。ペストマスクの怪人を前にして、茫然とした様子で愛はただ立ち尽くしていた。
それは結局、此処にも『あの人』はいない、という残酷な真実でもあった。しかしそれは同時に、地獄の第八階層、無間地獄という明確な目指すべき場所を、愛に与える真実でもある。
愛は脱力したように長く息を吐き終えて、すっかり熱の冷えてしまった鉛のような身体を引き摺るように、その場で頭を垂れるのだった。
「…………ありがとうございました」
一礼。そして、疲れに震える喉で呟く。
「失礼、します……」
愛は踵を返し、開闢王に背を向ける。その背中を開闢王は黙って見送るのだった。
「――……終わったのか」
疲労で覚束ない足取りのまま、ゆっくりとその場から離れようとする愛のもと、肩で息を切らしながら駆け寄ってくる黒い影。白鯨との死闘を終え、無事に地上へ降り立った芥川九十九である。彼女もまた疲れ切った様子で、全身を汗と血で濡らしている。そんな傷だらけの身体に鞭打ってでも、彼女は真っ先に愛へ声を掛けていた。
「はい……貴女にも、ご迷惑を……お掛け、し……」
静かに頷く黄昏愛――その直後。まるで糸が切れた人形のように、愛は突如、その場で前のめりに倒れ込む。
「愛……っ!?」
咄嗟に胸元で愛の体を受け止めた九十九は、すぐにその首筋に親指を押し当てる――脈はある。頬に触れる――息もしている。どうやらただ気絶しただけのようだ。少し安堵したように九十九は息を漏らす。
「すぐ安全な場所、に……」
しかしそんな九十九もまた、愛の身体を抱き締めたままその場に膝から崩れ落ちるのだった。
「あ……そういえば、私も……限、界……」
アドレナリンの分泌が終わり、忘れていた疲労が一気にやってきて、視界が霞んでいく。そして九十九もまた愛と同様に、意識を失おうとして――
「ちょちょちょ……! 何やってんだおまえらっ!?」
それを更に受け止め支えたのは、一ノ瀬ちりだった。戦いに巻き込まれないよう、直前に建築物の影まで九十九に運び込まれていたちりは、今ようやく目を覚ましていた。自身もまた傷だらけの身体だったが、二人して倒れ込みそうな九十九達を見つけ、慌てて駆け寄ってきたのである。
「チッ……重いなコイツら……ッ!」
九十九と愛、二人を両肩に担ぐちり。その赤い眼が、後方の開闢王へと向けられる。
「ッ……オイ! 開闢王ッ! 迎賓館の部屋ッ! 使わせてもらうぜッ!」
「……ええ。それは構いませんが」
「明日には此処を出るッ! それまでオレらに近付くんじゃねえぞッ! いいなッ!」
「約束は守りますよ」
狂犬の如く吠えるちりに、開闢王は静かに頷いてみせる。そうして三人は開闢王に背を向け、ゆっくりとその場を後にするのだった。
「……非常に、残念な結果となりましたが」
腕の中で眠り続ける白い少女を、そっと撫でながら。黒い魔女はひとりごちる。
「……次の機会は、またいずれ」
一万年という永き旅の果てに。名前を忘れ、生前の記憶を忘れ、ヒトとしての感覚を忘れ、ただ探究するだけの怪物へと成り果てた。それでも決して諦めなかった。全ては一人の少女の為。延いては、それが全人類の救済に繋がることを信じて。
「――――彼女達の旅路に、救いが在らんことを」
聖女は祈る。今までも。そして、これからも。




