黒縄地獄 13
物音一つさせず、突如として大聖堂内部に姿を現した、その黒い影。彼女こそは、黒縄地獄を統べる王。『神秘貪る開闢王』と呼ばれる大怪異。
「騒々しいですね」
睨み合っていた九十九とアグネスの間を割るように、少し離れた壁際で、彼はまるで獣じみた低い唸り声のような音を、ペストマスクの向こう側から絞り出すように漏らす。たったそれだけで、芥川九十九も、シスター・アグネスも、途端にその場から動けなくなっていた。
それがいつから、どこから現れたのか? そんなことさえ些細な問題に思えて――芥川九十九はそれを前に、ただ呆然とするばかり。目の前で揺らめく不吉の象徴、その不気味な黒い巨影から、目が離せない――
「あ……あアァァッ!?」
――その時。足元で大きく何かが揺れるのを感じ、九十九の思考は現実へと引き戻された。
その振動の正体が、その場で尻もちをついたシスター・アグネスによるものだと気付いた時はもう既に。そのシスター・アグネスはというと、先程までの猟奇的な雰囲気はすっかり鳴りを潜め、突如慌てた様子で周囲のテーブルや本類を片付け始めていたのである。
「ああっ……お許し下さい、お許しくださいっ! 神聖な大聖堂で、このような……!」
まるで親に叱られた子供のように。二メートルを超える長身のアグネスが許しを請い床に這いつくばるその姿を目の当たりにして。九十九の思考は返って冷静さを取り戻し始める。
「問題ありません。そんなことよりも――」
慌てふためくアグネスに対し、黒い影は静かにそう告げながら彼女の傍へ近付いていき、その黒い手袋に覆われた大きい掌を伸ばす。
伸びてくる黒い手に、怯えたように身体を跳ね上げさせるアグネスだったが――しかしその大きな手は静かに、優しく、アグネスの頭上へと乗せられたのだった。
「僕が留守の間、貴女は幻葬王の足止めに成功した。その上で被害も最小限に食い止めている。善い働きです。僕は貴女に敬意を表しましょう、シスター・アグネス」
人間のものとは思えないほど重く低い音でありながら、その声色には確かな慈愛が込められているように九十九は感じた。そしてそう感じたのは、どうやらシスター・アグネスも同様で。先程まで世界の終わりのような青ざめていた表情が、みるみる恍惚と歓喜に満ちていく。
「ああ……ああああっ……! そんな……滅相もございません。そのようなお言葉……身に余る光栄です。ああ……我等が偉大なる開闢王……!」
乙女のように紅潮した頬、うっとりとしている潤んだ瞳で、アグネスは頭上のペストマスクを見上げる。そのやり取りを見て、九十九も目の前の黒い影の正体が、この第二階層、黒縄地獄を統べる王――開闢王であることに確信を持つ。
そうしてゆっくり首を曲げて、ペストマスクが九十九の方に向く。
斯くして、王と呼ばれる者同士の対面。九十九にとって自分以外の王とはこれが初対面でもある。
「……ちりはどこだ」
自ら王であることを否定したとはいえ――芥川九十九はやはり王の器。開闢王に負けず劣らず、並の怪異であれば一目散に逃げ出す程の威風堂々たる迫力を身に纏っている。
「――それは質問でしょうか。ならば答えねばなりません」
それに対して、開闢王は――
「幹部の報告によれば、ちりという名称の怪異――つまり貴女の御友人は我が同志達の尽力により、人質としてその捕獲に成功。現在は大聖堂の地下にて幽閉中、と聞いています」
――呆気ないほど、正直に。淡々と、機械的に言葉を紡ぐ。
「拷問――いえ、尋問を試みたようですが――彼女は意識が途絶える最後まで、何も答えようとしなかった、とのことです。なのでそれ以上の情報を僕は知りません。これで貴女の質問に対する回答を終了します」
確かに其処に居るはずなのに、開闢王の言葉からは温度というものがまるで感じられなかった。空間に放られた直後、言葉の密度がすっぽりと抜け落ちているような、そんな違和感。空虚な音。しかし九十九はそれに対する困惑よりも――語られた内容に対する怒りのほうが、やはり勝っていて。
「貴様……ッ!!」
次の瞬間、開闢王へ目掛けて突風の如く飛び掛かる九十九。悪魔の怪腕が容赦無く、開闢王の顔面を叩き潰さん勢いで振り翳される。
「あらあら……おいたはいけませんねぇ……」
しかし、それを邪魔するのはやはり、シスター・アグネス。開闢王の前に割って入り、九十九の拳を片手で受け止めた。
「退けッ!!」
牙を剥き出し、拳を連打する九十九。しかしそれもどこ吹く風、アグネスにはまるで通用していない。軽くあしらわれる――
「ん……っ? あら……?」
