黒縄地獄 23
地下迷宮の大広間。いくつもの分かれ道が交差する、迷宮最奥の一歩手前。黄昏愛は其処に足を踏み入れる。
其処へ辿り着くまでの道のりで、彼女は拷问教會の第十席が率いる精鋭部隊を壊滅に追い込んだ。かつて怪異殺しの悪魔と恐れられた少女は今、数多の修道服を引き千切り、その血肉を喰らい、文字通り悪魔の如き怪物の姿へと変貌して、この黒縄地獄においても健在であった。
彼女は敵の返り血で濡れた唇を指で拭い、先程まで戦っていた敵の首を投げ捨てる。捨てられた首が転がっていったその先で、首は何かに躓いたように不自然にその回転を止めていた。
「……見つけた」
直感だった。首が転がっていった先の暗闇、奥から現れた黒い影。そのペストマスクの怪人が開闢王であることを、黄昏愛は直感的に悟っていた。
「あなたが、開闢王ですね」
「はい。僕がそう呼ばれる者であることに間違いありません」
黄昏愛と開闢王。対峙する両者。黄昏愛の背後では未だ信徒達の足音が忙しなく聞こえてくる。追加の増援だろう。しかしそれを愛が気に留める様子はない。開闢王も同様に、目の前の少女と静かに相対している。
「そういう貴女は、報告にあった襲撃者。第三の少女、ですね。名前は確か、黄昏愛。目的は何でしょう」
マスクでくぐもった、獣のように低い声が、大広間に重く響く。松明に照らされた少女は道中屠った信徒達の返り血で真っ赤に染まっていたが、その淀んだ瞳だけは漆黒のまま変わらない。
「人を探しているんです。とても大切な『あの人』を。教えて下さい。『あの人』がどこにいるのか」
「それは質問でしょうか。ならば答えねばなりません」
この時の開闢王は一先ず、目の前の相手を落ち着かせることを優先した。
開闢王は全てを識っている――この少女も例に洩れず、そんな甘美な響きに釣られてやってきたのであれば、お望み通りに答えてやればいい。質疑応答を繰り返し、少女がボロを出せば『腕』が発動、捕縛も可能になる。そうでなくとも、とにかくさっさと満足させてお帰り願おう。これ以上暴れられては研究の邪魔でしかない――
「(――嗚呼、しかし。まったく以て、迷惑な話この上ない)」
開闢王は全てを識っている、そんな噂がばら撒かれたのは一体いつの頃からだったろう。噂の出処は十中八九、あの自称案内人の仕業であろうが――
確かに開闢王は全ての質問に対して答えを用意出来る存在だ。しかし決して全知というわけではない。
彼女はただ、ヒトより永く地獄で在り続けただけである。およそ全知に近い膨大な知識を今日に至るまで開闢王は蓄えてきた。しかし『全て』を識っているなどとは烏滸がましくて、とても自身の口から謳うことなど出来やしない。
「(僕はただ、その望みの為に――必要だから、全てが識りたかった。ただそれだけなのに)」
ペストマスクの内側で、そんなことを独りごちる開闢王であった。
「しかし『あの人』というだけでは正直何とも。その方の特徴をお聞かせ願えますか」
開闢王は『答え』を識っている。ただし客観的事実と主観的事実がイコールではないように、答えと真実はイコールではない。開闢王はより真実に近い答えを導き出す為に探求する。その為の質問である。だから今日も開闢王はいつも通り、質問を返した。答えの精度を高めるために。より真相に近付く為に。
「はい。『あの人』は――」
故に、その後の出来事は。開闢王にとっても、予想外な展開だった。
「――私の、恋人です」
質問に対し、黄昏愛は返答した。その次の瞬間――黄昏愛の右腕は、『腕』の黒い巨腕によって引き千切られたのだ。
千切れた腕はくるくると、独楽のように回り回って、舞踏館の梁のたもとへと転がっていく。愛の三角筋からは八方へ噴水状に、熟した果実じみた血潮が、あるじを失ってだだ流れている。
そんな状況で、黄昏愛は微笑っていた。幸せそうに、頬を赤らめながら。『あの人』のことを想って。失った右腕のことなど気にも留めず。
