黒縄地獄 22
時を少し遡って。
剥き出しになった地下迷宮。崩れた床の瓦礫に囲まれて、黄昏愛とシスター・アグネスは激突していた。熊のようなそれへと変貌した右腕がシスター・アグネス目掛け掴みかからんと迫る。アグネスの長く細い女の腕が、それを真正面から受け止めた。
アグネスの根源から実力以上の膂力が湧き上がる。あの幻葬王、芥川九十九ですら苦戦した黄昏愛、その異形の怪腕に、今のシスター・アグネスは匹敵する。
アグネスは陰湿な微笑浮かべながら、愛の一撃を受け止めたその掌の中、愛の拳に指を這わせるようにして強く握り締める。愛は咄嗟に右足を麒麟と飛蝗を混ぜた異形に変貌させ、アグネスの腹部目掛け前蹴りを繰り出す。
「うふ……うふふ……あはは……ッ!」
しかし。並の人体であれば腹部を貫通する程の衝撃を、アグネスは腹筋で受け止め、その場に耐えてみせるのだった。
「残念ね……コドモの貴女は、オトナの私には勝てないの」
愛の右手を掴んだまま離さないアグネスに、愛は僅かに目を見開かせる。愛は急いでその背中に白い鳩の翼を顕現させるが、既に遅い。アグネスはそのまま愛の身体を引き寄せ、構えていた左の拳を大きく振りかぶって、愛の顔面目掛けて放つ。
音に迫る豪速が少女の整った顔をいともたやすく打ち抜き、鐘を叩いたような轟音が周囲に反響して、愛の身体は砂埃を巻き上げながら壁まで吹き飛ばされたのだった。
そんな攻防を間近で観ていたシスター・エウラリアは思わず息を呑んでいた。
「(――ああ、よかった。やっぱり、シスター・アグネスは強い)」
ヒトが地獄に落ちた時、怪異として与えられる異能は、結局のところ閻魔大王が振った賽の目次第。故に異能には強弱の差が発生するが、怪異としての強弱の基準とは、与えられた異能を如何に使いこなせるかが大前提である。強い異能だろうが本人が持て余していては意味が無い。
アグネスはその点、本人の異常性癖と、それが顕れたような怪異としての異常性、それらが稀有なほど噛み合っている。エウラリアにとって――いや、拷问教會に所属する殆どの信徒にとってはそうだろう――シスター・アグネスは関わりたくない怪異筆頭であった。
異能を発揮したアグネスは強い。それは確固たる事実であり、だからこそエウラリアも、そしてアガタも、誰もアグネスには逆らえない。正確には強いとか弱いとかそういう次元の物差しでは測れない。異能を発揮したアグネスに『子供』は絶対に勝てない。絶対に、である。これは一種の現実改変、概念干渉の一種である。例外はない。
「(――そう、例外はない。そのはず……)」
アグネスは愛を殴った自身の左手を、その感触を確かめるように握っては離してを繰り返す。間違いなく『八尺様』の異能は正常に作用している。今も。そして、あの時もそうだった。
三日前、幻葬王と大聖堂内で戦闘になったあの時、アグネスは異能を発動していた。にもかかわらず、幻葬王はその状態のアグネスとも互角に渡り合っている。それはアグネスにとって初めての例外だったのだ。
芥川九十九はこの世界のバグによって生み出された存在。未だその正体はブラックボックスになっている部分が多い。それはあの開闢王が興味を惹かれるほどの未知。その規格外の膂力、あるいはその特殊な出自が、あの時アグネスの異能に何らかの悪影響を与えていた可能性があった。
それがあの瞬間でのみ生じたイレギュラーであるならまだしも、それが尾を引いてしまう可能性を、アグネスはあの日以来密かに懸念していた。
あの日の出来事が微かな不安として、今日に至るまでアグネスの心の片隅を蝕んでいたのだが――今こうして黄昏愛との接触で問題なく異能が発動していることに、アグネスもまた内心安堵していたのである。