――と、思っていた矢先。何度目かの放たれた九十九の拳を、受け止めようとしたアグネスの掌が――その時初めて、拳を受け止め切れずに弾かれた。
八尺様。自身よりも幼いと定義した対象に絶対的な優位性を獲得するその異能は、享年ゼロ歳の芥川九十九にとって天敵と言っていい。しかし悪魔の怪力は、本来であれば絶対に勝てるはずの無い八尺様のそれに対し、徐々に拮抗し始めていたのである。
芥川九十九。彼女は悪魔の怪異である以前に、そもそもが不具合の塊――バグのような存在である。この地獄の不具合によって齎された規格外の恩恵と代償は、彼女を普通の怪異の枠から逸脱させてしまった。
実際それが八尺様の異能にどのような影響を与えているのか、定かではないものの――しかし事実として、芥川九十九の拳は今。絶対に勝てないはずの相手を、徐々に押し始めていた。
アグネスの巨体がじりじりと後退していく。そんな彼女のすぐ真後ろには開闢王が控えていて、このままではアグネス自身が負ける事は無くとも、開闢王を巻き込みかねない。その懸念が、アグネスの表情に影を落としていた。
「……申し訳ございません、開闢王。この御方、予想以上に出鱈目ですわ」
「どうやらそのようですね。これ以上の被害は僕も望むところでは無い。終わらせましょう」
九十九の口から黒い霧が溢れ出す。その白い肌がぱきぱきと罅割れていって、その奥底から人外の黒い肌が露わになる。それは等活地獄でも見せた、怪物の姿への変身能力。悪魔の如き幻葬王、その本領がいよいよ発揮されようという折に――開闢王が動き出す。
「――それでは。今度は僕から貴女へ。質問を返します」
苛烈さを増す悪魔の拳打とは、やはりどこまでも対照的に――開闢王の語り出しは、ともすれば静謐さすら帯びていて。
「幻葬王には誰にも言えない秘密がある」
そうして開闢王の口から、不意に飛び出してきたのは、そのフレーズだった。九十九自身、それは幾度となく耳にしてきたフレーズ。等活地獄で広まっている、幻葬王にまつわる噂話。本人に隠しているつもりはないのだが、実際にその真実を知る者は極めて限られている。
「僕は全てを識らなければならない。それがたとえ僅かな可能性でも僕にはそれを解剖する義務がある。無論貴女の事も、僕は僕の目的の為にそうしなければなりません」
淡々と、歯車が回るように。目の前で怒り狂う悪魔が今にも襲いかからんと牙を剥いているにも拘わらず。その魔女は、呪詛の如き言葉を紡ぎ続ける。
「貴女に拒否権はありません。今の貴女に許されている権利は僕の質問に対する回答のみ。答えを求めます幻葬王。貴女の秘密を――」
「知ったことか……! ちりを……返せ――ッ!!」
悪魔の進行を食い止めていたシスター・アグネスだったが、その防波堤を無理矢理に乗り越えるように、彼女の脇の隙間から九十九は手を伸ばす。その巨大な右腕が、ペストマスクを引き剥がさんと肉薄する――
「困りますね。質問には答えていただかないと」
――その次の瞬間。芥川九十九の右腕は、肩から先が引き千切られていた。
「…………えっ」
何が起きたのか解らなかった。突如何かに躓いたようにバランスを崩し、九十九がその場に倒れ込む。開闢王は目と鼻の先だというのに、その悪魔の右腕は自分の身体から離れ、開闢王の足元に転がり落ちている。
「質問をされたらそれに答える。それは当たり前のことで正しいことです。そんな当たり前のことも出来ないようであれば手足を引き千切られても仕方が無い。そうは思いませんか芥川九十九。等活地獄の幻葬王」
それは芥川九十九にとって、生まれて初めての体験だった。悪魔である芥川九十九は、戦闘においてただの一度も体が欠損したことなどなかった。あの黄昏愛との戦闘でさえ、九十九は五体満足で戦いを終わらせている。それほどまでに九十九の肉体は頑健であった。
しかしどうだろう。現に悪魔の身体は、その右腕は肩から先が捻じり切られており、それでいて血の一滴すらも流れていない。
「……何をした」
その異様な光景に、思わず九十九の口から疑問が漏れる。質問を、してしまう。
「それは質問でしょうか。ならば答えねばなりません」
瞬間、芥川九十九の全身に言い得ぬ悪寒が走り抜けた。開闢王は依然、指の一本動かさぬまま、ただ地に伏せる幻葬王を見下ろすばかり。しかしその周辺の変貌に、九十九は息を呑んでいた。
開闢王の周辺には、空間が歪んだように黒い亀裂が走り、そこから割れたように黒い穴が現れる。そしてそこから伸びる、触手のような黒い腕。腕の部分は細く痩せ細り、掌だけが異常に大きい。鉤爪のように鋭く伸びた五本の指が関節を滑らかに駆動させている。
