黒縄地獄 29
愛達よりも一足先に上空十五メートルまで飛んだ後、そのまま地上目掛け落下する黒い影――芥川九十九と一ノ瀬ちり。彼女達は弾けるように地上へその身を激突させ、地面に放り投げ出された。
落下の勢いのまま坂を転がっていく九十九は、のたうつようにその身を回転させながら、それでも腕の中のちりを離さないように抱き締めて、落下の衝撃から身を挺して庇っていた。
山頂に大聖堂の聳え立つなだらかな坂に沿うようにして、黒縄地獄暗黒街の建築物はドミノのように並び立っている。九十九はさながらボウリングの球のように、坂を転がっていった先にある建築物の群れに突っ込んでいく。それらを三棟ほど薙ぎ倒しながら、地面を転がる九十九の体はようやくその勢いを止めたのだった。砂埃の中、変身していた悪魔の翅と四肢は解除され、九十九の体は元のヒトの形へと戻っていく。
これほどの衝撃で地上に落下してなお殆ど傷の無い九十九は、そんな自分のことよりもまず真っ先に一ノ瀬ちりの無事を確認した。ちりの体は九十九に守られていたとはいえ、やはり無傷というわけにもいかず、所々出血しているようだったが……命に別状は無いようである。
「…………っ、ふ……ぅ……」
九十九は安堵するように一息ついて、未だ薬物の影響残る重い頭を持ち上げるようにして上半身を起こす。砂埃が晴れ、周囲には九十九達が落下してきた衝撃に何事かと、暗黒街の住人たちがぞろぞろと集まってきていた。
「……っ……あー……いってェ……」
そして一ノ瀬ちりもまた、よろよろと起き上がってくる。頭痛に苛まれているような顰めっ面を浮かべてはいるものの、歪神楽ゆらぎを直視した時より随分と顔色も良くなっていた。
「クソ……なにが起きて……うまく、思い出せねェ……」
しかし。ちりの瞳は依然、虚ろなまま。その視線は彷徨うように揺れ、定まらない。
「九十九、オレは……見たんだ……見たんだよ……確かに見た…………何を見たんだっけ……ええと……」
脳髄の奥で訴えるような痛みを覚えながら、ちりはその視線を、上へ上へと持ち上げていく。何かに引き寄せられるように、誘われるように、ちりは空を見上げる。それに釣られるように九十九も空を見上げて――気付いた。
黒い空には大きな月が浮かび上がり、地上を赤く照らしている。その月の表面を、ようく目を凝らして視てみると――シミのような黒い点が、小さな汚れのように浮かんでいるのが、九十九にも解ったのだ。
――解ったから、すぐに九十九はちりの頭に抱きつく形で、その両目を腕で覆い隠した。
「あれは……?」
「なんだ……黒点……? いや……」
「……魚、か……?」
地上からそれを見上げる住民たちは、誰からともなく声を上げ、揃ってそれを指差していた。ハリボテの建築物から顔を出し、痩せ細った住人たちが、皆這い出るように外へ出て、一斉に空を見上げていた。
月に浮かぶ黒い紙魚、空を駆けるその魚影は、しかし魚にしては奇妙なシルエットである。
よく見ると――空に浮かぶそれは、くじらだった。誰もが何かがおかしいと感じ取っていたが、誰もがそれから目を離せないでいた。空を飛ぶくじらなんておかしい。普通じゃない。
見ないほうがいい。わカらナいホうガいイ。なのに解ってしまう。解ろうとしてしまう。そうして黒縄地獄の誰もが、頭上のくじらの姿を目で追っていた。
「九十九……なにをするんだよ……」
自分の視界を覆い隠す九十九の両手を引き剥がそうと、ちりは突然に藻掻き始める。
「もう少しで、解りそうなんだ……だから、見ないと……見なきゃ、オレも……」
「っ……くそ……!」
うわ言のように繰り返すちりに、九十九は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。その頬には一筋の汗。それを見てはいけないと、芥川九十九はやはり本能的に察知していた。
