黒縄地獄 18
「あらあら……まあまあ……ごきげんよう」
暗黒街中央区、坂の上の大聖堂。その扉を潜り抜けた訪問者を、シスター・アグネスはいつもの如く柔和に微笑み、迎え入れる。
「ごめんください」
その訪問者の名は、黄昏愛。アグネスがその少女の顔を見たのは、あの日――初めて大聖堂に訪れた日から実に四日ぶりである。
その間、拷问教會の信徒たちによって黄昏愛の監視は続けられていた。報告によれば芥川九十九が捕獲されたあの日の夜、つまり今から三日前。黄昏愛は一度迎賓館に戻りそのまま朝を迎えたとのことだが、その翌朝、思い立ったように館を出た彼女は、その日以来一度も館へ戻ることはなかった。
ふらふら、きょろきょろと、黄昏愛はこの黒縄地獄を隅々まで彷徨い続けていたという。北へ、南へ、西へ、東へ。その間休むこともなく、黄昏愛は彷徨い続けた。そうして今日、黄昏愛は巡り巡って、この大聖堂に辿り着いたのだ。
「(ああ――健気なものね。お友達を探して地獄中を彷徨って、さぞかし疲れたことでしょう。ええ、ええ。お客さまのことは、この私がちゃあんと、労ってさしあげませんと――)」
そっとほくそ笑むシスター・アグネス。無論、表情には出さないように。心の内で、黄昏愛の徒労を嘲笑う。
「すみません。人を、探しているんです」
大聖堂の教壇に立つシスター・アグネスの姿を見つけた愛は、開口一番、極めて淡白にそう尋ねた。それを受けたアグネス、くすりと毒のような微笑を浮かべて。
「ええ、ええ。幻葬王さまでしたら、先ほど開闢王とお会いして……もう用が済んだからと、お連れの方と一緒に次の階層へ向かわれましたよ」
予め用意していた台詞を、すらすらと読み上げる。勿論これも嘘である。九十九もちりも、今やこの大聖堂の地下迷宮に捕らえられている。その際に九十九が開闢王との間で交わした契約通り、九十九は開闢王に体を差し出してから三日間、ちりへの拷問は止まっていた。
牢屋に閉じ込められ、時折巡回の修道服が顔を出すことはあるが、ちりがその牢屋から脱出を試みようとした形跡は見られない。すっかり大人しくしている。そして芥川九十九もまた、今や開闢王の言いなり。実験動物に成り下がった。
「そうですねえ……今から駅へ向かえば、まだ追いつけるのではないでしょうか?」
今更、たった一人乗り込んできたところで、何が出来るというのか――いい加減な事を嘯きながら、その胸中で嘲笑うシスター・アグネス。
「ああ、いえ。そっちは別にどうでもいいです」
――しかし。アグネスの思惑とは裏腹に。黄昏愛、彼女はきっぱりとそう言い放ったのである。
「(……どうでもいい? ……こいつ、幻葬王の仲間ではないのか?)」
てっきり九十九やちりを探しているものだとばかり思っていたアグネスにとって、愛のそれはあまりにも予想外の反応だった。アグネスは咄嗟に言葉を返すことが出来ず、その貼り付いたような微笑に微かな戸惑いを浮かび上がらせている。
「そんなことより、私にも会わせてください。開闢王はどこですか。会って聞きたいことがあるんです」
死人のように美しい蒼白の肌、凛とした表情で、アグネスに詰め寄る黄昏愛。その言い草に、アグネスの瞼が微かに震える。
「(嗚呼……そうだ。初対面の時からずっと感じていた。ずけずけと、礼儀を知らず、生意気な……自分の言い分だけを押し通そうとしてくる、厚かましい態度……――)」
――私が一番嫌いなタイプの子供だ、こいつ。
「……ええ、そうですね。開闢王でしたら、今は外の裏庭に……ご案内いたしますわね」
「お願いします」
幻葬王捕獲という目的を果たした今、開闢王からの指示は二つ。人質として捕縛した赤い髪の少女にはこれ以上傷を付けないこと。開闢王の実験を邪魔しないこと。
つまりこの三人目の少女、黄昏愛についてアグネスは開闢王から何も指示を受けていない。開闢王にとって研究対象にもならない、どうでもいい個体なのだろう。アグネスも最初は適当に誤魔化して追い返すつもりだった、が、しかし――気が変わる。
「(――指示をなされないということは、それはつまり、私の好きにして良いということですよね?)」
大聖堂の出入り口へと促され、アグネスに背を向ける愛。その細い四肢を後ろから眺め、舌なめずりするアグネス。全身に力が漲る。自分の中で『八尺様』の異能が発動しているのを実感する。
「(そう、そうなのです、私、生意気な子供は大嫌いですけれど……そんなクソガキを……蹂躙して陵辱して殺して犯して喰らって骨までしゃぶり尽くすのは、大好きなのです――)」
さあどうしてくれよう。どのようにして喰らってくれよう。どのようにして犯してくれよう。涎が止まらない。心臓の鼓動が加速する。圧倒的な優位。これに勝る快楽は無い。この異能を授けてくださった閻魔大王には感謝してもし切れない。この機会を与えてくださった開闢王には感謝してもし切れない。あの若い柔肌に爪を突き立てる想像だけで達してしまいそうになる。ああ、早く、早く、早く!
