黒縄地獄 27
時を少し遡る。
黄昏愛の侵攻を精鋭部隊が食い止めている時。一ノ瀬ちりが芥川九十九を捜して迷宮を右往左往している時。そんな幕間に、誰よりも早く、一足先にあの大広間に辿り着いていた者がいた。地べたを這いつくばりながら、傷だらけの身体を引き摺り進むその女の名は、シスター・アグネス。
「ゆるさない…………ぜぇぇえええったいにィィ…………ゆるさないんだからああぁ……」
子供にやられた。ちがう、あれは子供じゃない。子供だと思っていたのに、騙された。子供じゃない、ならあれはなんだ? あれは、おとなだ。おとなは嫌いだ。おとなはきもちわるい。おとなは私のことを騙す。私はおとなに騙された。許さない。許されない。仕返ししなければ、気が済まない――
憎悪に燃えるアグネスが向かった先は、有刺鉄線で封鎖された路の先。そこは黒縄地獄大聖堂地下で最も暗い深淵。誰も近寄ろうとしない、監獄の中の監獄。
そこは開闢王以外立ち入ることを禁じられた、禁域と呼ばれる区画である。その檻の中に封じられている怪異には、誰も近付いてはならない。それはこの拷问教會において開闢王が幹部に架した制約の一つでもあった。
そこにシスター・アグネスは足を踏み入れる。松明にすら照らされていない暗闇の路を、奥へ奥へと這っていく。奥へ進んでいくごとに、アグネスの肉体に変化が顕れ始める。少しずつ、けれど確実に、細胞一片一片が悲鳴を上げるように、歪み、狂っていく。
指が増えていく。指が減っていく。足が減っていく。腕が増えていく。頭が二つに割れて、目はひとつに集まっていって。そんな奇妙な感覚が全身を襲う。
それでもアグネスは先へ進んでいった。歯が抜け、舌が落ち、目玉が取れても構わず、アグネスは先に進むことが出来ていた。それは禁域の怪異が子供の少女であることも関係していた。アグネスの異能『八尺様』が、本来であれば近付くことすら困難である禁域に対して、ある程度の耐性獲得の手伝いをしていた。
ゆっくり、ゆっくり。進むにつれ重く、遅くなる身体を、引き摺って。相応の時間を費やして、そうしてとうとう、辿り着く。辿り着いてしまう。地下迷宮の真の最奥。座敷牢の檻、その柱一本一本に至るまで黒ずんだ御札がびっしりと貼られているその区画。光の届かないその檻の中で、虹色に淡く光る、一匹の怪異が、俯き、座っている。
アグネスは縋るように檻の柱に纏わりつき、既に感覚を失った指先で、南京錠をほどくように壊していく。それがアグネスの最期だった。
「さあ…………『ゆらぎ』…………『ゆらぎ』…………出ておいで…………」
錆びついた鉄格子がゆっくり開け放たれて、断末魔のような金切り音が響き渡る。
「――おそとに出てもいいの?」
鈴の音のような声が檻の中でこだまして、その声の主は顔を上げた。幼い少女の顔をしたその怪異を、その姿を直視した次の瞬間、シスター・アグネスは死んでいた。死んで、そして生き返った。
視界が歪む。希薄だった感覚が今度は止めどなく溢れ返り、脳から否応なしに全身へ司令が降される。
生理現象が暴走し、穴という穴から液体が溢れ出す。その間、少女から片時も目を離せなくなったアグネスは、全身が痙攣し始め、背骨は折れんばかりに反りかえる。
逃げ場を求めるように、背骨が、脊髄が、背中を突き破って踊りだす。体毛は抜けた傍から生え揃い、意識が再起動を繰り返す。すべてを失い、またすべてを与えられるような、強烈な感覚が、止まらない。
「……だれ? おばさん」
そうして、開け放たれた檻の中から抜け出した、白い少女。『ゆらぎ』と呼ばれたその禁域の怪異は、足元で踊り狂うアグネスを一瞥して、けれどすぐに興味を失い、廊下を歩き始めるのだった。
