黒縄地獄 33
それは、遠い昔の記憶。もう忘れてしまった、思い出の残り滓。
極東の小さな島国の、辺境にある山奥の集落で、彼女は産まれた。
当時その集落では、国家の法律が及ばない独立したコミュニティが形成されていた。今では記録にも残っていない、歴史の闇に葬られたその集落を――ここでは仮に『蛇神村』と呼称する。
蛇神村には、そこでしか見られない独特な風習があった。それは、白い毛髪と赤い瞳を宿した子供が村の中で産まれた時、その子供を蛇神様の巫女として崇め奉る、というもの。
かつて蛇神村のとある家に、白髪赤目の子供が産まれた。両親はその髪と瞳の色を気味悪がって、産まれた子供をその手で間引いてしまった。
その年、大きな台風が直撃した。その災害によって作物が全滅し、村は大饑饉に陥った。村人達はこれを蛇神様の祟りと信じ、もし次に白髪赤目の子供が産まれてきたら、それを蛇神様の巫女として大事に扱うことで蛇神様に許しを請い、災いを遠ざけようとするようになったらしい。
現代科学の見地からしてみれば当然、その子供は凶兆でも何でもなく、ただアルビノと呼ばれる特徴を持って産まれただけの普通の人間だし、その子供が産まれた年に災害が来た理由もただの偶然以外に考えられないのだが。
そんな悪習に染まった村の中で、その少女――歪神楽ゆらぎは、白髪赤目の姿で産まれてきてしまったのだ。
産まれてすぐ、歪神楽ゆらぎは蛇神様の巫女として祀られることとなった。間違っても死ぬことのないようにと、村の者達はゆらぎの手足を鎖で縛った状態のまま座敷牢に監禁し、決して外に出すことは無かった。
そこで与えられるものは食事だけ。村が歪神楽ゆらぎに望んでいるのは、ただ生きていることだけ。生存に必要の無いものは与えられなかった。だから歪神楽ゆらぎは言葉を知らない。文字を知らない。食べて、寝て、参拝に来る村の者達の顔をただ眺めるだけの生活。
十二歳になってからは蛇神様に許しを請う儀式と称し、村の人間に代わる代わる犯される日々を過ごすことになった。
言葉を知らず、文字を読めず、ただ飼い殺されるだけの生活に、歪神楽ゆらぎは――満足していた。言葉を知らずとも、文字を読めずとも、村の人達が自分という存在を必要としていることだけは解った。その想いは伝わってきた。解ることはそれだけで、充分だった。
どんなに痛くても、苦しくても、気持ち悪くても、でも、皆が私を必要としてくれているのだと。痛いこと、苦しいこと、気持ち悪いこと、私がそれをすれば、皆が喜んでくれるのだと。そう信じて――彼女はある種の即身仏のような無償の自己犠牲を、自身の運命として受け入れていた。
結果的に、村の皆の笑顔を見られるだけで、それだけで彼女は充分だった。
そんなある日、彼女は子供を孕んだ。父親が誰なのかも解らないまま、彼女は子供を産んだ。初めて見た赤ん坊という存在。言葉を知らずとも、それがかけがえのない尊いものだということは彼女にも理解出来た。ゆらぎが産んだ子供もまたアルビノの遺伝子を受け継いでいたため、共に座敷牢の中で飼われることとなった。
不思議だった。自らの血を分けたその赤ん坊は、村の"みんな"とはどこか違う生き物のように映った。自分よりも弱い存在。自分が守らねば生きていけない存在。ほんとうの意味で、自分のことを必要としてくれる存在。
この時、歪神楽ゆらぎは産まれて初めて――自分の欲というものを、手に入れていた。この子を守りたい。この子の母親になりたいという自我を、獲得していた。
――だが子供が産まれたその年、村が日照りによって再び大飢饉に襲われた。
「蛇神様の巫女は今も大切に祀っている。それなのにどうして災いが降りかかるのか?」
悪習に盲信していた村民達は、狂ったように騒ぎ始めていた。事実、狂っていたのだろう。村人達は話し合った結果――
「巫女が子供を産んだからこうなった。巫女が産んだ子供が災いの元凶なのだ」
そんな風に話が飛躍して――惨劇は起こった。
地獄のような赤い月の夜。鍬や鋸を手に持った村人達が数名、座敷牢に乗り込んできた。村人達は子を抱いて眠るゆらぎから、有無も言わさず子供を引ったくる。
