黒縄地獄 12
大聖堂の巨大な門が勢いよく開け放たれる。内臓が震えるほどの剣幕で雪崩込んできた、悪魔の如き幻葬王。それをたったひとりで迎え入れるのは、やはりシスター・アグネスであった。
「あ……あらあら、幻葬王さま? どうかなさいましたか?」
まるで午後のティータイムを嗜んでいるかのようなおっとりとした口調で、シスター・アグネスの二メートルを超える長身が芥川九十九を見下ろす。
此処に来るまでの道中、芥川九十九は何度も自身の愚かさを後悔していた。何がその時はその時だ。いざその時が来て、結局私は仲間を、ちりを、守れていないじゃないか――
「……ちりはどこだ」
獣の唸り声のような低い音が九十九の喉奥から漏れる。悪魔の如き、などという異名で呼ばれるだけあって。その身に纏う迫力は、流石のシスター・アグネスもいつもの柔和な笑みを崩さざるを得なかった。よもやこれ程とは、と密かに冷や汗ひとつ。
「……なんの話でしょう。ちりさん、でしたか? あの方がどうかなさったのでしょうか?」
それでもこの期に及んで、わざとらしく首を傾げてみせるシスター・アグネス。その態度にいよいよ我慢の限界といった風に、眉間へ大きく皺を寄せた九十九が一歩、また一歩と彼女に向かって近付いていく。
「お前達が何をしているのか、私は知っている」
九十九の背後で扉がゆっくりと閉ざされていく。アグネスへ距離を詰めるごとに、周囲に潜むヒトの気配が増えていくのを、九十九は感じ取っていた。
「もう一度だけ訊く。ちりはどこだ。大人しく答えるなら、痛い思いをするだけで済ませてやる」
「……あら、まあ……」
シスター・アグネスは微笑む。けれどその微笑は、子供たちを前に向けていたそれとははっきりと異なっていた。それは不気味で、それでいて妖艶で――おぞましいほど猟奇的な、邪悪の形。
「……嫌だと言ったら?」
斯くして彼女は、その本性を忽ち顕わにしたのである。
「死ねないことを後悔させてやる」
「あら素敵……」
次の瞬間、九十九の周囲を取り囲むように、人影の群れがどこからか一斉に姿を現す。二十人はいるだろうか、黒い修道服の集団によって九十九は一瞬で包囲されていた。
「皆さん、大切なお客さまです。ですので、丁重に――生け捕りですよ」
場違いな微笑浮かべるシスター・アグネス。それに応じるように修道服の連中は次々と、鉄製の斧や縄のような物を手に取って、獣のような息遣いを漏らしている――
「邪魔だ」
しかし、たった一言。そのほんの一息で――修道服の集団は次の刹那、その全てが壁際へと吹き飛ばされる。九十九の臀部から伸びる、蜥蜴が如き人外の尾が瞬く間、周囲をまとめて薙ぎ払っていた。
攻撃されたと気付いた時には手遅れで。修道服の群れは総じて断末魔のような呻き声を上げ、一匹残らず地に伏せる。
「まあ凄い……ふふ、大したものですね。流石は第一階層の王――」
「後悔しろ」
もはや戯言など聞く耳持たぬと言わんばかり、やはり一瞬でアグネスとの距離を詰めた九十九。放たれた悪魔の拳は躊躇いなく、彼女の顔面に向かって飛び込んでいく。肉を殴る衝撃が、九十九の拳に伝わってきて――
「…………?」
――しかしその違和感に、九十九は眉を顰めていた。
「ああ……イイですねぇ……」
そこには、あの芥川九十九の拳を、片手で楽々受け止めてみせるシスター・アグネスの姿があったのだ。
驚愕に目を見開かせる九十九――しかしすぐさま冷静に、次の一手を繰り出す。流れるような動作で九十九はアグネスの腕関節を掴み掛かり、その握力で圧し折ろうと力を加えた――
「残念、あなたは私には勝てません。絶対に」