「『あの人』は優しくて、」
その瞬間、愛の左腕が黒い巨腕によって引き千切られる。
「とても綺麗で、」
その瞬間、愛の右足が黒い巨腕によって引き千切られる。
バランス感覚を失ったように、黄昏愛の上体がクラリと傾いて――
「私のことだけを愛してくれる、たったひとりの大切な人」
その瞬間、愛の左足が黒い巨腕によって引き千切られる。
四肢を失い達磨のようになった少女の身体は地べたに落ちる。それでも尚――異能により痛覚を遮断しているのか――少女の恍惚の貌に変化は無い。
「『あの人』がいなきゃ、駄目なんです、私」
「…………その方の名前は?」
「名前――――」
達磨の少女は天を仰ぐ。漆黒の瞳が見つめるものも、また漆黒で。張り付いたような満面の笑みが、その瞬間、ほんの一瞬、どういうわけか――硝子に罅が走ったように。眉間に一筋の皺が食い込ませていた。
「…………あれ? なんだっけ」
その瞬間、愛の首は黒い巨腕によって、引き千切られた。
「…………………………………………」
血溜まりの中に漂う少女のバラバラ死体。それを見下ろす開闢王は――今のこの状況に、明確に戸惑っていた。開闢王の意思に関係なく『腕』は自動発動する。だからこの状況は、開闢王にとっては予想外。「そんなつもりじゃなかった」と、思わず言い訳したくなるような状況。
だって、勝手に自滅したの一言で片付けるには不可解が過ぎる。黄昏愛。彼女は一体何者なのか。何が目的だったのか。興味が湧いた。ただただ純粋に。開闢王は全てが識りたい。識りたい、識りたい、識りたい――
「開闢王ッ!」
少女の死体に釘付けになっていたペストマスクが、その声ではたと我に返り、顔を上げる。気付けば、黄昏愛がここまでやってきた道と同じ方向から、武装した修道服の信徒たちがぞろぞろと列を成して、この大広間に集まってきていたのだった。
「ご無事ですか、我等が王!」
大振りの鎌を片手に、先頭に立つ信徒が声を上げる。拷问教會の構成員は数こそ多いものの戦闘向きの異能を有している者は少ない。秘密結社の名をルビに当てているだけあって諜報向きの組織であり、拷問の文字を名に冠しているだけあって一方的な制裁を得意としている。戦闘向きの怪異は幹部格として重宝される程である。この増援も、もし黄昏愛が健在であれば殆ど意味を成さないところだっただろう。
「……失礼。今しがた終わりました。彼女の体を回収、拘束します。手伝ってください」
自らの本分を思い出し、襟を正すように鎌首をもたげる開闢王。急務は幻葬王の解剖。黄昏愛に構っている暇は無い。それなのに悪い癖が出てしまった――と、ひとり気恥ずかしそうにする開闢王であった。
「彼女……?」
そんな開闢王の指示に、前列の信徒数名が怪訝そうに首を傾げている。
「ええ、お願いします」
「……いえ、それは…………え?」
開闢王の意に反して、増援の信徒部隊は動き出すことなく、その場に留まっている。どよめき、戸惑っている。一体何がそこまで疑問なのか――そう思いつつ、視線を再び地面へ向けた時である。
そこでようやく開闢王は気が付いた。信徒たちが何に戸惑って――いや、怯えていたのか。
「ぐ……開闢王……ッ」
血溜まりの中、そこに少女の死体はどこにも無かった。
「い、今すぐ其処から……離れてください……こちらへ……振り返らずにッ!」
怪異として永く在り続けた代償に、ヒトとしての五感はとうに失われた。そんな久しく覚えのない感覚を、開闢王は背中越しに味わっていた。
「――ねえ、教えてください。『あの人』はどこですか?」
背後から忍び寄り、開闢王の纏うスカプラリオの裾を引っ張るその手の数は……十二本。
黄昏愛。少女の姿のその怪異は、六人にいた。六人に分裂して、開闢王の背後に立っていた。
六人が六人とも、漆黒の瞳を宿していて――薄暗い池の底のような眼差しで、背後からこちらを覗いていたのである。




