黒縄地獄 16
黒縄地獄の大聖堂。そこには関係者にしか出入りを許されない、地下空間が存在する。
錆びついたパイプオルガンを動かして、床の下、『無断立入厳禁』と書かれた蓋を剥がした先の隠し階段。そこを下ると、洞窟のように長く入り組んだ迷路が現れる。
松明に沿って奥へ奥へと進んでいくと、途中に現れる『十三号坑道』と書かれた標識。その指し示す方向に従って、数多の拷問部屋へ繋がる別れ道を幾度か通り過ぎた最奥にて待ち受けるその場所こそが、開闢王の実験室である。
その部屋には壁に夥しい量の拷問器具が掛けられている。空間の中央には数多の血潮を吸い黒く汚れた寝台が設置されていて、傍に立てかけられた一本の松明だけが薄ぼんやりとその周辺を照らしていた。
そしてその灯りの中央、縄のようなものでそこに縛り付けられ、今まさに寝かしつけられている彼女こそが、等活地獄の幻葬王、芥川九十九。薬で昏倒させられ、囚われの身となったそんな彼女を見下ろすのは、正体不明、理解不能の黒い魔女。ペストマスクの怪人、黒縄地獄の開闢王。
仄暗い部屋の中。ごり、ごり、ごり、ごりと、鈍い音がそこら中に響き渡って。やがて芥川九十九は、その音に半ば叩き起こされる形で、微睡みの中からようやく覚醒したのだった。
「……………………」
息をしている。心臓が動いている。手足の感覚は無く、意識は依然泥の中に沈んでいるようだったが、自分がまだ機能していることだけは解った。解ったから、芥川九十九はすぐに状況を把握しようとする。
瞼をどうにか持ち上げると、松明の淡い光が眼窩の奥を刺激する。それに伴って次第に目が暗闇に慣れてきて、そこでようやく――――ごり、ごり、ごり、ごり。
「…………あ」
彼女はその音の正体を理解する。
寝台の上に縛り付けられた芥川九十九の身体には、黒い炭のような色料でその肌に直接、切り取り線のような模様が描き込まれていた。そして左腕の関節、模様が描かれたその部位に、開闢王は鋸のような刃物を挿し込んで――ごり、ごり、ごり、ごり。引いて、差して、引いて、差して。そんな動作を繰り返している。
その行為が、どうやら自分のこの腕を切断しようとしているものなのだと――理解した瞬間、希薄だった感覚が一気に蘇り、頭に血が上っていく。
「なっ……に、やってんだ、おまえ……っ!?」
咄嗟に、跳ねるようにその場から飛び退こうとする九十九だったが、しかし思うように体が動かず、九十九は縛られたまま寝台ごとその場に転倒してしまうのだった。
「……おや。お目覚めでしたか」
開闢王は些かの驚きも見せず、いつもの淡々とした口調で。その巨体を大袈裟なほど屈ませて、足元に転がる芥川九十九をその寝台ごと元の場所に起こしてみせる。
「やはり頑丈ですね貴女は。こんな物では精々が皮膚に掠り傷を付ける程度。しかしどうやら毒は依然抜け切ってはいない様子。貴女の中身は外殻ほど刺激に強いわけではないようだ」
混乱する九十九の脳内に、先の戦闘がフラッシュバックする。芥川九十九は数百年の戦闘に渡って、ただの一度も身体を欠損させたことがない。あの黄昏愛との戦闘ですら、かなり消耗はしたが、それでも腕が引き千切られるなんてことはなかった。事実、開闢王が今手にしている鋸では九十九の左腕に血が滲む程度の掠り傷程度しか付けられていない。
しかし現に、芥川九十九の右腕は、あの『腕』によって引き千切られて――いない。
あの時確かに引き千切られた右腕は、九十九が意識を失っている間にすっかり元通り。傷口を縫合され接着されていた。痛みを感じないのは薬物がまだ体内に残留しているからだろうか。
「手荒な真似をしてしまい申し訳ありません。右腕はご覧の通り修復させていただきました。ご安心ください」
「……っ」
開闢王の温度を感じられない物言いに、もはや何を言っても無駄だと悟る九十九。しかし満足のいく悪態のひとつも思い浮かばないので、ただ苦い表情を浮かべるばかりであった。
「しかし貴女の物理耐性には驚愕です。通常の器具を用いた方法では貴女の解剖は不可能でしょう。貴女の皮膚を物理的に傷付けるには、それこそ異能のような常軌を逸した手段が必要です。僕が行使可能な範囲で効果的な手段といえば『腕』くらいのものですが、しかしあれは僕の完全な制御下にはありません。拷問以外の用途、繊細な作業には向いていない。それに貴女にはもう、あれは通用しないでしょう。嘘さえ吐かなければ、あれが起動することは無いのですから」
通用しない、とはよく言ったものだ。それはつまり、腕で無理矢理に解体されたくなければ嘘を吐かず真実だけを述べよ、というある種の脅迫に等しい。