それは九十九にとって初めての、死に対する明確な恐怖。あの黄昏愛との戦闘においてさえ、九十九は瀕死に追い込まれこそすれ恐怖を抱くことはなかった。そんな彼女の本能が、その内に眠る悪魔の声が、警告を鳴らしていた。
芥川九十九。お前ではあの怪異には敵わない、と。
◆
「あっ、おつきさまだ~。ひさしぶりにみたなあ」
触手に掴まれて、愛と共に遙か上空まで引っ張られた歪神楽ゆらぎ。雲に触れそうなほどの高度で、彼女は呑気にそんなことを宣いながら、けたけた笑っている。
白鯨の突進を受け損壊した愛の身体は、高速再生によって忽ちに元の形へと修復されていた。五指から伸びる触手は依然ゆらぎを掴んだまま、そうして彼女達は白鯨の背中に着地する。
「死ねッ……!!」
愛はゆらぎの体をそのまま握り潰さんばかり、触手の拘束を一気に強める。
「ていうか、いつまで触ってんだよ。気持ち悪いなあ」
それをゆらぎが一瞥すると同時、二人を乗せた白鯨の背中から、まるで針鼠のように触針が隆起した。触針は愛の触手を貫き、千切り、ゆらぎの体から引き剥がす。
白鯨の背の上に立ち、対峙する両者。その睨み合いは、数秒と続かず――
「……クソが……ッ!」
間髪入れず、まず愛が動いた。その右腕を変化させながら駆け出す。多様な動物の筋繊維を混ぜ、触手で増幅増大させた、怪物が如き魔腕。自分の右肩から先を全長十メートルを超えるその怪腕へ瞬時に創り変えた愛は、それを目の前の白い少女を向けて振るう。
しかしそれも、届かない。白鯨の背が蠢動し、ゆらぎの前に白い壁が隆起した。白鯨の肉壁は愛の魔腕を事も無げに防いでみせる。突撃を防がれた魔腕は、あろうことか肉壁に触れた先から肉が潰れ、崩壊していった。その現象はつまり、魔腕の硬度が白鯨の肉壁に劣っていたことを意味する。
「ちィ……ッ!」
絞り出すように舌打ちをして、愛は直後にその場から上空へと飛び退く。直後、愛が先程まで立っていた足場に触針が隆起する。危うく串刺しになる一歩手前、愛はどうにかそれを避けていた。
「(怪物を使役する異能……? いや、そんな単純なものじゃない。周囲の状況から見て……どんな物でも強制的に、自分好みの怪物に改造出来てしまう、とか……そういう類のチートでしょうか。ああ……厄介ですね……!)」
黄昏愛には歪神楽ゆらぎの異能が効かない。だからこそ愛の推理は正確ではなかったが、強ち間違いというわけでもなかった。
ゆらぎの狂気に侵されたものは、強制的に改造される。ゆらぎのおもちゃにされてしまう。そして『白鯨』を始めとする、狂気に侵された怪物達は、ゆらぎの意思に反応してその身体構造を自由に改造出来るようだった。
ならば、と。愛の全身もまた、脈動する。あらゆる動物の特徴をその身一つで再現する為に、ヒトの形を捨てる。鳥の翼で駆け上がっていく愛の両手が蛸のような触手へと変化した。触手は八本に分裂し、白鯨の身動きを封じようと絡みつく。白鯨は殆ど抵抗もなく愛の触手に拘束される。
「あ゛ァァ……ッ!!」
白鯨を縛った状態で、触手をゴムのように引き絞り――愛は白鯨目掛けて勢いよく突進した。その足をバッタとキリンを合成させた怪脚へと変化させ――飛び蹴り。白鯨の肉体を、その背を貫き穿たんと放たれる。
飛び蹴りを放った愛の脚は白鯨の肉へ埋まるように突き刺さった。ゆらぎの立つ白鯨の背中がその攻撃によって地震のように大きく揺れる。
『――――――――――――――――』
巨大な白鯨の汽笛のような遠吠えが、世界中に響き渡る。それは愛の攻撃を受け苦しむ呻き声――
「もぉ、しろちゃん。遊んでないで早くやっつけてよねぇ」
――なんて、当然そんなわけが無かった。
