黒縄地獄 15
ヒトは死ぬとその瞬間に体重が21グラム減るという。
諸説あるが、それが仮に『魂に蓄積された記憶の重さ』だとしたら。果たしてその消えた記憶は、一体どこに行ってしまったのだろうか。
その行きつく先の答えこそが地獄であった――というのが、俺の見解だ。
ならば地獄、即ち死後の世界とは、魂の記憶を蒐集する場所だったと仮定することが出来る。そもそも地獄という場所には最初何も無く、死者の記憶を蒐集した結果として今のカタチになったとも云われている。
地獄はあくまでも記憶を蒐集する場所。つまり我々の魂は地獄にとってオマケも同然で、我々は地獄に蒐集されることで、その副次的な結果として怪異へと転生するわけである。
しかし、そもそもの話。なぜ地獄は、記憶を蒐集しているのか? なぜ人間は、怪異へと至るのか? これが解らない。合理的な説明が付かず、研究者の間でも長年ブラックボックスとされてきた。ただそういうモノだとして誰もが知らぬままに受け入れている、極めて根源的な謎である。
この疑問に対し、俺は俺なりの解答を、ここに記そうと思う。
怪異の依代となっているのは、伝承や都市伝説といった我々が生きていた頃の世界――現世においては全て空想とされる物語である。空想とは、つまり実在しないということで――実在しないということは、つまり滅びないということだ。
実在するものは須く、いつか必ず滅びてしまう。当たり前のように人間は死ぬし、天体でさえいつか必ず終わりを迎える。全ての物質は有限であり、例外は無い。
しかし、最初から実在していないのならば話は別だ。伝承も、都市伝説も、創作も、怪談も、噂でさえも――物語に分類される空想は須く、物質ではない。物質としての実在性が無い。ならば。物質界に実在していないのなら、それは存在していないということになるのか?
否だ。答えは否。だって我々は認知している。物語を。無いはずのものを。その存在を認識している。我々の世界に実在していないというだけで、それらは我々の世界の『外側』で確実に存在している。我々が滅んでも、それらは存在し続ける。決して滅びることは無い。万物は有限だが、物語は無限で不滅である。
そうすると、このような仮説もまた考えられる。
地獄は死後の世界ではない。もっと言えば、人間の為に用意された世界ではない。
地獄は物語が棲む世界なのだ。我々は物語を依代にしているのではなく、物語の方が地獄という世界で受肉する為に我々を依代にしているのだ。
だとすれば。自分のものだと思っているこの人格も、感情も、記憶でさえ、全て知らず知らずの内に、物語によって支配されているのではないだろうか。つまり人間が怪異に成っているのではなく、怪異が人間に成っているのではないだろうか――
最初にこの説を俺が唱えた時、同胞からは妄想甚だしいと苦言を呈されてしまった。妄想。確かにそうだ。だって証明のしようがない。仮に事実だったとしても、我々にはどうしようもない。妄想としておいた方が我々にとってはむしろ都合が良い。嗚呼、地獄においても人間とは、なんとも矮小な生き物である。
人間が怪異に成るとどうなるか。そのプロセスについても触れておく。
怪異化に伴って、人間は地獄に堕ちる際にまず、自身の記憶の中から物語が参照される。俗に走馬灯と呼ばれるそれは、地獄が人間に新たな肉体となる依代を与える為の判断材料となる。
判断材料の中から最も近しい在り方の依代が選出され、人間はそれを新たな器とし地獄へ転生する。
これは全ての怪異が経験していることだろう。そう、あの『声』だ。俺達はあの『声』に導かれるまま、気付けばあの『列車』に乗っていて、あの『案内人』と遭遇する。
怪異化の際、怪異は様々な恩恵が得られる。異能もその一つだ。現世ではありえない超常現象を自発的に引き起こす事の出来る、いわゆる超能力である。
そして怪異の肉体には死の概念が存在しない。正確には、死んでも時間経過によって元のカタチに復元される。これを祝福と捉えるか呪いと捉えるかは個人の見解に因るだろうが、俺は後者だと思う。
異能も、不死性も、人間には過ぎた代物だ。そのくせ、感覚器官は生前と同様に機能している。人間に扱えるべくもない超常のチカラが、全ての怪異に備わっているわけだ。その結果どのような事態が引き起こされるか……今の地獄の有様を見れば一目瞭然だろう。
