黒縄地獄 20
「……ええ、そうですね。開闢王でしたら、今は外の裏庭に……ご案内いたしますわね」
「お願いします」
促されるまま踵を返し、出入り口へと向かう黄昏愛。その後をゆっくり追うシスター・アグネス。背後から、アグネスの長い両腕がゆっくりと、黄昏愛に迫っていく――
「シスター・アグネス」
――不意に、黄昏愛はその歩みを止めた。彼女は振り向くことなく、その場に佇んだまま、背後のアグネスへ投げかける。その声色は先程までのものとは明らかに異質で。それが少女の口から発せられたものとは思えぬほどの、強い低音。
「もう一度だけ訊きます。開闢王は、この教会の中には居ないんですよね」
「……ええ、はい。いませんよ。先程も申し上げたはずですが」
アグネスは柔和な微笑を崩さない。けれど、そんな微笑みの内側ではいよいよ昂りが隠しきれなくなり、前髪に隠れた額に青筋が浮かび上がっていた。
「そうですか。そうですよね。それじゃあ――」
言って、アグネスの方を振り向いた黄昏愛。彼女は大きく、大きく、その目を見開かせて。底なし沼のように黒く濁った瞳が、アグネスの全身を捉えているようだった。
「――確かめてみてもいいですか? どちらが正しいのか」
その嘘のような微笑みに、戦慄する暇も無く。
「私、うそつきは嫌いなので」
せり上がっていく。膨れ上がっていく。肉の塊が。大きく、大きく、腫れ上がっていく。
アグネスはそれを見上げた。普段誰かを見上げるという行為をしないアグネスが、その長身を遥かに上回る肉塊を、見上げていた。
それは確かに右腕だった。『ぬえ』の異能によって、複数の生物のエッセンスを混じり合わせた、怪物の魔腕。かつて少女のものだったそれは最早その名残を失い、大聖堂の天井にまで届くほど、巨大に歪に膨れ上がって――そしてそれを躊躇なく、愛は自身の足下に振り下ろしたのである。
◆
その地響きは大聖堂を中心に黒縄地獄全土へと響き渡った。魔腕の怪力が大聖堂の床を破り、地面を穿ち、足場が崩れる。そのまま瓦礫の雪崩に巻き込まれたアグネスが、その隙間から縫うようにして這い出てきた時には既に、秘されていたはずの地下迷宮が白日の下に剥き出しとなっていた。
「……正解はこっちでしたね。開闢王は地下に居る。……ということは、あの赤いヒトも九十九さんも、此処に閉じ込められているわけですか」
黒い太陽のように地獄の底を見下ろすのは、底なしの黒い瞳。瓦礫の頂上にて立つ、怪異の少女。
「言いましたよね? 私、うそつきは嫌いなんです」
「(……なぜ地下の存在がバレた……!?)」
大聖堂に地下が存在するということは、幹部を始めとする拷问教會の親衛隊に抜擢されるような一部信徒にしか知り得ない情報だ。黒縄地獄をあちこち彷徨ったところで、大聖堂に地下があるという情報を手に入れられるわけがないのだ。
しかし黄昏愛、彼女は何の躊躇いもなく、確信をもって床を破壊した。少なくともアグネスにはそう見えた。地下に空間があるという確証が無ければ出来ない行動だ。何故、どうして――
「――――ッ、が、あ!?」
思考を巡らせていたアグネスは、その眼前にまで既に迫ってきていた黄昏愛に気が付けず――次の瞬間には熊をベースに構築された怪物の巨腕によって、呆気なく殴り飛ばされていた。
その長身が地下迷宮を構成するコンクリートの壁を何枚も砕き割って宙を舞う。壁に掛けられた松明が衝撃で落下し床に転がり、アグネスの長身もまた何度も床に打ち付けながらようやく停止したのだった。
「ねえ。どうして嘘を吐くんですか? どうして私の邪魔をするんですか?」
怪異殺しの悪魔、再び。
愛は異形の怪腕掲げ、ゆっくりと、倒れるアグネスのもとへ這い寄るように近付いていく。
「――何事ですかッ!?」
そこへ駆けつけたのは、栗色の髪の修道女、車椅子のシスター・エウラリアだった。車椅子を駆り、地上から黄昏愛の姿を確認して、大粒の宝石のような目を更に大きく見開かせる。
「し、侵入者……!?」
エウラリアは現状を瞬時に察知し、瓦礫の不安定な道を飛ぶように車椅子を駆って、倒れるアグネスを庇うように愛の前へ立ち塞がる。
大聖堂の床が崩れるほどの衝撃だ、騒ぎを聞きつけ増援が駆けつけてくるのは当然である。そしてそれはエウラリアだけではない、拷问教會の信徒達、大量の修道服の集団が地上から湧いて出るように次々と姿を見せ、愛はあっという間に取り囲まれたのだった。