そんな思案にひとり耽っていたアグネスの意識が現実へと引き戻される。吹き飛ばされて壁に突っ込み、瓦礫の山と化したその中から、確かに聞こえた音。否、声。それが黄昏愛の発したものであることに気付き、アグネスは再び臨戦態勢を取る。
やがて崩れた壁の瓦礫の中から這い出てきたその異形に、エウラリアもアグネスも、また違った意味で再度息を呑むことになった。
ウロコフネタマガイ。その鱗は硫化鉄で構成されており、生物で唯一、本物の鉄を自己精製しその身に纏う特性を持つ。それを人間サイズで再現すれば――
「あれは……鎧……?」
――当然、そうなるわけである。
◆
「オレが知ってる範囲で助言をしておくとだな」
それは愛達三人が黒縄地獄にやってきた直後のこと。大聖堂へ向かう道すがら、枯れ木の森にて行なわれた一幕だった。
「オレ達はこれから背のクソ高い女に会うことになるだろうが、そいつには注意しとけ」
泥濘の坂を踏み締めながら、縦に並んで歩く三人。一ノ瀬ちりを先頭に、後ろに続く芥川九十九と黄昏愛は、その助言に対し訝しげに首を傾げていた。
「下手すりゃあ、オレ達が束になってかかっても倒せない可能性すらあるからな」
「……そんなに強いの?」
「強いっつーか……」
漆黒の空を見上げながら、ちりは話を続ける。
「オレたち怪異には特殊な能力、異能が備わってる。おまえらも知っての通り、異能が周囲に与える影響は常軌を逸している。しかもこれは個性みてーなもんで、二つとして同じものは存在しない。同じ怪異でも異能には大なり小なり差が生じる」
例えば、一ノ瀬ちり。彼女は赤いクレヨンの怪異だが、この赤いクレヨンという怪異自体は一ノ瀬ちり以外にもこの地獄には無数に存在する。そして一ノ瀬ちり以外の赤いクレヨンは、例えばクレヨンそのものを物体として具現化させるものや、例えば自身が触れた箇所にのみ文字を浮かび上がらせるものなど、様々な種類の『赤いクレヨンとしての異能』が存在するわけである。
「だから警戒する。異能は可能性だ。怪異同士の戦闘は基本的に、相手が自分よりも強い異能を持っているかもしれない、という可能性を常に考慮する必要がある」
「そうだったのか……」
「そうだったんですね……」
「……いや、まあ。おまえらは気にしたことねーだろうがな。オレみてーな弱小怪異はそうなんだよ」
芥川九十九や黄昏愛のように強力な異能を有した怪異であれば、相手がどんな異能を持とうが意に介さず戦いに臨めるだろう。しかしそこまで強力な異能を持つ怪異は稀である。異能もまた一種の才能だ。個人差が非常に激しい。
なのでこの地獄に棲む怪異にとっての戦いのセオリーとは、自身の異能を隠しつつ、相手の異能を探る。これに尽きるわけなのだが――
「だが隠し通すにも限度がある。怪異はどうしたって不死身だからな。生きてりゃ戦いは避けられねーし、戦えば戦うほど手の内が周りにバレていく。噂になりゃ対策も容易になる。基本的にはな。だが……それでも、中には手の内がバレたところで関係ない、対策のしようがない異能ってのもあるわけだ」
ここからが本番だとでも言わんばかりに、ちりは後方へ顔を少し傾けながら、後ろふたりに視線をやる。
「話を戻すが。これから会うことになるだろう、背のクソ高いクソ女な。そいつの異能も有名なんだよ。なんでも、相手が子供なら絶対に負けないらしい」
「絶対?」
「絶対」
登り続けていた坂は平坦な道へと緩やかに変貌を遂げていく。木々に囲まれていた視界が少しずつ広がりを見せ始める。
「相手に自分のルールを押し付ける類のチートだ。そいつにとっての子供の定義にもよるんだろうが……基本的にオレたち未成年だからな。もし戦いになったらオレたちはそいつに一対三でも負ける可能性がある。だから注意しとけって話」