遠吠えを上げた瞬間、白鯨はその全身から、毛穴という毛穴から、愛と同じ触手を何百、何千、いやそれ以上の数、生やしたのである。その無数の触手群がまるで意趣返しのように、愛に絡みつかんと襲い掛かってきた。
「ぐっ……!?」
愛は全身をウロコフネタマガイの鉄鎧によって覆い防御を固めつつ、両手の八本の触手で応戦する――が、無論たった八本で捌き切れる程の数ではない。白鯨の触手によっていとも容易く愛の触手は引き千切られ、鞭のように振るわれる無数の打撃によって鉄鎧の装甲が削られていった。
堪らずその場から再び上空へと飛び退く愛。鳥の翼で上昇しつつ距離を確認しようと愛が視線を下げる。
「うざったい……ッ!」
その視線の先、愛の攻撃を受け傷付いていたはずの白鯨の背中は、すっかり無傷。普通の怪異では再現不可能な高速再生。そして自身の肉体を自由に改造することで繰り出される多彩な攻撃手段。まるでそれは、黄昏愛の異能『ぬえ』のそれと全く同じ規格外さだった。
「はぁ、しろちゃんてば……獲物を甚振って遊ぶなんて、誰に似ちゃったんだろうなぁ」
白鯨から距離を取ろうと飛翔する愛に対して、ゆらぎ本人は何もしない。ただ退屈そうに眺めて、愚痴っぽく呟くだけだった。
『――――――――――――――――――――――――――――――――』
白鯨が雄叫びを上げると、世界中が震えた。音の爆弾とでも言うべきその衝撃波に、黄昏愛の肉体は音が伝わった端から崩壊していく。
「くぅ……!?」
衝撃はから逃れるべく白鯨から一気に距離を取る。崩壊した肉体の再生が追いつかず、麻痺させているはずの神経が痛みを訴えかけてくる。それでも、白鯨の正面を陣取ることは諦めなかった。
「(今の、攻撃は……!?)」
黄昏愛は先程の白鯨の咆哮による攻撃に覚えがあった。それはかつて、芥川九十九が怪物の姿に変身した時に見せたそれと同じ――規格外の膂力を以てして放たれる、常軌を逸した攻撃方法。
九十九と同じことが出来るということは、九十九と同等の膂力をあの怪物は有しているということに他ならない。ゆらぎが『しろちゃん』などと呼んでいるあの白鯨の怪物は、言うなれば『ぬえ』の如き攻撃の多彩さに加え、『悪魔』の如き肉体強度を誇っている。愛は一人で、自分と九十九、二人の異能を持つ怪異を相手にしているようなものだった。
もはや何の動物の能力を使えば弱点を突けるか、という次元の話ではない。もはや生命としての存在規模が違う。愛の知り得る限り、いかなる毒を喰らわせようが、いかなる膂力を以て攻撃しようが、あの怪物を完全に殺し切る事は不可能であると――愛はこの時、察してしまったのである。
「クソッ……クソッ……!」
口の中から血の混じった唾を吐き出し、忌々しそうに唸る愛。あの白鯨をどうにかしなければ、ゆらぎに触れることすらままならない。それを解っていながら、白鯨に手も足も出ない自分自身が腹立たしい。
邪魔をする者は全て排除する。その狂気的な妄執が、愛に撤退を許さない。『ぬえ』という怪異の異能に必要なのはイメージだ。百万種類を超える動物に変身出来るのだから、その中に必ず勝てる手段があるはずなのだ――と。白鯨と睨み合う最中、愛の思考は尚も回転し続けていた。
「……ん~?」
赤い月が照らす夜、空を飛ぶ鯨の背に乗って、相対する二人の少女。そんな冗談みたいな光景を、地上の住人達が揃って見上げている。その視線を感じ取ったゆらぎは、少女に似つかわしくない猟奇的は微笑を浮かべ始めていた。
「お! ちょうどいいや」
『――――――――――――――――――――――――――――――――』
ゆらぎの意思に呼応して、白鯨が再び地響きのような咆哮を上げる。鼓膜を直接揺るがすような鳴動と共に、白鯨が僅かに身震いして。
「みんなにも手伝ってもらおう」