そんな黒い腕が四本、まるで獲物を求め彷徨うように宙に漂っている。その異様に、芥川九十九は明確な恐怖を本能的に感じ取る。
「しかし何をしたかという問いに対して僕は正確な答えを持ち合わせてはいません。この現象に正確な名称は定められていません。これが僕の怪異としての能力であることは確かですが、僕は自身の依代である怪異の名称及び伝承についての記憶がありません。噂や声でさえこれの全容を完全に把握は出来ていません。今は暫定的に『腕』と呼んでいます。その効果は等価交換の絶対遵守。質問には答えなければならない。約束は守らなければならない。回答を拒否した者、約束を反故にした者は、代償として腕に肉体を奪われる。それがこの事象の正体です」
何もかもを包み隠さずに語る開闢王。等価交換の絶対遵守。それは自身にも適用されているのか。黒い腕は回答者である開闢王の周囲を取り囲むように蠢く。まるで一言でも偽りを騙れば最期、その手足を引き千切らんとでも言わんばかりに。それが獲物に成り下がる瞬間を虎視眈々と窺う獣のように。
「貴女は僕にとって貴重な未知であり可能性です。これ以上傷付ける事は僕にとっても好ましくありません。幻葬王。どうか僕の研究に協力していただけませんか。貴女はただ、その体を差し出していただくだけで結構です。もし協力していただけるのであれば――貴女の御友人の身柄を解放いたしましょう。さあ次は貴女の番です。回答を求めます、幻葬王。貴女は御友人を助けたいですか」
黒い腕が、その指先が一斉に、芥川九十九へと向けられる。嘲笑うかのように、蔑むかのように、こきこきと奇怪な音をどこからか鳴らして、腕は芥川九十九に這い寄ってくる。
「(――――失敗した)」
芥川九十九は悟る。初見殺しもいいところだ。こちらが質問をした時点で、等価交換のルールに則り、相手もまたこちらに答えを要求することが出来てしまう。断れば手足を引き千切られるが、かといって応えてしまっても、どちらにせよ開闢王の望み通りの展開になってしまうわけである。
しかしそれは逆を返せば、開闢王もまた、その言葉に一切の偽りを混入させることが出来ないということである。芥川九十九が開闢王に協力すれば、一ノ瀬ちりは解放される。その約束は等価交換の絶対遵守によって確実なものとして保証されるということだ。
――となると。芥川九十九に、もはや選択肢は残されていなかった。
「……本当に、ちりを解放するんだな」
「勿論。研究の進捗次第でタイミングは前後するでしょうが必ず解放することを約束いたします。無論これ以上傷付けることもなく」
「……わかった」
「よろしい」
九十九を取り囲んでいた黒い腕が霧散していく。空間の黒い亀裂はまるで最初から無かったかのように痕跡を消失させ、世界は元の景色を取り戻す。
ほっとしたのも束の間、未だ地に伏せる九十九に開闢王がおもむろに上体を屈ませ顔を近付ける。すぐ手が届く距離に居るにも拘わらず、開闢王からは人間特有の生気、生きているものの気配を九十九はまるで感じ取れないでいた。
そんな開闢王が、自身の懐から一本の注射器を取り出す。中は謎の黒い液体で満たされている。その針先を慣れた動きで九十九の千切れた右腕、その剥き出しの正動脈へと突き刺し、ポンプを押し込んでいく。それが注入されてすぐ、千切れた右腕の感覚はおろか、全身の感覚が失われていくのを九十九は実感していた。意識が次第に朦朧とし、目の前のペストマスクが歪んで見えるようになる。
「……ま、て……」
その液体が全身に回り切るより前、九十九は辛うじて保った意識の中、それは目の前のペストマスクの医師に対して。呂律が回らぬ舌を懸命に動かして、それでも言葉を紡がんとする九十九に、開闢王は静かに耳を傾ける。
「おまえ、の……もくてき……は……なん……」
どんな質問にも答えなければならない。それを利用して、せめて最後に鼻を明かしてやろうと九十九の投げかけた質問に、しかし開闢王は動揺する素振りすら見せない。
「人類を悪疫から救済する。それが僕の目的であり使命です」
古の時代から、地獄に巣食う彼女のことを誰もが知り、しかし誰も識らない。全てを識るのは唯一人。正体不明、理解不能の黒い魔女。ペストマスクの怪人。神秘貪る開闢王。
彼女は自身の目的の為ならば――この地獄に棲む全ての人類の救済の為であれば――悪魔すらも利用する。
意識微睡む幻葬王、彼女が最後に見た景色は――仮面の向こう側。闇の中で輝く虹色――螺旋を描く銀の瞳。