村人達が何をしようとしているのか直感した少女は叫んだ。言葉は知らない、だから言葉にならない叫びで訴え続けた。なぜ。どうして。しかしいくら叫んでも、誰も聞く耳を持ってはくれなかった。
悲痛に叫ぶゆらぎの目の前で、子供は殺された。村人達は災いの元凶に憎しみを込めて、鍬で鋸でその身をぐちゃぐちゃに切り刻んでいった。
これまで『みんな』の為だと自分に言い聞かせ、痛いことも苦しいことも気持ち悪いことも何もかも我慢してきた彼女に対するこの仕打ちは、これまで見ないようにしてきた現実を彼女に突きつけるものとなった。蛇神様の巫女だのなんだのとあれだけ崇めておいて、都合が悪くなった途端、大切なものを簡単に奪っていく。
こんな奴らを、守る価値なんて無い――そう思った直後。ふと気付けば、手枷の鎖で。近くにいた村人を、この手で絞め殺していた。そのまま奪った鍬で足枷を千切り、自由となったその身は、逃げる村人を追いかけて。背後から脳天目掛け、鍬を振り下ろす。
彼女の願いは反転して――憎しみとなり、絶望となり、狂気となったのだ。
その日の晩のうち、蛇神村は滅亡した。後に村民全員の虐殺死体が見つかったが、蛇神村の存在も、そして歪神楽ゆらぎという存在もまた明らかにされることはなく、歴史の闇に葬られた。
――だが、歪神楽ゆらぎの地獄はこれで終わらない。
死んだ後、彼女は地獄にて転生した。『くねくね』と呼ばれる怪異を依り代として、等活地獄に堕とされた。ゆらぎは地獄を彷徨い続けた。死んだ我が子と会うために。せめてこの地獄では、母親として、我が子を守りたかった。
彷徨って、彷徨い続けて、そうしてようやく彼女は見つけた。粗大ごみが天高く聳える廃棄場、そのがらくたの中で埋もれていた白髪赤目の子供。
ああ、間違いない。私の子だ。愛しい我が子――ゆらぎは急いで子供の元へ駆け寄った。その足音に気付いた子供は、自分のもとへ駆け寄ってくる母親の姿を確認して――
「逞帙>逞帙>逞帙>蜉ゥ縺代※蜉ゥ縺代※蜉ゥ縺代※雖後□雖後□雖後□縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺溘☆縺代※」
――発狂した。子供は痛みと苦しみで泣き喚きながら、ヒトのカタチを失っていった。まるで鍬や鋸で切り刻まれたような、ぐちゃぐちゃの無形物へと変貌していった。ふと、ゆらぎは辺りを見渡して――そこでようやく、気が付いた。
――くねくねの異能は、ゆらぎを知覚したもの全てを狂わせ、変質させる。自分の周りの全てがあの子と同様に、発狂し、変質していた。助けてくれ、痛い、苦しいと叫びながら、ゆらぎを除く全てが、ヒトのカタチを失っていた。
きっと幻聴だったのだろう。けれども確かに、ゆらぎにははっきりとそれが聞こえた。自分を指差し叫ぶ、我が子の声が。
「お前なんかのもとに産まれてこなければよかった」
ああ、そうか。誰かに必要とされるどころか、誰かを不幸にすることしか出来ない。
私に生きている意味なんてなかったんだ。
「あ、は」
「あは、あはっ」
「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハh縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺斐a繧薙↑縺輔>縺溘☆縺代※」
こうして、彼女は。ただ、死にたいと。そう願うだけの怪物へと成り果てた。
その願いすらも塗り潰してしまうほどの狂気に表層を支配された、今も尚。
彼女は、嗤いながら泣いている。
◆
――だから。僕は彼女に手を伸ばしたんだ。
◆
「……はァ、それデ? そんな話をアタシに聞かせてどうするつもりダ?」
今から、一万年前。歪神楽ゆらぎが地獄に落ちてきて、まだ日も浅かった頃。
その時代の黒縄地獄に大聖堂などと呼ばれる建築物は無く、枯れ木の森を抜けた頂上の先には、ただ死体の山だけが築かれていた。
そしてその屍の山の頂に、白銀の長髪靡かせる一人の女が我が物顔で踏ん反り返っていた。彼女こそが当時の黒縄地獄を統べる女王。漆黒のドレスに身を包むその女は、酷薄な紅い瞳をギラつかせる。