これら異能や不死性といった呪いは、この世界の神――便宜上『閻魔大王』と呼ぶ――によって齎された、人間に対する嫌がらせではないかとする説もある。俺もそれに一票だ。面白い。仮にも地獄、人間に罪と罰を与える場所なのだ。ただ人間を苦しめたいというだけなのかもしれない。この世界の神は人間が永遠に苦しむことを望んでいるのだろう。
以上、全てが憶測だ。真実は誰にも解らない。地獄がいつから存在しているのか、閻魔大王は本当に存在するのか、本当に怪異を完全に殺す方法は存在しないのか――誰も教えてくれないし、知る者などいない。
ただ――俺が識っている真実は、ひとつだけ。
怪異は永い時の中で、次第にヒトだった頃の名残を失っていく。名を、体を、心を忘れ、それでも在り続けた者だけが『完全な怪異』――この地獄の一部となる。
あるいはそれが、あの『案内人』や『列車』の正体なのだろう。今我々が踏み締めているこの黒い大地も、枯れた木々の群れも、川の流れも、あの太陽さえも、かつてはヒトのカタチをしていたのかもしれない。
どうやら怪異はいずれ地獄そのものと一体化する運命にある。それがいつになるかは解らない。個体差があるのかもしれないし、他の条件があるのかもしれない。だが、そうなってしまっては手遅れだ。自我を失い、ただの概念へと成り果てる。それでも死ねない。死ぬことが許されない。
――これが、地獄転生の真実。我々人類にとって、逃れられない末路である――
◆
黒縄地獄、暗黒街の中央区、黄泉の坂の頂、大聖堂にて。『拷问教會』の信徒達は、今日も変わらぬ日常を過ごしていた。大聖堂として一般開放している空間から壁一枚隔てた奥の部屋、大きな木製のテーブルに所狭しと並べられた皿を囲んで、信徒達は着席していく。
『拷问教會』――自らを、ひいては自らが所属する組織のことを、彼女たちはそう呼んでいる。開闢王は黒縄地獄を自らの根城とすべく、その権威を確固たるものとすべく、かつて不毛の地だったこの地に『救済』を齎した。
それがきっかけとなり、やがて開闢王を中心とする秩序が生まれ、黒縄地獄の住人達は不吉の黒い魔女を開闢王と呼び、信仰するようになっていった。
地獄においてはある種の宗教団体と言えるが、その規模は並のそれではない。かつて黒縄地獄に点在していた複数の勢力は、今やその殆どが『拷问教會』に統合され、黒縄地獄一帯に棲む殆どの怪異が拷问教會の信者なのである。開闢王はその名の通り、この地を開闢し、支配したのだ。
さて、今日信徒たちの前に並べられたるは陶器の皿が一枚。その上には、たった一本の注射器である。それを前に信徒達は祈るように両手の指を絡ませ握り、目を瞑って、そして誰からともなく祝福の言葉を紡ぎ始めた。
「主よ。いずれ至るその日まで、苦しみ続ける我等に『救済』を――ただ一時の安らぎを、慈悲なる恵みを――祝福の機会を、感謝いたします」
ステンドグラスに挿し込む光が大聖堂を黒く照らす。漆黒の輝きの中、信徒達は皿の上の注射器を右手に取り、慣れた手付きで左腕の裾を肩まで捲くりあげると、肩と上腕の間、縫うようにその針を、自らの肉体に突き刺した。
その時、信徒達には確かにそれが聞こえていた。どこからか流れてくるパイプオルガン、その荘厳なる旋律が。ポンプを押し込んでいくごとに、信徒達の肌は浅黒く、目は充血し、口からは涎を垂らし始めて、そして――
「Hallelujah」
歓喜の声が、地獄全土に響き渡る。
「Hallelujah Hallelujah Hallelujah Hallelujah Hallelujah」
此処は黒縄地獄。地獄の第二階層。開闢王の齎した『救済』――即ち、人間を材料にして作った薬物による一時的な超快楽が、この階層に秩序を齎した。
この階層のほぼ全ての住人は『救済』のために働いている。『救済』だけがこの階層における絶対的な価値であり、その価値は命よりも重い。
そんな『救済』だが、製造方法は至ってシンプル。人間をミンチにして、そこに異能を加え、煮込むだけ。そうして抽出された肉の原液を、そのまま飲むもよし。乾燥させ固形に加工したものを食べるもよし。粉末状にして吸引するもよし。このように様々な形状の『救済』が製造・販売されている。