「……注意するも何も。それ、どうしようも無いのでは?」
「だから基本、衝突は避ける。開闢王に会って、用が済んだらすぐにこの階層から出る。もし長居する必要が出てきたら拠点を決める。もし別々で行動するなら、夜には必ず拠点に集合だ。いいな?」
森を抜け、暗黒街に差し掛かる。鬱蒼とした廃墟の都。黄昏愛の記憶の中で、ちりは最後にこう言っていた。
「……とは言え、だ。もし衝突することになったら……そん時ゃ、黄昏愛。オレの予想が正しけりゃ、鍵はきっと……オマエになる」
◆
瓦礫の中からアグネスの前に再び現れた黄昏愛、その姿は、全身が鋼鉄の鎧に覆われた異形と化していた。鉄鱗が羽毛のように何百も折り重なった、もはや少女の面影など無い、辛うじてヒトの形を留めただけの鉄の怪物。
アグネスの拳は鎧を深く抉っていたが、それでも生身の肌にまでは届かず、傷付いた鉄鱗がはらりはらりと朽ちるばかり。両足で平然と大地に立つその異形に、アグネスは小さく舌打ちしていた。
「……なるほど」
愛の顔面を覆う鉄鱗がはらはらと剥がれ落ちる。露わとなったその表情は、鉄と変わらぬ冷ややかさを伴っていて。淀んだ黒い瞳が前方のアグネスを静かに捉えている。
「相手が子供なら絶対に負けない異能。私もその対象ですか」
「そうですねえ」
依然、八尺様の異能は発動条件を満たしている。体の内側から素の実力以上の膂力が湧き上がってくるのをアグネスは実感している。
「子供。好きなんです、私」
シスター・アグネス。なぜ彼女はこんなにも、子供に執着してしまうのか。生前、小児性愛者にレイプされたのがトラウマになっているのか。そんな穢れた自分を浄化する為に無垢な子供との接触を儀式として捉えているのか。それはきっと、彼女自身にとっても定かではない。怪異として永くを生き、遠い過去のことなど忘れてしまった。
微かに覚えているのは、てらてらと、たそがれが砂利道の石を照らす薄暮の原風景。さっきまであんなにも煩く鳴いていた蛙の声が、気づけばはたとやんでいて。爛れたような茜空の下、新緑の山に囲まれて、ひとりぼっちの帰り道を、どこか浮かない顔でとぼとぼ歩く少年。
不意にその頭上に影が落ちて、少年は空を見上げた。白い帽子が揺れる。不思議がる少年の手を引き、田んぼのあぜ道へと消えていく、純白のワンピース纏う長身の女――
――いずれにせよ。シスター・アグネスが自らの欲求の為に子供を餌食にしているという事実は変わらない。たとえ生前に起こした児童連続誘拐・殺人事件のことを、彼女が覚えていようと忘れていようと――結局彼女は何も変わらないし、実際何も変わらなかった。
地獄に落ちて、黒縄地獄に流れ着いて、開闢王に拾われてからも、彼女は『救済』の材料集めを口実に子供を拉致して回った。そうして三百年が経つ頃には子供殺しの怪異としてすっかり噂が広まって、その所業は仲間内からも忌み嫌われるようになった。
それが今の彼女。生前の記憶も、自分の本名も、何もかも忘れたけれど――その欲望だけは忘れなかった、手の施しようもない八尺様である。
「子供って、可愛いじゃないですか。弱くて、脆くて、小さくて……もう……なんて言うんですか、こう……」
アグネスは両手で何かを捏ねくり回すようなジェスチャーをしてみせる。目を細め、口端は持ち上がり、幸福そうな微笑を浮かべて。
「もみくちゃに、したくなるんです……解りますか? ぐちゃぐちゃに、めちゃくちゃにしたくなっちゃうんです。可愛くて、可愛くて……だって、ほんの少し力を入れただけで、あんな風に……簡単に壊れてしまうだなんて。ああ……たまらない。たまらないのです……ええ……ええ……」