八尺の長身が黄昏愛の頭上に影を落とす。黄昏愛の背後で、吊り上がった口角を最早隠しきれないアグネスは、ゆっくりと。その細い首筋に、両手を伸ばしていく――
◆
「アレが今のテメーの仲間か」
錆びた鉄扉の向こう側。椅子に縛られ、傷だらけの状態で、一ノ瀬ちりが発したその言葉は、明確に阿片美咲へと向けられたものだった。先程までのアグネスとのやり取りを聞かれていたのだと悟り、美咲はマスクの中で苦い表情を浮かべる。
「テメーが『屑籠』を抜けて……三十年か。そんで、此処が……こんな所が、あんな連中が、今のテメーの新しい居場所だってのかよ……なァ、美咲」
「……うるさい……」
鉄錆に隔たれて、お互い顔を合わせることもなく。
「三十年前。オレは何も言わずに突然出ていったオマエを探しに此処へ来た。知ってたんだろ? でもあの時、オマエは顔を出さなかった」
静かに、けれど責め立てるように、ちりの放つ言葉が棘となって、美咲の胸に突き刺さる。薄汚れた赤い髪を長く垂らして。 扉の向こうの阿片美咲を赤い目で睨み付ける。それを見えずとも感じているのか、美咲は僅かに後退り、言葉が喉に詰まる。
「でも、こうしてまた会えた。また会えたんだよ、美咲。なァ……オマエにとってオレは、もう……仲間でもなんでも無くなっちまったのか。どうして、オマエ……そんなになっちまったんだよ」
「っ……うるせェな……ッ!」
噛み締めた奥歯を離して、とうとう声を荒げる美咲。
「仲間……? 何が仲間だ……今の状況を見てみろ……! 芥川九十九は捕まった……薬漬けにされて……あのザマだ……!」
扉の前で、必死の形相で叫ぶ。黒いマスクが耳まで裂けた口端を隠していて、それでもなお、今の美咲がどのような表情をしているのか、見ずとも解る、悲痛の叫び。
「それと、もうひとり……あのセーラー服の女! 見ない顔だが……今更助けに来たところで、もう遅い……どうせ今頃、あの女の餌食だ……!」
乾いた喉から無理矢理に絞り出したその聲に、阿片美咲の全てが籠められていた。
「ちりッ! 拷问教會は強い! 開闢王は強い! 私は強いッ! お前より、あのセーラー服より、芥川九十九よりッ! お前の仲間より、私達の方が強いッ! ……だからッ……!」
美咲は両手を力いっぱい振りかざして、扉に打ち付ける。けれど鍵の掛かった厚い鉄錆の塊はびくともせず、音だけが弱々しく響く。
「……だから……」
三十年前に、突然、屑籠を抜けたと。一ノ瀬ちりはそう言った。しかし、そうではない。そうではないのだ。
三十年よりも遥かに前から、断絶し続けてきた想いがある。開闢王の目的を知って。それを『利用できる』と目論んだ、あの時から。ただ一つの目的の為に、阿片美咲は拷问教會の幹部第十二席にまで上り詰めた。全ては――
「…………ちり」
そう、全ては。
「私と一緒に来てくれ」
好きな人に振り向いてほしい。そんなありふれた願いのために。