そもそも、人間の肉を摂取するだけで何故ここまでの超快楽を得る事が出来るのか。
人間が人間の脳を食べると、異常を起こしたタンパク質が脳に蓄積されてしまい、結果として脳が変質を起こしてしまう。この変質こそがいわゆるクールー病やプリオン病と呼ばれるものの原因となるわけだが――
しかしこの地獄では肉体のあらゆる損傷は元の形へと強制的に戻される。脳の変質を元の形に戻そうとするその過程で、脳が誤作動を起こし、それが強い刺激となって処理される。救済とはとどのつまり、この過程に生じる快楽を楽しむ薬物なのだ。
労働には対価を。この階層の住人は、そのほとんどが開闢王の為であれば身を粉にして働くことを誓っている。その対価として、信徒達には『救済』が与えられる。『救済』は天国への片道切符。『救い』によって天国へと誘われた者は、現世ですら味わったことのない絶世の快楽を僅かな時間得ることが出来る。
けれど、太陽に近付き過ぎて墜落したイカロスのように、『救い』もまた求め過ぎればいずれその身を滅ぼすことになる。副作用が肉体を蝕み、精神を犯し、ヒトのカタチすらも失って、ただのモノへと成り果てる。
それでも信徒達は『救済』の為ならば、天国へと至る為ならば、自ら望んで太陽に手を伸ばし、身を焦がす。そうして天国へと果てた末、その亡骸がまた誰かの『救済』の為の材料となる。これによって黒縄地獄における経済は回り、見事に等価交換の社会が形成されていた。
今や開闢王の『救済』は黒縄地獄内部に留まらない。他階層への輸出品として『救済』は手を変え品を変え全地獄に広まりつつある。それに伴い、各階層に拷问教會の一員がスパイとして潜伏していた。まさにその名の通り、秘密結社として彼らは全地獄で暗躍しているのだ。
かくして。今日も彼ら薬物中毒集団は、元気に救済っているのでした。
◆
「ごきげんよう、シスター・アガタ!」
大聖堂の裏手門、ハレルヤの大合唱から抜け出す名目の為、焼却炉の前で火の番をしながらヤンキー座りをしている一人の少女が其処にいた。
布の黒マスクを顎下にずらして、一人もうもうと煙草の模造品を指の間で燻らせているその少女。黒毛まじりの金髪の修道女、シスター・アガタ――阿片美咲に、遠くからシスター・エウラリアが声を掛ける。
「今日も良い救済日和ですわね!」
シスター・エウラリア。両足の無い、車椅子の修道女。栗色のツインテールをドリルのように捻らせて、大粒の宝石のような緑の瞳をぱちりと開いて。絹ごしのようなその白い素肌の毒にならぬよう日傘をさし、車椅子をまるで体の一部のように慣れた手付きで扱う様は優雅なもので、けれどそんな彼女の痩せ細った中指と人差し指の間にも、やはり煙草の煙が揺蕩っている。
躊躇いなく傍まで近寄ってくるエウラリアをちらり目をやって、すぐに興味も失せたように視線を手元に落とす美咲。それでも構わず、いつものようにエウラリアは語りかけるのだった。
「昔のご友人と久し振りに再会できた気分はいかが?」
瞬間、美咲の細い眉が僅かに釣り上がる。
「……何の話だ……」
「あら、違いまして? ほら、あの赤いの……ちり、とかいう名前の。等活地獄に居た頃の古馴染みだったのでは?」
明らかに苛立ちの色を見せ始めた美咲に「なんかそんな感じの雰囲気醸し出してましたわよね?」などと気安く言葉を続けるものだから、さあ大変。
「……うるせェ……」
「はい?」
「……うるせェつってんだよ。私に近寄るな、話しかけんな。いつも言ってんだろうが。学習しろ……このバカ……」
「なっ、ななっ……!?」
売り言葉に買い言葉。アガタとエウラリア、これがいつものふたりの日常である。
「あ、あ、あなたという人はぁぁぁァァアッ!! ほんッッッとうに可愛げがありませんのねッ!? せっかくこのわたくしがッ!! あれ以来なーんか妙に元気なさげなあなたのために、こうしてわざわざ気を利かせてあげてですねぇ!!」
「誰も頼んでないし……」
「ムキィィィイイイイッ! なんて可愛げのないッ! いい加減捻り潰しましてよッ!?」
「……やってみろ。その可愛い顔を今すぐズタズタに切り裂いてやる……」