そのギラついた紅い眼差しで見下ろす先に――黒いフードコートから金髪を覗かせる長身の女が跪いていた。フードを深く被っているためその顔を窺い知ることは出来ない。
「その手のお涙頂戴は聞き飽きたゼ。ココじゃ不幸な身の上の輩なんざ掃いて捨てるほど居るからナ。そうだロ? その小娘だけが特別ってワケでもないはずダ」
そう冷たく吐き捨て、黒いマニキュアに彩られたその鋭い爪で女王が指した先には、フードの女が背負っている少女――歪神楽ゆらぎの姿があった。フードの女の背中にしがみついて、すやすや寝息を立てている。その目元には泣き腫らした痕が痛々しく残っていた。
「もう一度だけ問ウ。ソレのクダラナイ身の上話をアタシに聞かせてキサマはどうしたイ。このアタシがわざわざ貴重な時間を割いてやってんダ、ツマラナイ答えだったら解ってんだろうナ?」
牙を剥き出して、女王は嗤う。しかしその眼は決して笑ってなどいない。眼圧だけで全てを屈服させてしまわんばかりの重圧が、フードの女の肩にのしかかる。
「……僕は」
少しの静寂の後、フードの女はゆっくりと口を開いた。
「僕は、彼女の願いを叶えたい」
それは、嘘偽りの無い言葉。
「僕は彼女を地獄から解放したい。しかしそれには死という方法を以てでしか叶えられない」
金色の前髪の隙間から女王を見上げる。瞳の中に刻まれた螺旋模様が、女王の視線を釘付けにして、離さない。
「その為に、僕は――怪異を完全に殺す方法が識りたい」
怪異は不死身である。咀嚼され消化され排泄されようと蘇る。絶対に永遠に死ぬことの出来ない存在だ。その怪異を――完全に殺す。それが途方も無い難題だということを、フードの女は承知の上で、それが願いだと言い放った。
「開闢王。全てを識る者よ。どうかご教授願いたい。怪異を完全に殺す方法、その可能性を、識っているのであれば、どうか」
開闢王と呼ばれた銀髪の女王、彼女は暫く口を噤んでいたが――
「――――クッ、ハハッ……!」
その静寂を自ら打ち破るように、悪辣に嗤ってみせた。
「残念だったナ。そんなものは無イ」
そしてただ一言、女王は冷酷に言い放つ。
「断言してやル。怪異を完全に殺す方法なんてものはどこにも存在しなイ。たちの悪い妄想ダ。諦めロ」
女王の見せた笑みは、やはりどこまでも冷たく酷薄で――しかしこの時は、どこか張り付いたような不自然さもまた伴っていた。
「……そうですか。解りました」
フードの女の視線は、静かに地に落ちて――
「ありがとうございます、参考になりました。では――僕はこれから、生涯をかけてそれを探すことにします」
――そして再び、天を見上げる。
「……はァ?」
思わず女王の表情が困惑に崩れる。
「オイ、気は確かカ? 言っただロ、そんな方法はどこにモ――」
「ええ。ですから、現時点においてはまだその方法は見つかっていない、ということですよね」
「だから諦めろっテ――」
「何故それが諦める理由になるのでしょうか」
淡々と紡がれるフードの女の言葉は、そのひとつひとつが十字架のように女王の胸の奥に突き刺さっていく。
「今は見つかっていなくとも――これから先、見つかるかもしれないでしょう」
女王は思い出していた。かつて自分も同じことを口にした、若かりしあの日のことを。
「地獄にはその異能が、毎日のように落ちてくるのですから」
異能。変化しない地獄という環境において唯一外部から持ち込まれる、可能性の塊。確かにいずれ、怪異を完全に殺す可能性を秘めた異能が落ちてくるかもしれない。だがそれはあくまで可能性の話。現に女王はこれまでその可能性と出会うことなく、今日という日を迎えている。
「それがどういう意味か解って言ってんのカ」
「ええ。覚悟は決まっています」
フードの女が僅かに顔を上げ、その頬が露わになる。酷い火傷の痕が残るその顔は、彼女が生き抜いた証。高潔と無念の象徴。
「僕は必ず怪異を殺します。それがこの娘を……延いては――全人類の救済になることを信じて」
「……ハッ。それも神の思し召しってヤツかヨ? ご立派だナァ、聖女サマ」