そして、それは始まった。
◆
上空で何が起きているのか、九十九には解らない。ただ、白鯨の咆哮が地上にまで届いた時点で、解らずとも感じ取っていた。
「……ッ!? なんだ……まずい……何か……ッ!」
頭で考えるより先に体が動いていた。一ノ瀬ちりの華奢な身体を両腕で前に抱え、九十九はその場から駆け出す。
その直後に、それは始まったのだ。ぽつりぽつり、自分達の頭に何かが落ちてきたのに気付いた住人達は、天に手を掲げてみせる。
「雨……?」
しかしそれを雨の雫と呼ぶには、粘性があり、何よりその色はコバルトブルーをしていた。その液体に触れた者達は次の瞬間――
「あああああああああああいる! いる! いる! いるううううううううううううううううううう」
「くじらがいる! わたしのなかにくじらがいる! とんでいる! わたしのめのなかでくじらがあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
「ひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれがひれが」
――その雨は白鯨の噴気孔から溢れた潮だった。そしてそれを浴びてしまった地上の者達に、その症状は現れていた。
肉体構造が変貌を遂げる。ヒトのカタチを失い、その外見は魚のような形状を成していく。ヒトの腕が四つ。足は無い。目は魚のように大きくつぶらで、肌は青く、ヒレは二枚ある。それを人魚と呼ぶにはあまりにも異質で――
そんな彼らは魚群のように集まって、そして空を飛んだのだ。
「な……ッ!?」
地上から空飛ぶ魚人の群れ。何百というそれは黄昏愛へ目掛け、まるでミサイルのように突っ込んでいった。咄嗟に全身を鉄の鎧で纏い突進を防御する愛だったが、魚人達はそのまま鎧に喰らいついて離れない。
『――――――――――――――――――――――――――――――――』
白鯨が咆哮する。まるで必死に抗う獲物を嘲笑うように。その哄笑に続くように、魚人達もまた、まるで酸素を求めるように口をぱくぱく動かして輪唱している。
「このッ……!」
魚群に呑まれ、愛は完全に身動きを封じられていた。魚人は鉄鎧を破壊するのが目的ではなく、愛の動きを封じること自体が目的なのだと、愛が気付いた時にはもう遅く――
「はぁい、よいしょおっ!」
魚群に呑まれた愛を諸共に、蹴り飛ばしたのは歪神楽ゆらぎ本人だった。ゆらぎは空飛ぶ魚人の一匹に掴まり、そのまま愛に近付いていたのである。
「がッ……あ……!?」
そのまま愛は為す術なく地上へと落下していく。鎧を脱ぎ捨てようにも魚人に掴まれ身動き取れず、その鉄の重みからただただ落ちていくことしか許されない。
「ばいばーい」
落ちていく愛を見下ろしながら、んべ、と舌を出してみせるゆらぎの様子は、まるで子供そのもので。しかしその本質はやはり、老獪なる怪異のそれであった。
「ッ……調子に……乗るなぁぁぁああああ゛!!」
愛は咄嗟に、鎧の内側でその右腕を熊の怪腕へと変化させる。その巨大な掌が、鎧を自ら打ち抜いて、外の魚人の群れを掴みに掛かる。そしてその怪腕でもって魚人の一匹を掌で掴み、握り潰す――
『繝舌ぃ繧ォ』
しかし次の瞬間、愛が握り潰すよりも早く、掴んだ魚人の身体は破裂していた。
「っ……!?」
直後に愛の掌に感じたのは、熱。それは泡の弾けるようなノイズを口から発しながら、自爆したのだ。そして一匹の自爆を皮切りに、群れは連鎖的に次々と自爆していった。爆発の衝撃が愛の鉄鱗を諸共に吹き飛ばして、愛の生身の姿が露わとなって尚、爆発の連鎖は止まらない。
「ッ、う、あ――――」
爆発に巻き込まれた愛はそのまま身動きが取れないまま――頭から地上へと激突した。