「残る手段は薬物投与による実験のみとなりますが。しかし僕はこれをなるべく実施したくはありません。これの成功率は極めて低い。殆どの者が満足のいく結果を得られる前に廃人と化してしまいます。なので幻葬王、文字通り死人に口無しとなる前に、是非貴女の口から直接秘密を訊き出しておきたいのですが」
それは喋っているというより、ただ文字列を読み上げているだけの機械音声のような。どこで息継ぎをしているのかも解らない、生命の息吹を感じない淡々とした口調が、九十九の心をざらつかせる。
「答えてください。幻葬王には誰にも言えない秘密がある。その真実を。貴女の秘密が我々にとって有益なものとなるかもしれません。是非協力を」
秘密。思えば、黄昏愛との因縁もそこから始まった。どうやら幻葬王の秘密とやらは、他人には甘美な響きに聞こえるらしい。しかしまさか階層を跨いで噂が広まっているとは思いもしなかった。どうせあの案内人が面白がって誇張して、地獄中に流布しているのだろう――
「……いいだろう。こんなもの、いくらでも答えてやる」
表情の変化に乏しい九十九にしては珍しく、その時は他人から見えもはっきりと解る程、自嘲気味な笑みを浮かべていたのだった。
「貴様の期待に応えられるとは、到底思えないが」
「と言うと」
開闢王は僅かに身を乗り出す。
「秘密なんて大層なものじゃない。私はただ――殺されたら死ぬ。それだけだ」
そうして芥川九十九は、勿体ぶることもなく、さらりと言ってのけるのだった。
「――――…………」
開闢王の動きが止まる。逡巡――否、茫然。次に放つべき言葉を見失っているような、そんな静寂が不意に訪れる。
「…………死ぬ? それは、つまり」
「言葉通りの意味だ。私はどうやら、他の怪異とは違って――たった一度、殺されたら死ぬ。恐らく二度と目を覚まさない」
腕は発動しない。つまり芥川九十九は嘘を吐いていない。
「どうだ。幻葬王の秘密は、開闢王の御眼鏡に適ったか」
自らの秘密を呆気なく吐き捨て、挑発的に睨み付ける九十九。
その鋭い視線を前にして、ペストマスクの怪人は――
「素晴らしい」
――静かに、歓喜に打ち震えていた。
「この世界に死という概念は存在しない。つまり我々は生きているのではなく生を再現させられている。死が無ければ生は成立し得ない。我々はこの世界において怪異という事象そのものを依代とした影法師でしかない。ただヒトだった頃の在り方を再演しているに過ぎない。ところが貴女には死が存在するという。殺されたら死ぬ怪異。ありえない。受け入れ難い。奇跡と呼ぶにはあまりにも常軌を逸している。異常、そう呼ぶ他無い。恐らく貴女という存在は閻魔大王にとっても予期せぬ現象であるに違いない。であるならば――」
突如として、言葉が夕立によって決壊したダムのように溢れ出す。
「――救いだ。嗚呼、素晴らしい――僕はようやく、■■■を■せる」
この時初めて九十九は、ペストマスクの向こう側に命を感じていた。その声色に、生きている者の感情が伝わってきた。
「感謝します。感謝します幻葬王。貴女にこの感動が伝わるだろうか。嗚呼、ようやく辿り着いた。ようやく立てた。ここからです。ようやく始められる。これより先は悪魔を証明するが如き茨の道。でも大丈夫。貴女と一緒ならきっと乗り越えられる。さあ解剖だ。やはり解剖しなくては。どんな手を使ってでも貴女を解剖してみせます。その体の奥底に答えは眠っている。それは貴女自身も気が付いていない未知の領域。希望がそこにある」
開闢王の興奮し切った様子に九十九は言葉を失っていた。呆気に取られていた。だから気が付くのが遅れてしまう。ちくりと、不意に首筋を何かが挿さる感触。直後、覚えのある倦怠感に襲われ、意識が再び泥の中へと沈んでいく。視界は歪み、体が冷えていく。
開闢王は空の注射器を宙へ放り投げ、そのまま両腕を大きく広げ、天を仰ぐ。周囲の空間が黒く罅割れる。割れ目から細く長い黒の鉤爪が伸びてくる。空気が揺れている。地鳴りが響いているようだった。
それが薬物による幻聴か幻覚か、芥川九十九に判断する術は最早無い。何もかも悪い夢のような気さえして。優しく遠のいていく意識に感覚を委ねることしか許されない。
誰かが耳元で何かを囁いている。何を喋っているのか。そもそもそれは意味のある言葉の羅列なのか。芥川九十九にその全てを理解する理性は残っていない。
けれど、本当の本当に最後、意識が途絶える、その刹那。
「さあ、僕と一緒に――――世界を救済しましょう」
その一節だけは、はっきりと聞き取れたのです。