つい言葉を失いかけた自分を取り繕うように、女王は鼻で嗤ってみせる。それを受け、フードの女もまた微笑を浮かべているのだった。
「……白状してしまうと、僕はこの娘に情が移っています」
そっと、眠るゆらぎに顔を傾ける。背中に感じる微かな重みを忘れてしまわないように。
「僕にとってこの娘は、やはり特別なのです。全人類の救済という、主神より賜った使命ですら――建前になってしまいそうな程に」
それまで淡白だった声に、確かな感情の色が垣間見え始める。
「僕と彼女は似ている。そんな彼女を僕は、僕個人の意思で、救いたいと願っている。僕と似ている彼女を、僕の手で救う事が出来たのならば、その時は――生前の僕の行いが、少しでも肯定されるような、そんな気がして――」
と、そこで言葉を区切り、一呼吸置いて。
「……結局、僕は僕の為に彼女を利用しているに過ぎないのかもしれませんね」
そうして自嘲気味に、フードの女は溜息を吐くのだった。漆黒の女王は、そのどこまでも冷たい紅眼を、自らの足元へ静かに向ける。
「(――――嗚呼、そうサ。アタシだっテ、そんな救いを求めていタ)」
その為に神秘を喰らい、貪り尽くし、そしてどこにも、希望なんて無かった。
女王は悟る。今日この時を以て、自身の役割が終わったことを。閉じた瞼をゆっくり起こして――せめて最後まで女王らしく、乾いた嘲笑を浮かべるのだ。
「ククッ……そうだナ。そんな傲慢極まりないキサマのようなヤツにこそ、この称号は相応しいってワケダ」
黒い爪を、指差して。高らかに、宣言する。
「今日から開闢王はキサマが名乗レ。領土も配下もくれてやル、好きに使うとイイ」
それはフードの女にとっても予想打にしないものだった。
「……え」
目を丸くしているフードの女を尻目に、ひょいっと屍の山の上から地上に降りる女王。
「アタシはモウ、疲れタ」
その一言は、黒縄の冷たい風の音に掻き消されていった。くつくつと、自嘲気味に漏らした乾いた笑みと共に。
「アタシは『酩帝街』に往ク。もう会うこともねェ。じゃあナ」
そうしてひらひらと手を振りながら、フードの女に背を向け歩き始めたのだった。
「待ってください」
「……なんだヨ、まだ何かあるのカ?」
「僕と家族になってくれませんか」
「……………………」
立ち止まり、無言で顔を振り向かせた女王は、それはもう凄い形相で。軽蔑をたっぷり込めた眼差しでフードの女を睨み付けていた。
「怪異を殺す方法、即ち彼女を救う方法が見つかるまで……せめてこの娘には、寂しい思いをさせたくないのです。彼女は家族を欲しがっていた。その願いを僕は叶えたい」
「…………それデ?」
「これも何かの縁です。あなたにも協力していただきたい。差し当たっては、僕の姉……ゆらぎの伯母ということでひとつ、いかがでしょう?」
「いかがでしょウ、じゃねェよバァカ。ンなフザけたことにアタシを巻き込むナ」
「良いではありませんか、御姉様」
「誰が姉貴だ殺すゾ」
「ではなんとお呼びすれば良いでしょうか。開闢王は今や僕を指す名称です。貴女の名前を教えてください」
フードの女の不躾な問いに、女王は大きく舌打ちしてみせる。
「ンなモン、とっくの昔に忘れちまったヨ」
「なるほど」
ほんの一瞬、逡巡するような素振りを見せた後。
「では、フィデス」
「……アァ?」
「フィデス。その高貴な音の響きは、美しい御身にこそ相応しい」
「…………」
もう興味など失せたとでも言うように、女王――フィデスは漆黒のドレス翻し、再び歩き始めた。
「フィデス。シスター・フィデス。僕にはまだ貴女の力が必要です。その知恵を、どうかこの開闢王にお貸しいただけませんか」
遠ざかっていくその背に、フードの女は諦めず声を掛け続ける。なんて傲慢極まりない女だ――フィデスは諦めたように小さく舌打ちをするのだった。
「……用がある時はそっちから出向きに来イ」
「ええ。近い内に、必ず」
無垢であり傲慢。ここに、神秘貪る開闢王が新生した。
かくして。一万年という気が遠くなる程の歳月が経過する。
現在も尚、怪異を完全に殺す方法は見つかっていない。