「……おかあさーん? どこー……?」
見た目よりも更に幼くおぼつかない反応を示すその少女は、壁伝いにゆっくりと前に進んでいった。裸足だから、足の裏で何かを踏んで怪我しないように、慎重に。ゆっくりと。ひたひた、ひたひた、歩いていく。
闇の中で虹色の光沢が異彩放つ、白い少女。こうして禁域の怪異は放たれた。
◆
そして、現在。
「あ、おかあさんだー!」
禁域から這い出た白い少女は、ぱあっと花開いたような満面の笑みを見せると、裸足でとてとて大広間中央に向かって走り出す。迷いの無い走りで一直線にやってきた少女は、そのままの勢いで開闢王の胸に飛び込むのだった。
「……ゆらぎ。……何故、此処に」
突然やってきた白い少女。それを『ゆらぎ』と呼んだ開闢王は、その声に柄にもなく戸惑いの色を見せていた。けれど自分の胸元に飛び込んできたその少女をしっかりと抱き留めて、左腕でその小さな体を支え抱き締めることに、躊躇いは無いように見えた。
「おばさんが出してくれた!」
「おばさん……?」
少女は七色に輝くダイヤモンドのような虹の瞳を煌めかせて、開闢王を見上げている。まるで母を慕うような、純粋無垢なその表情。その天使のような幼い子供の笑顔を見た、その場に居る全ての者が。
「あああああああああああああああああああ逞帙>逞帙>逞帙>逞帙>逞帙>蜉ゥ縺代※蜉ゥ縺代※蜉ゥ縺代※蜉ゥ縺代※蜉ゥ縺代※蜉ゥ縺代※蜉ゥ縺代※蜉ゥ縺代※」
一斉に息絶えた。少女の姿を見た者全てが、突如としてそうなったのである。
息絶えて、しかしその数秒後には再び息を吹き返して、そして次の瞬間には息絶える。瞬きの刹那に生と死を繰り返す。脳から情報が溢れて、体液として全身の穴から放出される。そんな無限地獄が突如として、この場にいる全員に襲いかかった。
「谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※谿コ縺励※」
床をのたうち回る。脊髄が皮膚を突き破り飛び出して、ひとりでに踊り始める。少女の姿を視界に入れた者は皆、無差別に、その現象が発生しているようだった。
◆
「ちり……ッ!」
だから。誰よりも早く異変に気が付き、それを視界に入れないよう咄嗟に目を瞑った芥川九十九だけが、それを回避することが出来ていた。卒倒する一ノ瀬ちりを今度は九十九が肩を抱き、背中から悪魔の異能、悪魔の翅を顕現させる。それは自分とちりを守るように包み込んで、視界を闇で覆い隠した。
「は……っ……ぁ…………つく、も…………蜉ゥ縺……っ」
「ッ……ォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
口から止めどなく胃液を吐き出す一ノ瀬ちり。その冷え切った体を抱き締めて、悪魔は咆哮する。全身が黒い煙に包まれて、現れた悪魔の本性。怪物が如き姿へと変身を遂げた九十九は、その怪脚で床を砕きながら、天井向かって跳躍した。
悪魔の怪力が天井を穿つ。何十メートルという岩盤を一気に貫く。そうして九十九はちりと共に、迷宮の外、地上へと脱出した。その衝撃で地下迷宮全土が大きく揺れ、崩れた天井が瓦礫の雨となり大広間に残る者たちへ降り注ぐ。
地上は夜だった。赤い月が空を駆ける悪魔を照らす。
「つくも…………がふっ、けふっ……」
ぐんぐんと高度を上げ、地上から離れていく九十九とちり。地上から離れれば離れるほど、あの白い少女から離れるほどに、先程まで息も絶え絶えだった一ノ瀬ちりは少しずつ体に熱を取り戻し始める。
「今、のは……いったい……」
何が起きたのか理解が追いつかない。何故自分が今こんな状態なのかも解らない。ちりの疑問は尤もで、だからこそ、その答えを探し求め地上へ視線を向けようとするのも当然の行動だった。
