黒縄地獄 17
黒縄地獄の大聖堂。そこには関係者にしか出入りを許されない、地下空間が存在する。
錆びついたパイプオルガンを動かして、床の下、『無断立入厳禁』と書かれた蓋を剥がした先の隠し階段。そこを下ると、洞窟のように長く入り組んだ迷路が現れる。松明に沿って奥へ奥へと進んでいくと、途中に現れる『十三号坑道』と書かれた標識――
――ここで注意しなければならないのは、この地下迷宮に訪れた者は必ず、この道標の通りに進まなければならない、ということである。
迷宮にはその道中、幾多数多の分かれ道がある。坑道から外れ、松明の灯っていない道を進むと、その先は行き止まりの拷問部屋。そこには地上に出ることを許されない実験の成れの果てが閉じ込められていて、中には近付くだけで悪影響を受ける危険な異能を有する個体もいる。
その中でも特に注意すべきは、開闢王の実験室の一つ手前の分かれ道。交差点のように幾多も道が分かれた一際広い空間、その分かれた路の中に一つ、絶対に進んではならない路がある。
とはいえ、その路を間違って進むことは殆ど無いだろう。何故ならその路にだけ、入り口が有刺鉄線の柵で封じられているのだから。見ただけで危険だと解るように。自分以外の誰もが其処に立ち入ることの無いように。開闢王手ずから、その路を封じている。
其処は黒縄地獄の禁域。開かずの間。その奥に眠る厄災の正体を知る者は、例えば拷问教會の幹部のような、極限られた者だけである。
「…………」
つまり拷问教會の幹部第十二席、シスター・アガタ――阿片美咲も当然、知っていた。
そんな彼女はまさに今、アグネスに手渡されたピクニックバスケットを片手に、開闢王の実験室へ赴くその道中――禁域の前を通りかかった。通りかかって、立ち止まっていた。
有刺鉄線の向こうから聞こえてくる息遣いが、まるで見えない手のように、美咲の足首に絡みついて、離さない。そんな幻覚に、美咲は歩みを阻まれていた。
見てはいけない。決して覗いてはならない。有刺鉄線の向こう、禁域の路の奥、そこに視線をやること、考えを巡らすことすら、開闢王は禁止している。
阿片美咲は知っている。禁域に眠るものの正体が、たった一匹の怪異であることを。その正体を知って、知った上で、恐怖で足が竦み、うまく呼吸ができなくなる。それについて考えるだけで、気が違いそうになる。思考が恐怖に支配される。
「っ……は……は……」
しかし開闢王はこれを手懐け、隔離した。開闢王の成し得た数々の偉業の中でそれは最も特別で、他の誰にも真似出来ない。だから黒縄地獄の王は世代交代が発生しない。開闢王の代わりなど存在しない。開闢王を黒縄地獄の支配者として決定付けているのは、実のところ、この怪異の存在が大きいのだ。おお、偉大なる我等が開闢王――――
「く――……っ、ふ、ぅ……」
美咲はようやく息を吹き返したように、呼吸を自覚する。『もしも禁域の怪異に思考を支配され、うまく呼吸ができなくなったなら、僕のことを想いなさい』――開闢王の教えの通りに実践すると、先程まで底なしの闇のように頭の中を支配していたそれが嘘のように晴れていく。
血の気が引いて空っぽだった頭の中に、再び熱い血潮が巡っていくのを感じる。美咲は大きく息吸って、吐いて、ようやく一歩、前に進むのだった。
松明の道標の通りに進んでいって、その最奥、開闢王の実験室手前まで辿り着いた美咲。ピクニックバスケットの悪趣味な中身を届ける為、部屋の扉をノックしようとした矢先。
「――嗚呼、素晴らしい」
部屋の奥から聞こえてくる歓喜の悲鳴。それは美咲にとっても初めて耳にする、開闢王本人の、感情の宿った声色だった。錆びた鉄製の扉、その僅かな隙間から漏れる灯りの中を、美咲はそっと覗き込む。
「まさか虎の子のチェーンソーですら歯が立たないとは。刃のほうが一方的に欠けてしまいました。素晴らしい……ですが、些か。ええ、些か……ショックですね。虎の子だったのですが……」
美咲からは開闢王の後ろ姿しか見えず、その奥にあるであろう幻葬王、芥川九十九の姿は確認できない。開闢王は明らかに落胆した様子で、欠けた刃を名残惜しそうに撫でている。
「異能の発動条件下にあったシスター・アグネスの膂力にさえ拮抗していた。恐らくはシスター・エウラリアの怪力を以てしても破壊は困難でしょう。無論僕自身の腕力なんて以ての外。赤子と喧嘩をしても負ける自信がありますよ僕は――おっと」
瞬間、どこからか伸びてきた黒い『腕』が、開闢王の右腕を引き千切っていった。それに些か驚いたような素振りを一瞬見せる開闢王、地面に転がる自分の右腕を、ほんの少し唖然としたような様子で見つめている。