「しっかりしてくださいましッ、シスター・アグネスッ!」
エウラリアの檄に応えるように、倒れていたアグネスがゆっくりとその長身を持ち上げる。
「ええ……大丈夫。大丈夫ですよ、シスター・エウラリア。後は私に任せてくださいな……」
エウラリアはそれ以上何も言えなかった。自分の隣を通り過ぎていくアグネスの、その猟奇的な微笑を――笑顔の奥に隠された憎悪を垣間見て、身動きを取ることが出来なかった。
アグネスは再び愛の前に立ちはだかる。アグネスはもう、考えることを辞めていた。何故地下の存在を知っていたのか。黄昏愛の尋常ならざる怪力の正体が何なのか。もはやどうでもよかった。そう、初めからそんなことは些細な問題で――アグネスにとって重要なのは、相手が『子供』か否か、ただその一点のみ。
「ほうら……おいで……遊んであげますよ……」
まるで子供を迎え入れようとする親のように、長い両腕を大きく広げるアグネス、その胸元に、愛は容赦なく飛び掛かった。
◆
赤いクレヨン。現代における怪談、都市伝説のひとつ。
とある中古の一軒家を購入した夫婦は、ある日、廊下に落ちていた赤色のクレヨンを見つける。以来、そのクレヨンは幾度となくその廊下に姿を見せるようになった。
不審に思った夫婦は家のことを調べていくうち、クレヨンが現れたその廊下、何もないはずの壁の向こうに、図面上では存在しているはずの空間が壁紙によって隠されていたことに気が付く。
壁紙を剥がすと釘打ちされた扉が現れ、それを開けた向こう側には、壁一面に赤い文字で「おかあさん ごめんなさい ここからだして」と書き殴られた真っ赤な部屋が広がっていた――
「気付いてもらえないまま独りで死んだ子供の話だ」
一ノ瀬ちりは、そんな赤いクレヨンのエピソードを依代とした怪異である。彼女自身の生い立ちを考えれば皮肉な話だが。
「……ま、今回は気付いてもらえたみてーだがな」
そんな一ノ瀬ちりは、今まさに――慌てて迫ってきた阿片美咲の顔に見事右ストレートを合わせ、壁まで殴り飛ばしたところだった。
殴り飛ばされ、拷問部屋の壁に身体を勢いよく打ち付けた阿片美咲。衝撃で目が眩み、息が止まる。何が起きたか理解が追いつかず、その視線は焦点が定まらない。
蹲る美咲見下ろす、赤い影。赤いスカジャンを羽織った赤い髪の薄汚れた少女、一ノ瀬ちり。まるで赤いクレヨンそのものをモチーフに見立てたような、赤く鋭い爪が、あの時既に。密かに後ろ手に縛られていた縄を切り裂いて、一ノ瀬ちりの両手は自由となっていたのである。
そして当然、赤いクレヨンの異能は爪ではない。爪はあくまでも怪異化した肉体が変質を遂げた際に発現した機能の一部に過ぎない。赤いクレヨンという怪異、その真の能力、それは――
「つまり、こういうこった」
瞬間、美咲の視界が真っ赤に染まる。否、正確には――部屋中いたるところが赤に染まっていた。
赤いインクをぶちまけたようなそれは、臭いからして血のようで――そしてよく見ると、それは文字の形を成していた。文字は列を為し、『開闢王は地下にいる』『九十九とオレは閉じ込められている』――そう解読出来る。そんな赤い文字のメッセージが、一瞬にして、突如として、部屋の壁一面にびっしりと浮かび上がったのだ。
「あのイカレ女のことだ。どうせオレらのことなんざ後回しにして、マイペースに自分の用事を優先するに決まってやがる。で、夜になりゃ疲れた身体を癒やす為に一人であの寝床に戻ってくる。ベッドとシャワーを求めて帰ってくる。そういう奴だ」
浮かび上がった血文字は、ちりの溜息と共に一瞬で蒸発、霧散していった。拷問部屋が元の無機質な灰色に戻ったところで、美咲の焦点はようやくちりに合わさる。
「だから書いておいた。三日前、オレへの拷問が止まったあの日……九十九が捕まったあの日にな」
それが赤いクレヨン、一ノ瀬ちりの異能。指定した場所に血文字を浮かび上がらせる。任意の文字列を、対象の場所に触れること無く、見ることも必要とせず、書き込むことが出来る。
ちりは赤いクレヨンを使って迎賓館の天井、風呂上がりの黄昏愛がちょうど見上げるであろうそこにびっしりと、血文字でこう書き綴っていた。
開闢王は地下に居る。九十九とオレはそこに閉じ込められている。そして――シスター・アグネスはオマエの邪魔をしようとしている。
九十九よりも一日早く捕まっていた一ノ瀬ちり、その間ただ黙って拷問を受けていたわけではない。自分が今どこに閉じ込められているのか、なぜ途中で拷問が突然止んだのか、廊下から微かに聞こえてくる歓喜の声は誰のものなのか――推測し、そうして打ったのがこの一手。