吐息に熱いものが入り混じる。頬に朱が挿し込み、眼球が白目を剥き始める。今にも絶頂するのではないかと心配になるほどの様子に、後方のシスター・エウラリアは素直に怪訝な表情を浮かべていた。
「子供は宝物です。宝物はちゃあんと、宝箱の中へ。大事にしまっておきましょうねえ……――!」
大地が揺れる。アグネスが長身をぐんと前へ傾かせ、その第一歩を踏み込んだ時、周囲に地震の如き震動が響き渡った。そしてその音が耳に届いた頃には、アグネスの拳が黄昏愛の顔面目掛け放たれた後であった。それを再び鉄の鎧で受け止める愛。今度はまるで卵のように、全身を球状で覆うように現れた。その殻は何層にも成ってアグネスの拳を受け止める。
しかしその拳の威力は幻葬王に匹敵する。拳は鉄の殻を容易く突き破り、僅かに出来た亀裂にアグネスは指を突っ込んだ。そして、剥がす。何層にもなる殻を、アグネスは無我夢中で剥がし続ける。鉄鱗の再生速度よりも早く、アグネスは殻を亀裂から抉じ開けていく。
「ほうら出ておいでえええええええええ? いっしょに遊びましょおおおおおおおおおおお?」
アグネスの口から涎が絶え間なく溢れ、顎を伝っていく。獲物を前に舌なめずりをする狩人は三流だが、しかしアグネスの認識では、これはもはや狩りではない。ただの食事だった。食事であれば当然、舌舐めずりもするだろう。
アグネスにとっては相手が子供であるという時点で、既にその戦いの勝ちが確定する。だから楽しい。だから気持ちいい。だから子供は、可愛いのだ。
ばりばりと剥がれ落ちていく鉄の殻、次々生まれる亀裂に突っ込み続けたアグネスの指が、とうとう最深部へ到達する。それ以上遮るものは何もない空間、本体へ到達したことを悟ったアグネスの笑顔は、より一層猟奇的なものへと変貌していく。
「みいつけた」
力が漲る。もはや留まるところを知らない。すこぶる調子がいい。今の出力ならあの生意気な悪魔の子供にも競り勝てる――!
「ほうら、隠れんぼはおしまいよ……うふふ……うふふふ……!」
とうとう最後の殻が引き剥がされた。鉄の守りは崩壊し、その中身がとうとう溢れ出す。
「さあ見せてごらんなさい……! その可愛い可愛い…………怯えた…………表、情…………――――」
――ところで。犬と呼ばれる動物を、ご存知だろうか。
当然、誰もが知っていることだろう。義務教育を履修するより早く、それこそ幼い子供の頃から、犬という動物は普遍的にそこに居て、当然のように見て、触れて、どういうものか、誰もが知っている。
いや、別に犬でなくてもいい。猫でも亀でも何でも良い。とにかくヒトはヒト以外の動物について、意識的に知ろうとすることはなくとも、人生の過程においてなんとなく知っていく。犬がどんな動物なのか。人間と明確に違う点はどこなのか。
だから愛は知っていた。当たり前のように――犬の寿命は人間の約五分の一であることを。
つまり、犬の一日は人間の五日に相当する。犬の年齢を人間のそれに換算すると、犬の十七歳は人間の八十四歳とイコールになる。
そして黄昏愛の異能、ぬえの能力はあらゆる生物の姿形、能力、情報を、人間の規格で再現することが出来る――
それは愛にとっても初めての試みであった。だから鉄殻の防御で時間を稼いでいる間、頭の中で何度もイメージを膨らませた。それに倣って、ぬえは愛の構造を作り変えていく。彼女の目的はただ一つ。自分の年齢を、十七歳という情報を、犬の十七歳に置き換えるという所業。自分自身という存在そのものを、人間以外のカタチに置き換えるという荒業であった。
そしてそれは、鉄鎧の奥より現れる。美しい十七歳の少女だったはずのその美貌は、もはや見る影もなく黒く痩せこけて。艶のある美しい黒い長髪も、きれいに整列されていた歯も、そのほとんどが抜け落ちて。肋と背骨の浮き上がった、老いた大木のような、四つん這いの醜悪なる獣。