「……いけない。今のは失言でした。この僕としたことが、嘘だなんて……恥ずかしい」
ばつが悪そうに自分の右腕を拾い上げる開闢王。その光景に色々な意味で一人唖然としている阿片美咲。
「(き……気になる! ペストマスクの内側が今どうなっているのか、どんな表情を開闢王は浮かべていらっしゃるのか……!)」
「危ない危ない……こんな恥ずかしい姿、もし誰かに見られていたら……恥ずかしさのあまり、目撃者を消さなければならないところでした」
「(……よし。絶対に音を立てないようにして速やかにこの場から離れよう。見ていない。私は何も見ていない……)」
ひとりごちる開闢王から視線を離し、美咲は手持ちの荷物を扉の前にそっと置いて、その場からゆっくり静かに離れようとする。
「……嗚呼。違う、違う。今はそんな、ことよりも」
そんな美咲の歩みが、息が、止まる。
「考えなければ。何か、手立てを。考えなければ……」
悩んでいる。頭を悩ませている。あの開闢王が。たった三百年程度しか生きていない、一匹の小娘を相手に。
「……やはり一度、シスター・フィデスと連絡を取り協力を仰ぐ必要がありますか。彼女は嫌がるでしょうが……ああ、そうだ、そうです。ひょっとすると、シスター・バルバラの異能が有効かもしれません。ああ、しかし彼女も今は第六階層で……――」
そして。その悩みすらも、今の開闢王にとっては。
「嗚呼――非常に。面白くなってきましたね」
何よりのご馳走なのである。
幹部の中で最も若く暦の浅い第十二席でさえ、今の開闢王の変化は一目瞭然だった。だって、あんなに楽しそうな声色、聞いたことがない。あんなに楽しそうな素振り、私達の前でさえ、見せたことがない。
「……そうか」
あの人をそうさせているのは、芥川九十九だ。
「……芥川九十九、あんたは……ここでも、求められるのか」
美咲は淀みない動作で踵を返し、来た路を引き返す。吐き捨てる美咲の声色は、かつてない苛立ちが込められていた。
◆
開闢王は予てより幻葬王の身柄を欲しがっていた。しかし幻葬王の実力は誰もが知るところである。あの荒れ果てた第一階層が二百年以上もの間、他階層の王に侵略されることもなく今の形を維持してこれたのは、ひとえに幻葬王の武勇あってのこと。故に今に至るまで開闢王は第一階層に手を出すことが出来ずにいた。
だからこそ、幻葬王が大聖堂を来訪したあの瞬間、シスター・アグネスは作戦を決行した。噂を広める風を利用して速やかに開闢王へ状況を伝達し、拷问教會総出で幻葬王御一行を監視、隙を見て従者を人質に捕らえ、幻葬王との交渉に利用する作戦である。
当初の予定では開闢王が第七階層から戻ってきて万全の体制が整った後、じっくりと事を運ぶ予定だったのだが――どういうわけだか想定よりも早く単独行動を取り隙を見せた一ノ瀬ちりに始まり、阿片美咲の独断先行による一ノ瀬ちりの捕獲、それに思いの外早く勘付いた芥川九十九の襲撃に、開闢王の帰還がギリギリ間に合って、芥川九十九を捕獲に成功――と。
想定以上の早さで展開は進み、結果として作戦は上手くいったのである。
◆
そうして、芥川九十九の捕獲から三日が経過したこの日。
開闢王の実験室から引き返し、長い通路をしばらく歩いて、美咲は再びあの交差点の大広間に辿り着く。そしてまた、美咲は其処で立ち止まった。今度はあの禁域の前ではない。分かれ道のもうひとつ。松明の灯っていない、狭い路の前で美咲は足を止め――少しの躊躇いの後、進行方向をその路の先へと変更する。
松明の灯っていない闇の中、通路を進んでいくと、そこは数多ある拷問部屋の一室。錆びた鉄製の扉の上部の僅かな隙間から、美咲は中の様子を覗き込む。その部屋の中、壁に掛けられた血塗れの拷問器具に囲まれたその中央には――椅子に縛り付けられた赤の少女、一ノ瀬ちりが居る。
一ノ瀬ちりは拷问教會からの尋問及び拷問に抵抗の姿勢を見せていたが、芥川九十九が捕まったことを知らされてからと言うもののすっかり大人しくなって、また開闢王の命令もあり一ノ瀬ちりに対する尋問及び拷問は中断されたのだった。
手出しはされなくなったものの、未だ彼女には人質としての価値があり、この大聖堂の地下迷宮、拷問部屋にて幽閉は続いている。
そんな一ノ瀬ちりが閉じ込められている部屋の前、赤い鉄錆の扉の前で、阿片美咲は立ち止まった。扉の隙間から垣間見えるちりは、両手首を後ろに縛られ椅子に腰掛けている状態のまま、殆ど変化を見せない。赤く長い前髪が俯いた彼女の表情を覆い隠している。等活地獄においては幻葬王の右腕、赤い狂犬と畏れられた面影はどこにもない。
「(――あの頃の面影がないのは、私もそうか)」