血のメッセージを確認した翌日、黄昏愛はスイッチが入ったように黒縄地獄のそこら中を見て回り始めた。当然、彼女にとってちりや九十九の安否は二の次で、重要だったのはシスターが自分のことを邪魔しようとしている、という最後の一文。
ちりと愛は出会ってまだ数日の関係だ。ちりが語った通り、信頼関係も何もあったものではない。だからこの赤いメッセージの全てを、愛は信じたわけではない。愛にとって重要なのは、自分にとって邪魔は何か、敵は誰かということだ。
開闢王は地下に居る。それが本当かどうかの裏を取る為に、愛は三日間、この地獄中を彷徨った。かつての等活地獄でも同じことをしたように。黄昏愛は『あの人』以外を信じない。他人を信用しない。だから確かめる。一ノ瀬ちりとシスター・アグネス、正しいことを言っているのはどちらなのか。敵はどちらなのか。
「アイツに頼るしかないってのも癪だったがな……オレだけならともかく、九十九まで捕まったってんなら話は別だ。使えるもんは何でも使う。……嗚呼、しかし三日か。思ったよりも早かったな……アイツ」
美咲がちりの異能を見たのはこれが初めてではない。三十年前。屑籠の一員として認められた美咲に「つまらない力だ」と気恥ずかしそうに見せたちりの表情を美咲は今でも覚えている。
血文字を浮かび上がらせる異能。それだけ聞けば大したものではないように思える。実際これを戦闘に活用することは難しいだろうし、だからこそちりは戦闘において殆どを自らの拳に頼っている。余程の相手に対しても爪を使う程度で、彼女がこの異能を実際に使っている場面を美咲は殆ど見たことがなかった。
だから知らなかった。ちりの異能が、まさか地下から地上の迎賓館までおおよそ五キロメートルほども離れた場所にまで異能の効果範囲が届くということを。美咲には知る由もなかった。
一ノ瀬ちりという怪異がそこまで自身の手の内を晒している相手など、それこそ芥川九十九くらいのものである――
「ち…………りぃぃぃィィィィイイイイイッ!!」
壁を背に立ち上がる。怒りで開いた瞳孔が赤い少女を捉える。マスクの中で牙を剥く。思考は依然ぐちゃぐちゃのまま、阿片美咲は懐に右手を伸ばす。
「させねェよ」
が、しかし。とん、と飛ぶように距離を詰めて、ちりは美咲の懐へと伸びたその肘を掴み、それ以上の動作を封じてみせる。
美咲がちりの異能を知っていたように、ちりもまた美咲の異能を知っている。懐に異空間を発生させ、中から様々な凶器を取り出す異能――それを有する怪異の名は――口裂け女。
ちりはそのまま美咲の胸ぐらに掴みかかる。引き剥がそうと藻掻く美咲の抵抗を物ともせず、そのまま右肘の袖と胸ぐらを同時に引っ張り、体を捻って巻き込み、全体重を前に倒して――背負投げ。
「ッ、あ――」
背中から床に強く叩き付けられた美咲、悲鳴にもならない呻き声を上げた。息が詰まる。衝撃に視界が霞み、四肢の感覚が希薄になる。脊髄への強い衝撃だ。怪異にとっては致命傷にはならずとも、身体のあらゆる感覚が麻痺し、しばらくは動けない。そうして仰向けのまま倒れ動けない美咲の顔面目掛け、ちりは容赦なく拳を振り下ろす――
しかしその拳は美咲の目と鼻の先、触れる寸前のところで止まった。ちりは握りしめていたその手を開き、美咲の胸ぐらを掴んでその身体を持ち上げてみせる。
「……もう大人しくしてろ、オマエ」
美咲の霞んだ視界では今のちりの表情を窺い知ることは叶わない。美咲が朦朧としている間、ちりは美咲を拷問椅子の傍まで引き摺っていき、その身体を椅子の上へ乱暴に押し込み無理やり座らせたのだった。そして爪で切り裂いた縄を再び拾い上げると、今度はそれを美咲の身体に椅子ごと縛り上げていった。
「ち、り……なん、で……」
疑問を呻く彼女を、ちりは鼻で嗤い飛ばす。
「どういうつもりか知らねェけどな」
縄の結び目をきつく締め、確実に拘束出来たのを見届けた後、ちりは美咲を一人放置して鍵の開け放たれた扉の方へと進んでいった。その指には戦闘の最中に美咲からくすねた鍵の束を通した輪っかがぶら下げられている。
「オレはテメーに心配されるほどヤワじゃねーんだよ」
最後に、小さく。美咲の耳にも届かないほど微かに。悪いな、とだけ呟いて。かつて無力だった少女は今、自分の力で理不尽の牢獄を脱出する。