――が、折れない。微動だにすらしていない。
「……ッ!?」
それにあろうことか、彼女はそのまま腕を強引に振るい、九十九の拘束を振り払ってみせる。後ろに飛び退いた九十九、思わずその動きを止めていた。無闇に突っ込むことはせず、アグネスと距離を取る。
そんな九十九の様子を、アグネスはどこかねっとりとした熱の籠もった眼差しを遠くから向けていた。
「――だってあなた、私よりもずうっと年下でしょう?」
吐息に熱が籠もっている。頬を赤らめた恍惚の笑みを浮かべ、九十九を見つめるシスター・アグネス。その異常な表情に、言い得ぬ不気味さを九十九は感じていた。
「ああ、かわいい……かわいいわあ……うふふ。子供って、ほんとうにかわいいですよねえ……小さくて……か弱くて……うふふふ……」
アグネスの意味不明な言動はさておき――あの芥川九十九の、悪魔の怪力に真正面から対抗出来ているアグネスは、間違いなく並の怪異ではなかった。
「…………」
静かに息を整え、頭を冷やすよう努め、拳を構え直す九十九。しかしその姿をすら些細な抵抗とでも言いたげに、アグネスは余裕の笑みを浮かべていた。
「改めまして、私――『拷问教會』のアグネスと申します。我等が開闢王の忠実なる幹部、その第八席――ええ、ええ。これから長い付き合いになるのです。ちゃあんと……知っておいてくださいましね、私のこと……」
そして、次の瞬間。その一瞬で、アグネスの巨体は九十九の背後に移動していた。
「な、ッ……!?」
見えなかった。アグネスの動きが、九十九には一切。気配すら捉えられず、簡単に後ろを許してしまっていた。アグネスの尋常ならざる脚力が、振り向こうとした九十九の背中を先に蹴り飛ばす。整然と並べられていた木製のテーブルを豪快に巻き込みながら、九十九の身体が呆気もなく壁まで吹き飛ばされていた。
「ち……ッ!」
九十九は咄嗟に身体の一部を悪魔のそれへと変貌させる。その頭上に山羊の如き角が生え、背中には蝙蝠の如き羽が生える。そうして悪魔の翼を羽ばたかせ宙に浮かぶ九十九、そのままアグネスに向かって上空から襲い掛かる。音に迫る程の速さで、悪魔の拳が頭上から振り下ろされた。
「ほうら……あんよがじょうず、あんよがじょうず……」
が、やはり。アグネスは呆気なく、それを片手で受け止めてみせる。しかしこの展開は解っていたこと。だから九十九は続けざま、悪魔の尾を振るった。鞭のようにしなる尾が、アグネスの死角から迫る。
「うふふ」
しかし、それすらも。並の怪異ならば簡単に消し飛ぶ程の衝撃伴う悪魔の鞭を、アグネスは背中でまともに受け――無傷。
アグネスの大きな手が、九十九の尾を掴もうと伸びてきて――九十九は咄嗟に能力を解除。尾を引っ込ませながら、急いて後方に飛び退く。再びアグネスと距離を取った九十九だったが、その表情には僅かな焦燥が見え始めていた。
「……なんだ、それは」
そして思わず、声に出てしまうほど。それは九十九から見ても不可解な現象だった。強い弱いの話ではない。攻撃が効いていない、というのもまた少し違う。そう、まるで――次元が違う、としか形容出来ない、異常性。
次元が違う強さと言えば、まず黄昏愛を思い浮かべる。彼女は九十九との戦いの最中で成長を見せた。たった数週間で自身の異能を使いこなし、あの芥川九十九と互角に渡り合っていた。あの強さは間違いなく、他の怪異とは一線を画す異次元の強さではあった。
しかしそういう類とは明らかに異なる――不気味さ、不自然さ。存在としての不可解さを、九十九はアグネスから感じ取っていた。
「(――ええ、ええ。その違和感は正しいですよ)」