美咲の指が赤錆をそっと撫でる。黒いマスクが耳まで裂けた口端を隠して、その表情は一ノ瀬ちり同様、やはり窺い知れない。
「あらあら。どうしたのかしら。こんなところで」
不意に降ってきた、その声。耳元で囁かれたことに気付き、背筋を悪寒が奔る。美咲は咄嗟にその場から飛び退いていた。
「驚かせてしまったかしら。ごめんなさいね」
美咲が振り返ると、シスター・アグネスがそこにいた。息を殺し、足音を消して、美咲の背後に忍び寄っていたのだ。
どういうつもりだ、とは言わない。いや、言えない。これが八尺様という怪異なのだ。
享年、生年月日、地獄での存在期間――ありとあらゆる情報を参照し、その結果自分よりも幼いと確信した相手に対して、絶対的な優位を獲得する異能。アグネスに目を付けられれば最期、何においても優位を取られてしまう。
力では敵わなくなるし、速さでも追いつけなくなるし、どこにいても居場所を察知され、気付けばいつも背後を取られる。まるで子供の命を玩具のように弄ぶオトナのような理不尽さ。相手が子供なら幻葬王にさえ匹敵する。これがシスター・アグネス。拷问教會の第八席。子供殺しに特化した怪物である。
「……食事は、置いてきた」
精一杯睨み付け、辛うじて出たその言葉。敵意を剥き出しにした態度にさえ、アグネスは柔和に微笑み返してみせる。可愛いとすら思っているのだろう。アグネスにとって阿片美咲は、シスター・アガタは、ただのやんちゃな子供に過ぎない。
「良いわよねえ」
「……あ?」
アグネスはその長い腕を持ち上げるようにゆっくりと動かして、先程まで美咲が撫でていた扉の赤錆をなぞるように、自身の指の腹を押し当てていく。
「この中に居る、ほら……赤い髪の子。元気で、若くて、可愛らしい女の子」
指先に込められる力が次第に強くなる。厚い扉が微かに軋む。
「開闢王の言いつけですもの。我慢しているのよ? 我慢しているのだけれど、ええ……どうしても、どうしてもね? 味見をしてしまいたくなるの。困ったわ……」
そう嘯くアグネスに、美咲の吊り上がった眼光が鋭さを増す。それを受けて尚、アグネスは涼しげな表情を浮かべるばかりで。
「……ねえ。傷を付けない程度になら……手を出しても問題無いとは思わない?」
「やめろ」
即答だった。
「あの女には手を出すな」
言葉に憤りが、苛立ちが乗る。あるいは焦燥か。阿片美咲に余裕は無い。見え透いたそれを、アグネスは鼻で嗤う。微笑み、目を細める。頬に微かな朱が挿し込む。――活きの良い獲物ほど、食べごたえがあるというものだ。
「……ええ、ええ。わかりました。我慢します。我慢いたしますわ。あの子には手を出さない……ええ、その代わり――」
ずい、と長身屈ませて、アグネスは美咲の目と鼻の先にまでその顔を近付ける。
「……ッ!」
不意に伸びてきたアグネスの大きな掌が、美咲の臀部を撫で上げた。背筋を悪寒が走る。嫌悪で体が震える。この手に幾度となく触れられてきたが、決して慣れることはなかった。
「うふふ……可愛いわあ……可愛い……大丈夫ですよ……いつものように、ちゃあんと……優しくしてあげますからね――」
独りよがりの熱を吐息に乗せて、アグネスの唇が美咲の耳元にまで迫る。美咲はぎゅっと目をつむり、身体を強張らせる――が、しかし。
「――…………?」
それ以上、あの気持ち悪い感覚が襲ってくることは無かった。美咲が薄く目を開けてみると、どういうわけかシスター・アグネスの動きは止まり、その視線は天井へと向けられていたのだった。
「……あらあら。やっと来たのね。うふふ……」
アグネスは呆気なく美咲からその身を離し、天井へ向けた瞳を猟奇的に細める。その瞬間からもう、アグネスの興味は自分から別のものに移ったことを美咲は察していた。
「お客さまがお見えになりました。きっとお友達を探しに来たのね」
シスター・アグネスは『八尺様』としての異能で子供に対し優位を取れる。アグネスは九十九たちと初めて会ったあの時から、既に彼女たちを子供認定していたわけである。ある程度近くに居れば、アグネスはその子供の気配を見ずとも察知できる。
アグネスの口ぶりからして芥川九十九と同行していたあの黒髪の女のことを言っているのだと美咲にも察しがついた。
「ちょっと行ってきますねえ。帰ってくるまでお預けですよ、シスター・アガタ」
美咲の傍を離れふらふらと長身を揺らし暗闇の中を進んでいくアグネス。
「…………クソが」
その大きな背中を、美咲の鋭く吊り上がった眼光がいつまでも睨み付けて――
「アレが今のテメーの仲間か」
――そんな時だった。
「(…………ああ、なんて日だ)」
錆びた鉄扉の向こうから聞こえてきたその声が――再び、阿片美咲の心臓を鷲掴んだのは。