多様な犬種を混合させた、いわゆる雑種犬の再現だが、今回はその肉体年齢すらも犬をベースにしている。今の彼女を人間の年齢で換算すれば、いつお迎えが来てもおかしくない程に歳衰えていた。
「…………」
黄昏愛のそんな変わり果てた姿を目前にて直視した、シスター・アグネスは。
「うッ……ぶ…………ッ!!!?」
その場で勢いよく、吐瀉物をブチ撒けていた。
八尺様の異能は結局のところ、子供とは何かを定義するアグネスの偏見に依存する。その偏見を有効に働かせる為に、開闢王はまず芥川九十九の肉体年齢、そして生前の享年を探った。
阿片美咲によってそれがリークされ、予めアグネスはその情報を共有されていたから、芥川九十九に対してスムーズに優位を取る態勢を整えることが出来ていた。
つまり情報が出揃っていない相手に対しては、アグネスは自分の判断のみで対象が子供であるかどうかを定義しなければならない。極端な話、見た目が未成年のようであれば、アグネスは優位を取ることが出来る。
ならば逆に、どう見積もっても子供には見えない相手には、ましてや正確な個人情報を把握出来ていないイレギュラー相手に対しては、八尺様の異能は上手く働かないのではないだろうか――というのが一ノ瀬ちりの推測で、結果としてそれは正解だった。
八尺様の異能が、力の供給が、醜悪な老犬と成り果てた黄昏愛の姿を見た途端に止まっていた。あれほどまでにイキリ立っていた衝動が、今やすっかり萎えていた。
子供だと思って興奮していた相手が、皮を剥けば大人どころか老人だったのだ。アグネスにとっては反射的に胃の中の物を全てぶち撒ける程のショックだったのである。常人には理解し難いが。
唇から黄色い液体を滴らせて、充血し切った眼をぎょろりと動かし、アグネスは目の前の老犬を鬼の形相で睨み付ける。
「……ふ……ッざけるなァァァアッ!! そんな、そんな、そんなものをッ!! この私の視界に入れやがってッ、このクソ女ァァァアアアアアアアアアアアッ!!」
もはや修道女の面影などどこにもない、怒り狂った猟奇殺人鬼。異能によるブーストを失ってなお、目の前の巨獣に掴みかからんと迫る。
「ふざけてるのは貴女のほうでしょ……」
そんな些細な抵抗も虚しく、愛は呆れたように正論を口にしながら――アグネスの身体をヒグマの鉤爪で一撃、薙ぎ払ったのだった。
「がぁああああああああああああああああッ!?」
汚い悲鳴と共に、アグネスの身体がヒグマの怪力で吹き飛ばされる。鉤爪で腹を裂かれ、中から腸が溢れ出す。そのままアグネスの長身は宙を舞いながらエウラリアの隣を横切り、壁に突っ込み何枚か砕き割りながらそれでも止まらず、瓦礫に突っ込んで、そうしてようやく停止したのだった。
「……し、シスター・アグネス……?」
その一部始終を見届けて――信じられないとでも言わんばかりに震えた声を漏らしながら、エウラリアが振り返る。その遥か後方、アグネスはぴくりとも動かない。
アグネスが敗れた。たったひとりの、それも子供の怪異に。その受け入れ難い事実に、エウラリアを始めとする拷问教會信徒全員、その場で動くことも出来ずにいた。
「邪魔をしないでください。私はただ、『あの人』に会いたいだけなんです」
蒸気の漏れるような音を吐き出しながら、黄昏愛の姿はもとのヒトの形へと戻っていく。しかしその右腕は熊のような怪腕を維持したまま、臨戦態勢。そんな彼女に対して、誰も攻撃する者はいなかった。出来なかった。あまりにも正体不明、あまりにもデタラメな異能を持つその少女を前に、身動き一つ取ることすら躊躇われる。