けれど九十九は、地上へ向けようとしたちりの目を、有無を言わさず手で覆い隠した。まるでちりのその行動を咎めるように、その手には力が入り、腕には汗が滲んでいる。
何がどうしてこんなことになったのか、九十九にだって理解など出来ていやしない。それは根源的な恐怖。これを言葉で説明できる術を、九十九は持ち合わせていない。
だから。こう言うより、他無かった。
「…………見ない方がいい…………!」
◆
芥川九十九が天井を破壊したことで、地下迷宮から地上の赤い月が一望出来るようになった。降り注いだ天蓋の残骸は大広間の者達を巻き込んで、拷问教會の信徒達を次々と押し潰していく。
そんな瓦礫と死体の山に囲まれて、大広間の中央、開闢王は空を見上げる。刺すような冷たい風が迷宮内を吹き抜ける。
「おー! なにあれすごい! とんでるー!」
星のように散りばめられた虹色の彩りを輝かせて、白い少女もまた、空を駆る悪魔の後ろ姿を見上げていた。
「なるほど、殺されると死ぬ怪異。故に死には敏感だという事ですか」
しかしさて困ったぞ、と溜め息一つ。漆黒のスカプラリオを引っ掴んで無邪気にはしゃぐ少女の白髪を頭上から優しく撫でながら、ペストマスクの怪人はこんな状況でもやはり思考を巡らせ続ける。
「(――逃げられた。異能による変身、そして飛行。薬で衰弱していた体でそれをやってのけた。薬の効果が切れるにはまだ早い。本来であれば指先一つ動かすのにも辛い筈。意志の強さとか、仲間への想いとか、そんなご都合主義でどうこうなるものでもない。思えばあの時、異能発動中のシスター・アグネスに膂力で拮抗してみせた件といい、やはり芥川九十九には規格外的な何かがある。そう確信せざるを得ない。やはりそこに救済への手掛かりが隠されている筈なのだと、希望を抱かずには――)」
「あー! おかあさんがまたむつかしいお顔してるー!」
見えないはずの顔を指摘して、ぷくりと頬を膨らませる白い少女。はたと我に返った開闢王、視線を下げる。
「ねーっ! あれほしい! とってきてもいい?」
そう言って指差す先には、豆粒ほど小さくなった悪魔の後ろ姿。
「駄目ですよ、ゆらぎ。あなたは外に出てはいけません。母との約束です。忘れたのですか」
「え! ひさしぶりにおそとに出られたのに……」
抗議の声を上げる小さな怪異に、怪人は困ったように喉を唸らせていた。
「……あれは僕の研究対象です。ゆらぎには代わりのお土産を山ほど取ってきますので」
「えー……」
もじもじと体をくねらせて、少女は甘えるような猫なで声を上げる。
「……お土産とかいいから、いっしょに居てほしい。だめ?」
「すぐ戻ってきます。ですので、いつもの場所で留守番をお願いします」
「ちぇ……はぁーい……」
まるで普通の親子のようなやり取りを死体に囲まれた中で繰り広げた後、開闢王は再び空を見上げた。薬は間違いなく効いているのだ、であればそんな体を酷使して異能を使った反動は必ず来る。再捕獲のチャンスはまだある――
「待ちなさい」
その時。悪魔を追いかけようとした足が、止まる。
開闢王は耳を疑った。疑わざるを得なかった。だってありえない。此処には『ゆらぎ』が居る。ならばそれもまた、例に洩れず死んでいなければおかしいのだから。
「まず私の質問に答えなさい。いい加減、不愉快です」
それなのに。そのはずなのに。それは其処に居た。開闢王の肩を掴んで離さない、黒の少女が、其処に居た。
「…………黄昏、愛…………?」
そう、黄昏愛。彼女は其処に居た。五体満足で、平然な顔をして、其処に立っていたのである。