「誰の顔が可愛いですってぇぇぇええええッ!? ありがとうございますわぁぁァアアアアッ!?」
「――あらあら、まあまあ。そんな風に啀み合うものではありませんよ、ふたりとも」
そんな二人の間に挟まるように、不意に降ってきたその声。二メートルを超えるその長身、ゆっくり傾いて、二人の頭上に影を落とす。
シスター・アグネス。2メートルを超える長身、長い黒髪、凹凸のはっきりとした身体、その胸の内に抱いた衝動を表面上取り繕う柔和な微笑の修道女。言わずと知れた、あの『八尺様』の怪異である。
八尺様。2000年代に登場した、某匿名掲示板の書き込みを原典とする創作怪談。
その名の通り8尺にも及ぶ高身長、そしてワンピース姿が特徴的な女性型の怪異。目撃情報は田舎に集中しており、それに魅入られてしまった子供はどこかへ連れ去られてしまうという怪談だ。
アグネスはそんな『八尺様』の異能を有する、拷问教會の幹部である。
「我々は偉大なる開闢王の元に集いし拷问教會。同じ志を共にする者同士、つまりは家族も同然。仲良くいたしましょう? それに……そんなに眉間に皺を寄せては、ふたりとも、可愛いお顔が台無しよ? うふふ……」
優雅に微笑むアグネス。その両腕にはピクニックバスケットが大事そうに抱きかかえられていた。
「……あら。ごきげんよう、シスター・アグネス」
「……チッ……」
あれだけ騒いでいた二人がアグネスを見た途端、揃って大人しくなる。その中でも露骨に嫌悪の表情を浮かべているのはシスター・アガタで、そんなアガタを視界の端に捉え、密かに肘でその脇を突っつくシスター・エウラリア。
「今回はあなた達ふたりのおかげで、よりスムーズに幻葬王を捕らえることが出来ました。人質の確保、ええ、お手柄ですね……」
エウラリアの差している日傘の隙間から手を伸ばし、その栗色の髪へ無遠慮に指を伸ばすアグネス。伸びてくる手を察知するや否や、自然な所作で車椅子を動かしその場から離れるエウラリア。
「そう言っていただけるのは有り難いのですが……その人質からは、何も有益な情報は得られませんでしたわ」
「あらあら……そのようなことはありませんよ。人質は、ただそこに居るだけで価値があるのです。王も大変喜んでおられましたよ……ええ、ええ……」
アグネスはすっかり上機嫌。頬に朱を滲ませて、先程から両腕で抱えているピクニックバスケットを愛おしそうに抱きしめる。
「……そういえば、今朝は王の姿が見えないが……」
気付いたのはアガタだった。朝の礼拝――ハレルヤの大合唱の中に、開闢王の姿は無かった。
「うふふ……ようやく手に入れた念願の謎ですもの。きっと今頃夢中になって解明を進めているはずですよ」
「研究熱心なあの方らしいですが……のめり込み過ぎて、体調を崩されないかしら。心配ですわね……」
「……なら、私が様子を見てくる……」
そう進言するアガタの胸中には、ただこの場から――アグネスの近くから離れたい、その一心だけだったのかもしれないけれど。
「あら……それじゃあ、これも一緒に運んでくださる?」
アグネスは両手のピクニックバスケットをアガタに手渡そうとする。アグネスとは親子ほどの身長差があるアガタは、そこでようやくバスケットの中身を確認することが出来た。確認して、アガタはやはり露骨な嫌悪の表情を浮かべるのだった。
枯れ枝で編んだ、おおきなおおきなピクニックバスケット。その中には――幼い子供の頭が、首から上の部分だけが、溢れんばかりに詰め込まれていた。それらの顔にアガタは覚えがある。夜にアグネスと歌って遊んでいた、あの子供達だ。『救済』の材料として集められた実験台達。通称、アグネスのおもちゃ箱。
「私の育てた子供たちの中から、選りすぐりのものを収穫いたしました。これを王のお食事に持っていってくださいな。ええ、まあ、あの御方はあまりお食べにならないのでしょうけれど……」
根を詰めすぎては身体に毒ですから、と。いつものように、微笑んで。シスター・アガタはそれを無言で受け取ると、足早にその場から離れる。
去り際に確かに聞こえた舌打ちにさえ、アグネスは愛おしそうに目を細め、アガタの華奢な肢体を遠くから舐め回すように眺めていたのだった。