「……では、失礼します」
自分の周囲を取り囲む修道服の群れがすっかり怖気付いているのを見て、溜息を吐きながら。黄昏愛は優雅に歩き始めた――
「――――いいや、そこまでだ!」
その一歩目を踏み出した、直後のことである。突如として背後から聞こえてきた、咎めるようなその声が、愛の耳に入るよりも前に――愛の首筋に、抉るような痛みが襲う。
「……?」
気配も無く、突然背後から受けたその衝撃に、愛が不思議そうな顔を浮かべながらゆっくり後ろを振り返ると――そこには見知らぬ漆黒の修道女が立っていた。頭まで丸ごとシスターベールで覆い隠したその女は、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「……どなたですか?」
「くくっ……我は拷问教會第九席。シスター・セシリア。今貴様に打ったものは幻葬王すら昏倒せしめた猛毒……それ以上の無駄な抵抗は止めるのだな!」
立て続けに現れた拷问教會の幹部、第九席を名乗るその修道女の右手には、確かに一本の注射器が握られていた。
シスター・セシリア――『隙間女』のその異能は、自身の肉体を周囲の影に同化・潜伏させる能力。彼女はその異能で周囲の物陰に潜み、混乱に乗じて奇襲のチャンスをずっと窺っていたのである。
「でっ……!? でかしたァァアアアッ!! グッジョブですわッ、第九席さんッ!」
「くっくっくっ……! 単身で我らが拷问教會の地下迷宮に乗り込んでくるとは笑止千万……! 大人しく観念しろ……!」
思わず車椅子の上でガッツポーズを取るエウラリア。セシリアを名乗る修道女の勝ち誇った笑みはますます得意げなものへと変わっていく。
注射器の中身は、幻葬王ですら昏倒した麻酔毒。拷问教會が『救済』と呼ぶものよりも更に毒性の強いそれは、人間であれば数秒で昏倒し数日間目を覚まさない代物である。
「……貴女も、私の邪魔をするんですか」
しかしそれでも、黄昏愛は倒れない。
「えっ」
マミチョグという魚がいる。遺伝的多様性の高いその種は、多量の毒物が混ざり合った某国最大レベルの汚染領域にすら適応し、通常の八千倍の致死量の毒にも耐え得る環境適応能力を発揮する。そして愛は、自身の肉体でそれを再現可能……つまり、そういうことである。
「…………く、くく…………くっくっくっ……! 此処には貴様の仲間が捕らえられているのだぞ……貴様……仲間がどうなってもいいのかッ!?」
「どうでもいいです」
セシリアの問いかけに即答しながら、愛の鉄槌が如き踵落としが瞬時に振り下ろされる。避ける間もなく、シスター・セシリアは顔面から勢いよく地面に叩きつけられた。
「ぐえッ――――…………」
頭が地面の中にまでめり込み、足が真っすぐ上空へと伸びた状態で――ようやく訪れた自分の出番だというのに――呆気もなく、シスター・セシリアはそこで絶命したのだった。
「……え、ちょ……第九席さぁぁぁぁああああんッ!?」
エウラリアの悲鳴が迷宮中に響き渡る。第八席と第九席。立て続けに幹部格が目の前で倒されたことで周囲の危機感が一気に跳ね上がっていくのを、その場にいる誰もが肌で感じていた。
セシリアの言う通り、単身で拷问教會の地下迷宮に乗り込んでくるなど、本来は自殺行為である。アグネスやエウラリアを始めとする多種多様な異能を持つ怪異が待ち構えているそこに、たった一人、たった一つの異能で、その全てに対応できるわけがない――普通なら。
しかし黄昏愛は普通ではない。この世全ての動物に変身できるその異能は例外中の例外――たった一人で戦争が出来る。
そう、彼らは判断を誤っていた。これは既に戦争なのだ。黒縄地獄は今、このたった一人の侵略者によって、戦争を仕掛けられている――!