戸惑う九十九を前にして、アグネスは舌舐めずりをする。
「(何故なら私、シスター・アグネスは――『八尺様』の怪異である私の異能は、『自分よりも年下の相手には絶対に負けない』という代物)」
ほくそ笑むその姿は、まさに狡猾な怪異そのもの。獲物を前にして、彼女はその胸中で捕食の欲望を沸き上がらせていた。
「(地獄に落ちてたった二百年、しかも享年に至ってはゼロ歳だなんて……いくら強かろうと、そんな生まれたばかりのあなたにとって、私の異能は何よりの天敵でしょう?)」
拷问教會第八席、シスター・アグネス。彼女は『八尺様』の異能により、今や悪魔を超える身体能力を獲得している。自分よりも生まれの遅い者には絶対に負けない――そういう概念的な存在へと昇華していたのである。
この状態のシスター・アグネスに、芥川九十九は絶対に勝てない。そういうルールを、九十九は押し付けられてしまったのだ。そんなことなど露知らず怪訝そうな表情浮かべる九十九を、アグネスは愉快そうに眺めていた。
「……いや。どうでもいいか。そんなこと……」
しかし、芥川九十九。やはり彼女もまた並の怪異ではない。
「あら……ッ!?」
直後、アグネスの視界がぐらつく。いつの間に振るっていたのか、悪魔の尾による鞭打が、今度はアグネスの後頭部へと炸裂していた。
無論ダメージは皆無。しかしダメージは無くとも、その衝撃は肉体に伝わる。痛くなくとも体は揺らされ、視界が歪む。その隙を突いて、一瞬で詰まる距離。アグネスの顔面に、再び高速で放たれる悪魔の拳。
「何だろうと、私に出来ることは――これだけだ」
攻撃を感知した瞬間、八尺様の異能が反応する。アグネスの反射神経が一時的に強化され、無意識の内に体が勝手に動き、九十九の拳を受け止める。
それでも、九十九の攻撃は止まらない。次々と放たれる拳の連打。そして拳を振るうたび、遅れてやってくる音に伴って、衝撃波が周囲を薙ぎ払う。その一撃一撃が大砲の如き破壊力で、まるで吹き荒れる嵐のような猛打に、大聖堂は大きく揺れていた。
「ああ……すごい……! こんなに遊べる子供は久し振り……! もっと、もっと味わいたい……あなたのことを……!」
「黙れ……!」
しかしそれ程の連打を受け続けて尚も倒れないアグネスを前に――いよいよ九十九も覚悟を決める。
口から漏れ出る黒い煙。皮膚が陶器のようにひび割れ、中から黒い肌を覗かせる。両腕に黒い毛皮が纏わりつき、全身の筋肉が大きく膨れ上がっていった。
「ォ、ォ、ォォォオオオオ――――――――ッ!!」
それは等活地獄にて、黄昏愛との戦闘中にも見せた――悪魔そのものへの変身能力。悪魔化とでも呼ぶべきその規格外の変身には、代償が伴う。反動により命が削られる。だから濫用は出来ない。確実に相手を斃せる保証が無い限り、それこそ未知の相手を前にして、本来使うべきではない諸刃の剣――
――それを押してでも。彼女は『仲間』を守る為ならば、簡単に命を投げ出せるのだ。天秤にかけるまでも無い。今は一刻も早く、ちりを助けなければならないのだから――
「騒々しいですね」
――その矢先、不意の出来事だった。
果たしてそれは、いつから其処に居たのだろう。戦う二人の間に割って入るように差し込まれたその声は、有無を言わさぬその声は、両者の歩みを止めた。止めざるを得なかった。
黒いキャソックの上に黒いフードコートを纏った、巨大な影。顔面をペストマスクが覆い、その表情は窺い知れない。
「あ……え……? どうして、此処に……『開闢王』……!?」
黒縄地獄を統べる王――『神秘貪る開闢王』。彼は音も無く、其処に現れたのである。