「ッ――開闢王に伝えます!! お前たちは何としてでも侵入者を此処で食い止めなさいッ!!」
エウラリアの号令で目を覚ましたように周囲の信徒達が一斉に軍隊が如く黄昏愛目掛け突撃する。エウラリアは車椅子を勢いよく後ろへUターンさせ、車のような爆発的な速度で車輪を漕ぎ始めた。
「ぐあああああああああああッ!!」
直後に背後で悲鳴が轟く。エウラリアが振り返るとそこには――全身から蛸の触手のようなものを出し群がる信徒達を尽く陵辱する、一匹の怪物少女の姿があった。
「(なんですの、あれは……!? アグネスのチートすらも掻い潜る、変幻自在の変身能力! 毒も効かない、数で押しても歯が立たない! あれがわたくし達と同じ怪異? 格が違い過ぎる……!)」
結局、今自分に出来ることはこれだけなのだと、エウラリアはただ我武者羅に車輪を漕いで開闢王のもとへ急ぐのだった。
◆
そうして、今に至る。
「壁を破壊して、道を無理矢理に切り開きながら、こちらへ向かってきていますわ。現在、第十席のシスター・クリスティーナ率いる精鋭部隊が対応中ですが……それもいつまで保つか」
エウラリアから状況を共有された開闢王。ペストマスクの顎の辺りに手をやって、「ふゥむ」と低く唸り声を上げる。
「……シスター・エウラリア。貴女の怪力で、第四席を起こすことは可能ですか?」
「無茶を言わないでくださいまし。わたくしでなくとも無理ですの。眠ったシスター・マルガリタは誰にも起こせません。次に彼女が眠りから醒めるのはまだ先の予定ですわ」
「……そうですか。そうですね。いえ解っています、言ってみただけですよ。そもそも幻葬王との接触はマルガリタが目醒めるタイミングを本来は想定していましたから。しかし、そうなると……」
「他階層に潜伏している上位の幹部を呼び戻すというのは?」
「……ええ、そうですね……」
エウラリアの提案に開闢王は頷いてみせるも、その後に続く言葉は無い。歯切れの悪い沈黙が暫し流れる。
「しかし……第五席は第三階層から離れられない。第二席は……そもそも応じないでしょう。第三席は物理的に、今から呼び戻すのは不可能。第八席は倒され、第九席の毒も効かず、人質にも反応しない……」
報告書を読み上げるような淡白さで開闢王は現状を言葉にしていく。一息に読み終えて、開闢王は天井を見上げ「ウーム」と唸り、そして一言。
「……シスター・エウラリア。ひょっとしてこれは、些か不味い状況なのでは?」
「不味いですの。よりにもよって上位の幹部が誰も居ないこのタイミングで、下位の幹部では対応出来ないイレギュラーの襲撃。想定外の事態でしてよ」
風で乱れた栗色の髪を手ぐしで整えながら、エウラリアは深く深く溜息を吐いた。
「……解りました。であれば僕が直接出向きます」
開闢王の決断は早かった。寝台で眠り続けている芥川九十九に背を向け、漆黒のスカプラリオを翻す。
「なっ……!? 危険ですわッ! あれは恐らく、幻葬王にも匹敵して……!」
「だからこそです。これ以上被害を増やされても困る。彼女の目的は僕でしょう。用件を訊いてきます」
「またそんなことを言って……! だって王、腕っぷしに関しては貧弱ではありませんかッ!」
「……正直ですね、シスター・エウラリア。いえ、そこが貴女の善いところではあるのですが……」
「それに! ……まだ手はございますわ」
車輪が軋むような音を立てる。開闢王に手ずから造ってもらった車椅子。両足を失ったまま地獄に落ちた彼女に贈られた、ほんとうの意味での救済の象徴。それに跨る彼女はいつでも自信に満ちていて。
拷问教會第十一席、シスター・エウラリア。無垢なる彼女の前では開闢王すらも対応が甘くなりがちである。孫可愛がりというものだろうか。
「禁域の怪異を解放するのです。そうすれば……!」
「それはなりません」
そんな彼女の提案を、開闢王は明確に拒否したのだった。
「……いえ。それは本当に最後の手段です。今はまだその時ではない」
「で、ですが……ッ」
しいっ、と。エウラリアの口に人差し指を差し出して。
「……申し訳ありません。シスター・エウラリア。僕の代わりに此処をお願いします」
たった一本の人差し指に、それ以上の言葉が塞き止められてしまう。だって、狡い。そんな寂しそうな声色で囁かれたら、頷く他無い。
「……王……」
開闢王は拷問用の鉈を一振り手に取って、実験室から出ていった。その後ろ姿を見届けた後、鉄製の両開き扉を内側から閉め鍵をかけるエウラリア。目の前の寝台では依然、悪魔が眠り続けている。




